20
ごう、と強烈な風が吹く。屋上には出入する部分以外に何もない。あまり機能していないであろう落下防止用の背の低い壁の向こうには、地平の先まで砂漠が広がっている。遮るもののない澄み切った青空には太陽が優雅に泳いでいた。
そんな屋上の真ん中に一人の男が立っている。ガンボールよりも背の高い、短髪の黒髪で、なぜか上半身の裸体を顕にして、その引き締まった肉体美を見せびらかしている男の後姿がそこにはあった。腰に手を当て、全身で風を感じながら、砂漠の終わりに接している海までをもその瞳に映さんばかりに、不動である。頑として、ガンボールたちの方を振り向こうとはしない意思をひしひしと感じる。
「支部長! お久しぶりです」
声を掛けられるのを待っている、といった様子だったので、仕方がなしにガンボールが近寄って挨拶をする。呼ばれた男は、まるで今気が付いたとばかりに、かつやけに芝居がかった風にゆっくりと振り向いた。
「おう。ガンボールか」
低く威圧的な声にウルデリックはまた背筋を伸ばした。大きく鋭い目つきと、左の口元から頬まで裂けた傷跡、ただでさえ強面な表情から、眉を少し上げて眉間に皺を寄せているその黒瞳は、ひと睨みで悪魔さえ消し去るほどの恐怖を湛えている。有り体にあるいは俗っぽく言うならば、不機嫌である。ウルデリックはその顔を見て、心の中で短い悲鳴を上げていた。
ごん、と拳がガンボールの頭上に振り下ろされる。
「俺のことは師匠か兄貴と呼べと言っただろ」
怖い、痛そう、理不尽だ、私も殴られる? どう接することが正解なのか、ウルデリックは困惑する。そんな少女とは裏腹に、ガンボールはそれが当たり前とでも言うように、拳を払って会話をする。
「俺に兄がいたなんて初耳ですね。あと、俺の師匠はベロニカだけです」
「そういう意味じゃねぇよ」
「分かってますよ。それも含めて初耳だってことです」
「……そうだっけ?」
「はい。ちなみにこの前はお頭でしたよ」
「じゃあ、今からだ。今から兄貴と呼べ」
「承知しました兄貴。それじゃあ、本題に入っても?」
「聞こう」
ウルデリックはガンボールに背中を押されて一歩前に出る。見上げた視線が交わり、後退りそうになるのをぐっと堪えて対峙する。
「先日、俺の妹分兼弟子になったこいつの紹介と、研修の許可をいただきたく」
「ふむ。名を聞こうか」
ごくりと生唾を呑み、「う、ウルデリックメイベルです!」自己紹介にも満たない名を口にするだけの行為がウルデリックの精神を摩耗させる。緊張からか、それ以上の言葉を続けることはできずにいた。
「及第点だな」
何やら思わせぶりなことを言いつつ、
「俺はこの魔法協会第三支部の支部長であり、四人しかいない現一級魔法使い最強の竜王、リッケンバッカーだ」
リッケンバッカーは右手を出した。びくりと肩を震わせるウルデリックだったが、それが握手だと理解すると、おっかなびっくりしながら、自身の右手を差し出しその手に触れた。
ピリリと微弱な電気が全身を走り、ウルデリックは怪訝な表情を顕にしたが、握られた右手のせいで離れることができない。
「ふむ、よかろう」
独りでに納得したリッケンバッカーは握手を解き、その手をウルデリックの頭に乗せた。
「滞在を許可する」
見た目に反して優しく暖かで、雄大な空を思わせるその手の感触に、ウルデリックは少しだけ心を綻ばせた。
「ありがとうございます」
「それと、ガンボールの弟子ってことは俺の弟子でもある。何かあったら遠慮なく俺に言え」
谷間を駆ける風のように荒々しく頭を撫でつけた手が離れる。自信たっぷりに悪そうな笑みを浮かべる表情に戸惑いながら、「分かりました」ウルデリックはなんとか返事をする。
「兄貴、顔見せも済んだんでこの辺で失礼します」
「なんだ久々に訓練でもしてやろうと思ってたのに」
「それはまた今度ってことで。研修の説明とかさっさと終わらせたいし」
「後でだな、絶対だぞ」
「覚えてたらぜひ」
「よし、ではウルデリックメイベル!」
「へ、は、はい!」
「洗礼だ」
突然名前を呼ばれたウルデリックは、手を引かれたと感じた瞬間にはもう、空中にいた。
ウルデリックは落ちていた。魔法協会支部の塔の屋上から、地上に向かって一直線に、風を受け加速し内臓が重力の楔から解き放たれたような浮遊感を味わいながら、落ちていた。
「はーはっはっはっ!」
隣から馬鹿みたいに大きな高笑いが聞こえてくる。ウルデリックの手を掴み一緒に落ちているリッケンバッカーは心底楽しそうに、笑い声を上げている。
本当に意味が分からなかった。ウルデリックは理解も納得も怒りも恐怖も置き去りにして、今はただ、「このままじゃ死ぬ」という現実だけで頭がいっぱいだった。しかし、咄嗟のことに正しい判断と反応とをできる経験も手札もないウルデリックは、何もできないまま、地面はもうすぐそこまで迫っていた。
ドオォォォン、とジュディの下で聞いた爆音が轟き、舞い上がった砂ぼこりが盛大に辺り一帯を埋め尽くす。
痛みはない。死んだのだろうか。でも意識はある。ウルデリックはぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開いた。
砂地に出来たクレーターの中、腰に手を当てて、背を向け仁王立ちをしたリッケンバッカーが目に入る。
「どうだ、楽しかっただろ」
首だけ回してウルデリックの方を見たリッケンバッカーは、時間を忘れて遊ぶ子供のように笑顔だった。
「は、はぁ」
引きつった笑みを浮かべながら、ウルデリックは「この人苦手だ」心の中で初めて意図的に壁を作った。
二人の沈黙と煙たい砂粒たちを微風が攫う。
その光景は、ガンボールが支部の入り口からやってくるまで虚しく続いた。