10
「すみませんご主人様。排除できませんでした」
薄明りに濡れたとある部屋、机の上の書類を整理している男の背に向けて少女は頭を下げていた。少女にご主人様と呼ばれた男は束ねた書類を整え、鞄にしまって振り向いた。
「うーん、まあ想定内かなぁ。できればあと一日くらい待ってほしかったけど」
男の言葉に少女は下唇を浅く噛んだ。こうは言っているが、暗に「時間稼ぎもできないのか」と誹られている気がして、少女はか細く「すみません」と謝罪を口にする。小さなその肩がわずかに震えているのは、寒さのせいばかりではなかった。
「いいんすよぉ、二十三号が勝てないってなら仕方がないですから。必要最低限のものは移した後だし。協会員が強かった、それだけの話ってことで」
捲し立てるように言うと、男は少女の肩にぽんと手を置いて、
「そんなことよりほら顔を上げて、最後の仕事をお願いしますよ。僕は歪門を開くんで、ここの解体の準備をしてきてください」
「はい」
力強く返事をした少女は顔を上げ、部屋から出ていった。ドアが閉まるのを見届けた男はため息を吐くと「頃合いだな」言って机に向き直る。
引き出しの中身などに忘れ物がないか最終確認を行い始めたのと、ドアの開く音がしたのはほとんど同時だった。
「どうしました二十三号、忘れ物すか」
「そういや、お前らを縛る縄を忘れてきたな」
聞き覚えのない声に男は振り返る。やはり見知らぬ男がドアの前に立っていたことに眉を顰めたのも束の間、鈍い衝撃が全身に走り、気付けば背後の壁に衝突して机の上に落ちていた。
部屋の入り口を塞ぐようにして立っていたのはガンボールであった。
咳混じりに笑みを顔に貼り付け、男は上半身を起こした。
「随分優秀ですねぇ、今回の協会員さんは。お名前を聞いても?」
「牢屋の中で教えてやるよ」
ガンボールは男の話に取り合うことはせず、先ほど同様に弾丸を発射する。意識を奪えるように威力を調節した弾丸はしかし、男に届くことはなかった。代わりに、弾丸は床や壁や棚などへと着弾していた。
「まったく、不意打ちといいやることが姑息だなぁ、ガンボール!」
男は前方に手を伸ばすとねじ切るように空間を握りつぶした。
突然名前を叫ばれたガンボールは動揺しながらも、舌打ちを残してその場から飛び退いた。
先ほどまでガンボールの立っていた空間がぐにゃりと歪むと、床と天井と壁を渦のように丸ごとのみ込み、バチンと音が弾けて消し飛ばされた。
先日の悪魔との戦闘がガンボールの頭を過る。
「さすが! あんたはこの程度じゃヤれませんよねぇ」
男はガンボールに牽制を入れつつ、自身の横の壁に魔法を発動させて、袋小路の部屋から脱出した。男のいる方へと魔法を避けたガンボールは、廊下で十メートルほどの距離にいる男と視線が交錯する。
お互いが機を窺うことで、ごくごく短い停戦を暗黙のうちに取り決めていた。
「名前訊いた割には俺のこと知ってんじゃねぇか」
「黒髪黒目に弾丸のような魔法、最初見た時からそうじゃないかなーって思ったんすよ。それにほら、おたく有名じゃないすか、悪い意味で」
「ほとんどが不可抗力だけどな。つーかその魔法、なんでお前が使えてんだ」
「あら、あの目玉の集合体を倒したんすか。あれ作ったの僕なんすけど、いやぁ、奇妙な縁もあるもんすね」
「答えになってねぇぞ」
「答える義理もないもんで」
両者がこうして会話をしていたことには、時間稼ぎという共通の目的があった。ガンボールの方はグレースが男の背後に回り挟撃するために、男の方はどこかへ行った少女が駆けつけるために。お互いがお互いの目的を理解していたがゆえに、どちらの手札が先に揃うかという賭けを行っていたのだ。
そして、賭けに勝ったのはガンボールの方であった。
「レアルバレット」
言葉はブラフで、唱える前に弾丸は発射されていた。
男もさすがに警戒はしていた様子で、あらかじめ空間を捻じ曲げており、被弾することはなかった。
しかし、弾丸の雨は止む気配が一向にない。それどころか弾幕はさらに分厚くかつ強力になっていく。
男は左手を前に突き出して魔法を強化し、耐え切れないと踏んで右手も出した。
「くっそ! いつまで続くんだよ!」
「抜剣」
男の背後、廊下の角に身を隠していたグレースは躍り出て、手刀を振るった。
拡張された斬撃は男の魔法を軽々打ち破り、その背を鮮血で赤く染めた。
背を斬られた男は息を漏らして苦悶の表情を浮かべた。そこへ力の緩んだところに何十発という弾丸が飛来し、蜂の巣にされる。男はよろめき、壁に背を預けてずるずると床にへたり込んだ。
「いや強い。二対一はさすがに無謀っすわ」
「諦めたようには見えないけどな」
「勘弁してくださいよ。満身創痍ですって」
降参とでも言うように、男は両手を挙げた。
「最後に一つ訊いていいっすか」
どこか飄々とした表情の男の問いにガンボールたちは答えなかったが、沈黙を肯定と受け取ったのか、
「女の子いたでしょ。あれ、どこやったんすか」
そう続けた男の目だけは真剣なものだった。ガンボールはそれを見とめて、訝しみながらも口を開いた。
「迷子になってもらった」
「なーるほど。位置の入れ替え、そんな魔術もありましたっけね」
「そんなに大事なら、首輪とリードでも着けとけよ」
男の口元が笑みで歪むのとタイミングを同じくして、ガンボールのいる方の廊下から轟音が響き渡った。
地下にある拠点の天井をぶち破り、雪煙を辺りにまき散らしながら、つま先から頭の天辺までもを獣の装いに変化させた少女がそこに立っていた。
「こんな風に」
突然のことに注意が散漫したガンボールたちをよそに、男は囁くように言ってさらに笑みを深める。
何事かの企みがあると悟ったガンボールは魔弾を撃ち出すも、一手が遅かった。
瞬きよりも短い一瞬のうちに視界が切り替わり、ガンボールと男の位置は入れ替わっていた。
「二十三号、時間を稼げ」
全身を獣と化した少女は通路を塞ぐようにガンボールたちの前に立つ。男はその背に隠れながら、よろよろと駆け出した。
——絶対に通さない。
返事はできないが、その意志は背中と低く鳴る唸り声が雄弁に物語っていた。
「『我が身を刃に』アステカロン」
唱えて一歩踏み込み、ガンボールは二足で少女に肉薄する。
大振りな右腕の一撃を受け流し、踊るようにすれ違うガンボールは足を掛け、少女の通行止めをいとも容易くすり抜けた。
少女は訳も分からぬまま地面に大きく転んだ。すぐに起き上がらなければいけないのに、倒れ伏したままで動けない。少女の心は完全に折れていた。決死の覚悟は嘲られるほど簡単に、眼中にないとばかりに捨てられた。圧倒的な力量差への悔しさ、情け容赦のない仕打ち、踏みにじられた覚悟に対する屈辱と無力感は、少女の体を獣のそれから元に戻すばかりか、涙をさえ流させた。
それを横目にグレースも通り抜け、ガンボールの横に並んだ。
「やっぱりダメかぁ」
もはや殺すことさえ厭わないとばかりのガンボールを前にしてしかし、男の表情と言動はまったく一致していなかった。諦めどころか、愉快さすら滲ませている。
「さすがに魔法を使うに至るってのは簡単じゃないっすね」
「お前、この状況で逃げられるとでも?」
「もちろん楽勝でさぁ」
男が指を鳴らすと、その背後に横一文字の真っ黒い亀裂が走った。それは歯の隙間のように、あるいは脊椎の左右に並んだ骨のように、縦にも数本の亀裂が走る。ガラスが割れ砕ける音と共に、先の見えない闇を内包した口が開く。
男の空間を歪める魔法も未だ健在で、ガンボールたちは驚愕でもってその光景を見ていることしかできなかった。
「これならあんたらも追っては来れないっすよね」
それは異界とを繋ぐ神の創り出した理に生じる世界の歪み、魔王と呼ばれる異界の王の力、そして——。
「ベロニカの魔法……」
「そうそう、それと似たようなもんすね。そういやお弟子さんでしたっけ」
「なんでお前が」
「細かいことはいーじゃないですか。んなことよりも、二十三号、じゃなかった。ウルデリック! 最後の命令だ。僕が逃げ果せた後のご主人様はそこの黒髪の男だ。自由に生きな」
「何を勝手な」
「あれれ、さっきまでのキレがないっすね。弾詰まりっすか?」
男はどこか恥ずかしそうに笑って小言を言い終えると、「んじゃまたどこかで」手を振り歪の中へと入って消えた。
音もなく歪は口を閉じる。
密かに、最後まで魔弾を撃ち込んでいたガンボールだったが、男の魔法でついぞ当たることはなかった。
「くそっ!」ガンボールは壁を殴った。冷たい金属の鈍い衝撃が手に返ってくる。
「ごめん、私が仕留め損なったから」
「あーお前のせいじゃねぇよ。それより軽く調べてさっさと帰るぞ」
グレースの謝罪で多少の冷静さを取り戻したガンボールは、当初の目的を果たすべく、拠点内部の調査を開始した。