65闇の森 ~新しい道2~
昼前の穏やかな時間、エトワスと翠は食堂代わりになっているバルコニーで遅い朝食を取っていた。卵の見張りが真夜中担当なので、その後少し眠り昼前に起きるという毎日をここ数日送っている。昨夜遅くに卵を狙う魔物が現れてから、今のところ再び現れる事はなく卵の方にも変化はない。
現在、聖地で見張りに就いているのは学生のオースティンとジャックで、それ以外の者達はそれぞれ好きな場所で過ごしていたが、エトワス達と同様にバルコニーで食事をしたりお茶を飲んだりしている者達もいた。その様なファセリア人達に混ざり、捕らえられたヴィドール人達の姿もある。エトワスとI・K達が話し合った結果、彼らには逃げる意思は無く、グラウカやルシフェルとは違い空の種族に対して危害を加える恐れもないと判断し、ファセリア人の監視付きという条件でファイター達と同じ様に自由に過ごして貰う事になったからだ。
「お。お前ら、いたのか」
エトワスと翠を見付け、フレッドとシヨウが歩み寄って来る。
「ブラッシュさん達が町を見て来てくれたらしいけど、今のところ、近くにあの魔物の気配はないって言ってたぞ」
そう言いながらフレッドが隣のテーブルの席に着くと、シヨウもその前の席に腰を下ろした。
「負傷していたし、すぐには戻ってこないだろ」
「だな。まあ、戻って来ても、魔物の方は近付いて来たらこの国の人達が察知してくれるから良いとして、問題は見付からない二人だよな……」
シヨウの言葉に頷き、フレッドが困り顔になる。グラウカとルシフェルの二人はまだ見付かっていないからだ。
「ヤバイ奴が、二人ともまだ見付かってないってのは問題だよねぇ」
翠がそう苦笑いする。
「グラウカはともかく、これだけ空の種族がいてルシフェルが見付からないっていうのは不思議だよな」
エトワスが言う。地底の種族の血を引くルシフェルが、空の種族達にその気配を感付かれていないのは不思議だった。
「じゃあ、これだけ探して見付からないって事はさ、俺達みたいに遺跡から森に飛ばされた後、そのまま動けなくて魔物にやられたとかじゃないか?」
「ああ、その可能性もあるね」
フレッドの言葉に答えて翠がそう言った時だった。
「エトワス!」
名前を呼ばれエトワスが振り返ると、近付いて来るレミエルの姿があった。
「何かあったのか?」
卵に何か異変が起きたのだろうかと心配になり、エトワスは思わず席を立ってしまう。
「お前に客を連れて来た」
「俺に?客?」
アズールに知り合いはいないけど……。そう不審に思った直後、レミエルの背後の人影に気付く。小柄なため、レミエルの背に隠されたようになっていたその人物は、初めて見る大人しそうな女性だった。その場にいた他の者達も、その“客”に注目している。エトワスを訪ねて来たのが若い女性だからなのか、フェリシアとニコールの二人とお茶を飲んでいたエメが、少し警戒しているようだった。
「ラファエルに頼みたい事があるらしい。それなら、お前を通した方が良いだろう?」
本来はディートハルトの客だというレミエルの言葉に、エメはほっと胸を撫でおろした。『きっとエトワスのもとに連れて来たのは、彼が今ここにいる地上人達のリーダーだからだろう』そう考えていた。同時に、エトワスの友人達は『それは妥当な判断かも』と思っていた。初対面のディートハルトに直接頼みごとをするよりも、エトワスを通した方が聞いて貰える確率が高いからだ。
「あ、初めまして。お邪魔してすみません。わたしは、アリアといいます」
エトワスに向かい少し緊張気味に挨拶をする女性に、エトワスは穏やかな笑みを返した。
「エトワスです。それでは、あちらへ……」
どの様な頼み事なのか全く想像がつかないが、とりあえずエトワスは空いた席へとアリアを促した。
パステルカラーの緑の地に小さな黄色の花の刺繍が施されたワンピースを着たアリアは、強張った表情でエトワスの後に続き、指し示された壁際のテーブルまで来ると、「どうぞ」と、椅子を引いたエトワスにキョトンとした。
「あ、はい」
ニコッと笑顔を向けられ、意図を理解したアリアは戸惑いつつストンと席に着いた。エメが、少し面白くなさそうな表情をしている。
続けて、アリアを連れて来たレミエルもすぐ隣のテーブルの空いていた席に座った。翼を収納した状態で足を組み、どこか偉そうな態度でアリアを値踏みする様に見ている。最後に、エトワスがアリアの目の前の席に座った。
「……」
アリアは目の前に座る若い男に視線を向けた。
地上人だというが、両目ともダークブラウンの瞳で同じ色の髪をした見た限り空の種族と大きな違いはない、しかし非常に整った外見の人物だ。ルシフェルもバランスの取れた顔の造作をしているが、どこか暗く冷たい陰のある雰囲気を纏っている。そんな彼とは真逆の、ルシフェルが陰なら目の前の彼は間違いなく陽で、涼し気で凛とした気品のある、初めて出会うタイプの相手だった。セレステとは違い人間離れした神秘的な雰囲気は無いのだが、華やかな存在感がある。
セレステの最高位と親しい人物となると、地上人でさえもキラキラしたオーラを纏っているのかと少し憂鬱になった。彼もまた自分とは違う世界の、近付きたくない部類の人間だ。アリアは直観的にそう思っていた。
「ラファエルは体調が悪く休んでいると伝えたんだが、どうしてもと言ってな」
レミエルがアリアを一瞥してエトワスに言う。
「アリアさん、でしたね。ラファエルへの頼み事という事でしたが、何でしょうか?」
アリアが口を開かないため、エトワスはそう言って笑顔を向けた。レミエルのせいなのか、アズールでもディートハルトは“ラファエル”という名前で認識されているようなので、アリアに伝わる様に敢えてその呼び名を口にした。
「はい、あの!ラファエルさんは、皆さん達と一緒にまた地上に下りるんですか?」
急に前のめりになり、真剣な表情でアリアが尋ねる。
「その予定です」
ディートハルトが地上に戻ると困るのだろうか……そう考えながら、エトワスは答えていた。
「私も地上に下りたいんです!それで、もしよろしければ、一緒に扉を通らせて貰えたらと思いまして!」
アリアは本題を口にした。
「……それが、頼み事ですか?」
わざわざ訪ねて来たため、何か力の強いセレステにしか出来ない事を頼むのかと思っていたのだが、何の事はない願いにエトワスは少々拍子抜けしていた。それならば、わざわざディートハルトに頼まなくても、レミエルを含めた他のセレステに話した方が早いのではないだろうか。そうも思った。
「扉を通る予定がある空の種族は、ラファエルだけだからな」
エトワスにチラリと視線を向けられ、彼が何を言いたいのか察した様でレミエルがそう話す。その口振りからして、空の種族が地上に下りる事について特に規則等といったものはないらしい。そして、完全に他人事で『ご自由にどうぞ』といったそっけない反応だった。
「あいつが目を覚ますのを待って頼むしかないな」
「それなら、彼が目を覚ましたら伝えます」
レミエルの言葉に頷き、視線をアリアに戻したエトワスはそう伝えた。
「ありがとうございます!……あの、でも……」
顔をパッと輝かせた直後、少し言いにくそうにアリアが言う。
「地上に下りたいのは、わたしも含めて二人なんです……」
エトワスに再び視線を向けられ、レミエルが答える。
「一度に扉を通るのに人数制限はないぞ。その場にいさえすればいい」
「あ、いえ、そう言う事ではなくて。その……、もう一人はルシフェルさんなんですけど、大丈夫ですか?」
「!」
続けられた予想外の言葉に、エトワスだけでなく話を聞いていた翠達も驚いて耳をそばだてている。
「ルシフェルって、地上から来た地底の種族の事か?」
流石に気になったのか、レミエルも眉をピクリと動かした。
「はい。今、わたしの家にいるんです。彼と一緒に地上で生活しようって話になりまして」
少し緊張した面持ちで頷き、アリアが簡単に説明する。
「!」
驚いて目を丸くするエトワスや他の地上人たちよりも先に、露骨に眉を顰めたレミエルが口を開いた。
「地底の種族と、地上で、共に生活?物好きにも程が無いか?いや待て。今お前の家にいると言ったな。どういう事だ?地底の種族と一緒にいる事など出来ないだろう?」
レミエルがセレステだからか、アリアは自嘲気味に小さく笑いながら答えた。
「わたしは、その……セレステらしいんですけど何も力は持っていませんので、そのせいなのか、地底の種族の方と一緒にいてもお互いに平気なんです」
「はっ?」
レミエルは目を瞬かせ、席を離れるとアリアのすぐ目の前に立った。
「セレステなら、気配で分かるはずなんだが……?」
レミエルは首を傾げている。セレステの気配がしないからだ。
「はぁ。小さい頃、城下町で生活するため巫女と一緒にこの城を出たんですけど、わたしも自分がセレステなのか疑ってるところです。目もこの通りですし。翼はあるので、一応、空の種族だとは思っているんですけど。他の種族の血も引いているんでしょうか?」
「うーん。分からないな。……城を出た子供の頃とはいつの事だ?僕の名はレミエルという。知っているか?」
レミエルは眉間に皺を寄せて質問を返した。セレステなら、面識があるはずだと考えたからだ。
「いえ。会った事はないかと。わたしが城を出たのは22、3年くらい前の事です」
「そうか。それなら、僕も孵化したばかりの頃だから互いに知らないだろうな」
レミエルが納得した様に言う。
「セレステかどうかについては、特に力を持たずラズライトの瞳も持たずに生まれて来る者もいるようだからな。別に間違いじゃないだろう。ただ、全くセレステの気配を感じないのは不思議だな」
そう言ってレミエルは本当に不思議そうに首を傾げた。元々が精霊なので、アカツキも言っていた様にセレステの場合は気で分かるからだ。
「医師に診て貰ったのか?属性も無属性のように感じるから、逆に他のセレステに力を注いで貰えるかもしれないぞ?ラズライトや模造品を作るやり方と同じだ。ああ、そうだ。今ここにいる地上人も様々な属性の力を扱えるようだから、風や光以外でも希望の属性の力を分けてもらったらどうだ?」
レミエルがエトワスに視線を向けてそう勧めるが、話を聞いていたファセリア人達は『は?どうやって?』と、全員が思っていた。
「あ、良いんです!そういうのは要りません。セレステらしくなりたいって願望はないので。力とか属性とかなくても全然問題なく生きてますし。それより、多分、力も属性も無いお陰で素敵なルシフェルさんと知り合えて一緒に暮らせてるので、今のままが良いんです!」
そう言い切ると、アリアは改めてエトワスに向かって望みを口にした。
「だから、お願いします。ルシフェルさんと一緒に地上に下りて、一緒に暮らしたいんです!」
エトワスは少々気圧されながらも、態度には出さずに冷静に質問した。
「それは、ルシフェルからの提案ですか?」
もしそうだとしたら、セレステであるかどうかはともかく、アリアの身が危険なのではないかと思っていた。純朴そうな女性だ。言いくるめられた可能性も否定できない。
「いえ、わたしが誘いました!」
少し照れた様子でアリアが答えたため、エトワスは軽く目を見開いている。
「ルシフェルさんは、今まで彼を酷い目に遭わせていたグラウカって人から逃れて、自由に生きる選択をしたんです」
「優遇されてたはずだけどねぇ……」
会話が聞こえているため、ピングスが苦笑いして小さく呟いた。
「私達は完全に悪者ね……」
同じテーブルに着いているロサも溜息を吐いている。
「だから、わたしはそのお手伝いをしたいって思ったんです。あ、もし、わたしが空の種族だからって理由で心配してくれてるんでしたら、大丈夫ですよ。わたしには空の種族の力は全くないですし。本当に、彼の近くにいてもお互い何の影響もないんですから!」
引け目に感じていた事実だったが、そのお陰でルシフェルの傍にいられるのなら、と、アリアは嬉しく感じていた。
「……」
エトワスは返答に困ってしまった。考え直すよう言いたいが、その理由が色々ありすぎてどう話せばいいのか迷っていた。
「アリアさん?って言ったっけ?」
傍で聞いていた翠が、苦笑いしながら口を挟む。
「ルシフェルと出会ってから何日も経ってないッスよね?多分、彼もオレらとこっちに来たタイミングは一緒だろうから、来た日に出会ってたとしても、まだ5日目って事になるけど……。あいつがどんな男か、よく知らないでしょ?」
とりあえずエトワスも思っていた事の一つを、翠が言ってくれた。
「知ってます。ルシフェルさんは、良い方ですよ?わたしには分かります!」
アリアは、きっぱりと言い切った。
「……そうッスか」
「あ~、僕は、ランク……ルシフェルの事を20年くらい前から知ってるんだけどさぁ」
引き下がった翠に代わり、今度はピングスが口を挟んだ。
「彼が地底の種族って事は置いといて、人としては物静かなタイプで、読書好きで子供の遊び相手にもなれる、そこにいるお兄さん達が考えてるよりは、まあ“まとも”な奴だって思ってるんだけどさぁ。でも、世の中の、娘がいる父親代表として言わせて貰えれば、彼と駆け落ちするのはもう少しよく考えた方がいいと思うよ?」
父親代表として黙っていられなかったのか、ピングスは真顔で意見を述べている。
「お付き合いはともかく、やっぱりいきなり同棲はお勧めできないなぁ」
「出会ってからの日数が短いって事でしたら、気にならないので大丈夫です」
アリアは笑顔でそう言った。
「そっかぁ。じゃあ、参考までに聞くけど。今まで、どんな男と付き合ってきたんだい?元カレは、どんな男だった?」
「元カレ?というのは?」
初めて聞く単語にアリアは目を瞬かせて首を傾げた。
「過去に、お付き合いしてた男だよ」
「男性の知り合いは、わたしがやっているお菓子のお店に来てくれるお客さんのお爺さん達だけです。その方達とお話はしますけど、お付き合いした事はありません。ルシフェルさんみたいな素敵で魅力的な方には初めてお会いしました!」
と、アリアはニコニコしながら答え、ピングスは苦笑いしている。
「なるほどねぇ……。ファイター君達の方か、じゃなきゃ、そこのジェイド君とか黒い制服のお兄さん達の誰かだったら良かったのにねぇ。ルシフェルだと、お嬢さんが一人で稼いで食わせてあげないといけなくなると思うよ?それだけじゃなくて、家事もお嬢さんが一人でやんなきゃなんないだろうし。苦労するよ?」
「それは最悪だわ」
ロサがボソリと小さく呟くと、助手のウィンも頷いた。一方アリアは、ピングスの言葉を聞いてすぐに首を横に振った。
「問題ありません。わたしが稼ぎますので!それに、家事はこれから教えて一緒にやります」
アリアには、明るい未来しか見えていなかった。
「アリアさん、ルシフェルに一目惚れしちゃったんだねぇ」
ポツリとニコールが言う。
「まあ、見た目は整ってる方だもんね」
フェリシアはそう言ったが、単純に顔の造作等について客観的な印象を述べているだけで、そこにはアリアの様に感情的なものは含まれていない。
「何か、ヴァンパイア系?と言うか、闇属性のミステリアスなタイプが好みの人は、惹かれちゃうのかも?」
ヒソヒソとエメが言うと、聞こえていたのか予想外にアリアが反応した。
「バン……?は、分からないですけど、そうなんですよ!影があるのが良いんです!漆黒の美しい髪に映える愁いを帯びた赤い瞳がスゴク印象的で、その上本物の闇属性で翼まで闇の色っていうのが素敵すぎで!その美麗な姿に癒されちゃうんです!!」
両手を握り、アリアが嬉し気に熱く語り始める。
“癒される”って、どういう意味だったっけ……?と、ディートハルトを喰おうとしていた姿を間近で見た翠とエトワスは考えていた。
「貴女は、分かってくれるんですね!」
アリアは嬉しそうにエメに向かって言った。
「え……ええと。わたしは、闇属性より光属性の方が好みかもです……」
真っ直ぐ視線を注がれ、少し圧倒された様子のエメは困ったようにそう答えた。
「と言うと、お城のセレステみたいな、ですか?」
心なしか眉を顰めてアリアが尋ねた。
「いえ。お城の王子様みたいな、です」
エメの言葉に、フェリシアとニコール、翠とフレッドは苦笑いしている。エメが誰を指してそう言っているのか、ピンポイントで分かるからだ。
「王子様、ですか。王様の息子って事ですよね?」
ピンと来ていないのかアリアは首を傾げた。
「と言うより、イメージとして、って事ですけど」
「王子様イコール光属性、って事でもないけどね」
ニコールが言うと、フェリシアも頷いた。
「確かに。色んなタイプがいるね」
「……それで、ルシフェルが、グラウカさんのもとを去る決心をしたというのは、本当ですか?」
エトワスは話を元に戻した。アリアがルシフェルと出会って数日で故郷を捨て同棲しようと決意した件はともかく、気になっていた事を信じられない思いで尋ねていた。ルシフェルは自分から望んでグラウカのもとにいると話していたと、翠に聞いている。
「はい!はっきりと本人にそう言ってましたし、グラウカって人も新しく研究対象が見付かったので、ルシフェルさんに未練はないみたいでした!だから、ルシフェルさんもこれからは自由になって好きに生きて良いと思うんです!だってルシフェルさんは……」
「ちょっと、待ってください」
エトワスは、熱弁し始めたアリアを止める。サラリと話された言葉に聞き逃せない部分があったからだ。
「アリアさんは、ルシフェルだけでなくグラウカさんにも会ったんですか?」
「ええ」
アリアが頷くと、I・K達が思わず席を立つ。
「何処で?」
「森です。わたしの家は町外れにあるんですけど、そのすぐ近くです」
空の種族のブラッシュ達に協力して貰い捜していた森は、ランタナの遺跡からアズールに移動した直後にいた場所だった。どうりで見付からない訳だ。エトワス達はそう思っていた。
「それじゃあ、新しく見付かったグラウカさんの研究対象というのは?」
ディートハルトの卵ではない事を祈りながらエトワスが尋ねる。
「魔物に進化した地底の種族だって言ってました。グラウカって人は、森の中でその魔物と一緒にいて、地上に連れ帰ろうと交渉していたみたいでした」
「まさか、あいつか……?」
卵ではなかった事にほっとしつつ、アリアが話す魔物に思い当たりエトワスが小さく低く呟く。
「交渉できる魔物って事は、そうかもな」
同じ魔物を想像していたフレッドが眉を顰め、I・Kや学生達も頷いている。
「あの、ルシフェルさんは、もうラファエルさんには興味ないって言ってました。それよりも新しく自由な人生を始めたいって。だから、お願いします。ルシフェルさんも一緒に地上に下りる事を許してください」
アリアは懇願する様に言って、再びエトワスに真剣な眼差しを向けた。
「……」
ルシフェルは少なくともアズールに来てからは、空の種族に対して危害を加える様な事はしていないのかもしれないが、本当に信用できるのだろうか。
『と言うか……』
命を狙われていたディートハルトが、敵であるルシフェルを『もうおれには興味ないんだ?じゃあ、皆で一緒に地上に戻ろう!』等と快く迎えてくれると本気で考えているのだろうか?エトワスはそう思っていた。
『わざわざ訪ねてきて馬鹿正直にルシフェルの事を話すって事は、受け入れられると考えてるんだろうけど……』
今のアリアの行動が独断ではなくルシフェルも把握済みなのだとしたら、彼も相当考えが甘い。そう、エトワスは内心呆れていたが、表情には出さずにアリアに尋ねた。
「ルシフェルがラファエルの命を狙っていた事は、知っていますか?」
「はい、聞いています。でも、本当に、今はもうラファエルさんを食べるつもりはないと言っていました。嘘じゃありません!」
「……」
そういう問題ではないし、彼を信用しない方が良いと思うが……。エトワスは、喉まで出掛かっていた言葉を飲み込んだ。ルシフェルに実際に会っているエトワスは、ルシフェルがアリアに話したという言葉を信じる事はできなかった。ただ、アリアがルシフェルに好意を抱いている事は分かる。他人が何と言おうと聞く耳を持たないだろう。
「ルシフェルは、地上に下りる事を許すまでもなく、地底の種族なので空の種族の国に残していく訳にはいきませんし、そうでなくても、強制的にでも地上に連れて行かなければならないので、扉を通る事についてはラファエルも異論はないはずです。ただ……」
と、エトワスは言葉を切り、近くにいた翠の方に視線を向ける。エトワスの視線に、翠は「お前が説明してよ」と身振りで示した。
「地上に下りたら、アリアさんは自由に好きな場所へ行っていただいて問題ありませんが、ルシフェルは、そのまま俺達と一緒に、俺達の国の王の元まで来て貰う事になります」
「!……それは、彼が地底の種族の血を引いているからですか?ラファエルさんを食べようとしたからですか?」
少し血の気が引いた様子で、アリアが表情を不安に曇らせて尋ねた。
「種族は関係ありません。彼がグラウカさんと同じ国の同じ組織の人間だからです。その組織は、俺達の国ファセリア帝国の人間であるラファエルに対して危害を加え、ファセリアそのものに対しても、大きな損害を与える行為を働きました。ですから、彼の現在の意思がどうであれ、俺達の国で一度話を聞かせて貰う必要があるんです」
「……」
エトワスの言葉に、アリアは固まっていた。聞いたこともない国がどうのと言われても、エトワスの言っている事はあまりよく分からないが、地底の種族と天敵同士である空の種族ではなく、地上の種族達がルシフェルを捕らえるつもりだという事は理解した。
「じゃあ、わたしがここでルシフェルさんの居場所を話してしまったせいで、貴方達に捕まってしまう事になるんですね……」
一気に落ち込み、アリアが暗い表情になる。
「貴女が話さなくても、俺達は彼を捜していたのでいずれ見付けたでしょうし、ラファエルはルシフェルの気配を感じ取れるので、彼が目を覚ましたらすぐに居場所は特定されていたはずです。だから、貴女のせいという事はありません」
エトワスはそう否定したが、アリアは表情を曇らせたままだった。
「ルシフェルも、グラウカに幽閉されて研究対象になってた被害者で、ラファエルを喰おうとはしてたけど実行できなかった訳だから、オレらの国に来て貰ったとしても話を聞いたらすぐ解放されるって可能性もありますよ」
と、アリアを気の毒に思った翠がそう言った。
「……」
エトワスが何か言いたげに翠を見る。今回ランタナの遺跡に来ていたヴィドール人達のうち、何も関与していない助手とファイター達はともかく、ディートハルトを捕食しようとしていたルシフェルがどうなるかは保証はできないからだ。
「本当、ですか!」
ハッと顔を上げ、アリアが縋るような目を翠に向けた。彼がルシフェルと同じ黒髪だからか、それとも話し方のせいなのか、ダークブラウンの髪をした青年よりは親近感が湧いた。彼もやはり見目は良かったが近寄りがたい雰囲気ではない。たまたま今がそうであるだけかもしれないが、親しみやすい印象を受けた。
「約束はできないんですけどね」
「とにかく、地上には一緒に下りられるので、ルシフェルとそれからグラウカさんの居場所に、案内して貰えますか?」
済まなそうな笑顔を浮かべている翠だけでなく、エトワスも申し訳なく思いながらアリアに告げた。
「やっぱり、ルシフェルさんを捕まえるんですね……」
「地上に下りるまでの間、目の届くこの城に待機してて貰うんです」
エトワスが、穏やかな口調でそう話す。
「でも、ルシフェルさんはただでさえ今具合が悪い状態なのに、捕まえられてしまう上にセレステがいっぱいいるお城に連れて来られたら、どうなってしまうか……。これまでずっと大変な目に遭ってきたのに、可哀相です……!」
「……」
ディートハルトの方こそ、ヴィドールではルシフェルやグラウカのせいで酷い目に遭った――エトワスは思わずそう言いそうになり堪える。
「まあ、痛めつけようって気はないんで、案内だけして貰えます?本人の様子を見なきゃどう対処するかも決められないんで」
何か言いたそうなエトワスの表情に気付いた翠がそう言って、愛想笑いを浮かべる。
「……分かりました」
観念したのか、アリアは暗い表情で渋々頷いた。
「案内って、今からですか?」
表情を曇らせて尋ねるアリアに、翠は笑顔で頷いた。
「出来れば」
「わかりました、案内します……」
アリアが答えると、翠はその場にいるI・K達を振り返った。ブランドンとクレイ、フレッドが頷いて席を立つ。
「じゃ、お願いします。あ、先に行って下で待ってて貰えます?ちょっと準備してから行くんで」
「はい。じゃあ、お城の入り口のところにいますね……」
席を立ち背を向けたアリアが目を潤ませていた事に気付いて、翠は困った様な表情でエトワスに視線を向けた。
「フェリシア」
と、エトワスが妹を手招きする。
「一緒に来てくれないか?彼女を……」
兄が最後まで言う前に、妹は心得た様子で頷いた。
「分かった。じゃあ、エメとニコールも」
「ああ、よろしく頼む」
フェリシアが友人二人に声を掛けると、すぐに二人も察して3人揃ってアリアの後をパタパタと追いかけていった。
「じゃ、オレは、リカルドロイコンビを起こしてくるわ」
翠がホッとした様に言う。
* * * * * * *
早朝までの見張りを終え部屋で休んでいたリカルドとロイにも声を掛けると、男子学生達とシヨウには卵に何かあった時のため城に残って貰う事にして、女子学生3人とI・K達、エトワスは、アリアの案内で彼女の自宅とその近くの森へと向かう事になった。
「アリアさんは、ルシフェルとはいつ何処で出会ったんですか?」
アリアと歩調を合わせて隣を歩くフェリシアが、何でもない世間話をする様に話し掛ける。
「3日前です。薬草を集めに森に行ったら倒れていたんです。すごく具合が悪そうだったので、そのまま連れ帰りました。その後町に行った時に、ルシフェルさん達を捜している張り紙に気付いたんですけど、アズールでは何も悪い事はしてませんし、病人だし、そのまま家で看病してました」
アリアがルシフェルと出会ってから5日だったとしても驚くが、実際はもっと短かった事が分かり、後ろを歩くエトワス達は内心苦笑いしていた。
「怖くなかったんですか?」
エメが尋ねる。地底の種族や同じ属性の魔物が空の種族を襲うという話を聞いていて、そうでなくても、アリアにとってルシフェルは見知らぬ相手だからだ。
「いいえ。さっき話した通り、わたしには属性が無いからなのか、生まれついた種族が原因の拒絶反応がありませんでした。だから、ただ、とても素敵な人だなって思いました。わたしに属性も力も無いのは、きっとルシフェルさんに出会うためで運命だったんだと思います」
ルシフェルがディートハルトに対し異様に執着し、喰おうとしていた様子を間近で見ている翠とエトワスは引いていた。その様子には狂気しか感じられず、素敵な人とは到底思えなかった。
「運命かぁ。そういうのって、あるのかもですね」
ニコールが言うと、アリアは嬉しそうに頷いた。暗かった表情が少し明るくなっている。
「貴女は、どういった方が好みなんですか?やっぱり、キラキラした光属性ですか?」
「え、あたし?あたしは、属性には興味ないです。とりあえず、男臭い人がいいかな~。胸毛もムダ毛もヒゲも上等!バッキバキなマッチョが好きです。Tシャツとか着たらピチピチになっちゃうくらいの」
アリアに尋ねられ、ニコールが即答する。
「そうそう。いつもシャツの1番目と2番目のボタンを外してて、盛大に胸毛が見えてるムキムキなボウズ先生の大ファンだもんね」
ニコールとフェリシアの言葉に、後ろを歩いていた男性陣が吹き出している。全員同じ騎士科卒なので“ボウズ先生”の事は知っているからだ。ちなみに、男気溢れる人物なので、男子学生からも人気があった。
「でも、フレイク先輩みたいなタイプも好きでしょ」
「あ~、そうなんだよねぇ。綺麗で甘くていい匂いしそうだし、まつ毛長いしメッチャ可愛いからさぁ。守ってあげたくなるっていうか、お菓子をあげたくなるっていうか」
エメの言葉に、ニコールがフゥと溜息を吐く。
「ええと……。それじゃあ、胸毛とまつ毛が長くて綺麗で可愛くて、お菓子をあげて守ってあげたくなる、甘い匂いのするバキバキのマッチョって方が好きなんですね」
あまりピンと来ていなかったが、アリアは笑顔でそう言った。
「いや、そこは混ぜないでいただければ」
「あ、甘い匂いで思い出した」
と、フェリシアがスカートのポケットに手を入れる。
「これ、こないだランタナの、地上の雑貨屋さんで買ったリップバームなんですけど、まだ使ってないので、アリアさん、どれか要りませんか?」
そう言って、小さな容器を3つ取り出して見せる。
「わー、可愛いですね!」
3つそれぞれ違う色をしていて、花やフルーツが描かれている金属製の小さな缶に、アリアは目を丸くする。
「色を迷ってしまって3つも買っちゃったんです。赤系と、彩度の低いピンクと、ローズ系です。良ければ、好きなのを選んでください」
そう言って、フェリシアは友人達の手も借りて1個ずつ蓋を開けて中を見せる。
「これ、すっごいオススメですよ~。私は、ピンク系のを買いました」
「あたしは、色の付かないタイプのを買ったんですけど、どれもいい匂いがするんですよ」
「あ、本当だ。すごく良い匂い。甘い香りがしますね!」
女子学生3人組のおかげで、落ち込んでいたアリアは明るさを取り戻してきていた。
「あいつが、ディー君を本気で諦めたと思う?」
すっかり重い空気も晴れて、女性陣が楽しそうに会話を交わしている後ろを少し距離を取ってゆっくり歩きながら、翠がエトワスに尋ねた。
「グラウカと決別したんなら、あり得なくはないだろうけど……。でも、ここに来る直前まで喰いたがってたからな」
「だよなぁ」
翠もまた、ルシフェルを信じてはいないようだった。
「アリアさんには悪いけど、ルシフェルは拘束する事になるかもな」
エトワスが言う。
「また、よりによって惚れた相手がルシフェルってのがなぁ……」
フレッドの言葉に、エトワスも翠も同感だった。バルコニーでピングスが話していた様に、出会ったのが同じヴィドール人でもファイターか、ファセリア人の誰かであれば問題はなかったのにと思う。
「弱っている状態で出会ったという、タイミングがまずかったのかもな。無害に見えただろうし」
既に事情は聴いていた後ろを歩いていたリカルドが言う。
「ああ、あれだな。看病されてる患者と看病してる側がくっつく、みたいな奴か」
ロイが頷きながら言った。
「ルシフェルの方がどう思っているかは分からないけど、自分は動けないからアリアさんを利用しようとしているだけかもしれないぞ」
「それはあるね。ってか、大ありなんじゃね?」
フレッドの言葉に答えた翠だけでなく、他のI・Kもエトワスも同じように思っていた。
それぞれが雑談を交わしながら歩いて行くうちに、徐々に立ち並ぶ建物が少なくなりやがてそれも途切れた。
「もう少しで、わたしの家に着きます」
アリアの家は本当に町外れにあり、周囲には他の建物が見当たらないような場所に小さな一軒家が立っていた。
赤い花の咲く花壇や畑に囲まれたレンガ造りの素朴な建物で、庭の敷地内には別に小屋があり、そこでは何か動物を飼っているようだった。そして、家を取り囲む簡素な造りの木製の柵の向こう側、敷地の外にはもう何も人工物はなく自然が広がっている。アリアが話した通り草原の向こうに森が見えていた。
「あの森が、グラウカと魔物のいたという場所ですか?」
エトワスの問いに、再び緊張した様子でアリアが頷く。
「ええ、そうです」
「では、俺達は森に向かいますので、ウルセオリナ卿は、そちらをよろしくお願いします」
ブランドンはそう言って、翠以外のI・Kと一緒に早速森を目指して歩き出す。
「フェリシアとニコール、エメは、ここで待っててくれ」
目的は、あくまでルシフェルとグラウカを捕らえる事で、状況にもよるが魔物との戦闘は予定にない。そのため、森の様子もルシフェルのいるアリアの家の様子も確認できるこの場所で、3人には待機していて貰う事にした。
「アリアさん」
表情が暗くなってしまったアリアに、フェリシアが声を掛ける。
「うちのお兄ちゃんは、すっごく優しくて思いやりがあるから、酷い事をしたりなんてしないです。だから、心配はいりませんよ」
アリアに向かって話しているというより、兄に向かってそう言っていた。
「……」
エトワスが視線を向けると、フェリシアは『アリアさんを悲しませる様な事はしないで』と目で訴えている。
「ありがとう、フェリシアさん」
そう言ってアリアは小さく微笑み、翠は苦笑いしてエトワスの肩を叩いた。
「困っちゃうねぇ、お兄ちゃん」