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プロローグ

 後ろ手に両手を縛られた少年は、小さな納屋の扉に向かって肩から体当たりをした。鈍い音が響き、納屋は小さく揺れたが、天井からパラパラと埃や木くずが落ちるばかりで扉はびくともしない。はじかれた少年は尻餅をつき「くそっ」悪態をついて地面に頭突きをした。


「くそっくそっくそっ!」


 何度も小突かれた地面は、少年の額から滲む血と汗で赤黒く変色している。少年はがっと歯を噛んで、大きく息を吸い込むと、「うあああああああ!!!」どうにもならない怒りを吐き出した。自身の荒い息遣いと、反響し遠のいていく叫び声、数秒もすれば変わらぬ静寂が戻ってくる。寂しくなってまた、「ちくしょう……」絞り出すように少年は涙を流した。かれこれ一時間ほど、扉に体当たりをし続けている少年の肩は、青黒く腫れて内出血を起こしている。少年にはもう、痛みを感じる余裕もなかった。


 ガガ、ガコッ、ドン、外から音がして、少年はすぐに閂が外された音であることを悟った。同時に少年は立ち上がる。猛りは嘘のように息を潜め、扉の開かれる一瞬を前に走り出す構えをとる。その目には、先ほどまで宿っていた悲壮感や絶望感とは打って変わり、ただただ妹のもとへ駆けつけるという使命感があるだけだった。


 扉が開かれ、一筋の光が網膜の裏まで走ったのと少年が走り出したのはほとんど同時であった。少年と衝突した扉は勢いよく外側に開き、「わっ!」女性のような声がした。どうせ村の誰かだろう、と少年は勢いそのまま目の前の森へと走り、走って、気が付いた。一向にあのうっそうと生い茂った草木の中にたどり着くことができない。それどころか、地面を踏んでいる感覚もなく、まるで湖に背を預けているような浮遊感を覚えた。少年はおもむろに地面に目を落とす。


「はっ?」


 少年は浮いていた。それもちょっとやそっとではなく、目測で自身の身長と同じくらいには浮いている。少年は後ろを振り返った。真っ白なローブに身を包み、村では見たこともない厳かな雰囲気をまとった女性が立っていた。


「はじめまして少年。私は魔法使いのベロニカ。よければ少し、私の頼みを聞き入れてはもらえないだろうか」


 村にいる女たちのようにキーキーとやかましく喚く声でも、男たちのように野太く粗野で荒々しい声でもない。低く重く、耳ではなく臓器に直接響いてくるような声で、よく通りどこか懐かしささえ感じる。それまで自身を支配していた怒りは、不思議ともう、見る影もなかった。

 少年は言葉が出なかった。少年は人見知りではない。警戒で口を噤んでいるのでもない。ただただこの状況に困惑し混乱していた。それを察したのか、あるいは沈黙を肯定と受け取ったのか、ベロニカは続けた。


「私はこの地に潜む悪魔を討伐しにきたんだ。そこで君、悪魔か、悪魔の潜んでいそうな場所に心当たりはないだろうか。図々しい願いであることは承知のうえで、もし可能なら私をそこまで案内してほしい。もちろん、君の安全は保証しよう」


 その女性の言葉は、今まさに妹がその悪魔の生贄になろうとしていることを少年に思い出させた。そして一も二もなく少年は叫んでいた。


「知ってる! 案内もできる! だから、俺のことはいいから、妹を助けてくれ!」

「最善を尽くすと約束しよう。ありがとう少年」

「少年じゃない。ガンボールだ」

「そうか、ガンボール。では早速案内を頼んだよ」


 ガンボールが頷くと宙に浮いていた体はゆっくり地面に近づき、何の反動もなく両足の裏がぴたりと土を踏んだ。次いで両手を縛っていた紐がはらりと解ける。ガンボールは後ろを振り返ってベロニカを見た。


 森の中をこんなやつがついてこれるのだろうか。魔法使いって実在したのか。本当に助けてくれるのか。悪魔を倒すってそんなこと、できるのか。そもそも、妹はもう死んでいるかもしれない。……

 ガンボールはギュッと唇を引き結んで前を向く。少しだけ冷静になった脳内にはさまざまな憶測が飛び交っている。それらがごちゃ混ぜになって、今は一秒すら止まっていられないという焦りがどっと溢れ出す。ガンボールは鉄砲玉のように弾かれ、森の中へと飛びこんだ。


 森に入って道なき道を難なく走るガンボールは、ベロニカがちゃんとついてきているのかを確認するべく、時折後ろを振り返りながら進んでいた。ガンボール一人ならもっと早く走れただろう。しかし、冷静になった頭では、たとえ妹の下へ駆けつけることができたとしても、自分一人ではどうにもできないことが分かっていたのだ。魔法使い、などという胡散臭いやつでも、今は頼るほかにない。



 村にはある風習があった。数カ月に一度、森の奥にあるお社に赴いて、お祈りを捧げるというものだ。お祈りは村長の決めた一、二名の村人のみが行う。また捧げる用の供物として、村で育てた農作物や森で採れた果物、動物の肉などが用意されていた。


 つい先日のこと、よそ者だったガンボールの両親が初めてお祈りを行うことになった。今年は雨があまり降らず、不作の可能性が高いと予想されていた。両親は、数日経っても帰ってこなかった。

 お社の中には神様がいるとされ、絶対に中に入ってはいけないと教えられて育ったガンボールは、子ども心にこっそり「見るだけならいいだろ」と扉の隙間からお社の中を覗くことにした。前々から気になっていたし、何より、もう何日も帰ってこない両親を心配したのと、妹に寂しそうな顔をさせているのが忍びなかったのだ。中を覗き、何事もなければ押し入って両親に催促をして、お祈りを早めに切り上げてもらおう、くらいには考えていた。神様がいるだなんて、ガンボールは微塵も信じていなかった。


 しかしてそこにいたのは、両手で抱えるほどの大きさで、黒く丸く靄をまとい、宙にふわふわと浮いている何かだった。両親の姿はどこにもないし、それが神様だなんて、到底思えなかった。どちらかと言えば、そうしてまた直感的に、ガンボールはそれを悪魔のようだと思った。その昔、悪魔の軍勢から魔法の力で人々を守ったとされる、ベロニカ創世記という英雄のおとぎ話、その本に描かれていた悪魔のようだと。


 好奇心は恐怖へと変わっていた。動悸は早まり、耳の横で心臓の音を聞く。喉はカラカラと渇くのに汗は止まらない。息つぎを早める心臓に呼応して呼吸も荒くなり、足が震えていた。

 何度も夢想した、魔法という奇跡の力で悪魔と戦う自分の姿。いざその悪魔を前にして、戦うのも逃げるのも選択できず、ただ震えて立ち尽くすのみである。もし仮に魔法を扱えたとしても、立ち向かうことなどできそうにない。


 無力と仰いだ空には暗雲が立ち込め、ガンボールの顔に影を落とす。

 黒い何かが目を開いた。その変化を瞳の端で捉えたガンボールが視線を戻し、交錯した。瞬間、ガンボールは脇目もふらずに走り出していた。逃げなくては! ただその一心で、妹の待つ家まで駆けた。


「逃げるぞ」


 肩で息をしながら家に帰ったガンボールは、言って妹の手を引き外へと出る。妹は何がなんだか分からないといった様子だったが、兄の鬼気迫る雰囲気を察して、何も問わず従うことにした。

 家の外に出たガンボールは、どん、と何かにぶつかり尻餅をつく。見上げるとそこには、村では一度も見たことのない、にたりと口元を歪ませた長身で細身の男が立っていた。「秘密を知ってしまったようだな」男の隣に村長がやってきて、ガンボールたちに憐憫の目を向けていた。


「雨はまだ降りませんねぇ。どうやら魔力が足りないようだ」

「あとどのくらいで足りる」

「ちょうどそこの子供一人分ってとこっすかね」


 男の言葉を理解するよりも早く、立ち上がったガンボールは妹を自身の背に隠し身構えた。


「妹に何かしてみろ。ぶっころすぞ」

「ははっ、名前のくせに無鉄砲ときた」


 男の乾いた笑みと共にガンボールの顔面へ拳が振るわれる。反応もできず殴られたガンボールは地面に転がった。意識こそ飛ばなかったものの、目の焦点が合わず、ぼやけた視界で捉えた男を睨むことしかできない。

 ガンボールの頬に男の靴の裏が食い込み、視界を覆う影がより一層濃くなった。


「威勢、勢い、向こう見ず、いただけないねぇ。飛んでいく先はちゃーんと考えようよ」


 男は笑っている。心の底から笑い、嘲り、見下している。霞む目でもそれがはっきりと分かるほど、その男の悪意は漏れ出ていた。今すぐにでも何か言い返して、可能なら一発お見舞いし、妹を連れて逃げ出したい。それらが無理ならせめて、妹に逃げろと叫びたい。しかし、体には力が入らず、顔を踏まれて声も出せない。


「村長さん、この子は縛って納屋にでも入れといてくれます?」

「生贄は一人で足りるのだろう」

「いやぁ、念のための保険ってやつですよ。ほら、僕の目論見が外れて、妹ちゃんだけじゃ魔力が足りないかもしれないですし」

「……承知した」


 涙がこぼれた。歯をくいしばると余計に溢れた。「く、そっ」なんとか起き上がろうと地面に着いた手に力を込める。


「しつこい」

 ぱっと足がどけられたかと思えば、ガンボールの顎を男の蹴りが掠めていた。

「お兄ちゃん!」

「不甲斐ないね、ほんと」


 妹の沈痛な叫び声と、男の呆れた声を頭の中に響かせながら、ガンボールは意識を失った。

 ほどなくして納屋の中で目覚めたガンボールは、あれこれと脱出を試み、今に至る。

 男の落ちくぼんだ眼窩の下に渦巻く悪意と、妹の不安そうな顔、最後に聞こえた自分を呼ぶ声。それらがガンボールの脳裏にくっきりと残っていた。


 絶対に助けてやる。

 ガンボールたちは森を抜け、そこだけ木々をくりぬいたかのような開けた土地と、ぽつんと佇むお社へとたどり着いた。



 ぽつぽつと雨が降り出した。雨足はまだまだこれから強くなりそうな天気である。雨粒が葉に落ちて転がり奏でる音は、お社を見るなり突撃しようとしていたガンボールの意識を逸らし、少しだけ立ち止まらせた。自分だけが先行していったい何ができるというのか。綻びた怒りの隙間を縫って出てくる無力感にガンボールは俯き、縋る思いで後ろを振り返った。「やっと追いついた」ちょうどベロニカがやってきたところだった。


「一人で行かなかったのはえらいぞ」

 頭を撫でられたガンボールは「うるせぇ」言ってベロニカの手を払った。

「見たところ下級のアルバールってところかな」


 なんで中を見ないで分かるのか? 下級? アルバール? 疑問がガンボールの頭を過ったが、真っ先に出てきた言葉は「倒せんのか」それだけだった。

 ベロニカはふふっと朗らかに笑みを浮かべ、しかし次の瞬間には、ぎゅっと眉根を寄せた険しい表情へと変わった。


「急ごう」


 言うなり走り出したベロニカの後を何が何だか分からないまま、一拍遅れてついて行く。ベロニカは三段ある階段を一足で飛び越え、お社の扉を勢いよく蹴飛ばした。音を立てて扉は吹き飛び、追いついたガンボールはその中を目にする。


 つい数時間前に見たときは、両手で抱える程度のはずだった丸く黒い悪魔が、今ではガンボールの身長ほどの大きさに変わっていた。その下には赤黒い血だまりと、扉に伸びる手形が残されている。またその血は床だけでなく、壁や天井にも点々と飛び散っているほか、明らかに年数の違う乾き変色したものも混ざっていた。ガンボールはその場にへたりこんだ。視線をあちこちさまよわせても、妹の姿はどこにもない。黒いやつの下に広がる血だまりが探し物であると、直感が告げている。


 悪魔はガンボールたちを攻撃する素振りもなく、ただ静かに浮いている。ベロニカが三歩前に出た。


「『リンガー・リンガー 角笛の汽笛が喉を貫く』ノックバイパー」


 ベロニカが何事かを唱えると、浮いていた黒い物体は内側から膨らみ、パンと音を立てて破裂した。もしかしたら、中にはまだ妹が生きていて、こいつを倒せば出てくるかもしれない。そんなガンボールのわずかな希望さえ許さないとばかりに、飛び散った黒い物体は煙のように立ち昇り霧散して、お社の中には二人と血の跡のみが残された。


 声も出ない。立ち上がることもできない。頭はもう真っ白で、夢と疑い逃げることすらできそうになかった。


「すまない。私がもっと早く来ていれば」


 その通りだ、とガンボールは思って、思っただけだった。


「こんな状況で言うのは酷だろうが、君には二つ、選択肢がある」


 ベロニカが「一つ」と言って人差し指を立てた。


「村に戻って生活を続けること。もし君がこの選択をするなら、この後私が村に行って、この件に関わっていた者たちを断罪すると誓おう」


 ガンボールは返事をしなかった。ベロニカは「二つ」と言って小指を立てた。


「このまま私に付いてくること。もしこの選択をするなら、君を私の弟子として、魔術や魔法、あるいは悪魔やこの世界のことなどを教え、導くと約束しよう」


 ベロニカは立てた指を折り、開いた両手をガンボールに差し出した。


「右手は村に戻る。左手は私とくる。さあ、どうする? どちらでもいい、選ぶのは君だ」


 なんだそれ、とガンボールは思った。どちらかを選べなどと性急にもほどがある。これで何かを選べたなら、自分はどれほど薄情なのだろうか。そればかりか、出てくる言葉が薄情とは、自分のことがよほど可愛いらしい。どうかしている。


 村に戻って元の生活などできるはずがない。かと言って出会って数十分の、それも魔法使いなんて言っている人について行くなんて、どうかしている。


 そもそもなんで中指じゃなくて小指を立てたんだ。悪魔みたいじゃないか。どうかしている。


 卑怯だ。卑怯者だ。実はこいつが悪魔なんじゃないか、とガンボールは俯いていた顔をようやく上げてベロニカの顔を見た。雨が止んだらしい。扉や高窓から差し込む陽の光が、赤茶けたベロニカの髪の毛をキラキラと輝き透き通らせている。その目はガンボールを見ているようで見ていないように思えた。


「どっちもだ」


 ガンボールはベロニカの両手を取って立ち上がり言った。


「悪魔とかのことはみんなに教えて、どうするかは勝手に決めてもらう。そんで俺はお前について行く」

「ふふっ、欲張りさんめ。ま、私が勝手に処罰するよりよっぽど建設的だろうね。でも本当にいいのかい。その年で親元を離れることになるし、それに——」

「いいよ別に。元々よそ者だし、家族はみんなさっきのやつに殺されてる。それより、あんたについて行けば強くなれるのか」


 ベロニカは静かに息を呑み「なれるとも」とガンボールの頭を撫でた。


「悪魔の王だって倒せるかもしれない」

「撫でんな」

「私は君の師匠になるんだから、口答えはなしだ」


 払われた手でガンボールの手をとったベロニカは外へと出た。ベロニカは「魔法は止まったみたいだね」と雲が散り散りになって太陽の光が伸びる空を見上げた。どこか晴れやかで満足気な顔をしているベロニカとは対称的に、ガンボールは痛みをこらえるような表情をして外へと出ていった。

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