41灰色の森 ~イシ1~
その白い鳥は、風鳥と呼ばれていた。
音も立てず舞い上がり、気配を感じさせずまるで風そのもののように飛ぶためだ。
まだ暗い早朝、寝床を出たばかりのアカツキは窓辺に白い鳥が止まっている事に気が付いた。風鳥は空の種族に属する鳥で、その昔空の種族とともに空から地上に降り立ち、一部がそのままこの森の村の周辺に住み着いたと伝えられている鳥だったが、セレステのヒナであるディートハルトの存在に気付き扉の守護者達の村にヒナを誘ったのも、ヒナとその仲間の窮地を守護者達に知らせたのも、この風鳥だった。
「あの子に何かあったんですか?」
昨晩から長の家に滞在しているので心配はないはず。そう考えながらも、ヒナの異状を知らせに来たのかと僅かに眉を顰め窓を開けて問い掛ける。窓を開いてみると、すぐ近くの木の上にもう一羽別の白い鳥が止まっていた。
アカツキが外開きの窓を開けられるように仲間が止まる木の枝に移動していた風鳥が、澄んだ声で一声鳴く。
『気を付けて』
『何か来るよ』
もう一羽も続けて鳴いた時、フワリと何か靄のような白いものが横切ったように見えた。鳥が飛び立った姿ではない。ごく薄い大きな布のような物が風に舞っていたかのようだった。同時に、二羽の白い鳥は木の枝を飛び立つ。
「?」
見間違いかと思いながらも、アカツキはもう一度薄闇に目をこらしてみた。しかし、特に目に付くような動きのあるものは無く生き物の姿もなかった。
『見間違い……?』
薄く白い雪が積もっているため見間違えたのかもしれない。そう考えてアカツキは窓を閉めた。
* * * * * * *
昨夜のモグラの襲来後、再び体調を崩してしまったディートハルトは、夜が明けても臥せったまま寝床を出る事が出来ないでいた。昼間の穴の底での戦闘によって無理に身体を動かし体力を消耗しすぎたせいというよりも、アカツキ特製のセレステ専用薬湯とやらが心地良くて、ついつい長風呂になってしまった事が災いしたのかもしれない。
長の家の一室に設置し直された鳥の巣状のベッドに蹲るようにして横たわり、うつらうつらと夢と現実の間の世界を彷徨いながら、いつものようにエトワスや翠達が訪れる事を少し期待して待っていた。しかし、いつまで経ってもエトワスどころか頻繁に顔を見せる……と言うよりセレステを観察しに来るアカツキさえ姿を現さない。
外は明るくなっているような気がするけれど、もしかしてまだ朝になっていないのだろうか……そうぼんやりと考えていると、ようやく部屋を訪れる者があった。
「エトワス!」
かと思ったが、目の前にいたのは別の人物だった。
「身体を起こせる?薬と食事を持ってきたよ」
と、屈み込んだ姿勢で明るい声を掛けたのはアカツキでもなく、レイメイという名のアカツキの妹だった。母親の長、そして父親と共に同じこの家で暮らしている。
「今食べる?」
そう言って布を掛けた籠の中を見せる。中には蒸しパンの様な物が入っていた。
「あ、いや、今は……」
ディートハルトが首を横に振ると、レイメイは籠を近くの低い台の上に置いた。
「じゃあ、薬ね。熱いから気を付けて」
そう言ってレイメイは薬が入った器を差し出した。一目でアカツキと兄妹だと分かる容姿をしていたが、纏う雰囲気は逆のもので、非常に快活そうに見えた。
「ヒナさんの仲間は、アカツキと一緒に今朝早くに森へ行ったよ」
ディートハルトが何かを探すように周囲に視線を走らせているので、察したレイメイはそう説明する。
「薬を作る材料になる植物を集めに。それと、結界の様子を調べに」
「ケッカイ?」
重い身体を起こし薬草を煎じたものを飲み干したディートハルトは、早くも両手を差し出して待っているレイメイに、空になった器を渡して聞き返した。
「村の周囲に、魔物の侵入を防ぐための結界が張ってあるんだけどね。でも、昨夜かなりの数の魔物が入ってきたでしょ?だから、結界が力を失ってしまってるんじゃないかって事で調べに行ったんだ」
「……」
昨日、川近くを歩いた時は見付けることが出来なかったが、やはり魔物の侵入を防ぐ罠が仕掛けてあったのか。ディートハルトはそう思った。
「空の種族がかなり古い時代に作ったものらしいし、あんまり古くなりすぎていつの間にか効力が失せてしまってたのかもね」
村が無防備な状態になってしまったというのに、あまり危機感を抱いてはいないのか、レイメイは何でもない事のように言って笑った。
「いつ頃帰って来るんだ?」
「そう遠くに行った訳じゃないから、みんな日が沈む迄には帰ると思うけど」
レイメイは笑いながら答える。
「そんな寂しそうな顔して。今朝会ったばっかりなのに」
「え?会ったって?」
ディートハルトは目を丸くした。
「ヒナさんがさっき名前を呼んでた人、今朝ここに来たでしょ?話さなかったの?」
ディートハルトは首を横に振った。どう考えても記憶になかったからだ。きっと、自分が眠っていたのでエトワスは起こさないで行ってしまったのだろう。
「じゃあ、アタシは行くけど、少し熱もあるみたいだしちゃんと寝とくんだよ。ああ、アカツキが外出は禁止だって言ってたよ。絶対にって」
そう念を押すと、レイメイは空になった器を手に部屋を出て行った。
それからまた一眠りし、正午を過ぎた頃になって再び目を覚ました。
薬の効果か熱も下がり少し空腹を感じたディートハルトは、寝床を出て床に敷かれた厚い布の上に座ると、レイメイが置いていってくれた籠の中から蒸しパンを取り、少しだけ千切って食べた。何やら草っぽい風味があり少し甘くて美味しい。
『だいぶ良くなった……』
魔物との戦闘で負った怪我はまだ治っておらず、傷薬を塗り包帯を巻き付けていたが、身体の方は動かせない程辛いという状態ではなくなっていた。睡眠を充分に取り食べ物を口にしたせいか、体力が回復したような気もする。
『エトワス、どこいんだろ?』
空腹が収まり眠気もすっかり取れて気分が落ち着くと、彼の事を考えていた。ふと、“いつでも甘えてくれ”そう言っていたエトワスの言葉を思い出し急に恥ずかしくなる。
『ガキじゃねえし』
そう思ったが、何だか無性に顔を見に行きたいと思ってしまった。
『甘えたいとかじゃなくて、ただ会いたいだけだから。……少しだけ外に出てみようか……』
外出は禁止と言われてはいたが、そう思いかけた時だった。部屋の扉が開いた。
『エトワス?』
扉が開く音にハッとして目をやったディートハルトだったが、すぐにつまらなそうに視線を落とす。またそれが期待していた人物ではなかったからだ。今日はまだ一度も顔を見ていないせいだろうか。少し落胆してしまった。
「そこに下ろそっか」
「うん」
突然やって来た二人連れは、ディートハルトのあからさまにがっかりとした反応など気付きもせずに、彼のすぐ近くの敷物の上に抱えてきた荷物を下ろした。それは数冊の古い本だったが、夜の間に降り出して今もまたチラチラ振っている雪のせいか、表紙の隅の方が僅かに湿って捲れていた。
「今、倉庫から出して持ってきたの。おじさんのお手伝い」
尋ねてもいないのにそう言ったのは、昨日ディートハルトに助けを求めてきた少女だった。傍らで、連れの弟も頷く。今日も二人はよく似た服装で、色違いの暖かそうなセーターを着ていた。そして、少年の方は片腕に人形を抱えている。ディートハルトが森の中で拾って持ち帰った物だった。汚れが落とされ、顔の穴が空いていた部分は綺麗に塞がれて大きめの丸いガラスのボタンが2つ並んで縫い留められている。無事に新しく目を付けて貰ったようだ。
「アラレに目が付いたんだな。良かったな」
ディートハルトの言葉にアヤメが嬉しそうに頷いた。
「うん!」
「それからね」
見て見て、と少女が窓の外を指さした。
「……」
促されるまま視線を向けると、窓の向こうに雪の塊が見えた。それは、少しいびつな雪だるまだった。
「お兄ちゃん達がお出掛けしてて寂しいんでしょ?だから、ヒナさんが寂しくないように作ってみたの」
「え!?」
誰だ、そんな事を教えたのは。ディートハルトはそう思った。
「頑張って作ったんだよ」
少女の言葉に、遠い昔の日を思い出す。子供の頃、雪が降ると自分もよく雪だるまを作っていた。と言っても一緒に作る友達はいなかったので、幼い子供が1人で作る事が出来る限界の、かなり小さいものばかりだった。一度、他の子供達が協力して作っているものの様に大きなものを作りたいと頑張ってみた事があったのだが、どうしても雪玉を持ち上げて頭を重ねて置く事ができず横に並べて置いたため、倒れている状態の雪だるまになってしまった事があった。それを目にした町の子供達に笑われて馬鹿にされてしまったのが、今思い出しても少し悔しい。
「可愛いでしょー?」
少女の声がディートハルトを現実に引き戻し、ディートハルトは曖昧に返事をした。
「あぁ」
石だろうか、少しいびつな形をした黒い物が3つ顔に埋め込まれているのだが、目にしては妙に大きく、配置された左右の目の高さもはっきり分かるほどずれている。口になっている黒い石は縦に長い楕円形をしていて叫んでいるように見えた。何故その石を90度回転させて横に長い形の口にしなかったのだろう、ディートハルトはそう思った。
「えへへ」
ディートハルトの返事を聞き少女が嬉しそうに笑う。そして、今度は持ち込んだばかりの本を指さした。
「ヒナさんの役に立つ事が書いてあるかもしれないんだって。読んでみたら?」
「役に立つ事?」
暇をもてあましていた事もあり、ディートハルトは運ばれてきた古びた本に少し興味を持って手を伸ばした。役に立つというからには空の種族について書かれたものなのだろうが、表紙には何も書かれていないので中を開いてみないと何が書かれているのかは分からない。
「……」
適当に手近にあった本を開いてみたディートハルトは、すぐに無言で眉間に皺を寄せた。視界に飛び込んできた黄ばんだ紙にビッシリと並んでいる黒い記号……恐らく文字は、全く馴染みのないものだったからだ。
「どうしたの?」
すぐにそう少女が尋ねる。
「読めない……」
ボソリと言うディートハルトに、少女は何故か嬉しそうな表情を見せた。
「字が読めないの?じゃあ、私が読んであげる」
「いいよ」
ディートハルトは即答した。いくら異国の文字で読めないとはいえ、子供に読んで貰うというのはとても悔しいような気がする。特に、この生意気な少女の世話になどなりたくないと思っていた。
「大丈夫。人形を探してくれたお礼だから」
何が大丈夫なのかよく分からない。ディートハルトはそう思った。
「じゃあ、読むね」
少女はまるで重大な使命でも与えられたかのように、妙に張り切った様子でいそいそとディートハルトの隣に腰を下ろした。すぐに弟もそれに習い、ディートハルトを挟み両脇にそれぞれ二人が座るという形になる。はっきり言って窮屈だ。
「……」
ディートハルトが申し出をもう一度”お断り”しようと口を開く間もなく、少女はディートハルトがすぐに閉じて置いてしまった本を手に取った。
「ええと、これね」
『せめて、もう少し離れて座れ』
そう思ったが、少女の方はわざわざディートハルトに開いた本のページが見えるように、両手をいっぱいに伸ばしてディートハルトの正面に本を差し出した。
『挿絵付きならまだしも……』
読めない記号の羅列を見せてくれたところで意味はない。
「空の種族……石……ラズライト」
少女は開いた本を辿々しい口調で読み上げ始めた。どうやら、ディートハルトが読めなかったその本は、空の種族が使用していたという石、ラズライトについて書かれたもののようだった。ディートハルトは少しだけその本の内容に興味を持ち、少女の言葉に黙って耳を傾けた。
しかし……。
「ええと……飾る、力……」
「そう書いてあるのか?」
そう尋ねると、少女はキッとディートハルトを睨みつけた。
「嘘だって思ってるの?」
「……いや」
半信半疑ながらもそう答えると、少女は改めて本に視線を落とした。
「……え、死んだ人?……死んだ人……言葉?」
問う様な口調で首を傾げる少女に、ディートハルトはやはり正確に読めてはいないのだなと思った。きっと読める単語だけを拾っているのだろう、と。
『って事は……』
ディートハルトは少女が読み上げた単語を反芻してみた。繋げたらどういった文になるのだろう。
『ラズライトは飾る物で力がある。で、死人の言葉……?』
そこまで考えた時、悪寒がした。
『ラズライトは装飾品で、死人の言葉を聞く力がある!?』
勝手に補足した部分もあるが、その解釈が間違っていない自信があった。ディートハルトが導き出したものを裏付けるかのような体験を過去にしているからだ。今までに少なくとも2度は死んだ者の声を聞いている。最初はヴィドール国で剣に憑いた幽霊の声を聞いた時だ。あの剣にもラズライトが飾られていた。そして、2度目は魔物の巣に落ちた時。とても小さな破片だったが、穴の底でラズライトの欠片を手にした時、魔物に襲われ命を落とした女性の言葉を確かに聞いた。
「そうだったのか……」
思わず呟く。
『ラズライトって、死者の言葉を聞くための道具だったのか……』
少女は続きを読んでいたが、考え込んでいたディートハルトの耳には入っていない。
『でも何で?何でそんな石が必要なんだ?』
色々と疑問が湧いてくる。
「ヒナさん、聞いてる?」
ふと、本を読み続けていた少女が訝しげな瞳でディートハルトの顔を覗き込んだ。
「あぁ。いや。聞いてなかった」
我に返り正直に答えるディートハルトに、少女は不満げな表情を見せる。
「もう!ちゃんと聞いててよ!」
そう言い、音読を続けようとした少女をディートハルトは止めた。
「あ、もういいから」
正直、あまり深く知りたいとは思わなかった。不気味だからだ。そして、もう死人の声は聞きたくないし、これからは今まで以上にラズライトに近付かないよう気を付けなければ……そうも思っていた。
「え。もう、いいの?まだちょっとしか読んでないのに」
ディートハルトの言葉に少女は残念そうに言う。その時、部屋の扉がノックされ新たな人物が姿を現した。
「!」
ディートハルトはハッとして顔を上げるが、三度目の正直という事はなくまた期待は裏切られていた。
「早速読んでいたのか」
3人仲良く並んで座り1つの本を広げている様子に、笑顔を零しそう言ったのはシュナイトだった。彼もまた子供達と同じように数冊の本を手にしている。
「手伝ってくれて、ありがとう」
シュナイトにそう言われ、少女は子供らしくはにかんだように笑った。ディートハルトに対する強気で大人びた態度とは雲泥の差だ。
「何か面白い事が書いてあったかな?」
尋ねるシュナイトに、少女は首を横に振った。
「あんまり。難しくて全部は読めなかったの」
「やっぱ読めてなかったのか……」
ディートハルトが呆れた様に呟くと、少女はすぐに食ってかかった。
「ちゃんと読めてたもん!ヒナさんなんて全然読めなかったでしょ!」
「ここに持ってきた本は、殆どが今よりずっと昔のもので、古い言葉が沢山使われているからな。それに、これは文章を書くための特別な言葉だから、君たちが読めなくて当たり前なんだよ」
ディートハルトが少女に言い返すより先にシュナイトはそう言って、自分が運んできた本を下ろすと3人に向き合うように座った。
扉の守護者達の村に伝わるその書物は、どれもこの大陸の古い言葉と文字を多く使った文語で書かれていて、ファセリア帝国で生まれ育ったディートハルトにはもちろん、古い言語や文語の知識がない少女にも解読する事は出来ないものだった。
「それじゃあ、おじさんが読んでくれる?」
少女が甘えるようにシュナイトを見上げる。
「ああ、構わないよ。でも、君達が楽しめそうな本があったかな……」
そう言ってシュナイトは本を手に取り内容を確認する。
「空の種族について書かれている物を選んでしまったからな」
「さっきのは全然面白くなかったから、楽しいお話がいい!」
少女がリクエストすると、弟も頷いて一冊の薄い本を差し出した。
「これがいいな」
「こんな本も混ざっていたのか。ちょうど良かった。これならいいかもしれないな」
シュナイトが手に取った本をディートハルトがチラリと覗き込んでみると、文字よりも空白と絵の部分が占める範囲の方が広いものだった。黒一色で、有翼の人物と翼のない人物が向かい合い周囲に動物たちがいる絵が描かれている。
「『森のスオウと空のロムエル』というタイトルだ」
恐らく……と言うより、間違いなく子供向けの絵本のようだった。兄妹はディートハルトの両隣から移動して、ワクワクとした表情で今度はシュナイトの両脇に腰を下ろした。
『その本じゃ、おれに役立ちそうな情報はなさそうだな』
そう考えると、ディートハルトは視線を窓の外に移した。
「『むかし むかし、スオウという名前の可愛い女の子がいました。』」
本の内容に興味はないが、すぐ近くにいるためシュナイトの声はディートハルトの耳に入ってくる。ありがちな冒頭部分につまらないと感じながらも、ディートハルトは少しだけ懐かしい気持ちになっていた。幼い頃、養い親が絵本を読んでくれた事などなかったが、町の教会の神父様には何度か読んでもらった記憶がある。それは、大きくて強いドラゴンや美しいお姫様が出てくる夢と冒険に満ちた楽しいストーリーのものばかりで、滅多にない絵本を読んで貰えるその時間がディートハルトは大好きだった。特にかっこいいドラゴンが大好きで、何で王子様はドラゴンをやっつけるんだろうと、王子様の事を嫌いになったのを覚えている。
幼い頃のディートハルトと同じように姉弟も楽しいのか、シュナイトの読む物語を非常に熱心に聞き入っていた。しかし、二人の子供達とは違い、ディートハルトは女の子と有翼の男の子が森に遊びに行き、優しいオオカミさんと可愛いウサギさんが『一緒に海に行こう』と現れたところで早くも話に飽きてきた。せめて10年前だったら話の内容を楽しむ以前に仲間に入れて貰える事が嬉しくて、喜んで姉弟と共に座っていたかもしれなかったが……。
『エトワス、いつ帰って来んのかな……』
顔を見ていないのはたった一晩と半日だけで、会おうと思えば会える距離にはいるはずなのに、姿が見えないと何だか無性に落ち着かない。
『何で、起こしてくれなかったんだろう?』
空の種族の国に行けば、またしばらく会えなくなるかもしれない。それ以前に、ウルセオリナに戻った時点で会えなくなってしまう可能性もある。彼が自由気ままに行動出来る身分ではない事はディートハルトもよく知っている。それに、皇帝直属とはいってもただの一兵士でしかない自分が、ウルセオリナ地方の次期領主に正式な理由も面会の申し込みもなしに気軽に会いに行くことなど出来ない。
『おれも森に行ってみようか……』
一緒に行動できる時間は限られたものだと分かっているので、なるべく側にいたかった。
『でも、怒るかもな……。側にいるって言ったくせに』
等と考え事をしているうちに、薄い絵本の物語はあっという間に終わりを迎えてしまっていた。
「『……そして、オオカミさんは死んでしまいました。みんなは悲しくて、声をあげて泣きました。おしまい。』」
不意に耳に入ってしまった物語の結末に、ディートハルトは現実に引き戻され思わず心の中で叫んでいた。
『ええっ!? 優しいオオカミさん死んだ!?何でっ!?』
一方、しっかり話に集中していた姉弟は悲痛な表情を浮かべ、弟に至っては涙目になっている。
「オオカミさん可哀想……!」
「ウサギさん、ひどい!!ひどすぎるよ!」
『えっ、ウサギ悪者!?』
幼い頃ウサギのぬいぐるみを宝物にしていたディートハルトはウサギ贔屓だった。可愛いウサギが悪役とは納得がいかない。
『ってゆーか、主人公は女の子じゃなかったのか?どこでオオカミとウサギの話に?』
うっかり最後だけ聞いてしまったディートハルトは、聞き逃してしまった部分が猛烈に気になったが、聞いていなかったのでもう一度読んでくださいとか、どんな話だったのか教えてください等とは言えなかった。
「子供向けの話には、意外と残酷な結末のものが多いな」
読む本の選択を誤った……そう言いたげにシュナイトが僅かに眉を顰める。
『だから、何でそんな展開になったんだっ!?』
一緒に海に行こうと言って現れた優しいオオカミさんが、どう転んだら命を落としてしまうのか。理解に苦しむ。きちんとストーリーを聞いていても嫌な気分になりそうだが、聞いていなくても余計に後味が悪い。
「…………」
ディートハルトが1人悶々としていると、明るい声が響いた。
「何か盛り上がってるね」
レイメイだった。菓子と飲み物を乗せた盆を手にしている。
「焼きたてだから温かいうちにどうぞ。二人が好きなお団子もあるからね」
仄かに香ばしい甘い香りがふんわりと漂ってくる。
暗い表情から一転し、姉弟は歓声を上げて盛られたビスケットや草色の団子に早速手を伸ばした。シュナイトも一息入れようと、レイメイが淹れた熱いお茶に口を付けている。
ただ1人、ディートハルトだけは賑わっている輪の中へ入らず菓子やお茶にも目を向けず、ぼんやり窓の外を眺めていた。視線だけではなく心も外の世界へと向いていた。
『どれくらい時間が経ったんだろう?』
本を読んだといっても、薄い絵本なので大した時間は経っていない。
『まだ帰って来ないのか……』
相変わらずその事ばかり考えていた。
『おれも一緒に行きたかった……』
そうでなければ、行かないでここに居て欲しかった。そうぼんやりと思う。
「子供に絵本を読んでやるという夢が、今頃叶うとはな」
シュナイトの声がディートハルトの意識を引き戻した。振り向くと、姉弟が読んで貰った絵本の内容をレイメイに説明している姿が目に入った。ということは、自分に向けて言われた言葉なのだろう。
「夢?」
シュナイトが嬉しそうに笑っているので、思わず聞き返してしまった。正直、意外だと感じていた。シュナイトは体格が良く、どちらかというと精悍な風貌をした人物だ。纏う雰囲気も、ディートハルトにとっては学生時代から周囲に溢れていて馴染みのある類のもので、武人と言われれば何の違和感もないが、子供に囲まれ絵本を読み聞かせているイメージからはほど遠い、そう思う。
「ああ、そうだ。生まれてくる君に読んでやろうと思って沢山の絵本を用意していたんだ。もちろん、明るくて楽しい結末のものをな」
「おれに?」
ディートハルトは意表を突かれた表情で笑顔のシュナイトを見た。大勢の子供達に読み聞かせをする事が夢だったのかと思っていたが、違ったようだ。
「叶う事はないと思っていたよ」
頷くシュナイトの言葉を聞いて感動や喜びといったものはなく、ディートハルトは真っ先に罪悪感を抱いてしまっていた。シュナイトが読んだ絵本の話は全く聞いていなかったからだ。
『ヤバイ。感想とか聞かれませんように……』
少しだけドキドキしながら胸の内でそう祈る。同時に、もし聞かれたら、自分は『ウサギが好きなのでショックだった』と答える事にしよう、と、一応答えのようなものを用意してみた。しかし、ディートハルトの願いは聞き届けられたのか、シュナイトはすぐに話題を変えた。
「絵本で思い出したが、家に戻ったら君の部屋に案内しなければならないな」
「?」
今まで使っていた客室の事だろうか。どうして今さら?と、シュナイトの言葉にまたもやキョトンとするディートハルトに、シュナイトは再び嬉しそうに告げた。
「君のために20年前から用意してあった部屋だ。絵本だけでなく、ぬいぐるみや玩具も沢山あるぞ」
「え……」
ディートハルトはさらに驚いてシュナイトの顔を見上げた。やはり、全く予想外の事だったからだ。この年まで生きてきて、疎まれ邪魔者扱いされた事はあっても、快く受け入れ招き入れられたり、信仰心や優越感が底にある哀れみや同情から来るものではない、素直な善意や慈しみといった類の無条件の愛情を注がれて、必要以上の何かを与えられたりした事はなかった。それどころか、生きていく上で最低限必要なものにさえ事欠く場合も少なくなかったし、そのような状況で手を差し伸べてくれる者も居なかった。
少なくとも、帝都で彼に出会うまでは……。
ディートハルトにとって、心からの親しみを感じ絶対的に信頼出来るのはエトワスだけだった。だから、シュナイトの言葉には戸惑いを感じてしまう。
「心配いらない。ちゃんと掃除はしてあるから、いつでも使える状態になっているよ」
ディートハルトが驚いた表情を見せたのは、部屋を20年間放置していたと受け取ったからだと考えたシュナイトはそう言って笑った。
「……」
ディートハルトはどう反応したらいいのか分からず、ただ落ち着かない気持ちのまま無言でシュナイトを見ることしか出来なかった。一方、シュナイトは困惑気味のディートハルトを気にも留めず、その部屋がどういう風に飾り付けられていて、どのような家具がどういった形で配置されているか、どのような玩具がどれくらい用意されているのか、そして、そうなるに至った理由等を楽しそうに話して聞かせているのだが、ディートハルトの方は曖昧な返事と共に頷きつつも、現実から逃避するかのように、エトワスが早く戻ってこないだろうか……と、やはり上の空で同じ事を考え続けていた。
* * * * * * *
「これが、結界?」
フレッドは、薬草の入った大きな籠を地面に下ろし、どうにも信じられないといった様子で目の前の木を見上げた。守護者達の村からそう離れていない村の北側に位置する森の中、アカツキを先頭にフレッド、シヨウ、翠、そしてエトワスは一本の木を囲んでいた。
これからアカツキはディートハルト達と共にファセリア大陸に向かう事になるが、ディートハルトのための薬を用意するのに沢山の薬草が必要になる。そこで、彼の友人達の手を借りて早朝から薬草を集めていたのだが、充分な量が集まったため今は結界の様子を見に来ていた。
「他の木との違いが分かんねえな」
植物の根やキノコが入った籠を背負ったままのシヨウも、そう言って木を仰ぎ見るので、エトワスと翠もつられて見上げてしまう。アカツキが案内し指し示した木は、確かに周囲のものよりは幾分幹が太く高さもあり枝振りも良いようだが、それ以外にはこれといった特徴も見当たらない針葉樹だった。
「いえ、下です」
頭上を見上げている4人とは逆にアカツキは地面に膝を着き、木の根元の下草の中に手を入れると大きな根と地面の間に出来た小さなくぼみを探り、何かを掴み出した。
「これです」
アカツキが掌に乗せていたのは、ドングリ程の大きさの黒い塊だった。
「結界って、そんな小さい石ころが?」
フレッドは、木を見上げていた時と同じく、疑わしいといった面持ちでアカツキが手にしている物へ視線を投げた。この小さな塊よりも大きな木の方がまだ”結界”と呼ばれるのにふさわしいような気がしていた。
「この1つだけが結界という事ではなく、村を囲むように6箇所に同じ物があって、その6つの石の力で村を包み結界としているのです」
そう説明しながら、アカツキがその塊をゴシゴシと指で擦り覆っていた泥の汚れを落とすと、その下に黒っぽい硝子のような滑らかな表面が現れた。
「もしかして、それってラズライトって奴?」
翠が覗き込んだその物体は、見覚えのある黒っぽい色の石だった。これまでに2度目にしている指輪や宝剣の飾り石等の様な装飾用に加工された物とは違い、綺麗な球体をしているので宝石と言うよりビー玉の様にも見える。しかし、大きくひびが入って内部が濁り、今にも砕けてしまいそうだった。
「ええ、そうなのですが……」
と、アカツキは微かに眉を顰める。風鳥達は“何か来る”と言っていたが、この事と関係があるのだろうか……。
「効力を失ってしまっているようですね。そのせいで昨夜は魔物達が村に入って来れたのでしょう」
アカツキの言葉に、翠は傍らに立つエトワスに視線を投げた。すると、同じことを考えていたエトワスも軽く頷き僅かに眉を顰める。
『でも、ディートハルトは、この結界の石の存在は知らないし当然接触もしていないよな』
「ん?もしかして。またラファエルのせいで石が壊れたのか?」
翠とエトワスが気付き、しかし、ディートハルトの事を思い敢えてアカツキの耳に入れる事は避けた言葉を、シヨウが悪気なく口にしていた。
「また、あの子のせいで?どういう事ですか?」
アカツキはすぐに興味深げな視線でシヨウを見る。翠は薄く苦笑いしつつポケットを探り取り出した煙草を口に銜えた。エトワスは表情こそ変えなかったものの、その心中は翠と同じで溜息を吐きたい気分だった。
「ああ。今までに何度かあった。アイツが近付くと勝手に石が壊れるんだ。その前に、すげえ苦しくなるとも言ってたな」
「本当ですか?その様な話は初めて聞きますが……」
と、アカツキは不思議そうに首を傾げた。
「それに、苦しくなるというのは妙ですね。空の種族にラズライトが害を及ぼす事など無い気がしますが。元々具合が悪かったというだけで、ただの偶然ではありませんか?」
口振りからして、アカツキは今聞いたばかりのディートハルトとラズライトの関係性を信じてはいないようだった。
「仮にあの子が、この石が壊れた事に関係しているのだとしたら」
アカツキは再びラズライトに視線を注ぎ言葉を続ける。
「石が魔物を阻む力よりも、あの子の魔物を惹き寄せる力の方が強すぎて侵入を抑えきれなかったために、石が壊れてしまったのかもしれません。そういった意味では、あの子のせいで石が壊れたという事になりますが」
アカツキは笑いながら話しているため、本気でそう思っている訳ではなさそうだった。
「光に虫が寄って来るみたいなもんか」
フレッドが勝手な解釈で納得する。
「虫、だってさ」
ハハと小さく笑って翠がエトワスを小突く。
「お前もだろ」
エトワスが冷めた視線を向けるが、翠は余裕の笑みを返している。
「オレがもしそうだったとしても、益虫だと思うよ」
「石が壊れたのがあの子のせいだとは思いませんが、彼はセレステですから、普通の空の種族以上に地底の種族に属する魔物を引き寄せてしまうのだと思います。それに加えて今は身体が弱っていますし、より狙われやすくなっているのでしょう」
そう言い、アカツキはひびの入った石を布で包むと懐に入れた。
「今朝の風鳥の警告も気になりますし、結界が壊れているとなればあの子の身が心配ですね。他の結界を調べるのは私に誰か一人同行して貰うとして、他の皆さんはすぐに村に戻った方がいいかもしれませんね」