64闇の森 ~新しい道1~
町から一歩外に出ると草原が広がっていて、さらに少し行くと森へと続いていた。城の周囲に広がる聖地の森とは違いそこは普通の森で、真夜中の現在完全に闇に包まれている。
開けた草原は賑やかな星空のせいか真っ暗闇という程ではなかったが、それぞれが手にしたランタンの明かりを頼りに、ルシフェルとアリアはまっすぐに黒い森を目指した。
「わたしはよくあの森に行くんですけど、やっぱり、昼間とは全然雰囲気が違いますね」
アリアが少し緊張ぎみに言う。
「家に戻りたくなったかい?」
「いいえ。ワクワクしてますから」
ルシフェルの言葉をすぐに否定し、アリアは笑顔でそう答えた。
「ルシフェルさんは、具合は大丈夫ですか?もう、戻りたいんじゃありませんか?」
逆に質問を返され、ルシフェルもまた首を横に振る。
「町から離れたからかな。気分は良くなってきてるよ」
「そうなんですね。良かった。それなら、一緒に探検を楽しめますね」
アリアはそう言って楽しそうに笑ったが、しばらく歩くとルシフェルは立ち止まり僅かに眉を顰めた。
「……やっぱり君は戻った方がいいよ。この気配はきっと、地底の種族に属する魔物だ」
目指す森は目前だったが、魔物の気配を強く感じていた。ただ、少し違和感がある気もする。
「ええ?本当ですか?せっかく来たのに……」
足を止めたアリアは、ガッカリした様にそう言った。
「……地底の種族に属する魔物なら、僕は操る事が出来るから多分危険はないかもしれない。このまま見に行ってみるかい?」
いくら空の種族の力がないとはいえ、魔物は相手が地底の種族以外であれば襲って来るはずだ。アリアは何を呑気な事を言っているのだろう、そう思ったが、ルシフェルは考えている事とは違う言葉を口にしていた。
「え、それなら行きたいです!どんな魔物か気になりますし!」
アリアがパァっと表情を明るくする。
「……」
自分は何故こんな提案をしたのだろう?と、ルシフェルは今さらながら混乱していたが、喜んでいるアリアの姿を見ると、誘った事を何故か後悔はしていなかった。
「僕の目は暗闇でもよく見えるけど、君は違うだろう?だから、僕が先に行くよ」
アリアが用意してくれたランタンを持ってきてはいたが、闇の属性である地底の種族の血を引くため、ルシフェルは灯りが無くても実は夜目が効く。
「こんなに暗いのに見えてるんですか?すごいですね!ありがとうございます、ルシフェルさん!」
嬉しそうに言うアリアの前に立ち、ルシフェルは暗い森の中へと足を踏み入れた。
『……何だろう?』
もう少し先の森の奥の方から先程から感じる闇の気配がしているが、やはり普通とは違うような感じがしていた。
「アリア、この先にいる魔物は、普通の魔物とは違うかもしれない」
再び足を止め、ルシフェルはアリアの方を振り返ってそう言った。
気配の元に近付くにつれ、ただの闇属性ではなく様々な性質のものが入り混じった混濁した気配を感じるようになっていた。ヴィドール国にもいた“地底の種族のなれの果て”に似た気配だったが、それよりも強く嫌な匂いがする。
「危険って事ですか?」
アリアはルシフェルを見上げてそう尋ねた。空の種族なら闇属性の気配は敏感に感じ取るだろうが、本人もそう話した通り空の種族の力を持たないせいか、全く気にならないというより気付いていないようで恐れた様子は全くない。
「分からない。僕も初めての気配なんだ」
ルシフェルの言葉を聞きアリアは少し考えているようだったが、やがて何か決心した様に小さく頷いた。
「せっかくなので、もう少しだけ近付いてみませんか?探検だから、危険がある方がドキドキして楽しいですし。本当に危険そうなら、全速力で飛んで逃げましょう!」
アリアはそう言って、「わたし、走るのは遅いですけど、飛ぶのは早いんですよ」と笑って空を指さした。
アリアの言葉に従ってそのまま進む事にしてしばらく歩いていくと、目の前になぎ倒された木々と大きな黒い塊が見えて来た。すぐに、それが怪しい物音の正体で気配の主だという事が分かる。
「!?」
結界の力で守られた王都では魔物を滅多に見る事がないため、アリアは大きく目を瞠っている。
「これが、その魔物……」
魔物が放っている生臭い匂いに、アリアは思わず鼻と口を掌で覆った。
「そうだけど、やっぱりただの魔物じゃない」
そう言ってルシフェルは微かに眉を顰めた。
アズールに来て以来頭痛が酷く感覚が鈍っていたが、近付いてみるとその魔物の纏う気配は強烈で異様だった。魔物臭くはあるのだが、やはり地底の種族のなれのはてのものにも似ていて、しかし、纏っている混沌とした気は強烈な腐臭の様で空気を淀ませている。自分と同じ闇属性とは思えなかった。
『それに、この姿は……』
目の前の、酷い怪我を負った魔物はグロテスクだった。不格好な翼を生やしたその魔物は、身体全体にギョロギョロと動く多くの目が付いていて明らかに異様だった。ヴィドール国でランクEと呼ばれていた、ルシフェルの血を与え操れる状態となった異形の魔物達にも似ている。
『誰か、地底の種族の血を与えられた魔物なのか?』
「おお!ルシフェルじゃないか!」
突然、耳慣れた声がして、振り返ったルシフェルは眉間に深く皺を寄せた。
「……(何でこんなところにグラウカが……)」
木々の間から姿を現したのは、二度と会う事は無いと思っていた相手だった。
「この森にいたのか。無事で良かった。遺跡に潰されたかファセリア人に捕まったんじゃないかと心配したよ」
髪を振り乱して無精ひげを生やし、酷く汚れた身なりをしたグラウカは、目をギラギラさせた笑顔を浮かべてルシフェルに近付くと、親し気にその肩を叩いた。
「ここで何をしてるんです?」
ここ――空の国に居るのは、自分と同じでラファエルの開いた扉を通りこの国の森に移動したからだろうとは思ったが、このような真夜中に森の中にいる理由が分からなかった。
「多分、君も同じだろうが、ファセリアの遺跡が崩れ始めて、気が付いたら全く別の森の中にいたんだよ。ピングスやファイター達、発掘チームみんな揃ってね。厄介な事に遺跡に現れたファセリア人達も全員だが……」
目の前に不気味な謎の魔物がいるというのに、グラウカは気にも留めずに話し出した。
「最初はみんな自分達が死んだのかって思っていたんだが、どうも違うようだと分かったから、ファセリア人に捕まらない様に森に隠れていたんだよ。残念ながら私以外は捕まったようだから、私は念のため最初にいた森から移動してこの森に来たんだ。さっきまで朽ちた木の根元で寝ていたんだが、予想外に素晴らしい出会いがあってね!ああ、その話の前に、君は、今までどこにいたんだい?助けてくれた人がいたようだが……」
と、グラウカが視線をアリアに向けると、アリアは警戒する様に後退りした。
城下町で暮らす他の空の種族達と同様に、普段アリアも翼の無い姿で生活しているため、グラウカはアリアが空の種族だとは気付いていないようだった。
「……ルシフェルさん、この人は?」
緊張した様子でアリアが尋ねる。
「ああ、彼が“グラウカ”さんだよ」
「あ、お城の人達が捜している……」
アリアの目には、グラウカは手配書の説明にあった通り危険人物に見えた。
「お嬢さん、私の仲間が有翼の人間達に連れ去られるのを見た。という事は、ここは、もしかして空の種族が住む空の都なのかい?」
グラウカに視線を向けられ、アリアはルシフェルの後ろに隠れる様に移動する。
「え、ええ、そうですけど」
アリアが答えた直後、グラウカは狂ったように高笑いした。恐怖を感じ、アリアがビクリと体を揺らす。
「ルシフェル、やはり君が鍵だったんだな。どうやって扉を開いた?」
笑いが収まると、グラウカはルシフェルの腕を掴んで尋ねた。その目からは狂気が感じられた。
「僕じゃありませんよ。ラファエルです。あの遺跡に、僕がいた部屋に来たんです」
「何!?」
グラウカは大きく目を見開き、今度はクツクツと喉の奥で笑う。
「そう言えば、ジェイドと一緒にいたな」
地震が収まり森の中にいる事に気付いた後、助手の言葉通り自分達は死んでしまったのだと思った。そのため気が動転していて、ラファエルの姿には気が付いていたのだが気にも留めていなかった。ラファエルもジェイドも、自分達ヴィドール人を捕らえに来たファセリア兵の一人として遺跡に来ていた、くらいにしか思っていなかった。
「逃げられて惜しい事をしたな。だが、ここが空の都なら、あいつに拘る必要は無い。住人全てが空の種族という事だからな。よし、お嬢さん、どうやったら地上に戻れるか教えてくれないか?」
と、グラウカはアリアに向かい異様な笑顔を向けた。
「ち、地上へは、来た時と同じで扉を通れば帰れますけど、鍵が必要です」
「なるほどなるほど、やはりそうか。つまり、空の種族が一緒じゃなければダメという事だな?じゃあ、君も一緒に来ないか?なあ、ルシフェル。せっかく知り合ったんだ。彼女を我々の国にお招きしようじゃないか!」
目をギラつかせ妙にハイテンションで機嫌よく話すグラウカの言葉に、ルシフェルは反射的に眉を顰めた。
「でも、あの、わたしがいても扉は開きません。わたしは鍵じゃありませんから」
アリアが戸惑った様子で言う。
「何だって?鍵の条件は、空の種族だという事じゃないのか?」
グラウカの言葉にアリアは首を振った。
「いいえ、鍵はラズライトの瞳です」
セレステでありながら自分が青い瞳を持たない事を自嘲する気持ちが強かったため、仲間を売る事になるとは気が付かずアリアは答えていた。
「ラズライトの瞳?……あの青い目の事か!?それが空の印だったのか……!」
グラウかは大きく目を見開いた。
「言われてみれば、ランクXの目は光る石と同じ色をしているな。何故気付かなかったんだ……!」
グラウカはそう言って自分の頭を両手で掻きむしる。
「あいつは使えない奴だと、思い込んでいた……!」
そう言って頭を抱えて悔しがっていたが、しばらくすると薄く笑みを浮かべた。
「……まあいい。それなら、青い目の空の種族を探すまでの事だ。ああ、でもその前に、少しだけ待っていてくれ。今、彼女と交渉中なんだ。協力して貰えないかと思ってね」
と、目の前に蹲り恐らく眠っている大きな魔物に向き直る。
グラウカが先程言った“予想外に素晴らしい出会い”というのは、この魔物との偶然の出会いの事だった。
森の中に潜む様になってから、甘い蜜のある青い花の咲く草や木の実を食べて飢えをしのぎ、冷え込んだ早朝の霜で喉を潤し、眠る時は魔物や獣に警戒しつつ、地面を覆う枯葉や枝の中に潜り込み朽ちた木の陰に隠れて浅く短い睡眠をとっていた。今日もまた同じ一日を繰り返していたのだが、突然空から大きな魔物が降って来て状況が一変した。幸い魔物には気付かれていなかったため、最初は逃げようとしたのだが、偶然魔物が人の言葉を話すのを聞いてしまったからだ。
『オノレ、地上人ドモメ……』
その瞬間、好奇心を抑えきれず魔物に話し掛け、その魔物が地底の種族だという事を知った。
「彼女?」
ルシフェルとアクアは、先程から大人しく蹲ったまま動かない魔物に視線を向けた。
「まさか、この魔物も、研究用にヴィドールに連れ帰るつもりですか?」
薄々予想はしていた事だったが、ルシフェルは眉を顰めて尋ねる。
「そう出来ないかと思ってる。交渉中なんだが、なかなか了承してくれないんだよ」
そう言ってグラウカは小さく笑う。
「クドイゾ。地上ノ種族ナンゾニ、用ハナイト言ッテイル。早ク我ノ前カラ去レ」
突然、呻くようなくぐもった声がした。
「!?」
ルシフェルとその傍らにいたアリアは、驚いて目を見開いた。話す事が出来るとは考えていなかったからだ。
「喋ったって事は、まさか、こいつは地底の種族に属する魔物じゃなくて……」
「そうだ。君と同じ地底の種族なんだよ!魔物を吸収してここまで進化したそうだ!素晴らしいだろう?」
グラウカは酷く嬉しそうな笑顔を浮かべ、興奮した様子でルシフェルに話す。一方、ルシフェルは不愉快そうに顔をしかめていた。“君と同じ”と言われた事を不快に感じたからだ。
「こんな醜い魔物と一緒にしないでください。これじゃ、進化じゃなく退化だ」
珍しくルシフェルに苛立った様子で抗議され、グラウカは少し驚いていた。彼がラファエルの様に逆らうとは思っていなかったからだ。
「生意気ナ若造ダ。ロクナ能力モ持タナイ、カスノ分際デ地底ノ種族ヲ名乗ルトハ。オ前ハ、マトモナ地底ノ種族デスラナイデハナイカ」
“同じ”と言われた事をやはり不快に感じた様で、魔物のギョロギョロとした目が一斉にルシフェルに向けられる。
「……」
ルシフェルは露骨に馬鹿にされてカッとしかけたが、彼の手を掴むひんやりとした手に気付き、冷静さを取り戻した。グラウカが姿を見せてから、アリアはずっと不安そうな顔をしている。
「……行こうか、アリア」
アリアに向かってそう言い、ルシフェルはグラウカと魔物に背を向けた。
「待つんだ、ルシフェル。どこに行くつもりだ?」
グラウカが驚いた様にそう言ってルシフェルを引き留めた。
「そいつが言った通り、僕は大した力もなく地底の種族としても半端な存在です。だから、そいつをランクAにしてください。僕はもう貴方に従う気は無い。貴方の元には戻りませんよ」
立ち止まりはしたが振り返らずにルシフェルがそう言うと、アリアは掴んでいたルシフェルの手を引いた。
「早く、行きましょう」
そのまま、二人は走り出す。
「な……!」
グラウカは呆気に取られた様子で二人の姿を見ていたが、後を追おうとはしなかった。ルシフェルが言った通り、彼よりも目の前の魔物の方が価値があり魅力的だと感じていたからだ。
「やれやれ。女が出来て去っていくとは予想外の展開だったな」
グラウカは嘲笑するように唇を歪める。
「……なるほど、町の方角はあっちだったか」
グラウカは薄く笑った。
まずはこの魔物を上手く言いくるめて協力するよう仕向け、それから町に行って青い瞳をした空の種族を捕まえよう。そして、再び扉を通り地上に下りたら、ランタナの森にこの魔物を隠し赤の海賊ヘーゼルの部下に連絡を取って、その後はこの魔物を連れてヘーゼルの船に乗ればヴィドール国へ戻れる。そう計画を練るグラウカは、捕まったピングスやロサ達、部下の事など思い出しもしなかった。
『これで、問題なく上手くいきそうだな……』
「さっきも言ったが、私の国では3種族に関する様々な研究をしていてね、地底の種族と機械を融合させ、強力な存在に進化させる事にも成功している。進化し力を求める貴女にとって、私と共に来て損はないはずだぞ」
薄ら笑いを浮かべ、グラウカはヴィドールへ誘うため再び魔物に話し掛けた。
「機械トハ何ダ?」
「生き物ではない、人間によって作られた便利な道具や装置等といった物だ。機械を吸収すれば、より強い力を得る事が出来て頑丈にもなるぞ。傷つかず、痛みを感じる事もなくなるはずだ」
魔物が興味を持った様なので、グラウカは嬉しそうに説明する。
「フム……面白イカモシレヌガ、我ハ、セレステノ卵ヲ喰ワネバナラヌ。サスレバ、強大ナ“力”ヲ手ニスル事ガ出来ルノダ……」
魔物は呻く様に言った。
「セレステ?セレステというのは?」
今度はグラウカの方が不思議そうな顔をして尋ねると、魔物はくぐもった声で笑った。
「ソノヨウナ事モ知ラズ、研究シテイルトハ、ヨク言エタモノダナ。セレステトハ、空ノ種族デアリ精霊デモアル者達ダ。今、ソノ希少ナセレステノ卵ガ1ツダケ発生シテイル。ソレヲ何トシテモ喰ワネバナラン」
「!」
魔物の言葉に、グラウカは大きく目を見開いた!
「それは、卵は、何処に行けばあるんだ!?喰う前に、調べさせてくれないか!?」
純粋な空の種族というだけでなく、精霊であるという言葉は非常に魅力的だった。その様な空の種族は、いくら地上で探しても見付からないだろう。しかも、卵から生まれて来るというのは実に興味深い。その様な貴重な研究対象を喰わせる訳にはいかなかった。
「卵ハ、邪魔ナ地上人共ガ守ッテイル。次ハ全員喰ッテヤル!」
そう言って、腹立たし気に魔物が吠えた。
「……ああ、なるほど。その傷は卵を守ってる奴らの仕業ということか(ここに来ている地上人で魔物と戦える奴らという事は、ファイター……いや、ファセリア兵か?何処までも邪魔をしてくれるな)」
グラウカは唇を歪めた。
「卵のところまで私を案内してくれないか?貴女が全てのファセリア人を喰ったら、卵を持って一緒に地上に下りよう。それから私の国に行って、ちょっと卵を調べさせて貰うから、その後に卵を喰ってくれたらいい」
グラウかは笑顔で言ってはいたが、卵を喰わせる気はさらさらなかった。卵そのものはもちろん、孵化して出て来たセレステという存在も調べたいからだ。
「……」
魔物は思案する様に目玉をギョロギョロさせている。一方、グラウカの方も魔物の姿を眺めながら考え込んでいた。
『なるほど。この異形は、様々な魔物を喰って吸収したのが原因か……。逆に、喰われた側に支配されているという事はないのか?……ドールは、機械に支配された地底の種族だが』
いずれにせよ、この魔物もこれから手に入れる予定のセレステという生き物も、最高の実験体だと思っていた。ルシフェルやラファエルは、これらの比ではない、と。
『本当に素晴らしい……!』
グラウカは期待と狂気に満ちた目をして、一人唇を笑みの形に歪ませていた。
* * * * * * *
「アリア、ちょっと、待って……!」
草原を走っていたルシフェルは、手を強く引いて先を走るアリアを止めた。
「ごめんなさい!具合が悪いのに、こんなに走れないですよね」
ハッとして立ち止まったアリアが謝る。
「それも、あるけど。……僕は、走り慣れて、いないんだ……」
幼い頃から室内で生活していたため、長い年月走った事はなかった。おかげで、すぐに足が痛くなり呼吸も苦しくなってしまう。気温は低いのに、少し汗もかいてしまっていた。
「情けないくらい、体力も筋力もなくて、おまけに運動不足なんだ」
自分の言葉に、本当に情けなくなって笑ってしまった。
「追ってこないみたいだし、歩いて、行こう」
思いっきり走ってみたい!そう思っていたが、走る事がこんなに苦しいものだとは知らなかった。そう考えながら息を整える。
「あのグラウカって人は、何でわざわざ魔物を連れ帰ろうとしてるんでしょう?地上には魔物はいないんですか?」
ルシフェルに歩調を合わせてゆっくりと歩きながら、アリアは疑問に思っていた事を口にした。
「いや、そうじゃない」
ルシフェルは小さく笑う。
「あいつは、グラウカ達は、地底と空、水の3種族について研究してるんだ。地上では、この3つの種族は遠い昔に姿を消してしまったって言われていてね。昔話として伝わってる程度で、実際ほとんど見かけないんだよ。だから、世界中探しまわってて、見付けたら研究のため自分の国に連れ帰るんだ。僕の事も研究対象として、長い間研究施設に閉じ込めてた」
「えっ!?研究、対象?ですか?」
表情を曇らせるアリアに、ルシフェルはゆっくりと歩きながら、自分の身の上を話し始めた。
「そんな酷い事するなんて!なんて嫌な奴!」
幼い頃に故郷の小さい村からヴィドール国のラビシュという町に連れて行かれ、現在に至るまで研究対象として室内のみで生活していた事を話すと、アリアは腹を立てた様子でそう吐き捨てた。
「やっぱり、そうなのかな……」
アリアの反応を見て、ルシフェルはラファエルを思い出していた。彼も、同情して聖域から“救い出そう”としていた。
「僕がグラウカに連れていかれる事になった時、家族はもちろん、村の人たち皆で喜んで送り出したんだ。地底の種族としての力を引き出して貰えるのは、良い事だ、めでたい事だってね。僕も同じように思っていた。そして、グラウカのところで生活するようになってからも、本当は逃げ出そうと思えば逃げられたんだ。魔物も操れるし」
ルシフェルは、別に不満は無かったという事をアリアに説明した。
「けど、逃げたとしても“良かったね、おめでとう!”って喜んで送り出された村に戻る訳にも行かないし、行く当てもなくて、特にやりたいことも無かったから……望む物は何でも与えて貰ってたし、グラウカに従う理由はないけど、従わない理由もなかったから、逃げ出そうとは思わなかったんだよ」
ルシフェルの言葉をアリアは悲しそうな顔で聞いていた。
「でも、今は、偶然与えられたこの自由を、手放したくないって思ってるよ。今は、色々とやってみたい事があるから」
「それなら、良かったです」
アリアがホッとしたように小さな笑みを見せる。
「あの魔物のお陰で、僕から注意が逸れて助かったよ」
「本当にそうですね。でも、あんな怖い魔物を連れ帰りたいって思うなんて、ちょっとわたしには理解できません」
アリアの言葉に同意して、ルシフェルは薄く笑う。
「まったくだよ。僕の予想じゃ、グラウカはあいつに喰われるだろうな」
「あ!……どうしましょう!」
急に立ち止まり、アリアが口に手を当てた。
「どうしたんだい?」
「わたし……、鍵はラズライトの瞳だなんて、うっかり喋ってしまいました。自分は鍵じゃないって事しか頭になくて……。きっと、ラズライトの瞳を持つラファエルって人や、他のセレステが狙われてしまいます……」
「でも、君はセレステが嫌いなんだろう?別に狙われてもいいじゃないか」
落ち込んでいる様子のアリアをルシフェルは不思議そうに見た。
「もちろん、そうですけど!だからと言って、あのグラウカって人に捕まればいいとまでは思ってません。あの人が、ただ扉を開かせるだけで捕まえたりしないなら、別に良いですけど……」
「それはないな。きっと、自分の国に連れ帰って実験体にすると思うよ。実際、ラファエルも捕まってあいつに実験体にされてたし」
「そんな……!」
アリアが悲痛な表情をするため、ルシフェルは困惑して眉を顰めた。
「君はラファエルが嫌いなんだろ?分からないな……。でも、あいつなら大丈夫だよ。地上の種族の仲間がいっぱいいて、いつもあいつに張り付いて守ってるから」
そう言って、ルシフェルは薄く冷笑する。
「ああ、そうでした。地上人が一緒なんでしたね。じゃあ、とりあえずラファエルって人は心配いりませんね」
アリアは小さく息を吐いた。
「それなら、みんな大丈夫かもしれません。他のセレステ達は、まず城を出る事はありませんから」
アリアの表情が安堵したものに変わったため、ルシフェルもホッとしていた。
「ルシフェルさんも、あのグラウカって人から自由になりましたし、これからは、新しく楽しい事をいっぱい体験しなきゃですね!」
すっかり元気になったアリアが、再び歩き出しながらルシフェルに笑顔を向ける。
「そのつもりだよ。ただ、どうやって生きていけば良いのか分からないんだけど……」
と、少し途方に暮れた様子でルシフェルが答える。今まではグラウカ達に与えられていたため、どうやって住む場所や食べ物等を手に入れたら良いのか分からなかった。もちろん、知識としては金を稼げばいいと言う事は知っていたが、どうやって稼げば良いのか、自分に何が出来るのか分からない。
「大丈夫です!わたしが力になりますよ!」
アリアが力強くそう言って、ルシフェルの手をギュッと強く握った。
「あ、でも、わたしで良ければですけど」
と、勢いを無くした小さい声で付け加える。
「僕は本当に何も分からないから、助けてくれるならありがたいよ」
ルシフェルが素直にそう言うと、アリアは再び元気を取り戻し、にっこりと満面の笑みを見せた。
「分かりました!任せてください!あ、じゃあ、アズールを出て地上に下りた方が良いですよね。ここじゃ、ルシフェルさんの体調が辛いままだし」
「……君は驚く事ばっかり言うけど……」
と、ルシフェルは本気でそう思いながらアリアに視線を落とした。
「それって、君も僕と一緒にアズールを出て地上に行くって事?」
「はい!わたしはセレステってだけじゃなくて空の種族としても何の力もないですし、これからは地上の人間として生きるのも良いかなーって思っちゃいました」
アリアは非常に前向きだった。
「だから、ルシフェルさんが楽しく生きていける様に、一緒に地上で、お手伝いさせてください」
「……」
アリアの言葉にルシフェルは目を丸くし、しばらくするとクスクスと笑い出した。ヴィドール国の聖域で、脱出しようとしていたラファエルが「一緒に来るか?」と誘った事を思い出していた。空の種族というのは皆お人好しなのだろうか、そう思った。ラファエルの時は、そんな気は全く無く彼の事を喰ってやりたいと考えていたが、今は違う。アリアを吸収したい等とは思わないし、ラファエルに再び会ったとしてもそうだろう。それは、多分、あの醜く“進化”した地底の種族を目にしたせいだ。グラウカと同じように他者の力を求める様は、浅ましいとさえ感じていた。
「ありがとう」
自然とそう言って、自分の言葉にハッとする。誰かに感謝するのは初めてだった。
「……でも、地上へはどうやって行くんだい?僕達が通って来た扉は消えちゃったみたいだけど。鍵もないし」
「大丈夫です。この国に、地上への扉は複数あるって聞いてます。お城の敷地内にも一つあるらしいです」
アリアが説明する。
「ただ、20年前から閉鎖されていて、しかも、わざわざ地上に行こうって人はいないから長い間全く使われていないみたいで……」
アリアは話しながらだんだんと困った様な表情になっていく。
「じゃあ、地上に下りるのは諦めるしかないんじゃ……」
別に地上に下りなくても、このままアズールで生きていく事になっても構わない。そうルシフェルは思っていた。
「いえ!今回、ラファエルって人が扉を開いて帰って来たんですから、扉は使えない訳じゃないはずです。問題は、鍵ですね」
「ラファエルに扉を開かせればいいのか」
彼を捕まえる場合、地上人達がまた守ろうとするだろうから、それが問題だ……。ルシフェルはそう考えていた。
「じゃあ、会ってお願いしてみましょう」
何でもない事の様に言うアリアの言葉に、ルシフェルは笑い出す。
「聞いてくれる訳ないよ。僕は、あいつを喰おうとしてたんだよ?」
「……そうでしたね。でも、最強のセレステですし、脅して開かせるのは絶対無理ですよね。じゃあ、お城に行って、誰か他のセレステにお願いするしかありませんね。ああ、でも、他のセレステ達が地上に下りたがる訳ないですし……」
アリアが眉を寄せる。ただでさえ城から出たがらないセレステが、鍵を開くためだけとはいえ一緒に地上に下りてくれる可能性は低い気がした。
「アズールには、ラファエルだけじゃなくて大勢の地上人も来てるって言ってたよね?」
「はい、噂ではそう聞いてます。ラファエルって人が、沢山の地上人の護衛を従えて帰って来たって。あと、さっきのグラウカって人も、その様な事を言ってましたよね」
アリアの言う様にグラウカも、遺跡に現れたファセリア兵全員が森に居たと証言していた。
「多分、ラファエルは、その地上人達と一緒に、また地上に戻るんじゃないかと思うんだ」
ラビシュでの様子を思い出すと、ファセリア人達はアリアの言う様なラファエルの護衛ではなく、非常に仲の良い仲間同士に思えた。そして、ラファエルも空の種族というものに思い入れがある様子はなく、逆に拒絶していた。何が目的でアズールに来たのかは知らないが、長く滞在するつもりはないのではないかとルシフェルは思った。
「僕とグラウカが“危険人物”として捜されてるって事はさ、きっとラファエルと地上人達は、僕達を地上に連れ帰るつもりでいるんだよ。もちろん、敵として捕える気だろうけど」
ルシフェルの言葉に、アリアは表情を曇らせた。
「……それじゃあ、ええと……。ルシフェルさんにはもうラファエルさんを食べる気は無いって、きちんと事情を話して……それから、グラウカって人の居場所を教えれば、許してくれて敵としてではなく一緒に地上にも連れて行って貰えるかもしれませんね?」
そう話すアリアの表情が少しずつ明るくなる。
「それはどうかな」
アリアとは対照的に、ルシフェルは眉を顰めた。ラファエル以上に周りのファセリア人の方が、ルシフェルの事を敵視していた様に思えたからだ。
「彼らが地上に戻る時に、隙を見て便乗するって手もあるけど……」
ルシフェルがそう言うと、アリアは首を横に振った。
「正直に、誠心誠意お話したら大丈夫ですよ、きっと!」
そう上手く行くかな……。そう考えるルシフェルに、アリアは笑顔で続ける。
「とにかく、わたし、明日お城に行ってみます。きっと地上人の方達はお城に居るはずですから、ラファエルって人もいるかもです」
アリアはルシフェルを安心させようと、明るい笑顔でそう言った。
もう何年も前、子供の頃に、保護者代わりの巫女と共にセレステ達の暮らす城を自分の意思で出た身だったが、別に他のセレステ達と仲が悪かった訳ではなく、恐らくセレステ達はアリアの事を何とも思ってはいない。アリアが一方的に劣等感を抱いて避けているだけだ。
正直城に近付くのは気が引けたが、今はルシフェルと一緒に地上に下りたいという強い思いがある。会った事もないラファエルに対して既に苦手意識を抱いていたが、その気持ちは抑え込む事に決めた。
「ルシフェルさんは家でお留守番していてください。わたしはラファエルって人に、敵としてではなく一緒に地上に連れて行って貰えないか頼んでみます」