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LAZULI  作者: 羽月
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5白の誘(いざな)い ~城下の港町~

 闇の中からゆっくりと半透明の白い手が伸ばされる。


……嫌だ


彼は大きくかぶりを振った。

体中が引き裂かれてしまいそうに痛い。

目の前に差し出された白い手に触れさえすれば、この苦痛から解放されるのかもしれない。そう漠然とした予感があった。しかし、彼はそれを拒んだ。得体の知れないものに対する恐怖の方が大きかったためだ。


……おれに、近付くな……!


苦しい息の下、彼は声を絞り出す。だが、まるであざ笑うかのようにさらに数本、闇の中に白い腕がぼんやりと浮かび上がった。


あ……


そしてそれは次々に数を増し、瞬く間に彼の周りをぐるりと取り囲んだ。逃げなければ、そう思うが、苦しさのため体を動かすことが出来ない。

無数の白い手は、ゆっくりと静かに彼の方へ伸ばされる。


…………やめろ……来るな!


逃げる場所など既に無い。


……来ないでくれ……!


命令形だった拒絶の言葉はいつしか懇願へと変わっていた。それでもなお白い手は徐々に彼に迫り、遂に指先が頬に触れた……。


おれをほっといて!


叫ぶのと同時に、ガラスか何かが砕け散る様な衝撃が走る。


嫌……だ……


誰か……助……けて……


* * * * * * *


「おい、キサラギ。ディートはどうした?」

振り返ると、翠よりも5年先輩のI・K、ヘクターが腰に片手を当てて立っていた。決して睨んでいる訳ではないがアイスブルーの瞳の視線は鋭く、華やかな金色の髪と相まって、そこに立っているだけで存在感と威圧感がある。ディートハルトが強くたくましく大きく成長したら、この男のようになるのだろうか。そうでなければ、ディートハルトの父親か兄はこの様な人物なのではないだろうか……ぼんやりとそう思った。

「ディートって、ディー君の事ッスか?今は部屋で眠ってますよ」

いつから愛称で呼ぶようになったのだろう。そう考えながら翠は答えた。帝都を出発したヴィクトール、そして彼に付き従った者たちは、現在、帝国南部のウルセオリナ地方に身を隠していた。そこは、ウルセオリナ地方の領主ラグルス家に伝わる緊急時に避難する秘密の隠れ家のような場所で、領主の居城から遠く東へ離れた山中にあり、ラグルス家の者たちも長い間使用したことの無い場所だった。岩壁の死角となったところに入口があり、天然の岩を削りそのまま利用した半地下の施設で、中には広大な空間が広がり複数の部屋がある。沢山の照明がなければ暗くて不自由なのが難点だが、なかなかの設備で必要な物さえ運び込めばかなりの人数の者達が長期間生活できるようになっていた。現ウルセオリナ地方領主である公爵、シュヴァルツ=R=ラグルスは、ヴィクトールが帝都を発つ前に送った使者の報告を受けると、予定通りウルセオリナ地方北東部の村フロック近くに身を潜めていたヴィクトールにすぐに連絡を返し、その隠れ家を解放した。フロックよりやや南のこの地に翠やディートハルト達I・Kとヴィクトールが移動してきたのは、つい昨日の事になる。

「やっと寝たか」

翠の言葉を聞き、ヘクターは小さく息を吐いた。帝都を出てからこの地へ移動するまでの間共に行動をしていたヘクターは、ディートハルトがほとんどまともに睡眠も食事もとっていない事を知っている。

「ディートは、何か次の任務に就く事か決まってんのか?」

この隠れ家への滞在は体を休める事が目的のため一時的なもので、これからまたすぐに公爵シュヴァルツの住むウルセオリナ城へ移動する事になっている。ウルセオリナ公爵が、ヴィクトールだけでなくI・Kも事務職員達も全員ウルセオリナ城へ迎え入れる事を申し出たからだ。秘書のメイナードによる皇帝ヴィクトールの死の偽装が成功したのかどうか、そして北と南の戦況はどうなったのか等はまだ報せが入っておらず分からない状態であるため、敵を警戒し今回もまた小グループに分かれ、タイミングをずらしてウルセオリナ城を目指す事になっている。ただし、I・K達は全員城へ向かう訳ではなく新たな任務に就く者達もいて、北のギリア地方に援軍に向かった同僚の元へ、そして、各地方に常駐しているI・K達の元へ、また、ファセリア帝国学院を卒業直後に帰省していて連絡が取れなかった新I・Kの元へ、それぞれ向かいウルセオリナ城へ移動する旨を伝えに行く事になっていた。翠とディートハルトは、特にそのような任務には就かずにひとまずウルセオリナ城に向かう事になっている。

「いや、何も決まって無いんで、とりあえずウルセオリナ城に行きますよ」

翠の言葉を聞いたヘクターが眉間に皺を寄せる。

「ウルセオリナ城に行くのは、ヤバイんじゃねえか?」

それは、翠も気になっている事だった。ウルセオリナ城はエトワスの自宅だ。嫌でもE・K達についてのもっと詳しい情報も入って来るだろう。彼の事を思い出さない訳がない。そのせいで逆に体調を悪化させてしまう可能性もある。

「あー……、ですよね。オレも、それは少し思ってはいるんスけど」

「じゃ、ディートと一緒に、ウルセオリナを離れる任務に志願しろ」

「いやぁ、そう言われても。ウルセオリナを離れる任務に就いた先輩達は皆もう出発しちゃってますし、っつーかオレら新人ですし任務を選べる立場じゃ……」

翠がそう言うと、ヘクターは腕組みをしてフゥと息を吐いた。

「ま、公爵閣下んとこに行きゃ新しい情報も入って来るだろうからな。それからどうするか決まってオレらも動く事になるだろうから、城に長く滞在する事はないかもな」

「きっと大丈夫っスよ。本人も平気だっつってるんで」


 それからすぐその日のうちに、ヴィクトールとI・K、事務職員達は、ウルセオリナに向けて順に移動を開始した。公爵からの使者の話ではウルセオリナの城下町付近までは敵は迫っていないとの事だったが、人目に付く事を避け日が沈んでからの行動開始となった。

「あれ、起きてたんだ?」

翠は、隠れ家内の一室を覗きそう声を掛けた。岩壁をえぐるようにして作られた寝台にディートハルトが座っている。眠っている訳ではなくボンヤリとしていた。

「寝てたら良かったのに」

「……え?あ、いや。寝たら夢を見るし」

表情と同じく覇気のない瞳が、翠に向けられる。それは悪夢という事だろうか?そう思ったが、翠は夢の話には触れず別の事を口にした。

「そろそろ、オレらも出る時間だって」

「任務?」

「いや、別の隠れ家にお引越し」

既に説明してあったはずだが、ディートハルトはぼんやりとした表情で首を傾げている。

「もうちょっと、いや、かなり快適な環境に行けるんだってさ。ラッキーだね」

目的地である“ウルセオリナ城”という言葉は出さず、翠はそう言った。

「そっか……」

特に感想も無く、ディートハルトは頷いて立ち上がった。

「ちょっと距離があるから、一泊はまた野営なんだけど、平気?」

少しふら付いているディートハルトの姿に、翠は心配になる。

「何が?」

「あー、いや、寝不足なんじゃないかなって思ってさ」

正確に言えば、寝不足と精神的ダメージと、まともに食事していない事と、原因の分からない体調不良が気になっていたのだが、何度確認しても本人は平気だと言っているので敢えて触れない事にする。今のディートハルトを説教する気にはなれないからだ。

「そんな事ない。眠くねえし」

翠の予想通りの答えが返って来た。

「そっか。じゃ、行こっか」


 二日後――。

太陽が大分傾いた頃、翠とディートハルト達のグループもウルセオリナの中心地に到着した。彼らの到着を待っていたウルセオリナ兵の先導で、目立たないよう、人通りの多い町中を通る事は避けて城を目指した。安全な道を選んだため遠回りする事になり時間が掛かったが、やがて城へと辿り着くと城内の敷地内の一角にある大きな建物へと案内された。その建物は通常客が滞在する際に宿泊する場所だという事だったが、現在客はなく、公爵はヴィクトールのために建物を一棟丸ごと解放し、I・Kの職員や移動して来たI・K達も同じ場所へと滞在する事となっていた。

『ん?』

敷地内を移動中、違和感を感じて翠は傍らに視線を落とした。見ると、隣を歩いていたディートハルトが翠の服の端をキュッと掴んでいる。その手は小さく震えていて、顔からは血の気が引いていた。

『ウルセオリナ城に行くのは、ヤバイんじゃねえか?』

ウルセオリナ城へ向かう事になった日、先輩I・Kのヘクターがそう言った言葉が頭に浮かぶ。

『先輩の言う通り、確かにここはマズかったか』

翠は、思わず舌打ちしそうになるのを堪えた。何か励ます様な言葉を掛けてやりたいとは思ったが、E・K達がどうなったのか確かな事は分からないものの、全滅したという報告が訂正された訳ではないので“大丈夫”とは言えないし、翠が感じているままに“やっぱ辛いよね”と同じ気持ちである事を下手に伝え、刺激してしまう事になってもいけない。そして、“オレが付いてるよ”という気持ちはあるが、ディートハルトにとっては“だから何だ”という事になるだろうと考えると、何と言っていいのか分からなかった。

「翠、おれ、ちょっと……」

翠が何と声を掛けようかと考えていると、ディートハルトの方が口を開いた。行先がウルセオリナだと気付いた時からずっと緊張していたのだが、城下町に入りだんだんと見知った城が近付いてくると眩暈を感じていた。

『大丈夫……。ただの城じゃん。約束したんだから大丈夫。まだ色々状況が混乱してて、ちゃんと情報が入って来てないだけだし……』

そう自分に言い聞かせていたのだが、ウルセオリナ城の敷地内を歩き始めてから、今度は急に怖くなっていた。何故なのかは分からず何が怖いのかも分からない。と言うより、何に対して自分が恐怖を感じているのか無意識に考えないようにしていた。

「何?どうした?」

「……怖い……」

「え?何?」

気が強いディートハルトが口にした“怖い”という意外すぎる言葉に、一瞬何を言われたのか分からず翠は聞き返していた。

「ここ……怖い……」

自分で呟いた言葉に、ディートハルトは何が怖いのかを理解した。いるはずの場所に、いるはずの人がいない事実が怖かった。

「何言って……」

「どうして、いないんだろう……」

「へ?あ、おい!」

呟いたディートハルトはそのまま崩れ落ちてしまった。


* * * * * * *


白い世界にいた。


 そうだ。白い手に囲まれていたはず。


しかし、今は“手”は見当たらない。ただ、周囲は霧の様に濃く白かった。それは、雪の様な眩しい白ではなく淀んだ白だった。


 暑い……


白い世界なので、最初はむしろ寒いように感じていたのだが、今は、むせる様に暑かった。


 苦しい……


 暑い……


 熱い……


* * * * * * *


「キサラギー!」

聞き覚えのある声に翠が振り返ると、予想通り元同級生の姿があった。短めの淡い金髪にブルーグレーの瞳をしたフレッド・ルスという名の青年だ。翠とディートハルトが初めて城に呼ばれた日には実家に帰省中だったのだが、ヴィクトールが伝令のため各地に送ったI・K達の連絡を受け、すぐにウルセオリナに駆けつけて着いたばかりだった。真新しいI・Kの制服に身を包み笑顔を浮かべ走ってくる。

「おー、フレッド君じゃん。I・K姿が新鮮だね」

「お前もな!」

そう言って、見慣れた学生の制服姿からI・Kの制服姿に変わった互いを眺め、笑い合う。

「いつこっち来たの?実家に居たんだろ?親に引き留められなかった?」

ヴィクトールが亡くなったという事も含めた今回の混乱について、民間人達は当然知っているはずだ。ヴィクトールが実は生きているという事をフレッドの家族が聞いたかどうかは分からないが、ヴィクトールの生死に関わらずI・Kとして同僚達の元へ戻るという事は危険を伴うため家族が歓迎するはずはないだろう、翠はそう思った。

「さっき着いたばっかだよ。家族には、逆に“しっかり頑張って来い”って送り出されたよ」

フレッドが笑う。

「マジで?じゃ、陛下が健在って知ってんだ?」

「まさか。話す訳ないだろ。行先も話してないし。I・K達が何をするつもりでいるのかは分からないけど、せっかくその一員になれたんだからお前も出来る事をやって来いって言ってた。まあ、命の危険を感じたら逃げろとは言ってたけどな」

「あ~、なるほど。うちの婆ちゃんらと同じタイプなんだな」

帰省していないが、きっと北ファセリアにいる翠の祖父母もそう言っただろうと翠は思った。

「ってか、お前ら大変だったんだな。先輩に何があったか聞いて超ビビったわ」

「いや、ホントに。大変すぎたし、この10日間色んな事があって夢だったんじゃないかって気がしてるわ」

翠は心の底からそう思っていた。

「だよな。お前一人なのか?フレイクは?」

翠とディートハルトが共に行動していた事を知っているフレッドが、翠の表情を窺う様に尋ねる。他人に対して友好的とは言えない態度を取っているディートハルトは、同級生達には敬遠されがちではっきり言ってあまり好かれてはいなかったが、フレッドや北ファセリア方面に派遣されたジェス達は、数少ないディートハルトの事を悪くは思っていない好意的なメンバーだった。

「ああ、それがさ……」

フレッドがディートハルトの事を尋ねるという事は、E・K達が全滅したという報せも聞いているのだろう。そう考えた翠は、昨日倒れた件も含めてディートハルトの様子を話した。

「……それって、やっぱE・Kの事が理由だよな?」

「多分ね。お医者さんもそう言ってたし」

昨日、これから生活する事になるウルセオリナ城の別棟に到着する寸前、ディートハルトは倒れた。ディートハルトを一通り診察し翠の話を聞いたウルセオリナの医師は、睡眠不足や食事をとらない事に加え精神的な強いストレスが主な原因だろうと結論付けていた。

「エトワスに懐いてたからな……。倒れて熱を出すなんてよっぽどだよな。いや、俺もあり得ないくらいショックだけど」

そう言って、フレッドが眉をギュッと寄せて表情を曇らせる。

「ウルセオリナ軍が全滅ってのは聞いたけど、実際どうなってるんだ?」

周囲に人がいない事を確認し、それでも二人がいるこの場所がウルセオリナである事を気遣って声を潜めたフレッドが尋ねると、翠もキョロキョロと周囲を見回してから口を開いた。

「まともに戦えなくなったって意味で全滅っていうのは間違いないんだけど、負傷して戦地から離脱してた兵とか軽傷で戻って来た兵がいるらしいんだよ。その軽傷で戻って来た兵達が言うには、気付いたら周囲の味方の姿が消えててE・K達もいなくなってたんだって。つっても、その兵達は元々戦地の北側に居て、E・K達は南側にいたから結構離れてた上に、雨も酷くて視界が悪かったからはっきり確認出来た訳じゃないらしんだけどね。だけど、味方の数は確実に減ってたし、敵の方にも指揮する人間の姿はなくなってて、戦地を敵の魔物がうろついてるって状況になってたから、負傷者を連れて、他の動ける兵達とひとまず退避したらしいんだけどさ。その後、公爵閣下が新しく出した兵の報告でもE・K達は見付かってないんだって」

「それって、つまり……」

フレッドが、続く言葉を飲み込む。

「生きてる姿も見当たらないけど、そうじゃない姿も見付かってないって事。全滅の報せが入ってまだ10日くらいだから正式に発表されてないけどね。ウルセオリナでは“生死不明で捜索中”って事になってる。クローディア様は寝込んでしまってるみたいだけどね」

エトワスの祖母クローディアは報せを受けて以来、床に伏してしまい、母親のソフィアの方は毅然としているものの、やはり落胆している様だった。

「そりゃそうだろ……。それでさ……、E・Kだけじゃなくて同じ場所にいたはずのI・Kも……リカルドとロイ達も帰ってないんだよな?」

たまたま翠とディートハルトは途中で帝都に向けてとんぼ返りする事になったが、予定通りにウルセオリナの前線であるエトワス達の元へ向かったリカルドとロイを含めたI・K達6名は戻っておらず、E・K達と同様姿を消していて生死不明だった。

「だね」

翠は小さく笑うように唇を歪めて頷いた。

「卒業した直後に同級生が一気にいなくなるなんて……、ほんと冗談じゃねえよ。だけどさ、キサラギとフレイクだけでも無事で良かったよ。フレイクの体調は心配だけど……」

「ディー君は、熱の方は今朝はもう下がって来てたよ。今からディー君とこ行くから様子見に一緒に行く?」

「ああ、行く行く」

翠の言葉に、すっかり暗くなっていたフレッドの表情が少し明るくなる。

「帝都の方は今どうなってんの?陛下が殺されたって噂は広まってんの?」

二人並んで廊下を歩きながら、翠がフレッドに尋ねる。

「ああ、あくまで“噂”だけどね。ここ数日で一気に広まってるよ。俺も最初聞いた時は、びっくりしすぎて大ショックでさー。これから先一体どうなるんだろうって絶望しかけたけど……。“偽装”だって知った時はもう訳が分かんなかったよ。何が本当で何が嘘か分かんなくなってさ」

ハハとフレッドが力なく笑う。

「それで、やっぱアーヴィング殿下が絡んでんのかな?」

「どうかな。陛下も公爵閣下もそう思ってるみたいだけどね。だから今、南の方の敵はB・Kの皆さんに任せてるらしいよ」

昨日、ウルセオリナ城に着いて公爵から得た情報によると、公爵がエトワス達E・Kも含むウルセオリナ軍が全滅したという件を帝都に報せて後、今度はアーヴィングの方から公爵の元へ、ヴィクトールの死の知らせが届くのと同時にB・K達がやって来たという。B・k達がウルセオリナの地を訪れたのは、新たに派遣されていたウルセオリナ領内で敵と戦うウルセオリナ兵達の元へ援軍として合流するためだった。しかし、それ以前に既にヴィクトール本人から“死を偽装する”という旨の報せを受けて協力を求められていた公爵は、ウルセオリナ兵達は疲弊しているためB・K達に“喜んで任せる”とし、ウルセオリナ兵の方は少しずつ戦地を退避、離脱の後帰還せよという命令を出したところだった。

「B・Kが敵を一掃してくれる事を期待してるらしいけど。でも、これでもしB・Kまで全滅したって事になったら、実は殿下は絡んでなくて誤解だったって事になるんだろうね。ヴィドールが敵ってのは間違いないかもだけど」

「南のB・Kがどうなるかは分かんねえけど、俺がここ数日聞いてた町の噂話じゃ、北に出てたアーヴィング殿下達は滅茶苦茶活躍して敵を蹴散らしたらしいって事だったぞ。だけど、殿下が関係あるにしてもないにしても、最初に目撃されたのはロベリア王国の兵なんだよな?そっちはどうなんだろう?やっぱ絡んでんのかな?」

フレッドが思い出した様に言う。

「陛下はその線は薄いって思ってるみたいだけど、それも含めて、これから調べなきゃなんないって言ってたよ。今はまだ、あちこちに送った先輩I・K達が戻って来てないから帰って来るのを待って、それから報告を聞いて情報を整理するんだってさ」

ヴィクトールは、今回の件についてアーヴィングとヴィドール国が実際に接触したのか、そうだとすれば一体どのような取り決めがあったのか等を探るため、また、ロベリア国との接点も確かめるために、このウルセオリナの地からI・K達を改めて各地に送り出すつもりだった。


ディートハルトが休んでいる部屋に着くと、翠は扉を開けて中に入った。

「……」

一瞬固まってしまった。部屋に置かれた二つのベッドのうちの手前の方の端っこに、ぼんやりとディートハルトが座っている。部屋の入り口に立つ翠の位置からは、ちょうど横顔が見える事になるのだが、ディートハルトの瑠璃色の目からは涙が流れているようだった。

「!」

後から入ったフレッドも気付いたが、翠と同じように驚いて無言だった。本当は、ディートハルトに会ってすぐに「無事で良かった!」と伝えるつもりでいたのだが、そのタイミングを完全に逃してしまっていた。

「……」

二人の気配に気が付いたのか、ディートハルトが静かに二人の方を振り向いた。しかし、その表情はぼんやりとしている。涙を流しているものの、別に悲しそうでも苦しそうでもない。それは全くの無表情だった。このような状況では、どんな言葉を掛けるべきだろうか?翠は、脳をフル回転させて考えた。考え付いたのは三つ。一つ目は、「どうかしたのか?」と、自分が慰めてあげるよ、と言わんばかりに優しく尋ねる。二つ目は、見なかったことにして、当たり障りのない会話をする。そして三つ目は、「何で泣いてるんだ?」と好奇心に任せてストレートに聞く。

翠は数秒考えた。

まず一つ目は間違いなくエトワスの専門分野だ。自分にはそんな芸当はできない。二つ目は、初めは見なかったことにしてディートハルトの存在自体を無視してしまおうかとも思ったが、目が合ってしまったので、それは気が引けた。かといって、当たり障りのない会話といってもあまりにも急すぎて適当な話が思い浮かばない。

「何泣いてんの?」

「!?」

マジか!?とでも言いたげに、ギョッとしてフレッドが翠の顔を見る。

「?」

翠の問いに、一瞬不思議そうな表情を見せたディートハルトは、まず手で自分の顔に触れてみて、明らかに何か水分が指を濡らしたことを確認し、次に首を傾げた。

「……汗?」

ンなわけあるかっ!?

そうツッコミを入れたかったが、ディートハルト本人は真剣だったので「ああ、そう」と、そっけなく返事をする。フレッドも同じ思いだったようだが、何も言わなかった。春とはいえ暖炉に火は入っておらず寒いくらいのこの部屋にじっと座っていて、目から汗を流す奴がいるわけない。しかし、本人がそう言うのだから別にそれでもいいか。と思っていた。そして、ふとディートハルトのベッドの傍らにあるサイドテーブルの上を見ると、そこには翠が運んだトレーの上に食事が置きっぱなしになっていた。

「また、飯食ってねえのな」

「腹、減ってねえし」

表情と同じ、生気のない声が返ってくる。

「うーん。そっか。やっぱオレの手料理じゃないと物足りなくて食えないかぁ。ディー君も味が分かるようになったんだねぇ。感心、感心」

『バカじゃねーの?』そう、いつもなら返ってきそうな言葉も最近では聞くことが出来なくなっていた。

「久し振りだな、フレイク。熱出したって聞いたぞ。もう大丈夫なのか?」

フレッドが笑顔を作りそう尋ねると、ディートハルトはフレッドに視線を向けた。

「え、おれが?」

ディートハルトはボンヤリとしたまま不思議そうに首を傾げた。フレッドとは卒業式以来で数週間振りに会ったはずだが、特に何の反応もない。

「何ともねえけど……」

フレッドがチラリと翠に視線を向けると、翠は小さく苦笑いする。

「そ、そっか。ならいいんだ」

何故、同級生二人が困った様な表情をしているのか分からず、ディートハルトは不思議に思っていた。


* * * * * * *


 ヴィクトール達がウルセオリナに滞在する様になってから、一か月が過ぎた。フレッドがウルセオリナ城に到着した翌日には、北の方に援軍として派遣されていたものの無事に帰還した元同級生のジェスとクレイグも含めたI・K達もこの地で合流し、さらにそれから数日以内には、ヴィクトールがウルセオリナ城に移動する前に一時的な隠れ家から各地方に向かわせていたI・K達が戻ってきて、同時に、彼らから連絡を受けた帰省中のままだった新人I・K達もウルセオリナ城へとやって来ていた。これで、今回の一件で未だ行方が分からないままのI・Kは、最初に出陣したエトワス達E・Kの元へ派遣されたメンバーだけという事になる。

彼ら以外のI・K達が揃い、ヴィクトールが改めて新人I・K達も含めて帝都を中心に帝国内のあちこちに送り込んで情報を集めた事もあり、国内の現在の様子が分かって来ていた。

ヴィクトールの予想通り、出陣したアーヴィングの率いる兵によって北方の敵は一掃され、また同じくアーヴィングが派兵したB・K達によってウルセオリナ地方南部の敵も全て倒され、ヴィクトール達がウルセオリナ城に移動して一週間程で帝国内の全ての敵は姿を消していた。

避難していた北ファセリアを始めとするロンサール地方やその隣のギリア地方の住民たちは、その後自宅へと戻りこれまで通りの生活を始め、今回は全く何も影響の無かった大陸東側の半島に位置するルピナス地方やレーヌ地方は特にこれ迄と変わりのない状況で、帝都では北から帰還したアーヴィングが、皇帝ヴィクトールの死を正式に伝えるのと同時に、アンジェラ皇女に代わる皇帝代理となり自分の配下の者達で周囲を固めているらしかった。今回、突然攻め込んで来た者達は、今なお“正体不明”のままで調査中という事だったが、“恐らく国内の反逆者達だろう”と、アーヴィングにより発表されている。

ヴィクトールの秘書だったメイナードは、ヴィクトールが不在という理由でアーヴィングに即解雇されて城を去り、その後は消息不明という事になっていたが、現在ウルセオリナ城にいてこれまで通りヴィクトールに仕えている。また、アンジェラ皇女やヴィクトールの母ガートルード、祖母のマルゴは喪に服していたが、彼女らもこれまで通り生活しているという。そして、ウルセオリナの領主シュヴァルツを始めとする各地方の領主達は、皇帝代理となったアーヴィングに対し今現在特に反発する事も迎合する事もなく、すんなりと受け入れた姿勢でいるため、今のところ新たな混乱は起きていない。

大きく変わったのはI・K達の扱いだった。ヴィクトールの死後、いつの間にか姿を消してしまっていたI・K達に向け、アーヴィングは皇帝代理である自分の配下となる様呼び掛けた。“I・K”から“B・K”となるよう求めたのだ。ヴィクトールが亡くなったため全員がI・Kを辞めて去ってしまったと考えたらしい。しかし、ヴィクトールが健在だという事も、今回の騒動にアーヴィングが関わっている可能性が高いという事も知っているI・K達が従うはずもなく、誰一人応える者が無かったばかりか、I・Kの制服を纏ったままの姿で神出鬼没に各地で目撃され国内のあちこちで何やら活動している様子のI・K達に、アーヴィングは腹を立て、“I・KはB・Kに転身するように”というお触れを取り下げ、皇帝代理に対し反抗的な態度を取っている危険で不敬な集団として、見付け次第捕えろという命令を出した。そのため現在I・Kは全員賞金首なのだが、元々I・Kは国内で人気がある事と戦闘能力が非常に高い精鋭部隊として知られているため、町中で見掛けたとしても、民間人どころか兵達も捕まえたり通報したりする者は無かった。その様な中、何度かB・Kが遭遇し捕らえようと試みた者もいたらしいのだが、あっさりと返り討ちにされたらしく、それを機に賞金の額がほんの少し増したという。実は健在であるヴィクトールは、I・K達に制服を着用して活動する事を特に求めてはいないため、それぞれ私服で活動すれば目立たず狙われもせず楽なはずだったが、I・K達にはプライドがあり、また、アーヴィングに対し反抗心もあったため、敢えて制服を着て活動していた。そしてまた、I・K達が領内どころか城内に出入りしていると知られれば立場が危うくなりそうなウルセオリナ公爵も、アーヴィングに対し思うところがあるため、また、力の強いラグルス家の当主だからなのか、そのことについて隠そうともせず気にも留めていなかった。そのため、一度アーヴィングの方から、「一体どういうつもりなのか」とウルセオリナ公爵に対し直接問い合わせる手紙が届いたのだが、公爵は「主を失くした彼らを迎え入れている」とだけ答え、それに対しアーヴィングは不満を抱きI・K達が何をしているのか探る事は止めなかったが、公爵に対してそれ以上追究する事はなかった。


「……どっか行くのか?」

朝、なかなか寝床を出られなかったディートハルトは、同じ部屋を使っている翠とフレッドが制服に着替えただけでなく、長剣や短剣、銃などを装備している事に気が付いて尋ねた。

「ああ、うん。ちょっとね」

翠が答えると、ディートハルトはベッドから下りた。就寝時のTシャツと下着という姿だったが、元々細かった体はさらに痩せていて何だか幼く頼りなげに見えた。

「あ、言っとくけど、ディー君は留守番だからね」

「……何で?」

ディートハルトは、首を傾げた。

「何でって、具合悪そうじゃん」

「……別に、悪くねえよ」

翠とフレッドは顔を見合わせる。この一か月、任務の際は本人の希望でディートハルトも同じように出ていたが、今日はどう見ても具合が良さそうには見えなかった。顔色も青白く、鮮やかな瑠璃色の瞳には影が差し普段は鮮烈な光はぼんやりとした輝きに変わっていた。特有の冷たい感じさえ今は受けない。

『ディー君が、ガンとばしてないなんてよっぽど不調なんだな』

『フレイクの奴、本気で体調が悪いんだな』

「う~ん、でもねぇ。陛下に行けって言われてないでしょ?」

翠が困った様に言う。

「……ここに、いたくねえんだ……」

ディートハルトは、二人の方は見ずに俯いてそう言った。体調は良くはないが、眠ると嫌な夢を見る。目覚めると忘れているため内容は分からないのだが、毎回嫌な感覚が残っていた。かといって、眠らずにボーっとしていても余計な事を考えてしまい辛かった。

「何かしてないと……マジで、おかしくなりそうなんだ……」

エトワスの前ではどうだったのかは分からないが、翠を含め他の者達はディートハルトの弱気な姿は見たことがない。そんな彼が、珍しく気弱な台詞を吐いている。

「キサラギ……」

ディートハルトの言葉を聞き、フレッドが“連れってってやろうぜ”という意味を込めて翠の服の袖をクイクイと引く。

『まあ、それも無理ないか……』

と、翠は思った。ウルセオリナのE・Kたちの死は未だ確認されてはいない。しかし、E・K達と連絡が取れなくなり実際に全員が姿を消してしまってから一か月以上が経った現在、なお一人も帰還しないE・Kたちの生存に、ウルセオリナの領主も他の者達も口には出さないが期待を持ってはいない。戦場にはファセリア大陸では見掛けない魔物達がいたという。そういった魔物達に何も残さず喰われてしまったのかもしれないし、戦いで命を落としていた場合でも、その遺体が回収される前に獰猛な魔物たちの餌食になってしまった可能性が高いからだ。しかし、ディートハルトは、翠には分からないが何かエトワスと交わしたという約束を信じているようだった。正確に言えば、それは信じたいという願い、むしろ祈りに近いものなのかもしれない。ただ、ウルセオリナ軍全滅の報せを耳にしてから、ディートハルトの容態は以前に増して日を追うごとに悪くなっている。それが、精神的なダメージが一因になっているということは明白だった。それに加え、夢を見ることに恐れを抱いているらしく、まともに睡眠もとっていないようだ。どんな夢を見たのか尋ねてもただ首を振る。

『覚えてねえ』

答えはいつも同じだった。翠にはどうすればいいのか分からなかった。それに、ディートハルト自身が干渉を受けるのを嫌がっている以上どうすることもできない。しかし、今は少し遠回しにではあるが、翠に助けを求めている。少なくとも、翠はそう捉えた。

『しょうがねえな。連れてってやるか。ウルセオリナを離れたらちょっとは良くなるかもだし。陛下に頼み込めば、オッケーしてくれるかも?』

そう思った矢先、ディートハルトは翠の方を再び見上げて言った。今は、ぼんやりとした雰囲気は消え、瑠璃色の瞳でキッと睨みつけている。

「人数多い方がいいだろ?連れてけよ。って、何でおれがお前に頼まなきゃなんねえんだよ。おれは行くからな!」

先ほどの態度とは打って変わり、いつもの強気な発言に戻っていた。

「じゃ、まあ、別にいいけど」

翠だけでなく、フレッドも苦笑いしている。

『う~ん。やっぱディー君は、ディー君か……』


「おう、お前ら。これから任務か?」

たまたま廊下ですれ違った先輩I・Kのヘクターが、翠とディートハルトとフレッドの姿を見て声を掛けて来た。

「ディート、お前、ちゃんと食ってんのか?顔色が悪いぞ」

途端に柔らかい声音になり、ヘクターが屈み込む。

「あ……はい。問題ありません」

困惑した表情で、ディートハルトが答えた。

「おい、キサラギ」

打って変わった口調で言い、ヘクターが翠にアイスブルーの目を向けた。その目は、「本当だろうな?」と言っている。

「今、朝飯食ってきたとこッスよ」

「そうか、そうか。少しでも食っとけよ」

ヘクターは、うんうん、と頷き優しい口調で言う。

「で、どこに行くんだ?」

「ロベリア王国ッス」

国内の状況を把握する事を優先したため、ずっと保留になっていたロベリア王国行きの任務だったが、ようやく実行する事になっていた。一番最初に姿を現した正体不明の武装集団がロベリア王国の鎧を身に着けていた事で、ロベリア王国と関りがあったのか無かったのか、それを調べに行く予定だ。ただし、ヴィクトールはロベリアが絡んでいた可能性は低いと考えている。そしてまた、今回はヴィクトール本人も同行する事になっていた。

「ああん?陛下も同行されるって奴か。おい、キサラギ」

と、再び言って、ヘクターは翠の首に腕をガシっと掛ける。

「ロベリアとの国境は山岳地帯で色々と危険だ。気を付けろよ。ディートから目を離すな」

「いや、先輩。そこは、どう考えても“陛下から”でしょ」

ヒソヒソと言われた言葉に、苦笑いしながら翠が返す。

「同じ事を何度も言わせんじゃねえよ。その任務には他にもI・Kが参加すんだろ?」

「ああ、はい。そうッスね。って、そんな気になるんなら、先輩もこの任務に志願すりゃいいじゃないッスか」

翠が呆れた様に言う。

「そうしたいが、オレは、ルピナスの方に行かなきゃなんねえ」

「ルピナス?」

今回の騒動で、大陸東の半島に位置するルピナス地方は何も影響はなかったはずだ。

「聞いてねえか?どう見てもファセリア人じゃねえ怪しい奴らが出入りしてるって、レーヌ地方の常駐組のI・Kから連絡があったんだってよ。で、同じ様な奴らをルピナスの常駐組も見たっつーんだ。まさかヴィドール人って事はねえだろうが、念のためオレらはそれを確かめに行く」

アーヴィングが皇帝代理となって以来、I・K達はアーヴィングの周辺を探っていたが、今のところヴィドールと繋がりがあったという証拠は見つかっておらず、ヴィドールが関わっていたという確かな証拠もない。状況証拠しかない状態だった。そのため、少しでもヴィドールに関係がありそうな事があれば調査していた。

「いいな、キサラギ。オレが言った事を忘れんじゃねえぞ!じゃあな。ディート、ロベリアは外国だ。気を付けろよ」

そう言って、ヘクターは去って行った。

「キサラギってさ、不良タイプに絡まれやすい性質(たち)?」

先輩I・Kの姿が見えなくなると、フレッドが薄く笑いながら尋ねた。

「いや、オレもさ、最近そうなんじゃないかって思い始めてたとこなんだよね」

そう言って、ディートハルトに視線を向ける。ディートハルトは、こちらの話等全く気にしていない様子で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

「で、何でケイス先輩は、フレイクに優しいんだ?」

「顔が、可愛いかららしいよ」

「何だそれ……」


「待っていたぞ。行くとするか」

3人が、最上階にあるヴィクトールの滞在している部屋に行ってみると、I・Kの制服を着たヴィクトールが待っていた。ディートハルトが同行したいといった話は既に伝えてある。

「陛下、くれぐれも長居はせず、どうぞすぐにお帰りください」

酷く渋い表情でそう言ったのは、ここウルセオリナの領主シュヴァルツだった。高齢ではあるが背が高くガッシリとした体格で、年よりもだいぶ若く見える。白髪交じりの髪はエトワスと同じダークブラウンで、その瞳はブルーグレーをしていた。普段はどっしりと落ち着いた人物なのだが、孫であるエトワスを失って間もない事もあり、ヴィクトールがロベリア王国に行く事に強く反対し落ち着かない様子だった。しかし、「行く」と宣言しているヴィクトールを止める事は出来ない。

「ああ、分かっている。心配するな。ロベリアは今回の件には関与していないだろうから危険はない。道中はそれなりに魔物は出るだろうが、I・K達が7名もいるからな。問題はない」

I・Kに扮しているヴィクトールも入れると、総勢8名のI・Kという事になる。笑顔のヴィクトールとは対照的に、シュヴァルツは曇った表情で深い溜息を吐いた。

「しかし、わざわざ陸路で目指さなくても。船なら陸路より安全ですし、すぐにご用意致しますが……」

「正式に訪ねるのではないぞ。公爵の事だから、安全に配慮しデカイ船を用意するつもりだろう?その様な船ではロベリアの港にコッソリと入る事など出来ないし、かといって、港から離れた場所に停泊されても困る」

笑うヴィクトールとは対照的に、公爵はもう一度溜息を吐いた。

「私が言うまでもないだろうが、どうか、くれぐれもよろしく頼む」

シュヴァルツが、その場に居た同行予定のI・K7人の顔を順に見てそう言った。

「承知しました、閣下」

一番年長のI・Kがそう言って敬礼し、後輩達も同じように敬礼した。


* * * * * * *


 ファセリア大陸南部の山岳地帯は、そのままファセリア帝国とロベリア王国の国境になっている。そこには険しい山々がそびえたっていたが緩やかな傾斜の谷になっていて歩きやすい場所もあり、その地を抜けてロベリア王国を目指す事になっていた。しかし、そこは魔物が多く棲み出現率が高いエリアでもあった。

ディートハルト、翠、フレッド、ヴィクトール、そして他4名の先輩I・K達は、まずは国境に近いウルセオリナ地方南西の町オリナで一泊し、その翌日の早朝から明るい昼間のうちに山岳地帯の谷を抜け、さらに一日掛けてようやくロベリア王国の城下町へと辿り着いていた。わざわざ険しい山や魔物の出現率の高い谷を越えてファセリア帝国側が侵入して来る事は想定していないのか、少なくとも一行が通って来たロベリア王国内のルートに警備のための施設などは無く、魔物は多く出現したもののロベリア兵に出会う事はなかった。


「山を越えたら、こんなに暑いなんて思わなかったな」

フレッドが言う通り、ファセリは春を迎えたばかりの季節だったが、山を抜けてロベリア王国側に入った途端一気に初夏になったような気候だった。

「いや、マジで暑いね」

翠は答え、チラリと傍らのディートハルトに視線を向けた。相変わらず体調が悪そうで顔色が悪い。魔物が出る度に戦闘にも参加していたが、目に見えて辛そうだった。それをさりげなくフォローはしていたのだが、そのうち倒れてしまうのではないかと心配していた。


 国境である山地からそれ程遠くはないロベリア王国の王城がある城下町に入ると、すぐに別れて行動する事になり、ディートハルトと翠の2人、ヴィクトールとフレッドと先輩I・K2人、残りの先輩I・K2人といった組み合わせで別れた。

「1時間後、町の入り口で会おう」

ヴィクトールの言葉で、それぞれが3方に散った。


ロベリア王国の城下町は港町であるため風が潮の香りを含んでいて、通りに面した店では様々な海産物が売られていた。見た事のない魚介類や、貝殻で作られた美しい細工品もあった。そして、そこには地元の買い物客に混じって、ちらほらと別の大陸から来たと一目で分かる旅行者や行商人、陸の上で束の間の休息をとる船乗り達の姿もあった。派手な賑わいはないが、明るく陽気で活気に包まれた町だった。

「星の砂ってなんだろう?流れ星の欠片とかかな?」

ぼんやりしていたディートハルトだったが、余程気になったのか、露店に並んでいた小瓶に目を留めた。

「え?いや、確か、何か小さな生き物の死骸だったと思うけど」

翠が答えると、ディートハルトは眉を顰めた。

「嘘吐け」

「いや、嘘じゃねえし」

「星の形をした砂なんですよ。ほら、可愛いでしょ?」

と、会話を聞いていた女性の店員が、小瓶を見せて笑顔を向ける。I・Kの制服を知らないためか、2人をどこか外国から来た旅人だと思っているようでとても愛想がいい。

「ほんとだ。すげー!初めて見た」

久し振りに、少しだけ明るい表情をディートハルトが見せ、翠はホッとしていた。

「ロベリア王国の海って、砂が星の形なんだな」

「かもね」

「見てみたいな……」

そう言って、ディートハルトは急に表情を暗くする。卒業式前に、次に遊びに行こうとエトワスと約束した場所の候補に海があった事を思い出したからだ。

「じゃ、帰りに寄る?」

少しでも元気になるのなら、と思い翠がそう言ったが、ディートハルトは小さく首を横に振った。

「やっぱ、いいや」

急に沈んだディートハルトの様子に、翠も理由に思い至り困った様に笑みを浮かべる。

「遊びに来た訳じゃないしね。どうしよっか。人の多そうな港の方にでも行ってみる?」

ロベリア王国に来たのは、今回の騒動と関係があるかを調べるためだ。本当は城にでも潜入した方がいいのだろうが、ディートハルトの体調が悪いため無理はしないことにしていた。しかし、観光しに来た訳ではない。ヴィドール国とロベリア王国間には、数は少ないが商船や客船も行き来していると聞いている。船乗り達もいるだろうしヴィドールの話を何か聞けるかもいれない。そう考えていた。


 港を目指してしばらく大通りを歩いていた二人は、小さな酒場付近に差し掛かったところで何やら騒ぐ声に気付いた。見ると、赤を基調とした服に身を包んだ派手な服装の男に数人の者が喧嘩を売っているようだった。こちらは、恐らく地元の漁師か何かだろう。良く焼けていて、腕には鍛えられた筋肉が付いている。。

「こんな真昼間から酒場で喧嘩ってのは、珍しいね」

翠が笑う。体格の良い30代くらいの赤茶色の髪をした喧嘩を売られている方の男は、全く相手にしている様子はない。酒場前の通りに置かれた椅子にどっかりと腰を下ろし、小さなテーブルの上に靴を履いたままの足を投げ出して横柄な態度で酒をあおっている。一体何を理由に絡んでいるのだろうかと気になり、そのまましばらく見物していると、どうやらその赤い服の男はヘーゼルと呼ばれている海賊で、3人の男達は漁師ではなく酔っぱらって絡んでいる訳でもなく、素面のロベリアの兵士らしいということが分かった。服装からして非番のようだが、指名手配されているヘーゼルを連行しようとしているようだ。

「せっかくいい気分で飲んでいるんだ。いい加減にしてくれ。俺はお前さんたちと遊ぶ気はないんだ」

ヘーゼルが言う。

「ふざけるな!お前が、いくつもの商船を襲っている賊だということは分かっているんだ!大人しく投降しろ!」

「賊?人違いだって言ってるだろう?」

男は酒を飲みながら片手をひらひらと振ってみせる。

「人違いだと!?そんな派手でふざけた格好をしているのは、お前くらいだろう!」

「腕ずくで捕まえてやる!」

多くのギャラリーに見守られる中、軽く鼻先であしらわれて頭に血が上った兵士三人は、とうとうヘーゼルに飛び掛かった。待ってました!とばかりに見物人達が歓声をあげる。

「あ~あ」

翠は遠巻きに見物しながら、ニヤニヤ笑っていた。既に彼も物好きな野次馬の一員になっている。


ほどなくして、翠の予想通りヘーゼルの前には殴られてあっけなくダウンした3人の兵士の山が出来上がった。周りで見物していた者達は大喜びで口々に赤い服を身にまとった海賊を褒め称えている。

「くだらねえ」

翠は、周囲の歓声の中で誰かがそう吐き捨てるのを聞いた。ディートハルトが言いそうなセリフだったが、ほとんど他人には聞こえないような声量でそう言った低い声は女のものだった。乱暴な物言いと女性の声という意外さに、翠は思わず後ろを振り返った。すると、すぐ背後に、日に焼けて褐色の肌をした精悍な顔立の女が立っていた。短い袖から伸びた腕にはしっかりと筋肉がついていて、ヘーゼルと対照的に地味な色合いで装飾の無いシンプルな衣服を纏い、潔く刈った短い黒髪を風になびかせているその姿は青年の様で、はっきり言ってディートハルトよりもずっと凛々しい。身長もディートハルトより高いだろう。きっと、女性にモテるタイプだ。

「もしかして、お姉さんも船乗り?」

突然声を掛けてきた翠に、その女は僅かながら驚いた表情を見せた。

「何だ、お前は?」

黒髪の女は、眉を顰めて警戒心も露わにそう言った。

「見ての通り、ちょっとカッコイイお兄さん」

にっこりと笑う翠に、その女は露骨に嫌そうな顔をする。

「何故、私が船乗りだと思う?」

「え?見た感じ?海の臭いがするしね。あ、磯の香りって嗅覚的な意味じゃなくて、船乗りっぽい空気をまとってるって事ね」

「フン」

女は肯定したのか否定したのか、小さく鼻で笑った。

「お前は、その服、ファセリア帝国のインペリアル・ナイ……まさかな」

女は軽く頭を振って自らの言葉を否定した。どう考えても、こんなヘラヘラしたチャライ雰囲気のピアス野郎が帝国の誇る精鋭部隊の一員であるはずがない。そう思っていた。

「まさか~?それって、どーゆー意味??」

失礼な事を考えているんだろうなと予想しつつ、翠は苦笑した。しかし、その女は何も答えずに背を向けると足早に立ち去った。

「う~ん。ディー君並にクール。つまんねえ」

後ろ姿を眺めながら呟き、自分の言葉でやっとディートハルトの存在を思い出した翠は、辺りを見回した。

「え?」

少なくとも、見渡せる範囲内にディートハルトの姿は無かった。

「何処に消えたんだ……?」


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― 新着の感想 ―
I.Kたちのプライドが垣間見える回。 粛清される危険さえを冒してもずっとそのままの制服を纏うのはかっこいいし、職務を全うするのは市井の民に長い間愛されているのもわかるなーって感じでした。 そりゃ得体の…
ディートハルトのことは心配ですね……。 泣いていた時から、既に何かおかしかったのかも? ヘクターは、ちょっと陛下を案じた方が良い気もしますけど、何かそういうキャラなんでしょうね。 港町でも騒動が増えそ…
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