9青の封印 ~忘却3~
少しざらついた木製のテーブルの上に、カップに入ったお茶が置かれた。ブルネットの船の船員が運んできてくれたものだ。
「何か色々お世話になっちゃって、すみません」
フレッドがそう言って早速お茶を口にする。フレッドと翠は、大した怪我では無かったが、海に放り込まれた時に負った怪我をブルネットに呼ばれた船医に手当てして貰うと、船員の服を貸して貰いお茶まで出されていた。海水に濡れた制服や装備品は、服の方は洗濯の担当者が持って行き、装備品の方は真水で綺麗に洗って貰い丁寧に拭いて現在陰干ししている。
「ええと。それじゃあ……」
温かいお茶を飲み小さく息を吐き、フレッドが口を開く。喉が渇いているのは、初めて見る魔物と戦い海に落ちるという大変な目に遭ったからだけではない。少し緊張していた。エトワスに、ディートハルトの事を説明しなければならないからだ。
「まずは、ヴィクトール陛下だけど、健在なんだ。怪我一つない」
フレッドの言葉に、エトワスだけでなくライザも目を大きく見開いた。
「あ、でも、世間では死んだって思われてる。陛下が、自分で死を偽装する事を決めて、身を隠してらっしゃるんだ。あー……俺は卒業式の日から実家に帰省してて出遅れた身で、後から人に聞いた立場だから、やっぱキサラギが話せよ。その場にいたんだしフレイクともずっと一緒に行動してたんだからさ」
フレッドにそう顔を向けられ、隣の席の翠が「まあ、そうだね」と溜息を吐き話し出す。
「今言った通りで、陛下は健在でオレ達I・Kは今も陛下の命令で動いてる。今回の騒動の黒幕は目星がついてて状況証拠は揃ってんだけど、確証が無いからそれを裏付けるための物を探しをしてるんだ。で、その任務の一環で、オレとディー君とフレッド君はロベリア王国に行ったんだよ。ロベリアは今回の件と本当に関係ないのかを確かめに。そこで、想定外の事が起こってさ……。じゃ、順を追って話すから」
翠は、ディートハルトに起きた事も含めて、エトワスがウルセオリナに戻ってから現在に至るまでの事を全て話して聞かせた。
「そうか……」
翠の話を聞き終えると、テーブルの上に組んだ手を置いたエトワスは俯き加減に静かにそう言った。その表情は暗い。しばらくの間全員が無言だったが、沈黙を破ったのはブルネットだった。
「……ん?お前、もしかして、あの時ロベリアにいた男か」
テーブルの端の席に着きファセリア人の話を何となく聞いていたブルネットが、今思い出したといった様子で翠を見る。
「お~。覚えててくれたんだ?顔見ても無反応だから、記憶に残ってないのかと思ってたわ」
「いや、顔は覚えてなかったし、今まで会った事も忘れていた」
笑顔を向ける翠とは対照的に、ブルネットは冷めた様子で答えた。
「二人は、ロベリア王国で会っていたのか?」
エトワスが、驚いた様に二人に視線を向ける。
「ヘーゼルを見掛けた酒場前でな。たまたま同じ場所のすぐ近くに居て話し掛けられたんだが、まさか本物のインペリアル・ナイトだとは思わなかったし、大した会話でもなかったから特に記憶にも残っていなかったんだ」
ブルネットが言うと、翠も笑った。
「“会った”ってレベルじゃなくて、たまたまそこに居合わせた人にちょっと声を掛けたって程度だからね。オレも今日まで忘れてたよ。また会う事になるなんて、思ってもみなかったわ」
「俺も、まさか今日、翠達に会うなんて思いもよらなかったけどな」
エトワスが言うと、フレッドが頷いた。
「ホント、それだよ。じゃあ、次はそっちの話を聞かせてくれよ」
フレッドが、そう促す。
「ああ、そうだな」
エトワスが小さく息を吐き、フレッドと翠の顔を順に見る。
「翠達がウルセオリナの前線に向かおうとしてて、途中で帝都にとんぼ返りする事になった、あの雨の日の事から話す……」
◇
その日の止むことのない激しい雨のせいで、ロベリア王国方面からの侵入者たちとエトワスらウルセオリナ軍の間には膠着状態が続いていた。兵士たちの多くはそれを幸運と感じ、冷たい雨が出来る限り長く降り続く事と、待機命令が解除されないことを心から期待して疲弊した体を休めていた。しかし、指揮官たちは別だった。
『敵が何者にせよ、これより北への侵入を許さぬよう、この地を死守するのが我々ウルセオリナ軍の務めと存じております。退避命令など以ての外です!』
『そうです。I・K達の言う通り、仮に敵がヴィドール国だとしても、ここで我らがさっさと敵を殲滅すれば何も問題ないはずです!』
エトワスは、恨みでもあるのでは無いかと疑ってしまう程の勢いでまくし立て、自分を睨み付けている視線を避けるために目を閉じた。本当は目だけではなく耳まで塞いでしまいたい心境だったが流石にそれはできないので我慢する。エトワスも、ウルセオリナ軍の役割は承知していた。彼らの言う通り、ウルセオリナ領内の町や村など人々が暮らす地はもちろん、帝都に敵を一歩たりとも近付けないよう全力を尽くさなければならない。
ディートハルトと翠の2人が抜けたI・K6名の隊がエトワスらの居る前線に着いたのは、ほんの一時間前にもならないのだが、そのI・K達が道中VゴーストとB・Kを見たと告げた事が、各部隊の指揮官たちを真っ二つの真逆の意見に対立させる事になった。今、エトワスにまくし立てている人物はE・Kではない一般のウルセオリナ兵の隊長で、北のVゴーストやB・K――“不審者”は、少数である事と敵かどうかも定かでは無いとの理由で、無視して南の敵に一気に攻め込み殲滅するべきだと主張していた。そして、対する別の隊の隊長は、北の不審者の中にヴィドールのVゴーストがいたという事を重要視し、北に後退した方が良いのではないかという意見だった。これに対し、元々戦っていた南の敵を攻める事を主張している側は、Vゴーストの件はディートハルトら隊を離れたI・K2人が皇帝に報告するという事なので、皇帝にお任せするべきだと言っている。そして、この情報を携えて来たリカルドとロイを含むI・K6名は、どちらの意見にも賛同せず、今のところ沈黙したままエトワスの判断を待っている状態だ。
『(VゴーストとB・Kが一緒にいたなら、ヴィドール国とアーヴィング殿下に繋がりがある事はほぼ確実だろう。ディートハルトに直接話を聞けたらいいんだけどな……。今問題なのは、そいつらが南の敵と関係があるかないか。関係ない場合、ファセリアにとって敵なのかどうか……)』
エトワスは思案していた。ヴィドール国のVゴーストが、何を目的にファセリア帝国に来ているのかも気になるところだが、その不審な者たちが居た場所にも問題があった。そこは、現在エトワスらがいる前線とウルセオリナの城下町のほぼ間に位置する。ウルセオリナ地方のその辺りの海岸は大型船が離着岸するには困難な砂浜や岩場が続いているが、小さな船ならば問題なく着岸できるため、大型船から小舟に別れて上陸するなどしていて他にも仲間がいる可能性もある。現在エトワス達が交戦中の敵は、南側のロベリア王国との国境を越えて来たと予想されているが、仮にI・K達の話した海岸の不審者が現在交戦中の敵の仲間で、海を迂回してエトワスらウルセオリナ軍の背後である北に回り込み、北と南からの挟撃を目論んでいるとしたら……。そう考えると、交戦中の敵が南へ後退したのは雨だけが原因ではないような気もする。ウルセオリナ軍を南へおびき寄せるつもりなのかもしれない。そうだとしたら、ウルセオリナ側は不利だ。
『……ウルセオリナ卿っ!聞いておられるのですか!?』
涼しい顔で目を閉じたままのエトワスに、ウルセオリナ兵の隊長の一人が業を煮やして怒鳴るように言った。エトワスは次期公爵ではあるが自分の息子程の年齢のためか、その態度は明らかに彼を軽く見ているようだった。
『……』
エトワスはやっと目を開き、ダークブラウンの瞳でその男を見た。睨んだ訳ではないが、その視線に怒鳴っていた隊長は一瞬怯んだように口を噤む。
『言いたい事は分かった。北の不審者が何者でも気にする必要は無い。だから、その対処は陛下にお任せして、我々は南の敵を今のうちに撃退すべき、そういう事だな』
エトワスが静かな口調で確認すると、男は自分の胸の前にグッと拳を握った。
『そうです。我々は、何としてもここで南の敵を葬るべきです!I・Kが言っていたではありませんか。北の不審者達は僅か数人だったと。いくら地元を離れて帝都での学生生活が長かったとはいえ、ご存知のはずですっ!目撃された付近の海岸に一部隊と呼べる程の人数を乗せた船が着岸する事は不可能です!もし仮に、万が一、その不審者が南と同じ敵だったとしても、今優先すべきは目の前にいる敵です。今、奴らは雨で戦意を喪失しています。その隙をつく好機を逃すべきではありません!』
『アウラー様、ウルセオリナ卿に対し些か無礼ではありませんか?』
エトワスに代わり不機嫌そうに言ったのは、同じくウルセオリナ兵の別の隊を率いる若い指揮官だった。彼は北に後退する意見に賛成している。
『それに、先程から申してますが、目の前の敵とは無関係だったとしても、ヴィドール国のVゴーストがファセリア帝国内で目撃されたという事が、充分憂慮すべき事態かと存じますが。ただのヴィドール人ならともかく正体不明の兵と言われているVゴーストなのですよ?』
『だからそれは、陛下のご判断にお任せすべきだと言っている!』
再び、両者とも同じことを繰り返して主張し始めたため、エトワスは小さく溜息を吐いた。
『ああ、そうだ!Vゴーストと共にB・Kもいたという事だったな?B・Kはアーヴィング殿下配下の者だぞ?殿下はファセリア帝国の敵ではあるまい?北の者達は、逆に敵ではなく味方という可能性もあるのではないか?』
良い事に気付いたとでも言いたげに、アウラーが唇を笑みの形に歪めた。
『なるほど……。そういう考え方もあるか』
エトワスが呟く。共感した訳では無い。単純にそう思っただけだ。“アーヴィングは、ファセリアの敵ではない”そう信じたとして、それでは何故、そしていつの間に、遠いヴィドール国とコンタクトを取っていたのだろう?ヴィクトールからも祖父からもその様な話は聞いていないため、ファセリア帝国とヴィドール国との間でやり取りがあったとは考えにくい。となると、アーヴィングが個人的に接触した事になる。
『しかし、B・Kの件は、言い出したのがフレイクだからな。あいつ一人がそう言ってただけで勘違いという可能性もあるぞ』
同席していたI・K、元同級生のリカルドがそう言った。元々ディートハルトを快く思っていない彼は、ディートハルトの事を信用していないからだ。
『(ディートハルトは、この雨の中を帝都に戻ったのか……)』
リカルドの言葉で、エトワスはディートハルトの事を思い出していた。援軍として来るはずだったディートハルトと翠が帝都へ戻ったことも、ディートハルトの体調が優れないようだということも、I・K達に聞いていた。
『(大丈夫かな……)』
急に心配になる。決して自分が今置かれている状況を忘れたわけではないが、彼の事がとても心配だった。
“約束、守れよ”
別れ際、そう言って笑った姿も目に浮かぶ。滅多に見る事のない素直な笑顔だった。
『(約束……か)』
学生最後の試験の日、”ディートハルトより先には死なない”そう約束した。あの時は驚いた。ディートハルトが急に”I・Kにはならない”等と言い出して、訳の分からない事を……。
『(訳の分からないこと……?)』
その時の記憶が蘇る。
“もし、何かヤバイと思ったら、赤い奴には近づくんじゃねーぞ。そいつが……”
そう言ったディートハルトは、その直後自分で首を傾げていた。何故こんな事を言ったのだろうと。
『迷う必要は、なかったな』
エトワスはやっと口を開いた。テントの中に集まった指揮官達とI・Kは、一斉に彼に注目した。
『(ディートハルト、お前の忠告をきくことにするよ)』
エトワスは指揮官達の顔を見回した後、きっぱりと告げた。
『北に後退する。南からの追撃だけでなく、北のオリナ近郊には敵と思われる集団が待ち受けている可能性がある。各部隊、警戒しながら北上しろ。ウルセオリナ城下より30キロの地点まで後退とする。すぐに出発する。各部隊に伝えろ』
エトワスは、ディートハルトの言った”赤い奴”をI・K達の報告にあった海岸に居た”赤いVゴースト”だと解釈した。ディートハルトの実際の忠告は”赤い奴には近付くな”だったのだが、北からの侵入者”赤い奴”が、エトワスを含めてウルセオリナ軍にとって敵であるのなら、近付かないのではなく逆に迎え撃って出る事に決めたのだ。曲解しているような気がしないでもないが、もし海岸の不審者たちが敵で無かったとしたら、それはそれでいい。後退してなるべく前線の敵から離れ、改めて南からの攻撃に備えれば良いだけだ。
『は!』
『了解しました』
『了解、しました』
しきりに前進を勧めていた指揮官も、渋々ながら敬礼しテントを出て行く。
『ロイ、リカルド、ちょっといいか?』
と、エトワスは退席しようとしていた元同級生を呼び止めた。
『ディートハルトは、体調が悪かったって言ったよな?どういった状態なんだ?』
I・Kの報告は会議の場で行われ個人的な質問は出来なかったため、ずっと気になっていた。
『そう言ったのは本人じゃなくて、キサラギだからな』
ロイが答える。
『具体的に何がどうとは聞いていない。むしろ、帝都を出てからは機嫌も良くて元気そうに見えたぞ。俺が絡んでもやけに素直で、反発したり生意気な事は言ってこなかった』
リカルドが続けて話した言葉に、エトワスは小さく溜息を吐いた。
『良かった……。って、自分がディートハルトに絡んでるって自覚はあったんだな』
『あ、でも、何か怠そうではあったな。魔物との戦闘になった時、あいつにしては動きが悪くて、毎回キサラギがフォローしてるように見えた』
ロイが、思い出した様に言うと、リカルドも頷いた。
『そうだな。俺もそれは違和感を感じてた。ちょっとした戦闘でも息切れしてたしな』
『でも、安全な帝都に戻ったんだから大丈夫だろ』
エトワスが表情を曇らせたため、ロイが苦笑いしながら言う。
『……そうだな。教えてくれてありがとう』
その後、すぐに陣形を南と北からの攻撃に備えて組み直したウルセオリナ軍と帝都からの援軍のI・Kは、北へ向かって退避し始めた。
◇
「北に居た奴らも、敵だった。俺達が雨の中を早々に北に後退するとは思っていなかったみたいで、幸い、南からの敵と挟み撃ちされることにはならなかったんだけど……」
翠とフレッドに淡々と話を聞かせていたエトワスが小さく息を吐く。
I・K達に最前列の北を任せ、エトワスの率いるE・Kの部隊は元々交戦していた南の敵に備えて陣形の最後尾に付いていたが、彼らが最前列の隊に追いついた頃には前列の陣形は崩され混戦状態となっていた。そして、I・K達に聞いていた話では海岸で見掛けたVゴーストとB・Kを含む不審者は10人にも満たないという事だったのだが、それとは比べ物にならない数の敵がそこにいて、しかも、北で待ち受けていた敵に人間の姿はほとんどなく、南からの敵と同じ様にファセリア帝国では見慣れない魔物が大半、そして、数は多くないがその中にVゴーストが数体混ざっているという状態だった。
「まるで、魔物の軍と戦ってるみたいだったよ」
「その魔物って、さっきのヴィドール行きの船で檻に入れられてた奴みたいな?」
翠が腕組みをして尋ねる。
「赤い目をした人型の奴“以外の”魔物が、そうだ」
エトワスの答えに翠が首を捻る。
「なるほど。でも、オレらが最初海岸で見た時には、奴らの中に魔物はいなかったしVゴーストも1体、B・K達人間も2~3人だったよ。船も見当たらなかった。オレらが目撃してから長くても数時間程度しか経ってねえだろ。どっからそんな数の、しかも魔物が湧いて来たんだ?」
翠が首を捻る。
「船は、どっか崖とかの死角になるように停泊させてて泳いで来たとか?」
フレッドが言うと、エトワスではなくブルネットが答えた。
「惜しいな。沖に停泊した船から、小舟に乗せて少しずつ運んだんだよ」
「え?」
意外な人物の発言に、フレッドと翠が不思議そうに注目する。
「私が運んだんじゃないぞ。ヘーゼルだ」
さらに出た意外な人物の名前に、二人は揃ってエトワスの顔を見た。
「そうらしい。俺達が魔物の群れと戦闘になる少し前、ブルネットはファセリア大陸の沖にいたんだ。そこで偶然、ヴィドールの船が魔物をファセリア大陸に上陸させるところを見ていたらしい」
エトワスの言葉に続けてブルネットが説明する。
「雨が酷くて視界が悪い上に距離もあったから、最初は奴らが何をしているの分からなかった。だが、何度も複数のボートを往復させて何かを運び入れている様子が気になって、見付からない様に私達もボートで上陸して近くでコッソリ見ていたんだ。運んでいたのは魔物で、上陸のため指揮を執っていたのはヘーゼルだった。海賊のクセに陸の町を襲わせる気なのかと思って見ていたが、違った。ファセリア兵を待ち伏せしていたんだ」
ブルネットと仲間達が身を潜めて見ていると、南から退避してきていたウルセオリナ兵と魔物の戦闘が始まった。そのため、巻き込まれないうちに見付からない様に退散してしまうつもりだったのだが、ブルネットとその仲間はヘーゼルに顔を知られていたこともあり、その場を離れる前に彼らに見付かってしまった。
「奴は、ファセリア兵と一緒に始末しようと、私達にも魔物をけしかけて来た」
ブルネット達は海の魔物との戦闘経験はあったが、陸の魔物と戦った事はなく苦戦する事になった。そのような困難な状況へ、エトワスたち最後尾のウルセオリナ兵が到着した。
「エトワスとE・K達のおかげで、命拾いしたよ」
戦闘が繰り広げられたその場所は、海岸から少し上る高台となった場所だった。魔物やVゴーストと戦闘を開始したエトワス達は、ファセリア兵の中に混ざるブルネットとその仲間に気が付くと、民間人が巻き込まれて襲われていると判断し、すぐに助けるため駆け付けた。しかし、それに気付いたヘーゼルは、妨害するため自ら剣を抜き直接ブルネットらに斬りかかったのだが、近くにいたエトワスが代わりに刃を受け止め、さらに周囲のE・K達も主であるエトワスの加勢をしようと一斉に戦いに加わる事となった。
「それで、さっきヘーゼルがエトワスの事を“あの時のファセリア兵”って言ってたのか」
翠の言葉にエトワスが頷く。
「ああ」
「ヘーゼルの奴、そのままさっさと消えてくれたら良かったものを、退散する前に厄介な物を呼び出していきやがったんだ」
そう言ったブルネットが、不快げに顔を歪める。
◇
逃げようと小舟を待たせていた海岸へ向かって走り出したヘーゼルは、ポケットの中から取り出した赤い球を振り返りざま投げた。赤い球が地面にぶつかって光った数秒後、雨でぬかるんだ地面が盛り上がるようにして大きな生物が現れた。白くブヨブヨとしたその魔物は、ゆっくりモゾモゾと前進を始めた。質感は何かの幼虫の様ではあったが、見た目は芋虫とは似ても似つかず、球に近い塊が幾つもくっついて一つになっているという不気味な姿をしていて、魔物どころか生物なのかも分からなかった。クラゲの様な細長い触手の様な物を引き摺っているため海の魔物の様にも見えた。
『何だ、こいつは?』
見慣れない物体に、一人のE・Kが眉を顰めた。周囲の兵達も剣を構えたまま手を出そうとはせずに、離れて様子を窺っている。現れた物が何なのかが分からないからだ。少し移動し兵達が多く集まる位置で止まったブヨブヨの物体は、何かが弾ける様なバチバチという音を立てていて、エトワスは学院の騎士科で最初に習う術を思い出していた。敵に向け放つ術で生じさせたその光球は、弾ける直前に同じ様な音を立てる。
『まさか!』
エトワスがハッとして呟いた直後、近くにいたブルネットが叫んだ。
『こいつ見た事がある!破裂、いや爆発するぞ!逃げろ!』
『退避しろ!海に飛び込め!退避!』
エトワスも、兵達に向かい怒鳴る。命令に従う事に慣れた兵達は、その言葉を聞き反射的に走り出した。そして、高台の端から次々に飛び下りた。下はそのまま海になっている。高台の端まで距離のある位置に居た者達は、陸地を走り下りて海岸の方を目指した。同時に、エトワスは謎の物体に向け両手を掲げる。負傷しているなどして足が遅く、素早く退避出来ない者達がいるため時間を稼ぐつもりだった。エトワスの手の周囲に淡い水色を帯びた白い光が生じて、謎の物体も白い霧の様な物に覆われた。瞬時に白いガラスの様な物が謎の物体の表面に生じる。それは分厚い氷だった。謎の物体だけでなく、その手前の地面ごと、そして、謎の物体のすぐ近くの雨粒も巻き込んで凍り付いている。しかし、数秒後、ピキピキという甲高い小さな音と共に、謎の物体を覆った氷に亀裂が入り始めた。術で生じさせた氷であるため雨水の影響を受けて簡単に溶けるという事はないため、謎の物体はかなりの高熱を帯びているのかもしれなかった。すぐに、近くにまだ残っていた二人のE・K、ジルとマリウスが同じ術を使おうとし、少し離れた所にいたE・Kのライザも駆け寄って来たが、エトワスは再び怒鳴った。
『構うな!退避しろ、全員だ!』
『エトワス様も!』
そう返すE・K達は、意地でもエトワスの元に留まるつもりだった。エトワスがチラリと視線を向けて確認してみると、他の兵達はほとんど全員避難を終え近くにその姿はなかった。
『行こう!走れ!』
四人は揃って全力疾走した。一人だけ、まだ高台の近くに足を引き摺って移動している兵がいたため、その兵の元へ真っ直ぐ向かう。エトワスがその兵の腕を掴むと、主の意図を理解したマリウスも兵の逆の腕を掴み、二人でほとんど引きずるようにしてそのまま共に地面を蹴り崖を飛び下りた。その直後、背後で爆発音が響いた。
◇
「本当に間一髪だったな」
ブルネットが煙草を銜え、しみじみと言う。
「あ、良ければオレにも一本貰えません?」
海水に水没し、ポケットに入れていた煙草が全てダメになってしまった翠がそう言うと、ブルネットはすぐに煙草を差し出した。ついでに、ライターで火もつけてくれる。
「その後、すぐにブルネットの仲間がボートを出して、俺達を助けてくれたんだ」
高台から飛び降りたはいいものの、海岸の方へ泳ぐ事が難しく全員近くの岩にしがみついている状態だった。飛び込みには成功したものの、波間を漂っている際に波にま飲み込まれて岩に打ち付けられてしまい怪我を負っている者もいた。中には泳げない者も数名いたのだが、そのような者達はすぐに無傷の仲間達が助けたため溺れる事はなかった。そして、崖からは飛び降りずに海岸の方に駆け下りて逃げた者達は、謎の物体が破裂した爆風の影響を受けて吹き飛ばされてしまっていたのだが、謎の物体からは距離があった事と、強い雨とエトワスが使った氷の術で冷やされ爆発の規模が小さくなっていた事、また、吹き飛ばされた先が砂地や波打ち際の浅い海の中であったため、怪我はしたものの命を落とす者はいなかった。これら海に飛び込んだ者と海岸に逃げた者、その全員をブルネットの仲間は船に運び、乗船していた医師の助けを借り負傷者の手当てをした。
「治療を終えたらすぐ陸に戻してもらう事になっていたんだけど、まだヴィドールの船がうろついていて、近付く事ができなかった。それで、日が暮れてからようやく負傷していないメンバー数人で上陸して、元の海岸にひとまず偵察に行ってみたら、もう戦いは終わっていた。まだ少し魔物だけは残っていたけど、戦っているファセリアの兵はいなくて、幸い戦死した死者の姿も無かった。その代わり、負傷して取り残された兵達が数人、物陰に身を隠して助けを待っていたから、彼らを連れてまた船に戻ったんだ。町より船に戻る方が近くて負傷者の負担にならないって判断して。ああ、その兵の中に、リカルドとロイもいた」
エトワスの言葉に、翠とフレッドが同時に反応する。
「あいつらも無事だったんだ!」
「マジで!? いや、だけど怪我してたのか」
フレッドが心配そうに眉を寄せている。
「重傷じゃない。リカルドは足が酷い捻挫で歩けなくなってて、ロイは掠り傷程度だったけど、リカルドを心配して傍に付いていたんだ。あと、二人と一緒に来た他のI・K四人も。一晩体を休めて翌朝明るくなってから負傷者を連れて戻るつもりだったらしい」
「良かった……」
フレッドが深い息を吐く。
「じゃ、I・Kはみんな無事だったんだ。何か気ィ抜けたわ……」
翠が力なく笑う。
「船に戻った俺は、E・KやI・K、それとブルネットと話し合って、翌日以降に船を下ろして貰う事に決めた。兵の中にはすぐには動かせない様な重傷者もいたし、怪我人の方が多くて、そうでなくても皆ずっと戦い続きで疲れ切っていたから」
その日はヴィドールの船を避けて入り江に船を隠し、かなり人口密度の上がった船で体を休めたのだが、兵達の体力の消耗が激しくもう一日休む事になり、その翌日に負傷していない少人数で先に上陸するつもりだったのだが、海が荒れていて小舟を下ろすのが難しく、上陸出来たのはさらに数日後の事だった。
「おかしな状況になってるなって思ったよ。安全かどうか確認するため、それと情報を集めるために、俺とジル、それからロイの三人で海岸近くの町オリナに向かったんだけど、新たに派遣された援軍は、ウルセオリナの兵でも帝都から来た兵でもなくてB・Kだって言うんだからな。しかも、オリナの人達の話じゃB・K達が到着したのはその日の朝らしいのに、俺達が付いた昼頃にはもう国境付近の敵はほぼ殲滅状態らしい、なんて噂が飛び交ってるんだ」
エトワスの言葉に翠とフレッドが笑う。
「当然信じられなかったし、実際に国境近くを見に行ったんだ」
「そしたら?」
翠とフレッドが、興味津々な目を向ける。
「確かにB・Kはいたけど、敵は全くいなくて死骸すらなかった。俺達が倒して数日経った魔物の骸は残ってたけどな。その日にやられたような新しいものは全くなくて、B・K達は剣すら抜かずに暇そうに雑談してた。木陰で昼寝してる奴もいたよ」
「マジ?」
「うっわ!腹立つ!」
どう見ても魔物とは戦ってはいない状況で、本人達もそれを不思議に思ってる様子もない。そのため、エトワス達は、ディートハルトが言った様に海岸にいたのはB・Kで、アーヴィングがヴィドール国と接触したのはほぼ間違いないと判断し、すぐにその場を離れウルセオリナ城に戻る事に決めた。ところが、その場を離れる直前、聞き捨てならない言葉が聞こえて来た。
『ヴィクトール陛下は亡くなったのだから、これからB・KがI・Kのポジションになるだろう』
B・K達が話していたその言葉に、エトワス達は愕然とした。
「B・Kを捕まえて力づくで話を聞き出そうかとも考えたんだけど、陛下の死に自分が関与してるなんてアーヴィング殿下が兵達に話しているとは思えないし、俺達E・KとI・Kがその場に居て、敵と戦った形跡はないっていう実際の噂や報告とは違う現実を目にしたとアーヴィング殿下が知れば、どう出るか分からない。白を切るならまだマシで、下手をすれば何か理由を付けてウルセオリナを反逆者扱いするかもしれないって思った。だから、見付からない様に一度船に戻って、他の兵達に状況を伝える事にした」
その後すぐ、エトワスとE・Kのジル、そしてI・Kのロイは船に戻り、見聞きした事を船で待っていた他のE・KやI・Kに話して自分達が得ている情報を整理し、これからどう行動するかを話し合った。
◇
『現在得ている情報を整理すると、アーヴィング殿下がヴィドール国と接触していて、ファセリア帝国に今回の魔物やVゴーストを含む敵を侵入させた事になるな。ヴィドールの目的は分からないが、殿下の方は恐らく玉座。そして、その目的は既に達成されている』
エトワスの言葉に、リカルドが眉間に皺を寄せ呻く様に言う。
『その通りだろうが、本当に陛下は亡くなられたのか?』
『雑談として軽い調子でB・Kが話していた事だから、俺も信じたくはない。でも、奴らが俺達の戦場跡で呑気に寛いでいたあの状況を見たらな……』
ロイがそう言って溜息を吐く。
『嫌な話だけど、陛下がご無事ならB・Kだけが派兵されるはずもないしな』
続けられたエトワスの言葉に、リカルドは頭を抱えた。
『……I・Kは、主を失った事になるのか……』
沈痛な面持ちで目を伏せ、I・Kのブランドンが言った。しかし、すぐに顔を上げて視線を真っ直ぐエトワスに向ける。
『それで、ウルセオリナ卿は、これからどうなさいますか?』
『そうだな。まずは、ウルセオリナ城に帰還する。ただ、今この船に乗っている俺達は、行方不明もしくは戦死したと思われているだろう。ウルセオリナ公爵だけでなくアーヴィング殿下にもな。だから、それを利用して、自由に動ける身のうちにもう少し情報を集めても良いんじゃないかと思っている』
エトワスの言葉に、ライザが怪訝そうに眉を顰めた。
『と、言いますと?』
『ヴィドール国とファセリア帝国との間には交流はなかっただろ?そんな国とアーヴィング殿下がいつ接触したのか、そして、ヴィドール国は、アーヴィング殿下が失敗すればヴィクトール陛下……ひいてはファセリア帝国を敵にまわす事になるのに、見返り無しにアーヴィング殿下に協力するとは思えない。だから、ヴィドール国が何を期待してアーヴィング殿下と手を組んだのかを調べたい』
エトワスがそう言うと、ブランドンが『おお』と、表情を明るくする。
『それが分かって証拠を手に入れる事が出来れば、ウルセオリナ公爵の力を以てすれば、アーヴィング殿下を断罪する事が可能ですね』
『それでは、すぐにはウルセオリナ城へは帰還されないおつもりですか?』
と、ライザの顔が一気に険しいものになった。
『いや、そうは言ってない。負傷者もいるし、皆それぞれ家族や友人が心配しているだろうから、可能なら明日にでもウルセオリナ城へ向かうつもりだ。シュヴァルツ閣下に報告もしなければならないしな。ただ、俺は、今のまま戦死した事にしておきたいんだ。その方が自由に行動出来て情報を集めやすいから。だから、俺に限っては、コッソリ人目に付かない様に帰還したいと思ってる』
エトワスの言葉に、ライザが複雑な表情をした。
『帰還はするけど、無事である事は公にされたくない、そういう事ですか?』
『ああ』
『そして、エトワス様が、ご自身の足で調査されるつもりでいらっしゃると?』
『そうだ』
『公爵閣下は、エトワス様が城を出られる事をお許しにならないのでは?』
ライザの言う事は、エトワスも心配している事だった。
『ああ、そうだな。それが問題だ……』
エトワスは困った様に小さく笑う。エトワスには、情報収集とは別に自由に行動したい理由があった。主であるヴィクトールを失ったディートハルトと翠の事だ。彼らは今、どこで何をしているのだろう?ディートハルトは体調が悪いと聞いているため、非常に気掛かりだった。
『もし、公爵閣下がお許しにならない場合、私達I・Kがウルセオリナ卿の代わりに動きますので、なんなりとご命令ください』
主を無くしたブランドンがそう言うと、他のI・K3名も頷き、リカルドとロイも『協力する』と言った。I・Kである彼らは、何としてもアーヴィングを断罪したいという思いがあるからだ。
『ありがとう。心強いよ』
エトワスが、そう答えた時だった。部屋の外から、何やら騒ぐ声が聞こえてきた。そして、すぐに部屋の扉が開き、ブルネットが顔を出した。
『敵襲だ。すまないが、この船はファセリア大陸から少し離れる事になる』
『敵?魔物か?』
エトワスが尋ねると、ブルネットは唇を歪ませてニヤリと笑った。
『いや、海賊だ』
敵は、ヘーゼルの船だった。数日前に遭遇した際はヴィドールの船に乗っていたが、今回は自身の船だった。
◇
「私が、以前からヘーゼルに狙われていたせいで、エトワス達ファセリア人を巻き込んでしまったんだ」
エトワスの話を受けて、ブルネットが説明する。
「うちと違って、向こうは本物の海賊船だ。攻撃されたらひとたまりもない上に、魔物を放ってきたから逃げるしかなかった」
ブルネットは逃げる事を選択した。ある程度ヘーゼルの船と距離があったため、そしてヘーゼルの方が途中でブルネットの船を追う事を止めたため、ヘーゼルの手からは逃れる事が出来たのだが、彼が放った魔物の群れにはそのまましばらく追われる事になった。泳ぐことの得意な海の魔物は、徐々にブルネットの船に追いつき始めていたのだが、近距離で直接武器で戦わずに属性の力を扱う魔術を使えるE・Kや、属性は帯びていないが遠距離攻撃の術を使えるI・K達が乗船していたため、追って来た魔物達もやがて倒す事ができ無事に逃げ切れた。ただ、思っていたよりも時間が掛かり、ファセリア大陸からは離れてしまっていた。そして、悪い事に、ファセリア兵の重傷者達の具合が良いとは言えず、一刻も早く環境の整った場所で改めて処置する必要が出て来ていた。そのため、最寄りの港へ寄港する事になったのだが、そこは、ラリマーという名の町があるブルネット達が暮らす島だった。
島民達は、ブルネットとその仲間の命を救ったファセリア人達を快く迎えてくれて、改めて負傷者達は治療を受け看護される事となった。
「ラリマーの医師が言うには、重傷者は安静にしてまだしばらくは動かさない方が良いって事だったから、彼らが動ける様になるまで俺達は待つ事にしたんだ。ラリマーの人達は親切にしてくれて、俺も含めて負傷してないメンバーは地元の人たちの仕事を手伝ったりして過ごしていたんだけど、大した事はしていないし、流石にずっとただお世話になりっぱなしって訳にもいかないから、ブルネットに協力する事にしたんだ」
エトワスの言葉に、ブルネットがフッと笑う。男前でクールな笑みだった。
「世話になったのは、私達も同じだ。ファセリア人に助けて貰わなければ、あの戦場で死んでいたのだからな。それに、エトワス達が来てくれるようになってから、魔物との戦闘を恐れる必要がなくなった。今日もまた助けて貰ったしな」
「ブルネットさん達に協力って?あと、さっきブルネットさんは、“うちと違って、向こうは本物の海賊”って言ってたけど、ブルネットさん達も“黒の海賊”って奴じゃないんですか?」
フレッドが気になっていた事を尋ねると、ブルネットは小さく笑った。
「それは、ヴィドールの奴らが勝手に呼んでいるものだ。いつも赤い服を着ている赤毛のヘーゼルが“赤の海賊”という異名を持ってるから、恐らく私がこの容姿から“ブルネット”と呼ばれている事を知って、“黒の海賊”というあだ名を付けたんだろう。私達は、海賊じゃない。ただの商船の船乗りだ。ラリマーはヴィドール国と取引があって商品を運んでいたんだが、数か月前に町の長の娘、アクアが拉致されてしまった。何処に連れて行かれたかは分からない。ただ、証拠はないが犯人はヴィドール人だという事は分かっている。港でヴィドールの船に乗せられるところを目撃した島民がいるんだ。だから、私達は長の頼みでラリマーの船だという事は隠しヴィドールの船を片っ端から調べていたら海賊と認識されるようになった。何か盗った訳でも船員に危害を加えた訳でもないのにな。エトワス達に協力して貰っているのも、それだ。連れ去った犯人を捜しながら、念のため船にアクアが乗せられていないかも調べて回っている」
「だから、俺達が乗った船に現れたのか。あ、でも、それじゃ、ブルネットさんっていうのも本名じゃないんですね」
フレッドがそう言うと、ブルネットは視線を逸らした。
「まあな」
本名は口にしたくないようだった。一方、翠は先程から何やら考え込んでいる。
「ヴィドール人は、何でその子を攫ったんだろ?まさか、その子も遺跡絡みじゃないよね?」
「島に遺跡はない」
ブルネットが首を振る。
「ただ、うちの島には古くから伝わる伝説があるんだが、その伝説によると、昔、島は海底に沈んでいたらしい。そして、そこには“水の種族”と呼ばれる者達が住んでいて、水そのものと水に棲む生き物を操る力を持っていたらしいんだ。アクアの家系は、その種族の血を引いていると言われていて、代々水の神を祀る巫女の一族だ。まあ、だからといって、一族の人間が伝説通り不思議な力を持っている訳ではないし、もちろん、水の底じゃなく普通に地上で生きてる。ただ、その家系の者は生まれつき青い髪をしていて、それが一族の特徴なんだ。アクアは一族の中でも特に珍しくて島の海の様な鮮やかな水色の髪をしている。だから、長はそのせいで拉致されたんじゃないかと考えている」
「へえ。天然で青とか水色の髪って、そりゃ珍しいな」
フレッドが目を丸くした。
「確かに。それじゃ、ディー君が拉致られた理由とは違う訳か。それじゃ、犯人が同じヴィドール人ってのは偶然の可能性が高いか。その犯人は、単に個人的に、珍しい見た目のその子が欲しいって思っただけって事か」
「珍しさで言ったら、フレイクも目の色が珍しいけどな」
翠の言葉にフレッドが言う。
「ああ、そうだ!フレイクで思い出した。エトワス、俺達がさっきまで乗ってた船にいた、あの人型の魔物がさ、あれが、ヴィドール行きの船に乗ってるんなら……」
フレッドが、言いにくそうにエトワスに言う。
「ああ、分かってる」
エトワスは、表情を曇らせて頷いた。それは、エトワスも気になっていた事だった。ヴィドール人達が遺跡からあの魔物を連れ帰っているのなら、ディートハルトが乗せられた船にも乗っている可能性はある。
「接触しない事を祈るしかないな……」
「そんなに強い魔物だったんだ?」
事情を知らない翠が、フレッドとエトワスの顔を見る。
「あれと同じ姿をした魔物は、フレイクの事を食おうとしてたんだよ」
「理由は分からないけど、ディートハルトだけに強く執着してたんだ」
* * * * * * *
銀色に煌めく紺碧の海と一線を境に頭上に広がる空は、ぼんやりと淡い水色で、うっすらとした白い雲に覆われていた。少しべたつく強い潮風に髪や服をはためかせながら一人船縁に立ったエトワスは、そんな空を眺めている。空を眺めるのは久し振りだった。
「……」
しかし、不意に視線を空から海へと落とした。今はあまり空を見ていたくなかった。空を見ると、どうしてもディートハルトのことを思い出してしまうからだ。
卒業式の日、ディートハルトに自分がウルセオリナに戻る事を伝えた時に学生時代にも別れを告げたつもりだった。翠によくからかわれていたものの、ディートハルトに対する気持ちがどういうものなのか真剣に考えた事はなかったが、その性格も見た目も可愛く思っているのは事実だ。
ディートハルトは初対面の頃はエトワスも含めて他人を拒絶していたが、集団生活を送る場で誰の助けも借りずまともに口も利かずに独りで生きていく事は容易ではなく、口には出さないものの困った状況に陥っている事も珍しくなくて、エトワスは放っておけずに嫌がられるのは承知で手を貸していた。そうするうちに、ディートハルトはエトワスを拒絶する事はなくなり、打ち解けて自分の事も話してくれるようになった。本来の彼は無邪気で純粋で子供っぽく、他人に対して強気できつい態度をとっているのは自分を守るため、そして、軽く見られないように一生懸命虚勢を張っているのだという事が分かって来ると、余計に可愛く思えた。そのため、卒業して別れる事になるのは寂しかった。とはいえ、自分はウルセオリナの次期領主で、これから先一生ウルセオリナの事を考え、祖父の後を継ぐのと同時にウルセオリナに身を捧げていく事になる。翠やフレッドの様に、学生の頃のまま自由にディートハルトと過ごす事は出来ない身だ。だから、彼に対する自分の想いについて深く考えるのは敢えて避けていて、卒業するのと同時に過去の思い出として別れを告げて封印する事にした。
しかし、翠とフレッドの話を聞いてしまった今、その封印は揺らぎほとんど消えている。ディートハルトが自分に対し心を開いてくれているのはもちろん分かっていたが、それほど慕ってくれていたとは考えていなかった。自分を含むE・K達が全滅したという報せを聞き、もちろん、悲しませたり寂しく思わせたりする事になるだろうとは思っていたが、そこまで強い影響を与えるとは思っていなかった。彼の様子を聞き、胸が締め付けられた。それは、罪悪感からのものだけではなく、彼に対する想いによるものも含まれている。
「最初はさ、お前がウルセオリナを捨てて海賊に転職したのかと思ったよ」
不意に背後から声がした。
「転職するにしても、海賊にはならないよ」
エトワスは振り返らずに答える。声で相手が誰であるかが分かるからだ。
「悪かったな」
意外な言葉にエトワスは振り返った。
「殴ろうとした事か?」
エトワスがそう言うと、そこに立っていた翠はフンと鼻で笑った。
「いや、それじゃない。一発殴りたかったとマジで思ってるし」
「じゃあ、何が?」
「いや、オレがさ、ちゃんとディー君から目を離さずにいれば、こんな事にはならなかったと思うから。お前に“よろしく頼む”って言われてたのに」
実はずっと気にしていた事だった。
「ああ、それか……」
エトワスは小さく笑う。
「じゃあ、俺にもお前を一発殴る権利はあるって事か」
「あー、まあ、そうだね」
「だけど、護衛みたいにずっと張り付いてる訳にもいかないし、まさか攫われるなんて思わないからな」
エトワスの言葉に、翠は苦笑いする。
「そうなんだよねぇ……」
「ああ……」
二人はその後は無言で、光る紺色の海をただ眺めていた。
頭上に広がる淡い水色の空へは目を向けようとはせずに。