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景色の切り替わった先ですぐ、「座標ずれてんな」周囲をぐるりと見たガンボールが言った。
空気中には魔力が薄く漂い、目に映るのは生い茂った背の低い草に、鬱蒼とひしめく木々ばかりである。転移予定だったベース拠点でないことは一目瞭然だ。ガンボールは眉間に皺を寄せ、草木を見やり、「ふむ」と顎に手を当て考える。
ガンボールの使った魔術は、自身で刻印した魔力と自分の位置とを入れ替えるという効果だ。一度使用すると印が消えるため、転移したら同じ場所に印をつけるよう気を付けているのだが、どういうわけかガンボールの知っている場所と現在位置は違っているらしかった。
印が移動する、などということは普通ならありえない。なぜなら、物質に印字していたというわけではなく、三次元の座標に対して魔力による目印をつけていたからだ。
「エリア十一ではあるんだよね?」
「多分な」
同じく周囲を観察するラッドの問いにガンボールは頷いた。それはエリア十一が広大な森であること、群生する植物の植生が一致していること、そして転移できたという事実から導き出せる確度の高い仮説である。
「なんか、変な臭いしない? ちょっと甘い薬品みたいな」
「臭い? いや、しねーけど」
「煙草なんか吸ってるから」
「うるせぇ。とりあえず魔法で周辺探れ」
ガンボールの指示に「はいはい」と同意を示したラッドが「マールスレイス」と唱える。瞬間、ラッドを中心として放射状に魔力が走った。二、三回と繰り返し魔力が波紋のように広がり、「見つけた」ラッドが呟やく。
「ここから南東百メートルくらいに拠点らしきものがあるね。それ以外は探知範囲に反応なし」
「そんじゃ、三十秒くらいの間隔で探知しながら進むか」
空を見上げながら言ったガンボールが歩き出す。「ちょっと待った」ラッドはガンボールのリュックを引っ張った。
「そっちは北西」
「はあ?」
そんなはずはない、とガンボールはまた空を見上げた。太陽の進む向きからして、ガンボールの歩き出した方角が南東であっているはずだ。しかし、先ほど確認したときから太陽の進む向きがたしかに変わっていて、ラッドの言うようにガンボールは北西を向いているらしかった。
見間違えた、あるいは単に方角を間違えたということだろうか。ガンボールは自身がそのようなミスをするとは思えなかった。
空を見上げたまま動かないガンボールに「どうかした?」とラッドが訊ねた。
「優先順位を切り替える。探知範囲を最大にしろ」
「精度は落ちるけど?」
「いいから早くやれ」
ガンボールの急かす言葉と強まった語気に多少の焦りを感じたラッドは、目をつむってもう一度呪文を唱えた。
ラッドの使う魔法は振動を発生させるというものである。その応用として、蝙蝠などが行うエコーロケーションを再現し、周辺地形及び構造物を瞬時に把握することができる。距離と構造物の多さに反比例して、物質の輪郭を把握する精度は下がってしまうが、ぼんやりと物質の在り無しを判断するという曖昧なものでいいのであれば、半径二キロメートル弱が探知範囲であった。
「探知範囲ギリギリ、拠点方向に何かいるっぽい」
「何かって?」
「分かんね。でも数は二つ、かも?」
「他には?」
「他には、んー、どうだろ。今のところ見えない」
ラッドは情報を共有しながらも繰り返し探知を行ったが、新しい情報はこれといって確認できなかった。当たり前のことだが、この探知方法も完璧ではないし、状況だって変化する。結局のところ、最後は足を伸ばして、自身の目で見て確かめるしかない。
ラッドは一定の間隔で探知を続けながら、開いた細い目をガンボールに向けて指示を待つ。良くも悪くもガンボールの指示は適当で白黒はっきりしたものが多く、決断するまでの時間が短いという特徴がある。「よし」とガンボールが声を上げたのはラッドが目を開けてからすぐのことだった。
「範囲を九十度くらいの扇状前方に絞って、その何かまで行く。先導は任せた」
「おっけー」
応えたラッドは指示の通りに歩き出した。急ぐ気持ちとは裏腹に、人の手の入っていない森では走るというわけにもいかず、またラッドの後ろを歩くだけのガンボールは、さまざまな憶測を思案するしかできない。幸いにして、ラッドの言う二つの何かというのが救助対象である可能性は高いと考えられるのだが、現在の状況はあまり良いとは言えなかった。ガンボールの懸念することは大きく三つだ。
第一に、悪魔の位置が確認できていないこと。
第二に、すでに悪魔の魔法の及ぶ範囲にいる可能性が高いこと。
第三に、敵の戦力が想定以上であり、上級悪魔も視野に入ってくること。
まず、相手側もこちらに気付いていない状況なら、良く見積もっても五分五分、バレているならガンボールたちが圧倒的に不利を強いられる。次に、ガンボールの使った転移の魔術の座標がずれていたことと、方角を間違えたことから、すでに魔法の及ぶ範囲にいることはほとんど確実と見ている。
さらに、とガンボールは思考を広げていく。救助対象の二人は生きている。というか恐らく生かされている。何のためにかと問われれば、自分たちのような者たちをおびき寄せるための餌としてである。事前情報では中級悪魔ということだったが、魔法の規模感と知恵のあることから、上級かそれに準ずる能力がある場合も想定しなければならない。
杞憂であればそれでいいのだが、もし相手が上級悪魔相当であれば——。
足を止めたラッドはすっと右手を挙げた。止まれの合図である。
「フェンリーとグレースの姿と生存を確認。最初の位置からは動いてない」
「悪魔は?」
「見えない」
「……、範囲内にいないのと偽装してるのどっちが高いと思う?」
「前者かな、さすがに」
「なら浮いてる、とかか」
ガンボールはまた空を見た。見えるのは枝葉に遮られた狭い空であり、悪魔の姿形を捉えることはなかった。
そもそも、ラッドの探知も万能ではない。特にラッドを中心とした平面に魔力が走る性質上、どうしても上下方向には見逃しやすいのだ。
「とにかく合流するか」
ラッドたちは再び歩き出した。そこから救助対象を発見したのは十分くらいしてからのことだった。