6
さかさ亭は飲食店がよく並んでいる通りから大きく外れた場所にあり、一見すると普通の民家と見分けがつかない穴場の酒場である。ガンボールたちの同期の一人がこの店で手伝いをしていたことがきっかけでよく利用するようになった。その同期が亡くなった今でも、同期で集まってご飯を食べる時にはこの店を使うというのが、いつしか彼らの中での暗黙の了解となっていた。
「お待たせ~」
微かな石鹸の香りと替えの制服を着たグレースは、手の付けられていない飲み物と料理を見て上機嫌になりながら席に着いた。
「大将いつもの!」
「はいよ」
「なんでわざわざ制服なの?」
「私だけ普段着じゃ浮くでしょ」
「客なんていねーし、誰も気にしないだろ」
「私が気にするのよ」
「悪かったな客入りの悪い店で。ほらよ、いつものだ」
左目から顎のあたりまで一本の深い傷が走った、スキンヘッドで筋骨隆々の店長が持ってきたお酒をグレースはお礼を言って受け取った。一線を退いても見た目通りの怖さと実力は本物である。初めてここを訪れたガンボールたちもその様相を前に会話をするのも戦々恐々としていたが、今となってはいい笑い話だ。
「それじゃ、任務お疲れ様ってことで、乾杯!」
グレースが取る音頭で各々がジョッキを突き合わせ、ぐいっと一杯勢いよく中身をあおった。酒に弱く悪い酔い方をするグレースには、店長が予め度数を低くしたほとんどジュースのようなものを提供しているが、他三人は麦酒と、その蒸留酒をロックで飲んでいる。グレースは苦くて飲めなかったというのは余談である。
テーブルにはサラダをはじめとして、ボニトスという赤身魚の藁焼き、塩漬けにしたあとに酢で絞めたマクラレルという白身魚の炙り焼き、鶏の餡かけから揚げといったいつもの料理が並んでいる。この店の看板メニューはもつ鍋なのだが、それよりもずっと味と量がちょうどよく、また思い出も相まって、いつも同じ料理を頼んでしまうのだ。
雑談が弾みお酒と料理もほどほどに進んだところで、グレースは「ねえ」と改まった表情をガンボールへと向けた。
「リンデル様の依頼、誰連れてくか決めた?」
「決めてない」
「それならさ。私を連れてってよ」
「理由は?」
「……、それは、その」
いつになく真剣で、どこか焦りすら見えるその表情を訝しみながら、ガンボールはお酒で喉を湿らせ回答を待った。
「最近、いろんなことが上手くいかなくて。悔しいけど、あんたは着実に実績を積み重ねてるから、それにラッドも。だから、あんたに付いて行くことで何か得られればって」
グレースは目を逸らしジョッキを両手で硬く握った。それを見てフェンリーは口を挟もうとしたが、ラッドがそれを目で制す。フェンリーは自分にしか分からないくらい小さく唇を尖らせ不満を顕にしたが、それだけだった。
「連れて行くメリットは? 正直、お前より使える人はいるし、この中でってことでもラッドを連れて行くし、なんならフェンリーの方がまだいい」
「言い過ぎでは」
「事実だろ」
「事実なら配慮を欠いてよい、ということではありませんよ」
「まあまあ落ち着いて」
フェンリーの深く暗い青の瞳とガンボールの黒瞳の視線とが交錯した。意図を察したのか元々分かっていて口を挟んだのか、フェンリーは「差し出がましいことを言いました」と簡単に引き下がった。
「メリットならあるわ」顔を上げたグレースは真っ直ぐとガンボールの目を射抜いて言った。
「二級試験の推薦、署名してもらえるよう私の師匠に頼んであげる」
伊達に見習いの頃から一緒にいるわけではない。ガンボールが他の協会員、特に三級以上の魔法使いや魔術師からあまりいい印象をもたれていないことは、その理由も含めてグレースはよく理解している。だからこそこの提案は、ガンボールに対してそれなりに交渉のカードになり得るとグレースは考えた。しかし、
「お前は二つ勘違いをしてる」
溜め息のあとに右手の人差し指と小指を立てたガンボールが言った。
「まず、推薦なんてちゃんと頼めばもらえんだよ。それこそ、フェンリーのとこ以外なら、頭下げて雑用すればなんとでもなる。そして、俺の言ってるメリットってのは、依頼の達成に寄与するって意味であって、その報酬に対しての物じゃない。交渉のテーブルをお前は間違えてんだよ」
「うっ、」
小さく呻いたグレースは沈痛な面持ちで俯いた。それはそのまま飲み会の雰囲気すら支配してしまう。良くも悪くも素直で表面上は溌溂としているグレースは、場の空気感を自分の感情に寄せてしまうことが多く、他の面々もまたそれをよしとしているために、彼女の感情の起伏によって快にも不快にも転んでしまえるのだった。
そうしてまたほとんどの場合、浮き沈みの原因はガンボールにあり、その間を取り持つのがフェンリーとラッドの役割でもあった。見かねたのか耐えかねたのか、フェンリーが今度こそ間に割って入った。
「条件を付けてみてはいかがでしょうか」
「例えば?」
「そうですね、例えば六十節まで覚えてくるとか。これならあなたも足手まといとは言えないでしょう?」
フェンリーの提示した条件に対して、ガンボールは難色を示した。一般的に、魔術と言うと一章十節を一区切りとした初代ベロニカの引いては世界の正史そのものを指している。その歴史をある手法を用いて追体験し、初代ベロニカと同様の歴史を辿ることができれば、その節を基にした魔術が扱えるようになるのだ。しかし事はそう単純でもない。
「うーん、まあ。それなら及第点だけど、俺はできないことをやれなんて言わねーよ」
「ふふっ、そういうところは相変わらずですね」
魔術を覚えることにも、本人の気質や適性に応じた難易度とういものは存在している。中でも多くの者が足踏みをする章があり、魔術を覚えたての見習いは三章で、中堅どころは六章にその要因となる壁がある。
特に皆が口をそろえて言うほどに六章の歴史はひどく、そこで魔術を覚えることを断念する者や精神的に病んでしまい魔術師を辞める者さえ出てくるほどに、凄惨と絶望と混沌に満ちていた。
グレースも例に漏れずこの六章五十六節から先に進めず、かれこれ半年はこの六章の壁を越えられずにいた。
「いいわよその条件で」
「いやまだ承諾してねーよ」
「まあまあいいんじゃない。ちょっとくらい譲歩してあげても」
「そうですよ。でなければそれは優しさではなく単なる甘えです」
「他人事だと思って好き勝手言いやがって……」
ガンボールは向けられた言葉と視線の意図に気付いているし納得もしている。意固地になる理由が自身のわがままであることも自覚していた。
「推薦の件、忘れんなよ」
「分かってるわよ。任せときなさい!」
ぱっと表情を明るくしたグレースは言ってジョッキの半分ほど残っていた酒を飲み干した。
それを満足気に見るラッドとフェンリーの様子から、上手いこと転がされたガンボールは苦い笑みでため息を吐いたのだった。