9
歩き出してからどれくらいの時間が経過しただろうか。太陽はなく、また雪に足をとられて普段通りに歩くことができないため、体感時間ですら狂ってしまう。そんな状況にあっても、ガンボールは体の疲労感から二時間から三時間ほどだろうと推測していた。
そろそろ休息が必要かもしれない。
最初の方こそあった会話はいつしか途切れ、どこまでも白く変わらぬ景色に、精神の摩耗は肉体のそれよりずっと深刻だとガンボールは感じていた。時折、後ろを振り返って、自身の足跡と小さくなった森を見ることで、前進していることは確認しているが、それだけだ。目的の拠点は目視にも魔術による探知にも未だ影すら映らない。
「グレース、この辺で一旦休憩」
「あ、じゃああったかくするわね」
グレースは荷物を下ろすと雪を踏み固め、「外法 泡灯」唱えて指を鳴らす素振りをした。右手人差し指にポンと音を立てて淡い橙色をした光球が生み出される。グレースがファスナーを少しだけ開けて口を出し、ふっと息を吹きかける。光球は元の半分ほどの大きさで二つに分かれ、一つはガンボールの方へと飛んで行った。
ガンボールはその光球を人差し指で触れて捕まえ手の平にのせた。光球から伝わる熱が全身に巡っていく。まるでお風呂に浸かっているような、体の芯から温まる感覚に満たされていった。
ゴーグルを外した二人は、踏み固めた地面に腰を下ろした。
「やっぱこれ移動中に使えねーの?」
「無理ですよ。泡みたくすぐに割れてしまいますから」
「ふーん。てか、口調戻ってんぞ」
「これ使うとついね、って別にあなた以外いないんだからいいでしょ」
尊き血統を継ぐ者とはかくあるべし、とグレースは幼少の頃より厳しく躾けられてきた。しかし、ある出来事をきっかけに抑圧されたくないという意思が芽生え、本人なりの自由の体現を目指し、また少しのキャラ被りを気にして、二年くらい前から粗野な口調をとるようになった。
ただし慣れ親しんだ話し方は丁寧な方である。普段の口調に戻る、あるいはそれらが混ざる場合、うっかりか、確実に一人の時か、ガンボール以外に会話を聞かれる恐れがないときくらいなものだ。
「誰かに聞かれてるかもしんないけどな」
「あなたの探知をすり抜けて?」
「まあ手段は色々、ラッドみたいなのもいるし」
「あれと同じくらい悪趣味な人は、そういませんよ」
二人の視線は別々なところにあった。ガンボールは道なき行く先を眺め、グレースはそんなガンボールを見ている。沈黙が、途切れた会話の間を満たしていた。それは気まずさに起因したものではなく、水面に落ちた花びらの小さな波紋に無心を得るような、ある種の心地よささえあった。
また、それが自然な流れとして、「ねえ」グレースは沈黙を破った。
「待て。何かきた」
何かを言いかけたグレースの言葉をガンボールは手で制した。視線は依然として行く先に伸びている。
「何かって?」
「動物、狼とかの類っぽい形、数は十、十一……、探知内にどんどん入ってきてる」
「見えないけど?」
「よく見ろ。景色と同化してるけど、こっちに近づいてんのがいるだろ」
グレースは立ち上がり目を凝らした。相手が近づいていることと目が慣れてきたからか、何かが動いていることはグレースも視認することができた。
「どうする?」
「戦闘準備」
ガンボールがそう言うと、
「『御魂を鞘に 我が身を刃に』アステカロン」
グレースは魔術を発動させることで答えた。
見計らっていたかのように、その何かたちは走り出し、速度を上げてぐんぐんと近づいてくる。
目視ではっきりと姿形を捉えられる距離まで接近される。何かは、ガンボールが言ったように狼に似た造形をしていたが、それは形だけの話であった。体長は二メートルに満たないくらい、四足歩行で爪と牙はあるものの、目や鼻や耳などはない。毛のない体表は岩肌のようにゴツゴツとしていながらも、その体躯は氷のように透けている。どうにも生き物という見た目ではない。
「悪魔?」
グレースの独り言にガンボールは答えなかった。ここでは仮称を氷狼とするが、これらとガンボールたちはすでに交戦距離にあり、無駄話をしている余裕はなかったからだ。
氷狼は十メートルくらいまで接近すると、速度を落としてゆっくりとガンボールたちの周りを取り囲むように歩き、機を窺いはじめた。
「レアルバレット」
間合いを探り合っている最中、ガンボールが魔法で先手を打つ。
空中に生成された不可視の弾丸は、二十三匹いる氷狼すべてに四方八方から撃ち込まれた。
氷狼たちはそれぞれ、足が砕けたり胴や頭に穴が空き、あるいは全身のあちこちが欠けて弾痕が残る。その場でバラバラと崩れるものもいれば、かろうじて原型をとどめていたり、まだ動けるといったものもいた。
不意を衝かれた形になった氷狼は、遅れながらもガンボールとグレースへと飛び掛かる。
ガンボールへ仕掛けた氷狼はさらに弾丸を撃ち込まれ氷塊と化した。
真正面からくる、大口を開けて牙を突き立てんとした氷狼に、グレースは半身になって構え、紙一重に躱すと、その顔面に拳を叩き込んだ。氷狼は顔面どころか全身が砕けて散った。足に噛みつこうとしてきた氷狼は踏み砕かれ、すれ違いざまに振るわれた爪は弾かれ、返る肘で粉々にされる。
グレースの体は今、アステカロンという魔術により鋼鉄の刃と化していた。
最後の一頭を手刀の一刀によって真正面から真っ二つに変えたグレースは、「ふぅ」と息を吐いて残心をとった。
「グレース! 左に飛べ!」
ガンボールの指示に従い、グレースがほとんど反射で左に飛ぶと、地面から人間などは優に丸呑みできるほど巨大な氷狼の頭部が現れ、グレースのいた場所を噛み砕いた。
すかさずガンボールが魔弾を撃ち込む。
氷狼の頭部はガラガラと簡単に崩れ、氷の結晶が舞い、中からガンボールたちよりも幼い容姿をした少女が姿を見せた。
「なんで分かったの?」
長くぼさぼさとした金髪を獣のように垂らし、この極寒の地に白いワンピース一枚の裸足で立つ少女は、心底不思議といった口ぶりを隠すこともせず、鋭い眼光でガンボールたちを見つめていた。
少女の問いに対して、ガンボールは数発の弾丸で返答した。
狙い過たず、ほぼ同時に着弾した弾丸の衝撃によって、少女は後方二、三メートルほど飛んで転がった。
「ちょっと!」
グレースは驚きの声と非難する視線をガンボールに向けたが、当の本人は少女に対して最大限の警戒をしている様子であった。
「人型、あれが悪魔なら上級だ」
どくん、とグレースの心臓が大きく跳ねた。
揺蕩う煙のように、ゆらりと少女が立ち上がる。ぱっと見た感じでは、少女の体には擦り傷どころか弾痕、あるいは打撲すら見られない。
少女は前屈みになり、だらりと垂らした腕を体の前で交差させた。
「獣装」
呟くと、少女の腕と脚と胴体が一回り肥大化し、わさわさと毛が生え、変化した手の鉤爪に殺意がこもる。同時に氷狼が地面から次々と顔を出して集まった。
「そっちはもう見た」
緊張から体が強張り固まるグレースをよそに、ガンボールは新しく出てきた氷狼に魔弾を発射した。先ほどは倒しきれなかった氷狼もいたが、今回出現したものは全て一弾一殺で氷塊へと打ち砕いていく。
少しだけ驚いた表情を見せる少女に、ガンボールは人差し指の手招きで挑発したが、少女の目は真っ直ぐグレースへと向けられた。
前傾姿勢をさらに強めた少女は足に力をこめた。足元の地面は音を立ててひび割れ、瞬間、雪煙が少女の背後で爆発した。少女はグレースへと突進し、腕を振りかぶった。
動きの精彩さを欠き、判断の遅れをとったグレースは、腕を十字に組んで、自身の太股と同じくらい太い腕の一撃を受け止めるしかなかった。
地面を蹴った衝撃と同じくらいの爆発が辺りを白く染めたが、それはグレースが少女の一撃を受け止め切ったことを表していた。
最低でも吹き飛ばせるだろうという目論見の外れた少女は、さらに蹴りや両手の爪で追撃していく。ようやく戦場に心を置いたグレースは、そのことごとくを捌いた。少女の一撃の度にその力量を見極め、冷静と平静を取り戻していく。
グレースは白兵戦を最も得意としている。そのグレースが攻撃に転じることなく淡々と受けに回っている状況下では、彼女の守りを崩してダメージを負わせるのは容易なことではなかった。
加えて、ガンボールが要所要所で銃弾を撃ち込んでおり、動きのリズムや出鼻をくじくなどの妨害をしていたことも、少女が思うように戦えない要因であった。
少女は二人から距離をとった。ごく短い膠着が訪れる。
——わたしじゃ勝てない。
そう悟った少女は地面に手を付き、
「獣装」
「グレース、そいつを俺の方に飛ばせ!」
少女の周囲に氷狼が現れた。
ガンボールは言うなり膝を付き、両手を組んで目を閉じた。
グレースは指示に従い、少女へと攻勢に転じた。
「『我は求め訴えたり』リアライズ」
ガンボールの体は光を纏い、音を立てて弾けて消えた。
氷狼には目もくれず、グレースは少女との距離を詰めると、上段からの手刀を叩き込む。少女はそれを躱して反撃に突きを繰り出したが、気が付けば体が宙を舞っていた。わけも分からないまま腹部を掌底が穿ち、少女は吹き飛んだ。
「『御魂につなぐ』オング・デュオ」
指示通り自身の方へと飛んできた少女を片手で受け止め、ガンボールは魔術を発動した。
息を漏らして地面にうずくまった少女はしかし、ぐっと歯を噛みこらえ、飛び起きざまにガンボールを力いっぱい蹴飛ばした。反撃に合うと思っていなかったのか、ガンボールは辛うじてガードが間に合ったものの、踏ん張りがきかずに数メートルほど地面を転がった。
「いってぇ」
体勢の整っていないガンボールに追撃を試みようと少女は駆け出した。それを予期してか、周囲にいた氷狼のほとんどを砕き終えたグレースが間に割って入る。
少女はブレーキを踏んで飛び退き、距離をとった先で間髪入れず地面に手を付くと、
「獣装」
今度はガンボールとグレースをまとめて噛み砕かんとする巨大な氷狼の口が、地面の下から現れた。
もはや氷の壁と化した口内が勢いよく閉じられ、逃げ場を無くした二人は、圧倒的質量によって押しつぶされそうになる。
「抜剣」
グレースはぽつりと呟いた。空けた右脇に左手を構え、横一文字に一閃する。その一刀は氷狼の牙が二人を穿ち閉口するより早く振るわれ、瞬く間に切り刻んで氷塊に変えた。
短く息を吐き残心をとるグレースと、ガードした腕の感触を確かめながら立つガンボールの先、少女の姿はどこにもなかった。
「逃げたの?」
「逃がしたんだよ」
周囲に散った氷狼の残骸に囲まれながら、そんなやりとりの後にはもう、永久凍土の大地は静けさを取り戻していた。