13
ウルデリックの朝は早い。
太陽の光が部屋に差し込みはじめるのと同じくらいに起きてカーテンを開け、顔を洗って歯を磨く。パジャマから魔法協会の制服に着替え、事務員のお姉さま方に切り整えてもらった髪を一つに束ねて結い、鏡で身だしなみを確認する。
「よしっ」
問題がないことを確認すると、朝食を取るために食堂へと向かった。
ウルデリックは魔法協会の女性職員に割り当てられている寮に住んでいる。そのため、必然的に朝の行動は寮に住んでいる人たちと同じサイクルになっていた。
すれ違う人たちに挨拶をしながら食堂へと入り、お姉さま方のおしゃべりを聞きながら一緒にご飯を食べ、そのまま同伴のような形で協会本部へと向かう。
本部に到着すると、ウルデリックは建物には入らずとある場所へと足を伸ばした。
大通りの道を真っ直ぐ歩き、道行く人たちに声を掛けられながら、二十分ほどしてガンボールの家にやってきた。
ドアをノックし、反応がないのでドアノブを回す。毎度のごとく鍵はかけられておらず、ウルデリックはそのままドアを開けて中へと入った。
「師匠起きて下さい。朝です」
少し甘い匂いと煙草の臭いが充満する寝室へ赴き、死んだように眠っているガンボールを起こす。それがウルデリックの仕事であり役割であった。
それまでがどうだったのかを直接見たことはないので分からないが、ウルデリックが弟子になってから九日目の今日に至るまで、ガンボールが事前に起きていたことは一度もなかった。聞くところによれば、夜間の巡回任務が終わって帰宅すると、昼頃まで寝ているらしい。師匠を連れて協会本部まで行く道すがら立ち寄るパン屋のおばさんが、色々と教えてくれてた。
「おはようございます」
「おう」
ほとんど瞼が閉じた状態のガンボールは、上体を起こして伸びをする。カーテンを開け、二度寝する様子がないことを見届けたウルデリックは「外で待ってますね」言って玄関に向かう。
ウルデリックがガンボールを起こしにくるのには理由があった。といってもそれほど大層な理由などなく、ただ単に本人からそうするよう頼まれたからだ。曰く、二級魔法使いへの昇格試験があるらしい。その訓練であったり情報収集だったりでのんびり寝ていられないのだとか。平時から積み重ねていればこうも詰め込む必要もなかったのでは、とは口に出さず胸の内に留めるばかりだ。
外に出てから十数分、まだ眠たそうにあくびをするガンボールが煙草をふかしてやってくる。三階の柵を飛び越え地面に降りるガンボールにウルデリックも続いた。階段を使うのを面倒くさがって横着する様でさえ、師に忠実な弟子であった。
「師匠、今日のご予定は」
「いつも通り」
「分かりました」
ウルデリックは少し寂し気な、また不満気な返事をしてしまったことに後ろめたさを感じてガンボールの方を見るが、当の本人はまったく気にしている様子もなく、パン屋のおばさんから買った朝食を食べながら歩いている。
そうこうしていると協会本部に到着し、二人は各々の修練場へと別れた。
パチリと目を開け、白い部屋。一日一個の魔術を覚えることを師に厳命されてからこれで九回目の出来事なのに、記憶の中から現実に戻るというのは、中々慣れないものだなとウルデリックはため息を吐く。戻った直後はどちらが現実なのかを見失い、またベロニカであったことに精神が引っ張れてしまうくらいには、大変なことであった。
「どうしたの、何か悩み事?」
不意に後ろから声がして、びくりと肩を震わせながら振り向くと、「驚かせてごめんね」そこにはグレースが立っていた。
「いえ。その、今日はどういったご用件ですか?」
グレースは時折やってきて、なんでもない話をしたり、第一修練場で一緒に訓練をしたり、図書館で本を読んだりしてくれていた。なぜそんなことまでしてくれるのか、ウルデリックには本当に理解ができず、最近では申し訳なさの他にありがた迷惑と感じる場面さえあった。
「アステカロンは覚えられた?」
「えっと、はい」
「じゃあ本格的な組手ができるわね。ついてきなさい」
言ってグレースは扉を開けて出て行くので、ウルデリックも急いで立ち上がりその後を追った。
やってきたのは第一修練場の八号室であった。第一修練場とは、第二と同じく真っ白い廊下にいくつかの部屋が並んでおり、その部屋の中もまた真っ白い空間になっている。違いがあるとすれば、景色や地形、気候などなど、様々な条件を設定できるほか、過去に戦闘したことがある悪魔を再現して模擬戦ができる場所でもある。要するに、戦闘訓練を行うならもってこいの場所というわけだ。
本来なら予約をしてから使用しなければならないのだが、「空いてるからいいでしょ」とグレースは勝手に入ってしまったので、ウルデリックもそれに従った。
「じゃあ早速始めましょうか」
グレースが自然に構えを取るので、なぜこうなったのかと思案する間もなく、ウルデリックも戦闘態勢に入った。
「まずは魔術を使わずにきなさい」
「はい!」
ウルデリックは言い終えるのと同時に地面を蹴って直進し、左の拳を突き出す。勢いに乗る前に突きはいなされるが、さらに半歩距離を詰め、次々と拳を繰り出した。しかし、その悉くを軽くあしらわれていく。ウルデリックの呼吸が荒くなったのを見て、グレースは距離を取った。
「いい感じね。じゃあ次は魔術を使ってかかってきなさい」
「はぁっ、はい、『我が身を刃に』アステカロン」
「『御魂を鞘に 我が身を刃に』アステカロン」
あわや火花でも散ろうかと言うほどの手刀同士がぶつかり合い、金属にも似た鈍い音が何もない空間を満たした。視線が交わり、片や眉間に皺を寄せ、片や涼しい表情を見せる。
剣戟はより勢いを増して激しくなるが、ウルデリックの表情ばかりが険しくなるだけで、グレースは今にもあくびをしそうな雰囲気すらあった。
「その状態で獣装は使える?」
膝に手を付き肩で息をするウルデリックは「やってみます」と吐息多めの切れ切れになった言葉で返した。
「外法 獣装」
ビキビキと体組成が変容していく。伸縮性の制服はそれと分かるほど筋肉の膨張で肌に密着し、しかしそのすぐ後に元の華奢な体へと戻っていった。
無駄に伸びる毛は視界の、皮下に納まりきらないような筋肉は体のバランスを、獣のように単純化する思考は判断を、これまでの獣装という魔術は戦闘という面ではとにかく邪魔をしていたのだ。
それをグレースに指摘され、さらに初代ベロニカの記憶で魔術を解したウルデリックは、獣装を適切に運用するすべを身に付けはじめていた。
準備に十数秒ほどの時間を要するが、元の体形のまま筋肉密度は爆発的に上がり、より速く硬く強い状態になれるようになった。加えて、体を鋼のように硬く刃のように鋭くする魔術の併用も今しがたものにした。
グレースとの距離を一瞬のうちに詰めたウルデリックは、勢いそのままに攻撃を繰り出していく。受け止めることはおろか、掠ることでさえ深手になりかねないほどの威力であってしかし、まるで歯が立たない。
牽制で繰り出す横なぎの手刀は振り切る前に肘を抑えられ、脇の死角から伸ばした突きは上から払われる。姿勢を低くして足払いをしようとするも、間合いを詰められることで逆に蹴飛ばされる。その他、何かをしようにも、攻撃になる前の動作を止められる。機先を制するとは言うものの、これはもはや未来予知にも等しいのではないか。次第に手は尽きていき、ウルデリックは何をすればいいのか分からず足を止めてしまった。
瞬間、気の緩んだところに飛んできた掌底が鳩尾を穿ち、ウルデリックは胸を押さえてその場にうずくまった。
「あ、ごめん大丈夫?」
「だい、じょぶ、で、す」
咳き込みながら途切れ途切れの呼吸の中でなんとか言葉を返すも、本当は吐くほど痛かった。
「隙だらけだったからつい」
誤魔化すように笑うグレースは、ウルデリックの隣にしゃがんで背中をさすった。荒かった呼吸は徐々に戻り、落ち着いてきたのを見計らって、グレースは正面に移動し対面するように座った。