4雨 ~闇~
「どうされますか?敵は、退いたみたいですが」
小高い丘の上で、数時間ほど前までは戦場だった平野を見下ろして立つエトワスに、ウルセオリナの騎士が尋ねた。
「このまま待機しよう。この雨じゃ、いくらこっちが地形的に有利でもきつい」
エトワスは無駄だと知りながら、目の中に流れ込んでくる雨水を手の甲で拭う。大降りの雨が止む気配は全くなかった。しかし、この雨のおかげで戦闘は一時中断され、ロベリア方面から現れた敵は南へ後退している。
「分かりました」
若い次期公爵の言葉に、小隊の隊長を務めている中年の騎士は不満そうな表情も露わに渋々頷いた。この好機を逃さずに一気に敵を追いつめて殲滅してしまいたいらしい。気持ちは分かるが、味方も大分傷ついている。体を休めていた方が……。そう考えた上での判断だった。それに、気になる点もいくつかある。報告で、武装集団は魔物を連れていると聞いていて、実際にこのファセリア大陸では見かけない魔物と思われる生き物が敵の中にいるのだが、魔物とは少し違う生き物も混ざっている様なのだ。エトワス達ファセリアの人間が知っている魔物と呼ばれる生き物達は、異形ではあるが虫系や植物系、爬虫類系や亜人系などと分類できる特徴を持った姿をしているものなのだが、その少し違う生き物たちは、一体何系なのかが全く分からない。例えば、まるで人間の様な手足が複数生えているが、本体部分は芋虫の様にブヨブヨした塊で、そのくせ爬虫類の様な頭部を持ち、かと思えば蜘蛛のような糸を吐く。要するにさまざまな生物が混ぜ合わさって一つの生物になったような不気味な生き物だった。専門家ではないが、生物として異常なのではないかと感じていた。そして、初めて見るそれら異形の怪物たちは、明らかにファセリア側の兵のみを狙っていた。魔物を操ることができるなど聞いたこともない。捕まえて放つ事は出来るが、放った魔物が襲う対象を指定する事はできないはずだ。
『敵は何者なんだ?そして、目的は?何かがおかしい』
「………様、エトワス様!」
エトワスは、ハッとして振り向いた。考え込んでいて、呼ばれている事に気が付かなかった。
「ここには見張りの兵を立たせます。酷い雨ですのでエトワス様は中へ」
気遣うようにそう言ったのは、ジルやマリウスと同じでエトワスの護衛役のE・Kの一人のライザだった。
「へえ。しばらく会わない間に、随分優しくなったんだな」
記憶の中の彼女は非常にクールで、相手が年下の次期公爵だろうと容赦なく歯に衣着せぬ物言いをする人物だった。エトワスが笑うと、ライザはたっぷり雨水を含んでしまった長い髪をうるさそうに後ろへ払いながら、ニコリともせずに答えた。
「エトワス様にもしものことがあれば、公爵閣下に顔向けできません。それに、この雨で風邪でもひかれたら戦力も落ち兵達の志気も下がってしまいます」
エトワスは苦笑した。
「まるで、ディートハルトみたいな言い方をするな……」
理屈っぽいところと妙に冷めたところが、どこか似ている。
「何ですか?」
一人ぼそっと呟いた言葉を聞き逃さず、ライザが恐い顔で睨み付ける。エトワスが幼い頃から、ウルセオリナの貴族出身の彼女は父親とともにE・Kとして彼の祖父に仕えていた。本来はエトワスの妹フェリシアの護衛役なのだが、彼ら兄妹にとっては姉のような存在でもあり、エトワスはともかくフェリシアの方はよく遊んでもらっていた。
「とにかく、早くテントの中にお入り下さい。ウルセオリナ城へ戻っていた伝令からの知らせもありますので」
ライザはよほど気になるのか、腰まで届く長い髪を何度も手で絞りながら言った。一つに束ね、ゆるい三つ編みにしている淡い金髪からは後から後から雨水が伝って落ちている。
『そんなに長いと結構重いだろうな』
などと考えながら、エトワスは本部と名の付くテントに向かって歩き出した。雨は降り続き、弱まりそうな気配は全く無かった。
* * * * * * * * *
「参ったね」
全くの無表情で雨粒の滴る濃い金髪をかきあげているディートハルトに、翠は苦笑した。降り続く冷たい雨のせいで全身ずぶ濡れだった。もう、それを拭いていたタオルは役に立たない。気持ち悪い上に寒い。そして、彼の前を行くディートハルトはあきらかに不機嫌だった。気遣ったつもりだったのだが……。
翠とディートハルトが、皇帝の命令でウルセオリナ軍に合流するため帝都ファセリアを出たのは3日前のことだった。そして、同級生のロイとリカルドも含む6名のI・K達と共にウルセオリナ領主の居城へ着いたのはつい昨日のことだ。本来ならば、今頃は前線で戦うエトワスらウルセオリナ軍と合流するため、大陸をそのまま南西に向かっているはずだった。しかし今、自分たち二人は北上している。帝都へ戻る途中だった。
何故、二人はとんぼ返りをする事になったのか……。
その日の朝早く、ディートハルト達8名のI・Kはウルセオリナ城を後にし、前線を目指して南下していた。そして、正午を過ぎた頃にはもうウルセオリナの城下町に一番近い町オリナを通過し、目的地まで数キロという地点まで来ていたのだが、正午前からだんだん雲行きが怪しくなっていて一雨来そうな天候となっていた。
『あ……』
魔物の出現率が高い山道を通ってきたため、小休止をとっていた時の事だった。一人一つずつ携帯している小さな双眼鏡を覗いていたディートハルトが、小さな、しかし驚いたような声を上げた。向いている方角からして海を見ているようだったが、彼は割と他愛もないことで喜ぶ子供の様なところがある。大方、船かカモメでも見えたのだろう。もしかしたら、イルカ等といったもう少し珍しいものかもしれない。そう翠は考え、『ほんと、お子様だねぇ』と呟きそうになった時だった。
『何であいつが……』
ディートハルトは、眉を寄せそう呟いた。
『あいつ?』
『ほら、あそこ。海岸に、何か赤い変な奴の側に、黒っぽい服着た男がいるだろ?一番背の高い奴』
煙草の火を靴の先で踏み消し傍らにやってきた翠に、ディートハルトが双眼鏡を手渡す。
『………あ?……うん?男はともかく、何だありゃ?噂の謎の魔物って奴?』
翠は一度双眼鏡を顔から離し、手で目を擦ってからもう一度覗き込んだ。ディートハルトが指し示した海岸には、敵らしい者数名と一緒に魔物ではない、かといって人でもない奇妙な生き物がいた。距離があるため細部は分からないのだが、それは人のような形をしていて、髪も顔も手足も、そして服も靴も何一つ区別がつかない、とにかく頭のてっぺんから足のつま先まで赤い色をしていた。血の赤の様な不気味な色だ。
『あれは……Vゴースト!?まさか!』
自分の双眼鏡を取り出して、二人が話題にしていた方角を見ていた先輩I・Kが、大きな声を上げた。彼はディートハルト達より3年先輩にあたる。
『Vゴースト?って、なんなんスか?どっかで聞いた事あるような』
なにやら難しい顔で相談しはじめた先輩I・K達4人に翠が尋ねる。
『何を言ってるんだ。学院で習っただろう?俺達より記憶に新しいはずだぞ。ヴィドール国の兵だ』
『ああ!』
『何だって!』
『マジか』
『……』
翠だけでなく、新人I・K達が声を上げ目を見開く。ヴィドール国というのは、海を越えたファセリア大陸の遙か西にある大陸の国で、数十年前から古代文明の遺跡を発掘し続け、蘇らせた技術により西側の大陸で勢力を振るっているという国だった。そのため、その周辺の国だけではなく、遠く離れたファセリア帝国からも警戒されている国だ。敵対しているという訳ではなく距離的な理由が大きいが、現在、帝国とヴィドールの間に国交はない。そして、Vゴーストというのはヴィドール国が古代文明の技術を利用して生み出していると言われる兵だった。それが、単に飼い慣らされた魔物なのか、造り出された生物なのか、それとも機械人形なのか。ファセリア帝国に詳細は伝わっていない。と、教科書に書いてあったのをうろ覚えではあるがディートハルトも記憶している。しかし、教科書に載っていたイラストは確か黒い色をしていたような気がする。
『(あ、そうか。教科書の印刷は白黒だもんな)』
『じゃあ、今回の黒幕はヴィドールだったってことか?』
ロイが眉を顰める。
『それって、無茶苦茶マズイじゃん』
翠は呑気にそう言ったが、盛んな交流はないとはいえファセリア帝国と友好関係にあったロベリア王国が攻め込んで来たという方がまだましで、色々と謎の多い大国ヴィドール国が敵となってくると、”無茶苦茶マズイ”どころの騒ぎではない。予想外の展開に一同は黙り込んでいる。
『しかし、何故ヴィドール国がファセリア帝国を狙う?わざわざ危険を冒し海を越え、時間を掛けて来る目的は何だ?』
リカルドが渋い顔をして唸った。
『もしかしたら、だけど。アーヴィング殿下も絡んでるのかもしれない』
と、再び双眼鏡を覗いていたディートハルトが感情の窺えない声でそう言った。一同は驚いてディートハルトに注目する。アーヴィングというのは皇帝ヴィクトールの叔父で、ヴィクトールが4年前に即位した後1年間、皇帝の補佐をしていた人物だ。その間、アーヴィングは若いヴィクトールに対し、必要以上に口を出すだけでなく私利私欲に走った傍若無人な振る舞いをしたため、ヴィクトールは1年で補佐の役を解き、その後現在に至る迄の3年間は、アーヴィングは帝都近くの自分の城で静かに暮らしている。しかし、元々先代の皇帝であるヴィクトールの父とも兄弟仲が悪かった事もあり、補佐の役職を解任したヴィクトールの事を恨み、皇帝の座を狙っているのではないかと密かに噂される人物だった。
『どういう事だ?フレイク』
先輩I・Kのブランドンがディートハルトに尋ねた。
『あの赤い奴、Vゴーストって奴の隣にいる背の高い黒髪の男、あいつ、B・Kです』
B・Kというのは、アーヴィングが抱えている私兵だった。建国当時から組織として存在していたI・KやE・Kを意識したのか、アーヴィングはその兵達をB・K(Black ・Knight)と名乗らせていた。その名の通り、黒い制服や鎧を身に着けているが、I・Kの制服も黒であるため紛らわしいと巷で囁かれている。ちなみに、ウルセオリナのE・Kの制服は白もしくは銀と濃紺を組み合わせた少し洒落たものだ。
『何だって!?』
『解雇されてなければですけど、カーティス・エイデンって名前の奴です』
『知り合いなの?』
翠が尋ねる。
『おれと同じ、ランタナ出身の奴なんだ。いつもおれに絡んで来てた嫌な奴で、よく殴り合いの喧嘩をしてたから絶対に顔は忘れないし、あんなデカくて目立つ奴、見間違えるはずがない』
故郷ルピナス地方にある小さな町ランタナの幼馴染で、随分世話になった相手だった。3つ年上のこの男のおかげで、喧嘩癖がついたといっても過言ではない。とにかくランタナにいた頃は会えば必ず殴り合いになっていた。どういうわけか、周囲は必ずカーティスの肩を持ち、ディートハルトはこの男が大嫌いだった。
『おれより先にランタナを出た奴で、おれがファセリア帝国学院に入学してすぐの頃、たまたま寮近くの商店街で再会したんだけど、その時、B・Kになったって得意げに自慢してきたんだ』
『なるほど。その男が、独断で行動しているのでなければ、アーヴィング殿下が絡んでいるという可能性はあるな』
ブランドンが頷く。
『おれの個人的な印象ですけど、あいつは、単純な奴で頭がいいとは思えないから、自分で考えて策略をめぐらすなんて事はしないんじゃないかと思います』
ディートハルトの記憶にあるカーティスは、親の経済力や肩書を自慢し取り巻きを侍らせ、勉強は不得意だが体が大きくて喧嘩が強く、自分よりずっと小さい年下の子供に絡んで暴力まで振るう様な男だ。幼い頃のディートハルトは、『きっと、こいつは馬鹿なんだ』とずっと思っていた。
『ってことは、ヴィドール国とアーヴィング殿下が手を組んでるって事?アハハ、なんかヤバさがレベルアップした感じ』
翠が再び呑気にそう言って笑った。
『キサラギ、これは、笑い事じゃない。フレイクの話した通りなら、アーヴィング殿下は一体何をお考えなのか……』
ブランドンが眉を顰める。結局、I・K達は話し合った末、このまま6名は命令通り前線のウルセオリナ軍の元へ向かい、残り2名は帝都に戻って皇帝にこの件を直接報告するということになった。
『それじゃあ、陛下に報告する役目は、フレイクとキサラギに任せる』
『え!』
ブランドンの言葉に、ディートハルトは大きく目を見開いた。
『B・Kの男の事を知ってるのは君だからな。君の口から詳しく報告した方が良いだろう。俺達は、予定通りウルセオリナ軍と合流しよう』
『でも、おれは……エトワスに……』
会いたい。そうは言えず、しかしポソポソと抗議すると、ブランドンは小さく笑った。
『前線ではウルセオリナ卿には会えないと思うよ。会えたとしても、ゆっくり話す暇はないだろう。それより、戦いが終わってから改めて面会を申し込めばいい。それに、君は体調が悪いんだろ?前線に向かえば嫌でも戦う事になる。戦いを避けて帝都に向かって、その間に体を休めて回復させてきた方が良いだろう』
これが、現在ディートハルトと翠が帝都を目指しとんぼ返りをしている理由だった。そして、B・Kの件はともかく、ディートハルトは体の具合があまり良くないようだと、その日の朝先輩I・Kに伝えたのは翠なので、その事が、今ディートハルトが翠と口をきかない理由だった。翠としては、ディートハルトが不調であるという事はメンバーに知らせておき、戦闘になった際にディートハルトを全員でフォローしてあげられるようにしたつもりだったのだが、何度話しかけてもディートハルトは返事をしようともしなかった。しかし、実のところ、ディートハルトが喋らずにいるのは、翠のお節介に腹を立てているからというだけでもなかった。例の目眩のような感覚に襲われていたため、また倒れてしまうことがないよう、意識して気を張り詰めていたからだ。冷たい雨が降り出してからは、正直に言って気分もあまりよくなかった。
「ディー君、ディーく~ん。ねえ、機嫌直してよ?」
流石にウザいなと思いながら、ディートハルトは再び前髪をかきあげて、手を軽く払った。雨粒の冷たい雫が跳ねる。
『そんなに邪魔なら、前髪短く切っちゃえば?』
内心、翠はそう思っていたが、今言えば100パーセント怒るので黙っている。
雨の中に消えている細く伸びたこの道を辿って行けば、あと数時間で帝都内に入る。二人は雨の中を進み続けた。
* * * * * *
「ヴィドールと手を組んでまで、帝国が欲しいか……」
同じ所を行ったり来たりしながら、皇帝は苛ただしそうに何度めかの同じ台詞を吐いた。ディートハルトと翠は少し離れたところに控えていたが、彼らの足元の大理石の床には小さな水溜まりが出来つつある。途中の町で馬を変えたものの人間は休むことなく激しい雨の中帝都を目指し、未明頃やっと辿り着いたのだが、服を着替えるどころかタオルで拭く間すら与えられずに皇帝の前に通されてしまったため、ずぶ濡れのままだった。
「ックション!」
翠がくしゃみをして、皇帝はやっと二人の状態に気付いた。ディートハルトは翠を冷たい視線で一瞥する。
『今のは、絶対わざとだよな……』
「ああ 済まなかったな。フレイク、キサラギ、お前達はしばし体を休めた後北へ向かってくれ。南は既に援軍として向かったI・K達とウルセオリナ軍がしっかり敵を足止めしていて進軍は許さないだろうが、ロンサール地方は、I・Kだけでなく帝国兵を向かわせたものの、北ファセリアの町が占領されてしまい帝都との間にある前線基地が苦戦しているという」
「待ってください!北ファセリアが占領されたって?本当ですか?」
「……」
翠が血相を変えて声を上げ、ディートハルトは“ウルセオリナ軍がしっかり足止めしている”というエトワスの無事が分かる言葉にホッとしつつも眉を顰めていた。北ファセリアには翠の祖父母と親戚が住んでいるからだ。そして、同級生のジェスとクレイグも援軍として向かった地だ。
「北ファセリアに縁者がいるのか?安心しろ。民間人は事前に避難していて無事だと聞いている。ロンサールとギリアの各領主の判断が非常に早く的確だったお陰だ。ウルセオリナに武装集団が現れたという第一報を受けた時点で領民に報せて避難の準備をさせ、順次ペット等も含め城など領内の安全な場所に避難させたらしい。一部、帝都やルピナス地方へ避難した者もいるようだが、領民の居場所や人数はそれぞれの領主家の方で把握しているそうだ」
皇帝の言葉に、翠はほっと胸を撫でおろした。
「そうですか……」
完全に信じて不安が無いという訳ではないが、ここはひとまず皇帝の言葉を信じる事にした。
「帝都に待機していた他のI.Kたちも既に何組か向かわせているから、二人も合流して欲しい。私は、すぐに叔父を呼び出し話を聞かなければならないな」
「はい」
二人が、敬礼をして早々に退室しようとした時だった。
ガタンッ!
突然扉のすぐ外から大きな音と呻き声が聞こえた。ディートハルトと翠はほとんど反射的に、皇帝を背にそれぞれハンドガンと長剣に手をかけた。すると次の瞬間、派手な音と共に扉が大きく開け放たれ何者かが飛び込んで来た。
「!」
侵入してきたのは赤い人型の生物――海岸で見たものと同じVゴーストだった。
「Vゴースト!?」
翠がそう認識するよりもはやく、ディートハルトは既に発砲していた。
パンッ パンッ パンッ!!
乾いた音と共に連射された弾は、どれも外れて壁や床に当たった。
「クソッ!早いっ!」
ディートハルトは悔しそうに吐き捨てる。一方、翠は間髪入れず長剣で斬りかかった。が、やはり敵はいとも簡単にそれをかわした。
バチッ
一瞬、稲妻のような鋭い光が走り、直後に爆発音と共に炎が二人を襲う。
「!?」
「っ!」
二人はギリギリで何とかそれをかわした。
「な、何しやがった、こいつ!?」
「妙な技使いやがって!」
カチッ
「クソッ!」
弾切れだった。僅か1、2発当たっただけでディートハルトの銃のマガジンは空になってしまい、仕方なく長剣を抜いた。
ザシュッ!
と、何度目かの攻撃で、翠の剣が跳ね回る敵の腕をかすった。血、なのかどうかは分からないが、何か液状のものが流れ出る。それは黒に近い茶色をしていて、血液というよりも汚れた油の様だった。
「!」
翠はそのまま返す剣を突進してくる敵に袈裟懸けに振り下ろした。
ブンッ!
当たった……かのように見えた剣は空を切る。
『しまった!』
と思った時には遅かった。
「!?」
敵はひらりとジャンプし、二人の背後に降り立っていた。敵が皇帝に飛び掛かり、赤い腕が皇帝の喉元目掛けて伸ばされる刹那――
ザンッ!
ディートハルトの剣がVゴーストの背中を斜めに叩き斬った。
『あっ当たった!?マジで!?』
ディートハルトは驚きながらも、すぐに身を屈める。その直後、ディートハルトのすぐ背後にいた翠のなぎ払った剣が敵の首を落とした。学院で学んだ二人一組の戦法がしっかり身に付いているようだった。Vゴーストは絶命したのか、油のような液体を垂れ流して床に崩れ落ちた。
ギギッ ギッ ギギ……
細かく振動し粟立つ様な不気味な音がしていて、それは声というより機械音の様だった。
「やるな」
命を狙われたばかりの皇帝が、余裕とも取れる笑みを浮かべる。皇帝も手に長剣を握ってはいたが、鞘から抜いてはいなかった。
「流石、私の選んだI・Kだ」
そう言って、満足そうに頷いた。
「いえ、お命を危険に晒してしまいました。申し訳ございません」
珍しく、普段の軽い調子ではなく畏まった言葉で翠が言い、頭を垂れる。それを見て、ディートハルトも慌てて頭を下げた。
「何を言ってる。お前達がいなければ、私は間違いなく死んでいた。感謝している。顔を上げろ」
「陛下っ!何事ですか!?」
と、今更ながら銀の鎧を身につけた数人の近衛兵たちがあたふたと部屋に駆け込んできた。扉の外に立っていた衛兵は二人とも重傷だったため、すぐに医務室へと運ばれて行く。
「侵入者だ」
「侵入者!?お、お怪我は!?」
床に転がっている赤いVゴーストを見て、衛兵が血相を変える。
「幸い、ちょうどI.Kと話しているところだったからな。無傷だ」
皇帝の言葉に、近衛兵たちは安堵の溜息を吐く。が、すぐにまた顔色を変えて話し出した。
「陛下、大変なことになりました。北の前線基地はほぼ壊滅状態だそうです!」
皇帝が一瞬眉を顰める。
「周辺の町や村の民間人達は避難済みですし、その住居や家畜、畑等も全く危害は加えられておらず無傷なので不気味らしいのですが、兵達の方は、援軍に向かったI.Kの他は戦える兵は最早一兵も残っていないとの事です。その事を知ったアーヴィング殿下が、B・Kを率いて自ら前線へご出陣なさったそうです」
「何?叔父上が?」
ヴィクトールは目を瞬かせ、直後にフンッと鼻で笑った。
「白々しい真似を……」
しばらく考え込んだ後、ヴィクトールは駆け込んで来た衛兵に目を向けた。
「メイナードを呼んでくれるか?」
メイナードというのは、アーヴィングが皇帝補佐の役職を外された後に起用された人物で、ヴィクトールより3つ年上の人物だった。同じく補佐のような仕事をしているが、政治には全く関わらず秘書のような仕事をしている。
「はっ」
衛兵がすぐに退室すると、ヴィクトールはディートハルトと翠に目を向けた。
「お前たちは、どう思う?」
「殿下の件ですか?オレは、ディートハルトの知り合いのB・Kの件もありますし、不敬だと思いますけど、やっぱり殿下が関わってらっしゃるんじゃないかと思います。民間人も無事で、町も農地も無傷というのは本当に変だと思いますし」
急に話し掛けられて、翠は一瞬キョトンとした表情を見せが、すぐにそう答えた。もし敵がヴィドールなら、兵のみ狙っているというのはおかしいと思っていた。
「おれも、同感です。でも、殿下が、壊滅状態っていう今のタイミングで敢えて出陣した理由は分かる気がしますけど、ヴィドールは何で協力してるのかなとは思います」
ディートハルトが言う。アーヴィングが出陣した理由は、ヴィドールとは手を組んでいるため、危険な目に遭う事はないと保証されているからだろう。そう思っていた。出陣は、国内向けのパフォーマンスという事だ。
「そうだな。まさか、ヴィドールに協力させる見返りとして、ウルセオリナをヴィドールにくれてやるつもりでなければ良いが……」
ヴィクトールの言葉に、ディートハルトは表情を曇らせた。
「そんな!」
「いや、ふとそう思っただけだ」
ヴィクトールは、ディートハルトとエトワスが仲が良いという事を思い出し、苦笑いする。
「ヴィドールの目的が何にせよ、叔父の予定では、今、私はここで殺されるはずだったのだろうな。そして、前線から戻り皇帝の座に収まると。その後は、きっと、面白いようにB・Kが活躍して謎の敵を蹴散らし事態は収束するのだろうな」
ハハハとヴィクトールが笑う。
「そうは思わないか?」
「え、あ~……、まあ、思います」
「ええと……そう……かも、しれません」
翠とディートハルトは躊躇いつつ頷いた。
「陛下っ!!」
そこへ、近衛兵とはまた別の兵士が駆け込んできた。
「一大事でございますっっっ!!」
今度は何だ?と、一同に緊張が走る。
「何事……」
「陛下っ!」
何事だ?そう皇帝が言いかけた時、新たにもう一人別の兵士がやって来た。そして、間髪入れずにさらに数名の兵がバタバタと部屋に走り込んで来る。
「陛下っ!た、大変ですっ!」
狭くはないはずの皇帝の私室は、一気に人口密度が上がった。
「……何があった?」
うんざりした様子で、皇帝は一番最初に入ってきた者から順に尋ねた。彼は、城内を巡回している一般兵だった。
「は、はい。宝剣が何者かに盗み出されたようです」
「そっちは?」
僅かに片眉を上げただけで、皇帝は次の者を促した。彼は、城下を警備している兵だった。
「う、ウルセオリナから今し方伝令が参りました。南の前線に出ていたウルセオリナ軍が全滅したとのことです」
「!?」
流石に表情を変えたが、そのまま最後に入ってきた者達にも尋ねる。
「お前達の報告は?」
「ヴィドール国のVゴーストに似た不審な者が、数匹城内で目撃されたという事です」
「数匹?一体何匹……」
と、皇帝がぼやきかけた時、背後に控えていたディートハルトが、報告したばかりの兵士の一人に詰め寄った。
「前線軍が全滅って、どういうことだ?」
ギロリと瑠璃色の瞳で睨みつける。
「……言葉通りだ。前線は突破され、今は帝都から新たに派遣された兵がオリナ近郊で交戦中……」
「あんたの言ってる意味、分かんねえよ!ウルセオリナ軍が負けるワケねえじゃん!?」
ディートハルトは目の前の兵が身に着けていたマントの胸倉を、ガッと掴んだ。
「?」
報告した兵は、訳が分からず目を瞬かせた。目の前の、この一目で新兵と分かる学生の様なI・Kは何を言っているのだろう?何をこんなに怒っているのだろう?
「前線にはウルセオリナ卿も含めてE・Kたちも出ていたはずだが、彼らも全滅したというのか?」
ディートハルトの代わりに皇帝が尋ねた。ディートハルトは一瞬非難するような目で皇帝を見たが、すぐに目の前の兵士に視線を戻した。
「はい。そう聞いております。死傷者の身元や数など、詳細はまだ分かりませんが……」
報告した兵は、目の前の新兵にはE・Kの知人がいたのだとようやく理解し、申し訳なさそうに言った。
「そうか……」
ヴィクトールは小さく溜息を吐いた。
「ディー君」
翠は、兵の胸倉を掴んだまま小さくフルフルと震えているディートハルトの手を掴み、そのマントから手を放させた。
「陛下、オレ達はどうしましょう?やっぱ北っスか?」
顔面蒼白で茫然と立ち尽くすディートハルトの傍らに立った翠が尋ねる。
「いや、北はアーヴィングに任せよう。とりあえず、キサラギとフレイクは城内の部屋で待機していろ。と言っても、Vゴーストが城内をうろついているらしいから、ゆっくり休んでもいられないだろうが。他の者達は、持ち場に帰ってVゴーストは見付け次第始末しろ。ただ、実際に目の前で戦う様子を見たが、戦い慣れしていない者には対応は難しいだろう。下手に手は出さず、手練れの者に任せるんだ。それから……、ああ、宝剣が盗まれたんだったな。代々受け継がれた大切な品だが、今は仕方ない。その件は後回しだ」
ヴィクトールがそう話したタイミングで、先程呼びに行かせた秘書のメイナードが姿を現した。茶色の長髪を緩く一つにまとめ、眼鏡を掛けた落ち着いた雰囲気の人物だった。
「これは……」
メイナードは、まず最初に、集まった人の多さに目を丸くし、続いて床で存在感を放っているVゴーストの残骸に軽く目を見開いた後、ヴィクトールに視線を移した。
「陛下、お呼びでしょうか」
「ああ。今すぐウルセオリナ公爵に連絡を取りたい。誰か呼んでくれるか。それと、大臣達を集め、帝都に待機中のI・Kを誰でもいいから一人呼んでくれ。あとは……」
と、ヴィクトールはまだ残っていた衛兵に声を掛けた。
「数名、衛兵を集めてくれるか。これから大臣達を集めて話をするから、護衛についてくれ」
* * * * * *
もうすぐ夜明けだった。
翠は窓際に立ち、ぼんやりと明るくなり始めた東の空を見ながら煙草の煙を吐いた。雨はいつの間にか止んでいて、城下に広がる町は不気味な程に静まり返っていた。皇帝の言葉通り、城内の空いた部屋で仮眠を取ったのだが30分弱で目が覚めてしまった。半分は、城内が慌ただしい雰囲気に包まれていたせいもある。近くのベッドではディートハルトが休んでいたが、彼の方は一睡もしていないようだった。目を閉じてはいるが、おそらく眠ってはいない。
「……」
翠にバレている通りディートハルトは眠る事なく起きていた。眠気が全くなく、同じ言葉を心の中でずっと繰り返していた。
『大丈夫、大丈夫、絶対、大丈夫』
少し気を抜くと、途端に嫌な考えが溢れ出してしまいそうになるため、ひたすら『大丈夫』と呪文のように唱えている。ただ、集中し続けるのは難しい。今もまた、最後に会った時のエトワスの姿を思い出してしまっていた。エトワスは、他の誰とも違っていつも優しい笑顔を向けてくれる。あの時もそうだった。どうして、あの時もっとちゃんと話さなかったのだろう。これから先、会う機会はほとんどなくなると分かっていたのに。そう後悔すると、鼻の奥がツンとなり涙が溢れそうになったため一生懸命堪えた。涙を流せば、E・K達が全滅したという報せが事実だと認める事になるからだ。
『大丈夫。エトワスが死ぬわけない。だって……』
再び、学校の屋上のシーンが蘇る。
『お前さ、言ったよな。おれがジジイになったのが見たいって。約束、守れよ』
自分で言った言葉が頭の中で再生された。
『ああ』
エトワスは、そう答えて笑った。
『約束したんだ』
窓の外をただ眺めていた翠は、短くなった煙草を窓の縁で消した。東の空はだいぶ明るくなって来ている。
「おはよ~、ディー君。朝だよ~」
嫌な顔をされるのを承知で、振り返りざま翠は明るい声を出す。
「早く起きなきゃ、太陽昇っちゃうぞー」
二人は、夜が明ける前に改めてヴィクトールの元を訪れ、今後どう動くか確認する事になっていた。
「……」
翠の予想は外れ、ディートハルトは、嫌な顔をする事無くのっそりとベッドから這い出すと、無表情にぼーっとした顔で、脱いでいた制服のシャツを着てボタンをノロノロと留め始めた。皇帝への謁見後、雨で濡れた制服は全て椅子の背に掛けて干していたのだが、それから1時間程しか経っていないため乾いてはいなかった。シャツはまだ良い方で、生地の厚い上着はたっぷりと雨水を含みじっとりと重いままだった。それでも、特に何も言う事も無く着ている。翠の方は、気持ち悪くて着る気になれず、制服のシャツと上着は着ずにTシャツ姿になっていた。しかし、これからまた皇帝に会うのに流石に下は下着のままという訳にはいかないため、制服のズボンははいている。
『こいつ、大丈夫か?』
翠は思わすそう思ってしまった。シャワーを浴びた後すぐにベッドに潜り込んだため、いつもはサラサラで艶々しているディートハルトの髪は滅茶苦茶だった。
『ヤバイな』
翠は、密かに溜息をついた。
「準備出来た。行こうぜ」
剣を吊るすベルトの金具をを止め終えたディートハルトは、予想外にしっかりした声でそう言った。
「あ、キサラギさん、フレイクさん!」
二人が部屋から廊下に出た途端、すぐに声を掛けられた。足早に近付いて来たのは、I・Kとして初めて城に行った日に、制服の入った紙袋を渡した事務員風の人物と同じ服装をした男性だった。中肉中背で黒髪、眼鏡を掛け茶色の目をした穏やかな雰囲気だが真面目そうな人物だ。
「I・Kの制服は?」
Tシャツ姿の翠を見て、その男が言う。
「ああ、雨に濡れて絞れるくらいだったんで。ほら、こんな感じで」
と、ディートハルトの方を振り返る。
「あ~」
ディートハルトを目にした男は、ディートハルトの制服の裾に触れてみて納得した様子で頷いた。
「では、部屋で少し待っていてください。ちょうど予備を持って来ていましたので替えの物を用意しますから」
言われるがまま元の部屋に戻り待っていると、すぐに同じ人物が戻って来た。手には紙袋を抱えている。
「こちらがLサイズ、こちらがMサイズです」
そう言って、それぞれに手渡す。
「着替えたら、陛下のところへご案内しますね。部屋の外にいますから。ああ、濡れた制服は私が預かりますから、その紙袋に入れておいてください」
「ありがたいッスけど、どういった方なんスか?」
翠が、少し警戒した様な目を向ける。最初にI・Kの制服を持ってきた相手も同じ服装をしていたので、彼もまた関係者ではあるのだろうが、国内が混乱している今、誰が味方で敵か分からない状態だからだ。
「え?ああ、そうか。今年のI・Kにはまだ何も説明がないんですね」
納得した様に頷き、男は翠とディートハルトの顔を交互に見た。
「私は、カルメルといいます。I・Kの皆さんをサポートする職員の一人で、普段はI・Kの職員事務所の方にいます。これが私達の制服なので、この服を着てる人間は、I・Kの関係者だと思って頂ければ」
そう言って、身に着けている茶色い服を摘まんで見せた。
「私達は、I・Kのお給料とか経費を計算したり、任務の際に必要な物を揃えたり予め色んな手配をしたり、まあとにかく事務仕事をやってます。こうやって制服をご用意したりするのもその一つですね。だから、任務で制服が破れたとか、体の変化でサイズが合わなくなったなんて事があった時も私達にお知らせ頂ければ大丈夫です。クリーニングは、専用のクリーニングの部署があるのでそちらに持っていって頂ければ大丈夫なんですが、今回はゴタゴタしているので、私が責任を持ってお預かりします」
「そうだったんスね。すみません、よろしくお願いします」
カルメルが退室すると、翠とディートハルトは新しい制服に着替えて、言われた通り濡れた制服は紙袋の中に入れた。
「城内に侵入したVゴーストは全て倒されたようですが、今から城の外に出ますので、もし何か出た時は、お願いしますね。私は非戦闘員なので」
前を歩くカルメルが、やけにキョロキョロしながら歩いているなと思っていると、そう言った。Vゴーストは倒されたと言ったが、城内を警備兵が複数人ずつ巡回していて物々しい雰囲気になっている。
まだ日が昇らず薄暗い中、城から屋外に出たカルメルは足早に南西へと向かった。そこは、I・Kの兵舎やカルメルが勤める事務所が集まる区域だった。
「ご存知かもしれませんが、こちら側、王城の敷地内の南西のエリアは、I・Kの活動エリアとなっています。今から向かうのは、あの建物。事務所になります」
城と同じ石材で作られた洒落た建物が見えていた。
「隣は医療施設です。で、あちらの大きい平屋の建物が訓練施設。反対側の三階建ての建物は兵舎、そして、少し離れたあの建物は、兵と職員専用の食堂です。24時間空いてますので、いつでも利用できますよ。今日は少しスタッフが慌ただしくしていると思いますが、食事は用意されていると思いますので、後で行ってみてください」
カルメルを先頭に中に入った事務所は、大きさはそれ程大きくはないが、外観だけでなくその中も城と似たような造りになっていた。ただし、城とは違い装飾目的の物は全く無く殺風景だった。受付らしい窓口から中の様子が窺えたが、日の出前だと言うのに慌ただしい雰囲気で、カルメルと同じ制服を着た事務職員達が忙しそうに動き回っていた。
「こちらです」
カルメルは、受付前を通過して建物の奥の階段から二階に上がり、さらに真っ直ぐ奥へと進んで行く。そして、一番端の“第一会議室”と書かれた部屋の前で立ち止まった。
「失礼いたします」
扉をノックをして入室したカルメルに続き二人も中に入った。広い部屋の中に大きなテーブルと複数の椅子が置かれ、集まったI・Kや事務職員達が、それぞれのグループに分かれて何か話をしていて部屋の中はザワザワとしている。
「お、来たか」
そう言って近付いて来た人物が誰なのか、最初翠は分からなかった。
「陛下?」
相手はヴィクトールだったのだが、着ている服がカルメルらと同じ事務職員の物だったからだ。
「ほとんど時間は無かったが、少しでも休めたか?」
そう言ってヴィクトールが笑顔を見せるが、ぼんやりとして生気の無いディートハルトの姿に、一瞬、憐れむ様な表情をした。
「疲れているだろうが、これからお前達は、私達とともにウルセオリナに向かって貰う」
「!?」
「?」
ヴィクトールの言葉に、ディートハルトは目を見開き、翠も目を丸くした。ディートハルトの方は、急に不安と恐れが襲って来て、翠の方は、ヴィクトールが同行するという事に驚いていた。
「陛下が、ウルセオリナに?」
「ああ、そうだ。叔父がヴィドール国と手を組んでいる可能性があるという説が正しいなら、私の暗殺に成功するまで北と南の敵の攻撃は止まないだろう。しかし、これ以上、兵に死傷者を出したくない。大臣達と話し合った結果、敵の望み通り私の命をくれてやることにした」
翠はヴィクトールの言葉に一瞬驚いたが、彼が事務職員の制服を着ている事ですぐに言葉の意味を理解して納得した。
「Vゴーストの遺骸……奴らは、生き物かどうかも分からないが、骸が、お前達が倒した分も含めて全部で3体ある。そのうちの1つに私の服を着せて焼き、私の部屋に転がしておくつもりだ」
ヴィクトールの計画によると、皇帝の死を偽装してしばらく身を隠し、敵やアーヴィングの出方を窺うとの事だった。身を隠す先がウルセオリナ地方なのは、ウルセオリナの領主が、皇帝に対し間違いなく敵ではないと言い切れる人物で、同時に、皇帝の計画を実行する事が可能な力を持っているからだ。ディートハルトと翠がVゴーストを倒してすぐ、ヴィクトールはウルセオリナの領主である公爵シュヴァルツの元へ、計画を伝えるために使者としてI・Kを送っている。そして、身を隠すのは皇帝だけでなく、I・KやI・Kに関わる事務職員達もという事だった。大臣達や医療機関のトップもこの計画を知ってはいるが、具体的にどこに身を隠すかは伏せられる。移動先のウルセオリナ公爵とまだ連絡が取れないため、場所が決まっていないからという事もあるが、彼らは帝都に残るため知らない方が良いという判断だった。偽装する皇帝の死については、秘書のメイナードが第一発見者役になるらしい。
「移動する人数が多いため、目立たないようグループ毎に別れ、出発のタイミングもバラバラ、という事にする」
そう話し、ヴィクトールは持っていた地図をテーブルの上に広げた。
「通常、ウルセオリナに向かうには、線路も通っている湖の西側のルートを行くが、今回は湖の沿岸に沿って東側を行くつもりだ」
ヴィクトールは、地図に書かれた湖の右の縁を指でスーッとなぞった。
「東、ッスか」
その湖は、ラグルス家のというよりエトワス個人の別邸がある場所だったが、湖の南北と西側は自然が美しく、帝都とウルセオリナ間を繋ぐ列車の停車駅もあるオドラータという大きな町もあり比較的安全だったが、東側は山間部でまともな道もなく魔物の多い危険な土地だった。
「敵に感付かれる可能性が低いからな」
「目的地はウルセオリナでも、具体的な場所は決まってないんスよね?」
「そうだ。1時間前にウルセオリナ公爵の元へ使者を送ったばかりで、返事を貰っていないからな。だから、ひとまず湖の東にある村、フロックの近くにそれぞれ分散して待機するつもりだ。しかし、非戦闘員には辛いだろうから、可能なら事情を伏せて彼らは村に滞在出来るようにしたいと考えている。お前達I・Kは、悪いが野営だ」
ヴィクトールの言葉に、翠は薄く笑う。
「そうだろうと思ってました。問題ないッス」
「ウルセオリナへの使者には予め居場所を伝えてあるから、その地で公爵からの答えを受け取る事になるだろう。その後は、公爵次第だな」
「了解しました」
翠が敬礼する。
「フレイクは、大丈夫か?何か質問は?」
ヴィクトールに視線を向けられ、ボーッとしていたディートハルトは初めて気が付いた様に顔を上げた。
「え、あ……いえ、問題ありません」
ヴィクトールの話は聞いていたため、ディートハルトは少し考えた後そう答えた。
「そうか。私は頃合いを見て出発する。フレイクとキサラギは、彼らと同じグループだから、彼らと共にウルセオリナへ向かってくれ。ケイス!」
と、ヴィクトールは近くにいたI・Kを呼んだ。
「先程話した新I・Kだ。よろしく頼む」
ケイスと呼ばれたI・Kの肩をポンと叩き、ヴィクトールは他のI・K達の元へと去って行った。
「オレは、へクター・ケイス。お前らより5年先輩だ。で?どっちがキサラギで、どっちがフレイクだ?」
ディートハルトより黄味の強い金髪に、キッと目尻の吊り上がったアイスブルーの目をしたI・Kが、二人に近寄り白い歯を見せ二ッと笑う。その耳にはシルバーのピアスが並んでいるため、ディートハルトや翠と好みが合いそうな雰囲気だった。
「スイ・キサラギッス……ああ、こっちが、ディートハルト・フレイクで」
ディートハルトがぼんやりとしているため、翠が代わりに紹介した。
「おい、フレイク、どうした?」
「……え?」
全く聞いていなかったのか、ディートハルトはキョトンとして、怪訝そうにしているヘクターを見上げた。鮮やかな瑠璃色の瞳は、本当に不思議そうにアイスブルーの目を見ている。
「ケイス先輩、ちょっと……」
と、翠がヘクターの腕を引いて、少し離れたところへ連れて行く。
「何だあいつ?滅茶苦茶可愛い顔してんな。いや、そうじゃねえ。あいつ、具合でも悪いのか?」
「彼、ウルセオリナ卿の親友なもんで、今、ちょっと精神状態に問題が」
ヘクターの言葉に苦笑いしつつ、翠はそう説明した。
「あ!?マジか!」
目を見開いて声を上げ、ヘクターは額に手を当てる。
「ヤベェ……」
と、言ったきり沈黙していたが、やがて翠に視線を向けた。
「可愛いコが悲しんでる姿を見るのは辛い。よし、キサラギ。これから絶対に、“ウルセオリナ”とか“E・K”とか、次期公爵を連想させるようなワードは口にすんなよ」
「え?」
冗談かと思ったが、そのアイスブルーの瞳は真剣だった。
「りょ、了解」
ヘクターはディートハルトの元に戻ると、改めてディートハルトに話し掛けた。
「ディートハルトって言ったな。オレは、ヘクター。お前達より5歳年上の先輩だ」
「あ、ディー君は、今17ッスよ」
翠が横から口を挟む。
「何?マジか。じゃあ、7歳年上の先輩だ。同じI・Kだからな、兄貴だと思ってくれていい。今からウ……」
ヘクターは、咳払いをした。
「帝都を出発する事になるが、オレらの任務の内容は理解したか?」
と、年齢を聞いたせいか、柔らかい声音で話し掛ける。
「任務……はい、問題ありません」
先程のヴィクトールの言葉を思い出し、ディートハルトは頷いた。
「よ、よし」
マジで分かってんのか?と思いながら、ヘクターは頷いた。
「これから、オレらも入れて12人のI・Kと、事務職員3人の合計15人で移動するぞ?」
ヘクターはそう言って、瑠璃色の瞳を覗き込んだ。
「はい……」
「グループ毎に、タイミングをずらして出発する事になるからな。オレらの出発は30分後だ。いいな?」
「……はい」
数秒遅れてディートハルトは頷いた。
「よし。おい、キサラギ。ちょっと来い」
ヘクターも頷くと、ディートハルトに話し掛ける時の声音とは明らかに違う調子で言い、翠の首にガシっと腕を掛けた。
「あいつ、大丈夫なのか?ちょっと帰省させて、親元で休ませた方がいいんじゃねえか?」
ヒソヒソと翠にそう尋ねる。
「いやぁ。それが、訳ありみたいで、家も無いし家族もいないらしいんスよ。一応ランタナに家族っぽい人らはいるみたいなんスけど、他人らしくて。夏休みとか年末とか、それ以外でも一度も帰省したことないんスよね」
「マジか……」
再び目を見開いて声を上げ、ヘクターは額に手を当てる。
「何でそんな……。可愛いコが辛い目に遭うなんて許せねぇな」
「いや、別に容姿は関係ないでしょ。誰だって辛い目に遭えば気の毒っつーか」
翠が苦笑いすると、ヘクターは白い眼を向けた。
「まともな事言ってんじゃねえよ。そりゃそうだろうが、オレが個人的に、可愛いコが辛い目に遭うのは泣けるんだよ。っつー事でキサラギ、今のあいつが、敵とか魔物に狙われたらヤバイ。道中、全力で守るぞ。任務だ」
言い切るヘクターに、翠は再び苦笑いする。
「今は凹んでるけど、ディー君は元々先輩みたいなタイプっスよ?見た目はああでも、気も強いし大人しく守られる様なコじゃないっつーか。って、護衛の対象は、事務職員さんのはずじゃ?」
「オレに似たタイプって事は、オレと気が合うって事だな。悪くねえ。落ち込んでる状態とのギャップが余計に可愛いじゃねえか。事務職員の護衛つっても、グループ内にI・Kが12人もいんだぞ?オレら2人とディートハルトを入れなくても、9人もいる。事務職員一人につきI・K3人って事だ。充分だろ」
「……まあ、そうッスね」
「よし。じゃあ、25分後に玄関前に集合だ。これからしばらく野営だろうから、今のうちに食堂で軽くメシ食っとけ」
ディートハルトと似たタイプではあるが、見た目通りワイルドな先輩に言われ、翠はディートハルトを連れてI・K専用の食堂に向かった。食堂のスタッフもウルセオリナに移動するのか、調理するのではなく何やら慌ただしく動き回っていたが、出発するまでの間にI・K達が食べられる様に食事は用意されていた。本来はメニューを見て注文しカウンターで受け取るスタイルのようだが、今は、ズラリと料理が並べられたビュッフェスタイルになっていた。
「ディー君、先輩の言う通りだからさ、何か食っときなよ」
「あ……うん」
ディートハルトは、やはりぼんやりしていたが、しばらく迷った末、並んだ料理の中から小さなサンドイッチを一つ選んだ。卵サンドだった。
「あぁ、やっぱ卵サンドが好きなんだ?」
トレーに自分の分の料理の皿を乗せた翠は、ディートハルトの隣の席に着くと笑い掛けた。しかし、ディートハルトの反応は無かった。
「野営ってキツイよね。ヤだなぁ」
話し続けるが、やはりディートハルトの答えは無い。翠にとってもエトワスは親友で、ディートハルトよりも数年付き合いが長い分、ウルセオリナ軍全滅の報せはやはり衝撃的で辛かった。しかし、エトワスに「よろしく頼む」と言われたディートハルトがこうも落ち込んでいる姿を目の当たりにすると、自分の事よりもディートハルトの方が気掛かりだった。悲しんでいる状態を通り越して茫然としているからだ。
「目的地はまた……」
先輩I・Kのヘクターに、『これから絶対に、“ウルセオリナ”とか“E・K”とか、次期公爵を連想させるようなワードは口にすんなよ』と言われた事を思い出し一瞬躊躇ったが、翠は敢えて口にした。
「ウルセオリナ、だね?」
分かってるよな?色んな意味を含めて翠は言った。ディートハルトは手の付けられていないサンドイッチの方へ視線を向けたまま、一瞬間を置いてから頷く。そして、自分に言い聞かせるように呟いた。
「約束したんだ。……おれは、まだジジイじゃねえ」