62異質な黒 ~来訪者2~
『ここは……?』
重い瞼を苦労して開けると、視界に入ったのは見た事の無い部屋の風景だった。板張りの天井と壁に囲まれた部屋で、壁際に置かれた木製の家具にはクリーム色の布が掛けられていて、布に覆われていない下の端から衣服らしきものが見えている。そのどれもが明るく淡い色をしていた。そのすぐ隣には棚があり、それぞれの段にはぴったりのサイズの籠が収まっている。誰かがそこで生活している事が窺える部屋だった。
「……」
疼く頭を少し持ち上げ自分の周囲を確認すると、白い小花の刺繍が散らされたクリーム色の布が目に入った。掛け布団のカバーだ。続けて体を起こすと、自分が使っていた枕もベッドのシーツも同じ柄である事に気付く。今まで自分は、この可愛らしい寝具一式を使って眠っていた様だ。グラウカが持ち込んだ物なのかもしれないが、彼の趣味とも思えず、彼にも自分にもそぐわない。
『どうなってるんだ?』
窓に視線をやって混乱した。無防備に大きく開け放たれたその窓の向こうには、高層階から見る密集した街並みではなく赤い花の咲く小さな花壇が見えていて、窓枠の両側では白いレースのカーテンが風に揺れている。そして、窓に鉄格子の様なものははめ込まれていない。
「!」
思い出した。
今、自分がいるのはヴィドール国ではない。ファセリア帝国という遠い国で、グラウカに聞いた話によるとラファエルの出身地だ。しかし、遺跡で彼と再会した後、自分はどうなったのだろう?
ラファエルは相変わらず邪魔な地上の種族と一緒にいて守られていたが、急に周囲が光に包まれたかと思うと、地上の種族と共にさっさと逃げ出してしまった。自分は光が眩しくて動く事が出来ず、すぐに地震まで起きて……その後の事は覚えていない。
『グラウカさんか誰かが見付けて、遺跡から連れ出してくれたのかな?』
そう思ったが、今いる場所は元々滞在していたファセリアの宿の部屋ではなく、幼い頃に自分も暮らしていたような一般的な民家にも見えた。
「あ!」
と、突然、聞きなれない声がした。見ると、開いた扉の前に初めて見る人物が立っている。きっと、この部屋の住人だろう。明るいプラチナブロンドの髪に、黒い瞳孔の目立つ薄いグレーの目をした女性だった。小柄でふくよかなためか、全体的に丸みを帯び柔らかい雰囲気を纏っている。
「体は大丈夫ですか?昨日、貴方が森の中に倒れてたのを偶然見付けたので家に連れて来たんですけど、お医者さんを呼んだ方が良いのかどうか迷ってたところなんです」
そう言いながら、抱えていた水差しを近くのテーブルの上に置く。
「呼ぶ必要は無いよ。僕は、普通の人間じゃないから」
隠す気はないためそう答えた。
「貴方はルシフェルさんっていう地底の種族なんですよね?昨日からお城の人達が捜してるから知ってます」
「……」
意表を突かれて、ルシフェルは目の前に立つ相手をしげしげと観察した。ファセリア大陸では、古の昔に滅んだとされる三種族については知られていないのではなかったのだろうか。
『ああ、グラウカさんか他の研究員が話したのか……』
すぐにそう納得したが、どう聞いているのか目の前の相手はルシフェルの事を地底の種族だと知っていても警戒している様子はない。今自分は有翼の姿ではないし、地底の種族だと説明されてもよく分かっていないのだろう。そう思った。
「わたしはアリアといいます。こんな目ですけど、一応セレステです」
そう言って、はにかんで笑った。
「セレステ?」
「はい。あ、聞いた事ありませんか?セレステっていうのは精霊と同じ様な存在です」
初めて聞く単語に怪訝な表情をするルシフェルに、アリアは説明を始める。
「精霊は実体がありませんけど、セレステは生身の体を持っていて、精霊の様に光や風の強い力を操る事が出来る空の種族の中でも特別で高位の存在なんです。持つ力の強さには個人差があるんですけど、ほとんどのセレステはそんな優れた存在です。わたしは例外ですけどね」
アリアはそう話して明るく笑った。
「……ちょっと、待って」
元々酷い頭痛に悩まされていたのだが、アリアの話す内容がさらに思考を混濁させる。
「やっぱり、具合が悪いんですね。これ、痛み止めの薬なんですけど……」
と、アリアは持ってきた水差しからグラスに水を注ぎ、粉薬と一緒に差し出した。
「眠りながら何度も額に手を当ててたから、頭が痛いのかなって……」
アリアを信用した訳ではなかったが、ルシフェルは鈍痛から逃れたくて薬に手を伸ばし口に含むと、すぐに水を煽った。
「……君は、空の種族なのかい?そして、その中でも高位の存在だって?でも、君からはラファエルの様な力は感じないけど……?」
自分は空の種族だと話した目の前に立つアリアからは、離れた場所にいるラファエルから感じた甘く酔ってしまう様な香りはしなかった。強いて言うなら、優しいハーブの様な香りはする。
「ラファエル!?って、あの今話題の20年前に姿を消したっていう超高位のセレステですか!?」
アリアは驚いた様に目と口を大きく開け、直後に可笑しそうに声を上げて笑った。
「当たり前ですよ!わたしはセレステとして生まれてますけど、力は全くありませんから。ラファエルって人は、王様を超える瞳を持った至高の存在なんですよ。比べるのがおかしいです!」
アリアの話す内容にルシフェルはひどく驚いていた。彼女の話からすると、ラファエルは尋常じゃない程の力を持っている様に聞こえる。アリアの言うラファエルと、自分の知っているラファエルは違う人物かもしれないと思った。
「空の種族達はみんな、光と風のどちらか、もしくは両方の属性を持って生まれて来ます。そして、その力を使えるんです。二つの属性の力を持っている場合でも、大抵はどちらか一つの属性の力がもう一方より強くて、使える力の程度も人それぞれで……。風の力が得意な人は、暑い日にちょっと風を起こして涼む事が出来たり、光の力が強い人は暗い夜に光を灯して部屋を明るくしたり、使えたら生活するのに便利だなーっていうような力です。でも、セレステはその力が比べ物にならないくらい強くて、武力になるような攻撃的な力だったり、怪我とかも直せてしまうような治癒の力だったりそういった高レベルの物も扱えるんです。私には……ラファエルって人と真逆ですけど、そんな力は全然ありません。風属性のはずなんですけど翼があるだけで何の力も使えないし、他に空の種族としての特性はないんです。だから、本当はセレステじゃなくて地上の種族の血も引いている空の種族なんじゃないかなって思ってるんです。実は無属性で、事情があってこの国に連れて来られたのかなって」
笑顔を浮かべて一気に話し、アリアはフゥと小さく息を吐いた。
「でもそのお陰で、わたしは地底の種族の貴方の傍にいても何ともないんだと思います。貴方も、わたしの近くにいても平気でしょ?その具合の悪さは、ここがアズールで、わたし以外の空の種族達が近くにいっぱいいるからだと思います」
一度に次々と驚く事を告げられ、ルシフェルは呆然としていた。
「……ちょっと、まだ頭の整理が追い付かないんだけど……」
ルシフェルは痛む頭に手を当てた。
「君は空の種族で、しかも、君以外にも大勢空の種族が近くに居て……、つまり、僕が今いるここは、ファセリア帝国じゃなくて空の種族の国なのかい?」
「……ここは空の種族の国、アズールですよ」
初めて聞く“ファセリア帝国”という単語の意味が分からずアリアは一瞬間を置いたが、すぐに頷いた。
「いや、でも、遺跡の扉は開かなかったはず……」
ルシフェルは混乱していた。遺跡の鍵は“翼”だとグラウカは考えていたため、自分もファセリア帝国に連れて行かれたのだが、当ては外れ扉は開かなかった。
「扉、ですか?地上と行き来出来る?……それなら、ラファエルって人が、長い間使われていなかった扉を開いて戻って来たって聞いてますけど。ルシフェルさんも一緒に来たんじゃないんですか?」
「何だって!?じゃあ、あいつが鍵だったのか……」
グラウカの予想では、あの部屋全体が“扉”というもので、鍵であるルシフェルがあの部屋に入り呪文の様な、例えば空の種族達の言語を唱えたりする事で力が発動し、アズールへの道が現れるのではないかという事だった。
『でも、何か特別な事をしていた様子は無かったけどな』
ラファエルがあの部屋に入ってしばらくすると、何の前触れもなく周囲が強く光り始めて地震が起き、建物が崩れ始めた。自分は、周囲が光り出した時点で何か強い力を感じて動けなくなってしまい、気が付いたら今いるこの部屋に居た……。
「大丈夫ですか?」
「そりゃそうか。あいつは、僕とは違って空の種族なんだからな。グラウカさんの判断の方がおかしい」
気が抜けた様に呟いたルシフェルの顔を、心配したアリアが覗き込む。
「わあ!綺麗な目ですね。宝石みたい。赤い目なんて初めてみました!」
「……」
ルシフェルは調子を狂わされる思いで、ゆっくりアリアに視線を移した。ヴィドール国にいた“アクア”という名の水の種族の少女もマイペースだったが、彼女は幼い子供だったのでまだ理解出来る。しかし、アリアはそう自分とは歳も変わらない様に見えるが、余程の無知なのだろうか。
「君は、僕が怖くないのか?」
「え、何でですか?」
不思議そうに尋ねられ、ルシフェルは面食らってしまった。
「僕は、ラファエルを狙ってる地底の種族で、君らとは対極の存在だ」
ヴィドールで出会ったラファエルは、本能的に恐怖を感じ取りルシフェルを怯えた視線で見ていた。自我を取り戻してからは恐ろしく強気な態度に変わったが、それでもアリアの様に友好的な目で見る事は無かった。
「ああ、もしかして、地底の種族は空の種族を食べるって話ですか!?脅しじゃなくて事実だったんですね!子供の我儘を窘めるための作り話だと思ってました」
やはり怯える様子はなく単純に驚いているアリアに、ルシフェルは戸惑って眉を顰める。
「でも、何度も言うように私は何の力も持ってませんけど。それでもやっぱり、わたしも食べたいんですか?」
アリアの言う通り、彼女からはラファエルに感じた様な力は何も感じられない。
「いや……」
少なくとも血のせいで惹かれる様なものは全くなく、ルシフェルは首を横に振った。吸収する価値も理由もないのに、喰いたい等とは思わない。
「空の種族を襲って食べるって言うから、地底の種族って魔物みたいな姿をしてるんだろうって思ってたんですけど、違うんですねぇ」
恐れるどころか、アリアは興味津々にルシフェルの姿を観察している。
「魔物みたいな見た目の奴もいるよ。それに、僕は純粋な地底の種族じゃないしね」
アリアの言葉にそう答え、ルシフェルはどこか自嘲気味に笑う。
「そうなんですか?そんなに綺麗な、いかにも闇の属性って感じの赤い目をしてるから、純粋な地底の種族だって思ってました」
再び目を褒められ、ルシフェルは小さく笑った。
「僕は翼も持ってるんだよ。大昔に空の国を追い出された人達の子孫だから」
「えっ本当ですか?じゃあ、空の種族の血も引いてるって事なんですね。翼、見たいです!」
子供の様にごく自然にせがまれ、ルシフェルは有翼の姿へと変わった。髪と同じ、漆黒の翼がその背に現れる。
「わあ……」
アリアは目を丸くしてルシフェルの姿を見ている。
「髪が黒いから予想してましたけど、やっぱり黒い翼なんですね!綺麗でカッコイイです!それに、正反対の種族の両方の血を引いてるなんて、すごく素敵です!」
力強く言われ、このアリアという人物の感性はよく分からない、ルシフェルはそう思った。そして、それ以上に、彼女の“翼が見たい”という言葉にすんなり従ってしまった自分が良く分からないと思っていた。
「君はどうして僕をここに連れて来たんだい?いや、どうやって、どこから僕を連れて来たんだ?当然、君一人で連れて来た訳じゃないだろうけど」
ふと疑問が湧いた。彼女が自分をこの家に運んだ理由も気になるが、どうやって運んだかも気になった。
「わたしが一人で連れて来たんですよ。一人暮らしですから。牛の背に何とか乗せて運んだんです。だから、乗せる時と下ろした後にちょっと、いえ、かなり引き摺っちゃいました。すみません」
アリアが少し申し訳なさそうに笑う。
「牛……?」
牛という動物は知識としては知っているが、実物を見た事はない。人を乗せるような生き物だっただろうか?馬の間違いではないだろうか?そう思った。
「じゃあ、ここに連れて来た理由は?捜しているっていう城の奴らに付き出せば、何かご褒美でも貰えるのかな?」
ここが空の種族の国なら、アリアの話したルシフェルを捜している者達というのは、ラファエルの仲間の空の種族達だ。天敵である地底の種族を捕えて殺すか、良くて追い出すかするつもりなのだろう。そう思ったが、今ここでアリアに危害を加えて逃げようという気は起きなかった。具合が悪いからではなく、不思議と彼女に対して敵意の様な物は湧いてこないからだ。
「えー、まさか!ご褒美が欲しかったら、貴方がルシフェルさんだって気付いた時点で通報してますよ!」
そう言ってアリアはコロコロとおかしそうに笑った。
「初めは、貴方がルシフェルさんだって知らなくて、ただ、森の中に行き倒れてる人がいるから助けなきゃって思って連れ帰ったんです。それで、その後夕方になって町に買い物に出かけた時に、貴方とグラウカって人が危険人物って事で捜されてる事を知ったんですけど、手配書をよく読んでみても、『空の種族に危害を加える恐れがある』って書いてあるだけで実際に何かしてはいないみたいだったから、別にただこの国に来ただけじゃないって思って。それに……」
と、そこまで話して言葉を切る。
「それに?」
「ルシフェルさんが素敵な人だなって思ったから、お話してみたかったので目が覚めるのを待ってたんです」
照れた様子で微笑んで話すアリアの言葉を聞き、ルシフェルは声を上げて笑い出した。
「君は変な人だな。そんな事を言われたのは、生まれて初めてだよ。僕は、さっき話した通りラファエルを食べて吸収しようとしたんだよ?あいつを守る地上の種族に邪魔されて出来なかったけど」
「どうして吸収したいんですか?力が欲しいっていうのは分かりますけど、美味しいんですか?丸々一人、骨ごと食べちゃうんですか?調理はするんですか?」
怯えるどころか好奇心いっぱいに尋ねられ、ルシフェルは再び面食らってしまった。
「……美味しいとは聞いている、というか書物に書いてあったよ。人間一人、丸ごと食べる必要はないと思うけど……。調理は……」
アリアの言葉に具体的に想像してしまい、ルシフェルは眉を潜めた。
「う~ん。一応セレステの私が言うのもなんですけど、セレステって何か気取ってて浮世離れしてますし、全然美味しそうには見えないんですけど」
そう言って、アリアも眉を寄せた。
「君は、セレステって奴が嫌いなのかい?」
先程から、セレステの事を口にするアリアの言葉には棘の様な物が含まれている様な気がしていた。
「はい、嫌いです!」
即答に近い素早さで、アリアは笑顔で頷いた。
「自分でも僻みとか妬みって奴だって分かってるんです。わたしは、セレステとして生まれたって聞いてますけど何の力も持っていないし、ラズライトどころか色の無い瞳ですし。だから、あの人達が癪に障るんです。綺麗な青い瞳を持ってて、風や光を操れて、見た目も美男美女で異常にキラキラしてて。ラファエルって人なんて、わたしは一個も持ってない青い瞳を二つも持ってる上に、至高の存在とか言われてるじゃないですか。って事は、それはもうあり得ないくらい美形で、天気とかも変えちゃうくらい凄まじい力を持ってるんでしょうね!」
と、自分で言った通り、話しながらどんどん不機嫌そうになっていく。
「……」
ルシフェルは呆気に取られてアリアを見ていた。薬を貰って飲んだが、まだ頭痛が収まらず辛かった。
「僕の知ってるラファエルと君の言ってるラファエルが同一人物かは分からないけど、僕は、ラファエルより君の方が綺麗だし魅力的だと思うけどな」
機嫌を取ろうというつもりはなく、ルシフェルは思った事を話していた。出会ってまだ僅かな時間しか経っていないが、様々な表情を見せ、色々な感情を露わにしているその姿には惹かれるものがあった。負の感情も隠さず素直に口にして態度に表す様子も、面白いと感じていた。
「!……ほんとですか?優しいですね。嘘でも嬉しいです」
アリアは驚いた様な表情をして、それから一瞬間を置いてから笑った。
「わたし、力は持ってませんけど、得意な事はいっぱいあるんですよ。水泳とかお裁縫とか園芸とか音楽とか料理とか!……お菓子を作ってて小さなお店で売って生活してるんですけど、料理にも自信があるんです。今から食事を用意しますので楽しみにしててください。絶対にセレステの生食なんかより美味しいと思いますから!そこでゆっくり休んで待っててくださいね」
そうニッコリ笑って、早速アリアは部屋を出て行った。
「ラファエルがヴィドールに現れてから、予想外の事ばかり起きるな……」
アリアが姿を消して扉が閉まると、ルシフェルは小さく呟いた。ラファエルが突然“聖域”に現れてから、これまでの人生で体験したことの無い事件が立て続けに起きている。
彼らに自室の出入口を滅茶苦茶に壊されて部屋を出た事や、自室どころかヴィドール国を出て他国へ渡った事もそうだし、存在すら疑わしかった空の種族の国を訪れ、これまでに出会った事のないタイプの人間に会い、こうして言葉を交わしている事等もそうだ。しかも、傍にはグラウカも研究員達もファイターの姿もない。完全に自由だった。
「アハハハ」
夢でも見なかった様な自分の置かれた状況に、笑うしかない。
「さて。これから、どうしようか」
空の種族であるアリアを吸収するつもりはない。全く何の力も持っていないし、意味がないからだ。それに、水の種族の少女アクア以外で、ルシフェルに対し敵としてでも研究対象としてでもなく接している人物と話すのは久し振りで、少し嬉しいと思ってしまっている。
『この国にいるはずのラファエルを、吸収するため捜しに行こうか……』
そう思い掛けたが、アリアの言葉を思い出していた。
『どうして吸収したいんですか?』
改めてそう言われたら、そうだ。
自分はグラウカとは違い、他種族の力を欲している訳ではない。手に入れたところで他者を支配したいとも思わないし、支配できたとして特に楽しいとも思わない。実際に魔物を操る事ができ、初めは楽しいと思ったがそれも飽きてしまっている。身を守る力としては便利なのかもしれないが、ラファエルやその周囲の地上の種族達の様に、日常的に魔物やその他の敵と戦う様な状況に身を置きたいとも思わない。強いて言うなら、グラウカが欲している力を手に入れて、彼には従わず彼を脅してやるのは楽しそうだとも思ったが、一つ問題がある。
『ラファエルを吸収するには、あいつや周囲の奴らと戦わなきゃいけないからな……』
ラファエルとは何度か対峙しているが、1度目は彼本人に攻撃されて負傷し、2度目と3度目は地上の種族に邪魔された。再びラファエルを狙い、戦闘能力の高い彼らに攻撃され、苦痛を味わうのは嫌だった。そう考えていると、ズキンと頭の奥が痛んだ。
「まずは、少し休んだ方が良さそうだな」
そう呟き、ざわついている気持ちを落ち着かせる。
考え始めると、やりたい事が色々と浮かんできた。
『まずは、広い場所を思いっきり走ってみたいな。それから、太陽の光を浴びたり、雨に降られたりしてみたい。出来るなら、雪というものも触ってみたいし、大きな虹を見てみたい。色んな場所に行って色んな物を見て、触って、食べて……』
そう考えてクスっと笑う。
「吸収の事じゃない。普通に食事したいって意味だよ」
誰に説明する訳でもなく、声に出してそう言う。
「それから、さっきアリアが言ってたみたいな事もいいな。水泳とか裁縫とか園芸とか音楽とか……」
どれも、知識では知っていても体験した事はない。初めての事ばかりだ。それら全てが、セレステを吸収して自分の力とする事よりも今は魅力的に感じていた。体調は今までになく最悪だったが、気分は最高に良かった。
「楽しみだな……」
* * * * * * *
頭上に広がる空は快晴で、無数の星が輝いて見えていた。地上の夜空にももちろん星はあるが、アズールは宙に浮かぶ大陸であるからか、夜空は深い紺色で煌めく星の数が多い。そして、その一つ一つも微妙に違う様々な色合いを持っていた。
「すごい星だな。空の都と呼ばれるだけの事はあるな」
翠と二人、卵の見張りのため聖地へ向かって歩きながら、木々の間から見える空を見上げ半ば呆気にとられた様にエトワスが言う。アズールへ来て4日目になるが、これほど綺麗に星空が見えるのは今日が初めてだった。
「賑やかだなー。これなら、流れ星見放題かも」
「そうだな」
数年前、学生寮のルームメイト同士3人で流星群を見に出掛けた事を思い出して二人で笑う。流れる星を待ち凍える程寒い中我慢して空を見上げ続け、やっと1個ほんの一瞬流れる光を見て歓声を上げた。消えた後になって慌てて星に願い事をしたのもいい思い出だ。
「でもさ、ちょっと気になってたんだけど、空だけじゃなくて森の中まで何か明るいんだけど。これってやっぱ星空のせい?」
翠が周囲を見渡して言う。
「俺も不思議に思ってた。空のせいもあるだろうけど、森全体が光ってるようにも見えるよな」
真夜中という時間だったが、森の中はふんわりと明るく足元も周囲も見えるので、ランタンなどの明かりは必要ない程だった。
「住んでる人達だけじゃなくて、植物まで光属性って事?」
「そうかもしれないな」
空の種族は光か風、もしくはその両方の力を扱えるというが、聖地に行ってみると光の力を操れるセレステの手によって生み出されたラズライトが、泉の周囲をぐるりと取り囲んで宙に浮き強い光を放っていて、聖地全体が昼間の様に明るくなっていた。
「お、やった。交代だ。……どうした?」
エトワスと翠の前に卵の見張りをしていたフレッドが、二人の姿に気付いて声を掛ける。
「いや、森の中も明るいって思ってたんだけど、ここはさらに明るいからちょっとビックリして」
「ああ、俺達も最初来た時ビックリした」
翠の言葉にフレッドが同意すると、すぐ近くに居た空の種族が笑って言った。
「セレステが用意してくれたんだよ。ラズライト自体が闇属性の魔物避けになるんだけど、そうじゃなくても夜行性の魔物は光を嫌う奴も多いからね。セレステが作るラズライトは便利だから本当に助かるよ」
彼は、ディートハルトが卵の中で眠りに就いた日に声を掛けてきた、ライトブラウンの髪と目をした空の種族の青年だった。名前はリッシュというらしい。左右の目の色は濃さが微妙に違う程度でほぼ同じで、翼のない姿なので見た目に地上人との違いは無い。
「ラズライトもいっぱいあるし、この卵のお陰なのか、この数日で少しずつ聖地の力も戻って来てるみたいだし魔物は侵入出来ないと思うから、卵を守るのにそこまで気を張っていなくても大丈夫だと思うよ」
「荒れていた聖地が、元通りになりつつあるって事か?」
エトワスの言葉に、青年は足元を指さす。
「そうだよ。ほら、前より泉の水が増えてるだろ?聖地本来の姿を取り戻して来てる証拠だよ」
初日は卵を支える巣の様な物に隠れて見えなくなっていた小さな水たまりが、今は巣の数倍程に大きくなり靴底を濡らしていた。濁りの無い透明な水が薄く張っているため、ぼんやり発光している卵の姿と満天の星空を、そしてラズライトが放つ光を映し、幻想的な風景を作っている。
「じゃあ、完全に元の状態に戻ったら、ここは泉の底になって水没するって事?」
「多分ね。聞いた話だと、そうなっても卵は巣ごと水面に浮かんでるような状態になるはずだよ。僕は元々の聖地を見た事がないから知らないけど、あそこの縁に届くくらいの水位にはなるのかもね」
翠の言葉にリッシュが答えて窪地の端を指さす。彼の言う通りなら、膝上くらい迄の水深にはなりそうだった。
「そうなった時に、フレイクが目を覚ますって事になるのか。それなら、いつ頃になるのか分かるし助かるな」
フレッドが水色の卵に視線を向ける。
「泉の復活と孵化が完全に同じ時期になるのかは分からないけど、水が増えて来たら目覚める時も近いって事は間違いないと思うよ」
「この卵の中で眠ってるって、分かっちゃいても不思議だよな」
フレッドと一緒に見張りに就いていたシヨウが、腕組みをして言う。
「実際にこの中にいるって想像したら、結構窮屈そうだよね」
翠がそう言うと、フレッドが眉を顰めて「あ……」と小さく声を上げた。
「何?」
「もしかしたら、の話だけど。蝶ってイモムシから蛹になるじゃん?で、フレイクの場合も、人の姿から羽のある姿になる訳で、今はその前の蛹みたいな状態だろ?」
「あぁ、まあね……」
翠は曖昧な返事をして、エトワスは「卵だけどな」と答えた。
「……蝶なんかの蛹の中が、どうなってるか知ってるか?」
「ディートハルトの場合は、卵の中で普通に眠ってるだけだろ」
問いの答えを知っていたエトワスは一瞬眉を顰め呆れたようにそう返し、翠は苦笑いした。
「あー、確か一度ドロドロの状態になるんだよね。見た事ないけど」
「ハァッ!?」
シヨウが眉を顰めて声を上げる。
「じゃあ、今、ラファエルも……?」
そう言って空の種族のリッシュに目を向けると、リッシュは目を瞬かせていたが「うーん」と首を傾げた。
「僕はセレステじゃないから分からないなぁ。休眠の途中で卵を割って中身を確認した事のある人もいないんじゃ……」
苦笑い気味にそうに言い掛けたリッシュは言葉を切り、辺りを見回す。
「?」
「!?」
同時に、卵の警備についていた他の二人の空の種族達も何かを探しているかのようにキョロキョロと不安そうに周囲に視線を走らせた。
「どうかしたのか?」
「この感じは地底の種族に属する魔物だと思う。多分凄いのが来るよ……」
エトワスの問いに答えるリッシュの顔は青ざめ、緊張に震えていた。弓を背負っていたが、手に取る様子はない。
「これから卵を狙って来るって事か?」
エトワスが眉を顰め剣の柄に手を掛ける。
「多分、いや、間違いなくここに来るよ!」
リッシュは、血の気が引き怯えた表情で視線を彷徨わせている。
「この町はスーヴニール様達セレステの力で守られてるから、そもそも魔物が侵入して来る事自体ほとんどないんだ。それを突破して来れるなんて余程の奴だぞ!」
「お、落ち着こう。いつもの訓練通りにやれば、きっとなんとかなる!」
リッシュと同様に彼以外の二人の空の種族も、怯えた様子で不安げな表情を浮かべていた。
「心配しなくていい。俺達は魔物との戦闘には慣れてる」
そう言って、エトワスは剣を鞘から抜いた。と言っても、まだ敵の姿は見えず殺気なども感じられず、星の煌めく長閑な風景が広がっている。
「オレらはこーゆー事態に備えて、ここに来てる訳だしね」
翠も慌てる事なく抜き身の剣を構えた。
「どんな奴かは分かんねえけど、俺達二人が見張りを交代して帰る前で良かったな」
剣を抜きながら言うフレッドの言葉に、シヨウも頷いた。
「暇だったから、ちょうどいい」
「お。二人とも凄い自信で、やる気満々だね」
翠が笑うと、フレッドが苦笑いを返す。
「いや、単に人数が多くて良かったなって意味だよ」
「3人はすぐに城に避難して、念のため、俺達の仲間に応援に来るよう伝えてくれないか?」
エトワスがそう言うと、空の種族達は「分かった!」と答え、弾かれた様に走り出した。
ただ一人、リッシュだけはその場に残っている。
「ぼ、僕は残るよ。卵が狙われた時は僕達が対応するって言ったからね!」
そう笑顔で言うが、その笑いは引きつっていて固く弓を握りしめていた。とてもではないが、落ち着いて弓を射る事が出来そうには見えなかった。
「今は俺達がいるから、任せてくれて大丈夫だよ」
「いや、でも……!」
エトワスの言葉に迷っていたリッシュは、城とは逆の方向を震える指で指し示した。
「あ……」
この国に訪れた時に目にした広大な花畑がある方向とは反対側で、町が広がる場所からも外れた場所だった。
「あれだよ、来た!」