42灰色の森 ~イシ2~
ディートハルトは寝床に座り、うつらうつらとしていた。目の前では仲の良い姉弟が図の描かれた大きな四角い布を床に広げ、サイコロを振ったり自身の駒を動かしたりして遊んでいる。
シュナイトは、昨夜のモグラの襲来で荒れてしまった広場や道を元通りにするという村人達の話を聞き、新たに本を読む暇もなくその作業を手伝うため出掛けてしまったので今は再び3人だけとなっていた。
「ヒナさん?アヤメの次はヒナさんの番だよ?」
少女の声にディートハルトの半分眠りかけていた意識は引き戻される。前回、駒を進めた時に止まった位置は”一回休み”と書かれていたのだが、自分の番を待つ間につい眠ってしまっていた。
「もうおれはいいから、お前らだけでやれよ」
正直なところ特に楽しくはなかった。しかし、姉弟が口を揃えて「二人じゃ面白くない」と言うので渋々付き合っていたのだが、眠くなってきていた。
「まだ、ヒナさんが負けるって決まってないよ?」
現在ディートハルトの動かす駒は、ゴールを目指すマス目の最後尾にいて最下位の状態だ。そのせいでディートハルトが棄権しようとしていると思った少女は慰めるようにそう言った。
「そーゆー問題じゃ……」
と、ディートハルトが小さく溜息を吐いた時だった。
「……」
少年が握っていたサイコロをポトリと落とした。自ら投げたのではない。動きが不自然に止まり、思わず取り落としてしまっていた。それと同時に姉弟揃って息を呑む。血の気が引き恐怖に固まった表情で二人が凝視しているのは、ディートハルトの背後だ。
「!」
異変に気付きディートハルトが振り返ると、窓の外に魔物の姿がありこちらを狙っていた。昨夜の蜘蛛に似た魔物ではなく、シヨウと共にこの森に初めて足を踏み入れた際に遭遇し、扉の番人達を探そうと森の中を彷徨っていた時にも頻繁に遭遇した、百足の様に長い体と長い腕を持つ頭部が人の骸骨に似た魔物だった。
「逃げろ!」
ディートハルトが姉弟に向かってそう言った途端、その声をかき消す甲高い音と供に窓ガラスが割れ、魔物が部屋の中に飛び込んできた。
「!」
その瞬間、恐ろしさで固まってしまい悲鳴すら上げずに座り込んだままの姉弟を、ディートハルトは反射的に抱え込んだ。重い金属が重なり合うような音と供に長い魔物の身体が窓から部屋に勢いよく流れ込み、同時に破壊された窓枠やガラス、踏み荒らされた鳥の巣状の寝床から飛び散った枝葉が降り注ぐ。
それらが収まると、ディートハルトは抱えていた姉弟を部屋の出入り口の方へ押しやり、振り向きざま魔物を蹴りつけた。不意を突かれ、魔物の頭部は背後の壁に叩きつけられる。
「怪我してねえな?早く行け!」
僅かの間だが避難する時間を作ったディートハルトは、魔物に視線を向けたまま姉弟に言った。余裕ぶってはいたが、目を覚ましてからほぼ寝床の上から移動していないため、靴を脱いでいた状態のまま魔物を蹴ったので足がもの凄く痛かった。しかも、昨日傷めた方の足だったので、生理的な涙で視界が滲んでしまう程だった。
「こいつに食われてえのか!?」
魔物よりもディートハルトの脅しに怯え、姉弟は手をしっかりと繋ぐと弾かれたように立ち上がり走って逃げて行く。ディートハルトは少しだけ安堵した。これで姉弟の事は気にせず魔物に集中出来る。
しかし……。
『どうしよう』
昨日思い知ったばかりだというのに、ディートハルトはまた丸腰だった。逃げていく姉弟に、誰か助けを呼んできてくれるよう頼めば良かったと後悔したが、それではやっぱり格好悪いだろうと、すぐに思い直す。
『あいつらが、取り上げるから!』
ディートハルトが危険な場所にフラリと出掛けてしまうのを警戒してなのか、エトワス達はディートハルトが所持していた剣をどこかに持って行ってしまっていた。
「!」
鎌首をもたげて攻撃態勢に入った魔物が再び飛び掛かってきたため、ディートハルトは迷う間もなく手近にあった壺でその頭部を殴った。
『ああ。おれ、I・Kなのに……』
皇帝陛下に授けられた剣でもI・Kモデルの拳銃でもなく、民家の壺で戦わなければならないとは。
『家宝とか大事な壺じゃありませんように!』
高価なものでなければいいが……。と、気にしながら手にした土で作られた焼き物の壺は、重いだけで非常に脆く魔物の牙がぶつかると簡単に砕け散ってしまっていた。
「クソッ」
と吐き捨て、ディートハルトは手元に残った土器の欠片を力任せに魔物の顔に投げつける。しかし、欠片は硬い音と共に金属の鎧の様な体に弾かれ、何のダメージも受けていない魔物はディートハルトを捉えようと腕を伸ばしてきた。
「!」
ディートハルトはギリギリのところで長い腕の間をすり抜け、床に散乱した木片やガラスを避けつつ魔物が入ってきた窓を飛び越えて外に出た。狭い部屋の中では逃げ場もないからだ。
薄く雪が積もったままの地面に着地すると、すぐに崩れた雪の塊が目に入る。これは多分、姉弟が作った雪だるまの残骸だろう。魔物に踏み潰されすっかり原形は留めていなかったが、目や口になっていた黒い石の配置だけは偶然そのままの状態になっていて、地面に悲しげな表情を作っていた。一瞬、少女が雪ダルマの事を語った時の嬉しそうな笑顔が浮かんだ。
「クソ!」
思わず吐き捨て、ディートハルトは周囲に視線を走らせた。壺などではない何か武器になりそうなものを探すためだ。しかし、小さな桶が転がっているだけで使えそうな物は見当たらない。魔物に背を向け逃げ出す余裕もなかった。
『出来るか……』
今の体力で使えるかどうか分からなかったが、術を使おうと手を上げる。
「うあっ!」
術を発動する前に、ディートハルトを追い窓から外に頭を出した魔物が、腕を伸ばしディートハルトの足を捉えていた。遅れて、長い魔物の身体全体がズルズルと窓枠を越えて外に這い出してくる。片足を掴んで勢いよく引き寄せたディートハルトに食らいつこうと、魔物は大きな牙を開いた。
「!」
すると、騒ぎに気付き駆けつけた数人の村人が、大きな声を上げながら魔物に向けて物を投げ始めた。
「大変だっ!魔物だっ魔物がヒナを狙って来たぞ!」
「ヒナを放せっ!」
「魔物めっ!」
手にしていた野菜や桶や薪、適当なものが見つからなかったのか雪玉までもが次々に宙を飛ぶ。
それらのもので魔物に傷を負わせたり追い払ったりする事は出来なかったが、魔物はディートハルトを掴んでいない方の腕を振り回し、降りかかる物を煩そうに払い始めた。そのお陰で、ディートハルトへの魔物の攻撃は止んでいる。ただ、足を掴まれ宙吊り状態になっているディートハルトにも投げられた物が命中していた。
「!」
腕で頭を抱えて庇ってはいたが、色々なものが体中に当たって痛い。
「うっ」
今腹に当たった物は大きかった。視界の端に薄茶色の物が一瞬見えたので、雪玉ではなく多分芋か何かだろう。
地味な痛みに耐えながら、魔物に食われて死ぬのと流れ弾(芋)に当たって死ぬのと、どちらがマシだろうか、どちらがより格好悪くないだろうか……と考えていると、突然目の前の魔物が跳ねて飛んだ。同時に、衝撃で自分も跳ね飛ばされて冷たい地面に叩きつけられる。
「うぅっ」
呻きながらも、魔物の攻撃に備えふらつきながら身体を起こすと、敵の姿が消えている事に気付いた。代わりに、目の前には抜き身の剣を手にしたシュナイトが立っている。そして、彼より少し前方に切断された魔物の骸が転がり、物を投げていた村人達が歓声を上げているのが見えた。逃げたはずの姉弟も、嬉しそうに飛び跳ねてディートハルトの元へと駆けてくる。
「大丈夫か?」
振り返ったシュナイトにそう尋ねられた時ようやく状況を理解して、ディートハルトはほっと息を吐いた。
「あ……はい。ありがとうございます(助かった……)」
「本当に、空の種族は狙われてしまうんだな。侵入してくる魔物を何とかしなければならないな」
シュナイトが、困った様に眉を顰めディートハルトに手を差し出す。
「ええ。魔物が侵入しないよう、可能な限り防壁を作りましょう」
そう言って、姿を現したのは長だった。
その後、すぐにディートハルトは長の家から再び滞在先を変える事になった。大小に関係なく普通の民家では、今回の様に魔物の侵入を簡単に許してしまうからだ。
「ここなら、安全です」
と、長が案内したのは、村はずれにある”書庫”と呼ばれている場所だった。それは5段程の木製の階段がある床の高い小屋で、魔物除けなのだろうか、周囲には松明が掲げられ、地面には独特の香りを放つ植物を団子状にした物が蒔かれていた。そして、斧や農具等を手にした村人達数人が、衛兵の様に緊張した面持ちで階段の前に並んで立っている。余程重要な物が保管されているのだろうか……。ディートハルトがそう思っていると、先に階段を上った長が、小屋の扉を開け中に入るようディートハルトに促した。
「……」
小屋の中は暗くどうなっているのかは分からなかったが、扉を開いている事で外の明かりが届いている範囲には背の高い棚がズラリと並び、そこに本や巻物がギッシリと詰め込まれているのが見える。恐らく姉弟やシュナイトは、ここから空の種族に関係する本を運び出したのだろう。
「再び貴方が魔物に狙われる事がないよう、この村の者も力を尽くすつもりですので、安心して休んでくださいね」
不意に背後から長にそう声を掛けられ、ディートハルトはハッとして振り返った。村人達は、書庫の中に収められた村の財産を守るためにここにいるのではなく、自分を魔物から守るために武装して立ってくれているのだという事に気付いたからだ。
それを裏付けるかの様に、武器を持った村人達は張り切った様子で頷いて見せる。
「私らに任せていなさい」
「心配いらない。俺たちは、この森の魔物には慣れているから」
笑顔で話しかける男達に何と返せばいいのか……考えて答えを出す間もなく、長に「さあ、中へ」と背中を押され、ディートハルトは小屋の中へと入れられてしまった。
すぐに、パタンと扉が閉じられる。
「……」
闇に目が慣れてきたため改めて周囲を見回してみると、やはり図書館の様に本棚が並んでいるだけで他の物はなく、天井近くに小さな通気口らしきものが数カ所あるのが見えた。扉を閉めてしまうと完全に周囲を壁で囲まれた状態になってしまうため、これまでの様な民家よりは確かに丈夫で安全そうではあった。しかし、閉じこめられると独房のようにも思えてしまう。とは言ったものの、余程気を遣ってくれているのだろう、奥へ進んでみると一番奥の壁際の少し開けた空間に毛足の長い厚く柔らかい敷物が重ねて敷かれ、毛布が数枚と大きめのクッションが三つ置かれていた。少し離れた位置には香炉もあり、空の種族の体を癒すというラベンダーに近いがもう少し軽く爽やかな香りを放っている。初めは独房のようだと感じたが、環境は間違いなく独房より快適そうだった。
『何で、ここまでしてくれるんだろう?』
やはり、自分が珍しい生き物で、絶滅危惧種みたいなものだからだろうか……。それとも、何か見返りを期待しているのだろうか……。等と思ってみるが、すぐにエトワスやシュナイトに言われた言葉を思い出した。
『ああ、ダメだ。おれには居心地が悪い』
頭では理解しようとしているものの、どうしても他人の親切を疑ってしまい素直に受け取る事が出来ない自分が少し悲しいと思った。それでも、信用出来る相手とそうでない相手を見分ける事が出来ないので、身を守る為には仕方がないとも思う。
『相手がエトワスだったら、信用出来るのに……』
そう思い、ぼんやり薄闇の中に立ちつくしていると、小屋の扉が開き誰かが入って来た。
「また怪我をしたそうですね」
薄暗い上に逆光であるため顔形ははっきりと判別出来なかったが、そう言った声はアカツキのものだった。彼が現れたという事はエトワス達も森から戻ったに違いない。
「エトワスは!?」
思わず、真っ先にそう尋ねたディートハルトに、アカツキは期待通りの事を教えてくれた。
「彼らには、集めた薬草を私の住まいまで運んで貰っています」
それが終われば、今度こそ会いに来てくれるだろう。
「それはそうと……」
アカツキは目を僅かに細めて、ディートハルトの全身をジッと眺めた。
「君は、無謀な戦いを挑むのが趣味だと聞いたのですが……」
そう言いながら扉を閉め、手にしていたランプを壁の留め具に取り付ける。
「どうやら本当の事のようですね」
一瞬で、小屋の中には光が届く場所と棚で遮られてしまい影になる場所の、光と闇の強いコントラストが生まれた。
「手当てをしますから、あちらへ座ってください」
”趣味”だ等と誰がアカツキに話したのかは容易に想像がつく。間違いなく翠だろう。ディートハルトはそう思った。
「趣味じゃねえし」
ぽそりと抗議しながらも、ディートハルトは言われた通り小屋の奥に敷かれた敷物の上へと座った。アカツキはディートハルトに向かい合う形で腰を下ろし、持参した薬箱と布の掛けられた籠を傍らに置くと、ディートハルトの体の傷を丁寧に調べ、手際よく処置をし始めた。
「……せっかく体調が安定してきたというのに」
静かな口調だが、どうやらアカツキは機嫌を損ねているようだった。治療している患者が自ら進んで状態を悪化させるような事をしているのだから、当然だ。ディートハルトも一応アカツキの不機嫌さの理由に対してそれなりに自覚があるので、敢えて反論しようとはせずに黙って治療を受けている。
「地底の種族に属する魔物は、空の種族の血の匂いに惹かれて集まると言ったでしょう?」
ディートハルトの顔や手足には、深くはないが血が滲む新しい切り傷や痣が幾つも出来ていた。
「聞いていると思いますが、結界は壊れてしまっています。また夜になれば、昨夜の様に君を狙って魔物が集まってくる可能性が高いでしょう。村の者や君の連れが、結界の代わりに新しく防壁を設置してくれているので、昨夜の様に簡単には侵入を許さないと思いますが、もし魔物が村に入ってきて外が騒ぎになっても、君は絶対にここを出ないでください。いいですね?」
傷を洗って消毒し、再び傷めた右足には植物で出来た軟膏をたっぷりと塗り布を当てて、包帯でグルグルと巻き治療を終えると、アカツキはディートハルトにジッと視線を注いだ。
「……分かった」
言い分が無いわけではなかったが、ディートハルトは小さく頷いた。
「絶対に、ですよ?」
アカツキはさらに念を押す。
「分かってる」
と、少々うんざりした面持ちで、ディートハルトももう一度頷いた。
「終わりましたよ」
治療を終え薬箱に薬をしまったアカツキは、薬箱の横に置いていた籠に手を伸ばし、掛けられていた布を持ち上げてディートハルトに中を見せた。
「これは、レイメイが。少し早いですが、食事です。スープは冷めないうちに飲むよう言ってました」
見ると、焼き物の蓋付きの壺と一緒に、パンと小さなリンゴに似た果物が数個、それから本を読んでいた時に持って来てくれたビスケット等の菓子も入っていた。
「それでは……ああ、そうでした。これを」
立ち上がりかけたアカツキは、ふと思い出した様に懐に手を入れた。
「……ラズライト?」
アカツキが大事そうに掌に載せて差し出したのは黒く丸い物体だった。大きなひびが入っていてただのゴミにしか見えない。
「ええ。村に結界を作っていた石です。全部で6つあるのですが、今回は1個だけ持ち帰って来ました」
予定では結界の石を全部調べるつもりだったのだが、村が騒がしい事に気付き2か所目に向かう前に全員で戻って来ていた。
「この石で、魔物を防いでたのか……」
ディートハルトは、アカツキの手の上に広げられた布に嫌そうに視線をやった。そう言えば、ラズライトは地底の種族に属する魔物達を退ける力があるという話は聞いていた。そのせいで、ラズライトに近付き具合が悪くなるディートハルトは、地底の種族ではないかと疑われたのだ。
「おれは、その石に近付いた覚えはねえぞ。そんなのがあるって事も今初めて知ったし」
ディートハルトは少々不機嫌そうに眉を寄せた。身に覚えはないのだが、自分のせいでラズライトが砕け散ってしまったと言われた事が、過去にも何度かある。今度もまた、結界となっていたラズライトが壊れてしまったのは自分に原因があるのではと疑われているのだろう。ディートハルトはそう考えていた。
「何を言って……」
言いかけたアカツキは、森の中で彼の仲間に聞いた言葉を思い出し、納得したように「ああ」と頷いた。
「誤解しないでください。この石がこうなってしまったのが、君のせいだと言っているのではありませんよ。ただ、君に渡そうと思って持ってきただけです」
そう言って、アカツキはディートハルトに石を手渡そうとする。
「何でおれに?」
ディートハルトは、石を避けるように身をひいて、訝しげにアカツキを見上げた。
「何故って、君は空の種族でしょう?」
アカツキは、当たり前の事の様にそう言った。
「君たちにとって、ラズライトは大切な物のはず。興味はないのですか?」
何が気に入らないのか、とでも言いたげに、アカツキは不思議そうな表情で問い返す。
『大切なもの?』
アカツキの言葉を聞くと、逆にディートハルトの方が不思議そうな顔をして首を傾げた。
「少なくとも、おれにとっては違う。その石に関わって、いい事なんて今まで一度もなかったしな」
ラズライトは厄介なものでしかないと思っていた。近付く度に体が苦しくなるからだ。その上、ロベリア王国では偶然近くにいたせいで異国に連れ出される羽目になり、ヴィドール国でもこの石のせいでグラウカに詰られる等随分嫌な思いをした。
「それに、近付くと気分が悪くなるし、ってゆーか、死人の声を聞くための道具になんて興味ねえよ」
近付くと気分が悪くなる事も死者の声が聞こえる事も、決して良い事ではないと思う。そのような石が空の種族にとって大切なものだなんて、本当に全く理解できない。興味など湧くはずがなかった。
村の少女が読んでくれた古い書物によって、死人と交信する道具であると知ったばかりのラズライトを、手に取るつもりはもちろん近付く気にもなれず、ディートハルトは可能な限り距離をとって視線を投げていた。
少なくとも今のところ、声らしきものは聞こえない。急に体の具合が悪化したという事もないし石は光ってもいない。これは、近くに死者の魂が存在していないという事なのだろうか?それとも、完全に壊れてしまっていて何の力もない状態なのだろうか?
「ラズライトが君に悪い影響を与えるとは思えないのですが……」
と、1人考え込んでいたディートハルトを、やはり何やら思案していた様子のアカツキの言葉が現実に引き戻す。
「今も、このラズライトのせいで気分が悪くなっていますか?」
アカツキは半信半疑といった様子でディートハルトにそう尋ねた。
「……いや」
一瞬考えた後、ディートハルトは首を横に振る。
「それでは、死人の声を聞くための道具というのは?どういう事ですか?」
尋ねられ、ディートハルトは逆にアカツキに質問した。
「この石は、そういうものなんだろ?ここの本に書いてあったぞ?」
アカツキが不思議そうな表情をしているので、ディートハルトは村の子供達と読んだ本の内容を話して聞かせた。
「死者の言葉を聞く力……」
呟いたアカツキに、ディートハルトは小さく頷く。
「おれも、今までに2回は聞いてる」
「この森へ向かうよう指示した剣の幽霊の声と、昨夜の魔物の事を警告したという女性の声ですね」
ディートハルトは、もう一度頷いた。昨夜、モグラたちの襲撃の騒動が収まった後に、仲間達だけでなくアカツキにも、自分がモグラの巣穴で見付けたラズライトを拾った時に聞いた声の話と、その後見た夢の話をしていた。
「確かに、ラズライトは空の種族が命を終える際に仲間に遺す物だという事は、書物にも記されています」
ですが……と、アカツキは言葉を続けた。
「君が言うような力については、書かれていなかったと思いますよ」
「じゃあ、何て書いてあるんだ?」
眉を顰めディートハルトが尋ねると、アカツキは記憶を探る様に僅かに目を伏せた。
「ラズライトは、空の種族が自らの力を示すため装身具などとしている物であり、命を終える際に想いや言葉と共に仲間へ遺し伝えるものである……そう、記されていたはずです」
どうやら、ディートハルトは、村の少女が書物から拾った単語を間違えて繋げてしまっていたらしい。
「じゃあ、ラズライトってのは、死人の言葉を聞くための道具じゃなくて、魔物除けになる以外は普通の宝石と同じって事か?財産とか権力とかを誇示するために身に付けて、遺産の一つとして遺すってんなら」
納得がいかない。ディートハルトはそう思っていた。
「どうでしょう」
と、アカツキは首を傾げる。少なくとも、この村では宝石を権力の象徴や財産とみなす者はいないため、”普通の宝石”と言われてもよく分からなかった。美しい色の石を装飾品とする事はあったが、”財産や権力を誇示する”と、ディートハルトが言う感覚はよく分からない。
「でも、もしかしたら、記録として残っていないだけで、魔物除け以外にも色々と力があるのかもしれませんね。君が、亡くなった空の種族の声を聞いたと言うのなら、それもその一つなのでしょう。そうでなければ、君自身に元々そういった能力があって、石が影響を及ぼしその力を引き出したのかも……」
何しろ、両目ともラズライトの瞳をした最高位のセレステですから。そう付け加えるアカツキに、ディートハルトは思いっきり眉を顰めた。
「冗談じゃねえって」
「勝手な憶測ですよ」
結局、ディートハルトが石を受け取ろうとしないので、アカツキは布に包んだ状態の石を敷物の上に置くと、「それでは」と言って薬箱だけを手に取り立ち上がった。
「またしばらくしたら、薬を運んできますので、君は体を休めていてくださいね」
そう言ってアカツキが去ると、ディートハルトは壁に背を預けて座り改めて小屋の中を見回した。ランプの明かりが灯ってはいるのだが、背の高い本棚が並んでいるため光が届く範囲は限られている。自然とその見える範囲だけを視線は滑っていた。しかし、すぐに辺りを探るのにも飽きてしまう。視界に入る物が全て似たようなものばかりでつまらないからだ。どちらに目を向けても古い巻物や紙の束が収まった本棚しかない。
「本しかねえな」
書庫なんだから当たり前だ。自分の言った言葉に対してぼんやりそう思った時だった。
『ん?』
一瞬、視界の端に白い物が映った様な気がした。
『あれ??』
光の届かない薄闇の中に目を凝らしてみると、闇の中に一箇所、白く薄い煙のような塊がある。光が差して明るくなっているのかと思いかけたが、ランプの明かりは届いていないし、通気口を通り外部の光が入ってきている様子もない。
それどころか、その白いもやの範囲内は、霞んで見えている本棚が微妙に歪んでいるようにも感じられた。
『目がおかしくなったかな?』
そう考え、周囲を見回して確認するが、ランプの明かりが届いている場所は正常に見えている。もう一度よく見てみようと、明るい場所から闇へと視線を向けると、その白いモヤモヤしたものがふわりと動いた。
『動いた!?』
ディートハルトは驚き思わず立ち上がる。
白くモヤモヤしたものは、ディートハルトの視線の動きとは関係なく、意思を持っているかのように本棚の間の通路を進んでいく。まっすぐ進み、そのまま壁にぶつかる事無くフワッと通路を左側に曲がった。
『魔物か?』
生き物の気配がしない事を不審に思いながらも、白い魔物が移動していった方向に注意を向け、壁や本棚を背にしながらゆっくりと足を踏み出した。
数歩歩き、明かりが届く範囲から出て闇の中へと入ると、5つ程向こうの本棚の陰に白いものが留まっているのを見付けた。よく見ると、そのモヤモヤがぼんやりと人の様な曖昧な形をかたどっている事に気付く。
アレが魔物の本体なのだろうか、それとも術の一種なのだろうか?どちらにしろ、今のところ攻撃してくる様子はみられない。こちらから先手を打って攻撃してみるべきか、それとも、相手に気付かれないうちに小屋からそっと退散するべきか。そうディートハルトが考えていると、白いモヤモヤが風にでも吹かれたかの様に大きく歪み、炎の様にユラユラと揺れた。
「!」
魔物の攻撃を予測し、ディートハルトは反射的に身構えていたが、白いモヤモヤはただ揺らめいただけで攻撃はしてこなかった。その代わり予想外の事が起こっていた。
『けた……とうとう……見付けた……』
突然、音ではない言葉が頭の中に響き、ディートハルトは眉を顰めた。
『青い……ああ、綺麗な天の瞳……欲しい……ください』
悲しげに訴えられた言葉の内容に、ディートハルトは現実逃避したくなった。
「マジか……(また変なのが出た!)」
思わず呟いてしまう。
『その目を……1つでいい……』
半分でもやれるか!と言いたいところだが、恐怖心もあって口には出せなかった。
「……(これは幻聴……じゃ、ねえな。流石に)」
気のせいだと思いたかったが、これが3度目ともなると空耳で済ませる事はできなかった。自分でアカツキに話した通り、やはり今聞こえているものは死者の言葉なのだろう。しかも、今回に限っては何故かその姿のような物まで見えてしまっている。
「……(でも、何でいきなり?ああっ!そうか!アカツキがラズライトを持ってきたからだ!絶対そうだ!)」
ディートハルトは勝手に決めつけてアカツキを少し恨んだ。
『帰りたい……目を……』
ディートハルトは白いモヤモヤの言葉を無視し、クルリと背を向けた。聞こえていないふりをして小屋を出るつもりだった。
しかし……。
「!?」
ディートハルトの脱走を防ぐためか、外から鍵が掛けられているようで扉は全く動かなかった。
「ここ、開けて貰えませんか?」
すぐ近くに村人達がいるはずなのだが返事はなく、人が近付いてくる気配もなかった。
「誰かいませんか?」
少し大きな声でそう声を上げるが、やはり誰の返事もない。
「……トイレに行きたいんです。今すぐ」
扉を叩き、そう嘘もついてみた。しかし、応えはなかった。先程外にいた衛兵のような村人達は近くにいないのだろうか?そう、少し焦る。
『帰りたい……目が欲しい……』
すすり泣くような感覚を伴う言葉が頭の中に直接響いてくるが、ディートハルトは聞こえていないふりを決め込んで、白いモヤモヤの方を見ようともしなかった。
『……帰れない……帰りたい』
「!」
ディートハルトは、ほんの一瞬、チラリと横目で白いモヤモヤの位置を確認してみた。
「!」
ギョッとして思わず後ずさりしてしまう。白いモヤモヤがゆっくりと揺らめきながら、ディートハルトに向かって近寄りつつあったからだ。このままではすぐ目の前に来てしまう。
ディートハルトは扉から外へ出る事を諦め、逆に小屋の奥の明るい場所へと移動した。ランプの光の中へは入って来れないのではないだろうか、そう思ったからだ。しかし、モヤモヤは光の中も問題なく進みディートハルトの後を付いてくる。
しばらくの間、それ程広くはない小屋の中を、まるで追いかけっこでもするかのように逃げ回りつつ何度か扉を開こうと試してみたのだが、やはり外へは出られなかったので、とうとう覚悟を決め足を止めた。相手がただ追ってくるだけなので魔物よりは安全かもしれないと考えたからでもある。
「……」
小屋の一番奥の壁際に追いつめられた形になってしまったディートハルトは、壁を背に敷物の上に立ち、ジッと白い煙の様なモヤモヤを見据えていた。相手の出方を窺うため、自分から言葉を掛けようとはしない。
『天の目を……帰りたい……』
ディートハルトのすぐ目の前でモヤモヤがグニャリと揺れ、音ではない声が響いた。
「ソラの目なんて知らねえ。帰りたければ自力で帰ればいい」
そう言って、ぼんやりとした人型のモヤモヤの上の部分を睨み付ける。人間ならちょうど顔がある辺りだ。
『嘘だ!』
ディートハルトの言葉が通じているのか、モヤモヤは激しく揺れて『嘘だ、嘘だ、嘘だ』と繰り返す。
『やっぱ、逃げた方が良さそうだな』
そう思ったディートハルトは、アカツキが森から持ち帰ったラズライトの包みがすぐ足元に置かれている事に気が付いた。人型のモヤモヤが見え声が聞こえているのは、この石の力が影響している事は確かだ。
『コレさえ無ければ……!』
ディートハルトは石が壁に当たり粉々に砕け散ってしまう事を期待して、布に包まれた状態のラズライトを壁に向かって蹴とばした。
ゴツッ
モヤモヤの中を貫いて飛んで行き、鈍い音と共に壁に衝突したラズライトは、布から飛び出し床に落ちた。しかし、布に包まれたままだったせいか、少し欠けてはいたもののまだ球形を留めていて、床を勢いよく転がりどこかへ行ってしまった。
それでも、ディートハルトが蹴ったラズライトがモヤモヤの中を貫いたせいか、白いものはいつの間にか消えていた。
『良かった……』
ホッと安堵の息を吐いた時だった。扉の方から鍵が外される音が聞こえた。
『今頃来んなよ!』
やって来たのが誰かは分からないが腹が立ち、少しプリプリしながら扉の方へと向かう。
「どうした?」
扉を開けて入ってきた相手は、ディートハルトが何やら腹を立てている様な顔をしている事に気付いて、不思議そうに言った。
一方、ディートハルトの表情は一瞬で真逆のものへと変化していた。何度目の正直だろう。ようやく、待ち望んでいた人物が姿を現したからだ。
「エトワス!」