38灰色の森 ~大切なもの1~
長の家を出たディートハルトは、アカツキ曰くセレステ専用の治療室である鳥の巣状の寝床が設置された小屋へと戻されていた。
『エトワス達と一緒にいたかったんだけど……』
そう思うが口には出さない。彼らは皆、それぞれが滞在している民家に戻っていた。
『にしても……』
ディートハルトは自分の手の甲を鼻に近付け、ふんふんと臭いを嗅いだ。全身からハーブのような強い香りが漂っている。寝床は植物の山、飲まされる薬や出される食事も香草を使用したもので、部屋の隅にはやはり同じ香りを放つ香炉が置かれ、骨の髄までその香りが染みついてしまい自分自身が匂い袋にでもなってしまったかのようだった。しかし、不快ではなくむしろ癒されている。
相変わらず室内の気温が低く寒かったため、鳥の巣ベッドの真ん中にぽつんと座り、何か動物の毛で織られた少しチクチクする厚手の布にくるまったまま、窓から見える四角い空に目をやった。また雪でも降るのか正午前の空は重く暗い雲で覆われている。
『……遠いな』
やはり、空は遠くに感じられた。その遠い場所へ、自分はこれから行かなければならない。
「……」
ぼんやりと空を眺め続けていると、部屋の隅で、持ち込んだ植物の束と古びた書物に囲まれ、何やら鉢の中で粉末を混ぜ合わせていたアカツキが、その粉末に湯を注いだ焼き物の器を差し出した。
「残さずに飲んで下さい」
ディートハルトが受け取り、飲み干す様子を確認すると、アカツキは細かい問診を始めた。
「鼻がぐずついているようですが、体調の方は大分落ち着いてきたようですね」
一通り症状を聞き出すと、ディートハルトの喉元を両手で触ったり両目の下に指を当て引っ張ったり、口を開けさせ覗き込んだりしていたが、満足したのか最後に軽く頷いた。
「鼻は、単純に寒いからだと思う」
「それは仕方がありませんね。君は風属性でもありますから、風のある場所の方が心地よく体に良いはずですし」
長の家の窓にはガラスがあったのでディートハルトは不思議に思っていたのだが、この治療室の窓に無いのはそのような理由からだったらしい。
「え、おれ、風属性なのか?って言うか、風が吹くと普通に寒いけど」
確かに心地よい風というものもあるが、この部屋に外から冷たい風が吹き込んで来るのは寒かった。
「セレステも含めて空の種族は光と風の属性なんですが、両方の属性のうち、どちらか1つの属性の力の方が強いか、もしくは光か風のどちらか1つの属性のみを持って生まれて来るそうです。君の場合は両目ともラズライトの瞳だからなのか、どちらの属性の力も同じくらい強いですよ」
「はぁ」
ディートハルトは曖昧な返事をする。E・Kであれば属性の力に興味はあるのだろうが、ディートハルトにはどうでもいい事だった。
「ックシュ」
窓から冷たい風が吹き込み、ディートハルトが小さいクシャミをすると、アカツキが不思議そうな顔をした。
「風邪を引いているのでしょうか。それとも、地上で生まれ育ったせいで地上の暮らしに体が完全に馴染んでいるからでしょうか?それとも、今時のセレステはこういうものなんでしょうか……」
「2番目の奴だと思うけど」
地上で生まれ育っているからだ。そうディートハルトが主張すると、アカツキは小さく頷いた。
「きっと風邪ですね。薬を追加しましょう」
『聞いてねえ……』
アカツキは持参していた薬箱の中から早速小さな包みを取り出して、お湯の入ったカップと共に差し出すとディートハルトに飲むよう促した。
「また気分が悪くなった等何か症状がある時は教えて下さい。発熱するようなら、これを使ってみます。目眩が酷いときはこれ、吐き気がするときはこれ。喉の痛みには……」
ディートハルトが素直に飲んだことを確認すると、アカツキは次々に小分けされた薬草の束を手にして見せたが、ディートハルトにはそれらの乾燥した植物は全て同じ物にしか見えなかった。
「あの……」
ふと、あることに気付き、ディートハルトは言いにくそうに口を開いた。
「おれ、今、治療代持ってねえんだけど」
現金はもちろん金目の品もない。服も靴もシュナイトが用意してくれたもので、自前の物と言えばいつも付けている大した価値のない青い石のついたピアスが1つと小さな金属の輪のピアスが3つだけだった。アクセサリーではないが、首に掛けていたはずのI・Kのドッグタグは、グラウカ達に外され捨てられてしまったのか無くしてしまっている。
「治療代、ですか?」
何が可笑しかったのか、アカツキは少し笑った。
「地上の種族以外の3種族達が姿を見せなくなってから、長い時が経っています。空の種族達と友好関係にあった私達、扉を守護する一族ですら、空の種族達が今なお存在するのかどうかさえ分からなくなっていた程です。ですから、シャーリーンがこの村を訪れた時は皆喜びました。空の種族に直接会う事が出来たのですから」
アカツキの言葉にディートハルトは内心首を傾げていた。それと治療代とどんな関係があるのだろう、と。
「君も同じです。古い友人である空の種族がまたこうして訪ねてきてくれて、私達は嬉しいんです。今まで必要とされる機会のなかった空の種族についての知識や、書物に記されている事を、こうして実際に確かめる事が出来るのですから。そういった事が既に充分な報酬になっているんですよ」
嬉しそうに笑顔を浮かべるアカツキを眺めながら、ディートハルトは頭の中で今言われた事を整理していた。
「……おれの治療をする事自体が、治療代になってるって?」
「そうです」
ディートハルトは納得したような納得できないような、複雑な気分でアカツキを見ていた。
「元気になったら、他にも色々試させて下さいね。セレステにしか効果のない薬が色々あるので」
またか。そう思い、ディートハルトは少しだけ眉を寄せた。どうして、やたらと自分を実験台にしたがる奴がいるのか……。
「あの、ちょっと出掛けたいんだけど」
楽しそうなアカツキの様子を目にしているうちに逃げ出したくなり、ディートハルトは遠慮がちに申し出てその顔を窺った。
「少しだけなら構いませんよ」
予想に反しアカツキに許可をもらったディートハルトは、包まっていた布から抜け出すと、アカツキを残し一人小屋を後にした。
外に出たディートハルトは、無意識に仲間達が滞在していると教えられた数件先の小屋へと向かって歩き出そうとしていたのだが、その事に気付くとクルリと背を向けて、反対側の方向を目指して足を進めた。仲間達の元を訪ねたら、少なくとも一人は本心から歓迎してくれるだろう事は分かっていた。体調を気遣って温かい言葉の一つもかけてくれるだろう。しかし、だからといってその状況に甘えてはいけないと思った。もう、誰にも迷惑をかけたくないし心配させたくもない。”気になる”と言われるような言動を取ってはいけないとも思っていた。これから自分は仲間達とは別れて、一人でアズールという遠くの知らない国へ行かなければならないのだから、もっとしっかりして強くならなければいけなかった。それなのに、今また彼らの姿を目にしたら、淋しいから一緒に居たいとか、一人では不安だ等と気弱な事を考えてしまうかもしれない。それは避けたかった。
『変だな』
ディートハルトは眉を寄せていた。もうずっと前から自分は強いつもりでいたのに。いつから自分は簡単に人を頼る様になってしまったのだろうか。そう思った。
『……多分、具合が悪かったせいだな』
体調が思わしくなかったせいで気弱になってしまっていたのだ。ディートハルトはそう結論付けた。
『でも……』
ピタリと足を止め、クルリと体の向きを変える。
「ちょっとだけ会うくらいなら、いいよな?」
そう呟いて、教えられた民家へと歩き出す。
『いや、ダメだろ』
ディートハルトは再び立ち止まり、民家へ背を向けた。
『何甘えた事言ってんだか……』
道すがら、すれ違う気さくな村人達に声を掛けられつつ適当にフラフラと歩き、ほどなく朝と同じ小川に辿り着いた。朝よりは下流の方に来ていた。
特にする事も用事もないため、何となくまた水面を覗き込んでみたりしていたのだが、そのうち小魚を眺める事にも飽きて、川の流れに従ってさらに下流に向かい川縁をゆっくりと歩き出す。川の向こう側には生い茂る森が迫っていた。これでは魔物がどこから村に入ってくるか分からないのではないだろうか。この川に侵入を防ぐ効果があるとは思えないので、もしかしたら森側の川岸に罠が仕掛けてあるのかもしれない。目視しにくい細い糸が張り巡らされていないか、落とし穴らしきものがないか、そのような事を考えながら小さな川の向こう岸を観察する。
「!」
不意に眺めていた方向の茂みが不自然に揺れた。
『なんだ……』
続いて現れた姿を目にし、思わず身構えていた姿勢から脱力する。暗い森の中から出てきたのは、ニットの膝丈のワンピースに、同じ毛糸で編まれたケープを羽織り帽子をかぶった少女と、少女より少し幼い似たような格好をした少年の二人連れだった。姉弟なのだろうか、少年の方は少女と同じ毛糸で編まれたセーターと帽子、マフラーを身に着けている。二人連れは少し先の下流の方に見えていた細い板の橋を通り、真っ直ぐにディートハルトの方へと向かってきた。近くで見ると少年は半分泣いているようだった。
「……」
小走りにやってきた二人が目の前で立ち止まっても、ディートハルトは特に声を掛けようとはしなかった。二人連れとは初対面の他人で興味もないからだ。
「ヒナさん、力を貸して!」
少女の第一声に、ディートハルトは少し眉を顰めた。
「……おれは、ディートハルト・フレイクだ」
「何それ、名前?長いし変なの」
そう言って、今度は少女の方が訝し気に顔を顰める。小さな村から出たことのない少女にとって、それは耳慣れない呪文のような不可思議な音だった。一方、ディートハルトの方はムッとしていた。しかし、相手は子供だと思って我慢する。
「アヤメのアラレが攫われたの」
「は?いきなり何だよ?意味分かんねえ」
間髪入れず、詳細を尋ねる代わりにディートハルトは冷たくそう言った。ささやかな反撃だ。
「人の話をちゃんと最後まで聞かないからでしょ」
「……」
予想外に少女からも反撃を受けて、ディートハルトは言葉に詰まる。
「アヤメはこの子、あたしの弟で、アラレはアヤメの大切な宝物。お婆ちゃんが作ってくれた人形なの」
と、少女は相変わらず半分泣いている少年の肩に手を置いた。
「朝から二人で森にきのこを採りに行ってたの。そしたら、魔物が出て来て人形を攫ってしまったの」
「人形を攫った?お前らが襲われたんじゃなくて?」
ディートハルトは胡散臭そうな視線を少女に向けた。
「多分、人形の目がキラキラしてたからかも」
「何だよそれ。目が光るなんて呪われた人形か?」
ディートハルトの言葉に、少女は冷めた視線を向けた。
「あたしの話、ちゃんと聞いてた?キラキラって言っただけでしょ。光るなんて言ってないけど。目が綺麗なガラスなの。あの魔物はキラキラしたものが好きだから、持っていったんだと思う」
「……あぁ、それで?おれに奪い返しに行って欲しいって?」
腹は立つが、相手は見たところ10歳くらいの子供だから、と我慢する。
そういえば、自分が幼い頃、故郷ランタナの町のすぐ近くの森で魔物に襲われ怖い思いをした事があった。
珍しく町の同年代の子供がディートハルトに声を掛けて来て、新しく買ったペットを見せてやるというので、紙の箱に入ったその小さな生き物を見せて貰おうとしたところ、急にその生き物が箱の中から飛び出してそのまま森の中へと逃げ去ってしまった。見せてやると言った子供は『お前のせいだ!』と激怒し、ディートハルトに森に行って捜して連れ帰るよう要求した。そこで、泣く泣く一人で森に向かったのだが、ペットの生き物はなかなか見つからず、代わりに魔物に遭遇してしまった。
怖くてたまらず固まっていたディートハルトを、その時偶然その地を訪れていた黒い服を着た人達が助けてくれた。彼らは、I・Kだった。
そのI・K達は、簡単に魔物を倒しただけでなく、事情を話すと一緒に逃げたペットを捜し見付け出して捕まえてくれ、さらに、その生き物を返しに行くのに飼い主の子供のところまで一緒について来てくれた。
幼いディートハルトにとって、彼らは強くて優しくてかっこいいヒーローで、その時に“大きくなったらI・Kになりたい”と思った。
「しょうがねえな」
幼い頃の事を思い出したディートハルトは、今度は自分の番だと思った。
今、目の前にいる子供二人を、あの日のI・K達のように強く優しくかっこよく助けよう。そうすれば、彼らにとって自分はヒーローになる事だろう。
「あ、ヒナさんじゃなくて、ヒナさんのお友達に頼みたいの」
小さく笑みを浮かべたディートハルトに、少女が首を横に振ってみせた。
「え、何で?」
意表を突かれ、ディートハルトは素直に疑問を口にした。
「強そうだから」
「…………」
少女の言葉はショックだった。
しかし、しばらくすると『おれは今、体調が悪いもんな。その事を知ってるんだろう』と納得し、それでも敗北感に似た思いがふっと湧いてきたのだが、同時に悔しくもなってきた。
「わざわざ他人に頼まなくても、自分らの親父とかに頼めばいいんじゃないか?」
少しぷりぷりしながらそう言うと、“とんでもない”とでも言いたげに、少女だけでなくアヤメという名の少年も首を振った。
「勝手に森に入ったのがばれると怒られるから、だめ。それに、アラレが魔物に攫われたって分かったら、お婆ちゃんががっかりするし。だから、あのお兄ちゃん達に頼んで?」
「何でおれが……」
不平たらたらに言うと、少女はギュッと眉間に皺を寄せた。
「空の種族はあたし達と友達でしょ。ヒナさんはあたし達に助けてもらってるんだから、あたし達の事も助けてよ」
その言い分には一理あるが……。どうにもこの生意気なガキの頼みを素直に聞くというのは癪に触る。そう思った。
「お兄ちゃん達って、誰に頼みたいんだよ?」
恐らく名前までは知らないはずだろうと考え、意地の悪い言い方で尋ねると、少女は照れたような笑顔を見せた。
「え~とぉ。どうしよう。みんな強そうだしカッコイイから迷うなぁ」
「ハァア!?」
付き合ってられるか。そう思い、ディートハルトは少女にクルリと背を向けた。
「待ってください!お願いします、ディートハルトさん」
初めて、アヤメという名の少年が言葉を口にした。彼は名前をきちんと覚えてくれたらしい。
「……人形って、どんなのなんだ?」
少しだけ機嫌を直し、ディートハルトは少女を無視して少年に向き直った。
「目がガラスで、赤いリボンを付けた、これくらいの人形です」
アヤメは両手を上げ、30センチ程の幅を作った。
『リボンを付けた人形……』
ディートハルトは、ファセリアの雑貨屋に飾ってあるようなアンティークの少女の人形を思い浮かべていた。緩やかに波打つ長い髪にパッチリとした大きな瞳をして、ドレスを着た人形だ。
「すごく大事なものだから自分で取り返そうと思ったんだけど、魔物が怖くて……」
アヤメは悔しそうに顔を歪めた。
「……」
ディートハルトは、自分が幼い頃の出来事をもう一度思い出していた。魔物が怖いという少年の気持ちはよく分かる。自分がI・K達に出会えたのは本当に幸運だった。彼らと会わなければ、ペットの生き物を探し出す事は出来なかったどころか、あの場で魔物に殺されていただろう。
「その魔物ってのは、どんな奴なんだ?」
「モグラです」
涙を袖で拭い少年が答える。
「モグラ?」
流石にミミズを食べるという小動物ではないだろう。そう思い聞き返していた。
「あたし達が”モグラ”って呼んでる奴」
横から少年の姉が言い直す。
「お前ら以外は何て呼んでんだ?」
「ここの人達は、みんなモグラって呼んでる」
少女はそっけなく答え、少年も頷いた。
「土の中に棲んでる、大きくて毛が生えた奴で、キラキラする物を集めてるの」
”モグラ”と呼ばれ、子供二人に見向きもせずに人形だけを奪っていくような奴なら、あまり危険な魔物ではないだろう。ディートハルトはそう判断した。もしかしたら可愛らしい小動物に似た奴かもしれない。
「よく分かんねえけど、おれが行ってやるよ」
本当は1人で森に入るのはあまり気が進まなかった。しかし、エトワス達に「力を貸してくれ」等と頼むのはもっと嫌だった。自分の事ではないが、頼って甘えたくないからだ。それに、少女はともかくアヤメが気の毒だと思っていた。自分も幼い頃にウサギのぬいぐるみを宝物にしていたので、魔物に奪われてしまって悲しいという気持ちが理解出来る。かけがえのない親友を奪われて酷く辛いだろう。
「え、ヒナさんが行くの?」
驚いたような少女の言葉に、ディートハルトは再びムッとした。
「あのな。おれだってあいつらと同業者なんだぞ」
「ドウギョウシャって?」
「ファセリア帝国のインペリアル・ナイトって、職業軍人」
少々誇らしげにそう言うと、少女は眉を寄せた。
「全然分かんない」
少女は他国の存在はもちろん、軍人という言葉も知らず、その概念も持ち合わせていなかった。
「……もう、いいから、とにかく待ってろ」
ディートハルトは二人が魔物と遭遇した場所を聞き出すと、そう言い残して川を越え森へと向かった。
「何て生意気なガキなんだ」
ブツブツ言いながらも、二人が出てきた茂みをかき分けて森の中へと踏み込む。ディートハルトは半ばムキになっていた。少女に”強そう”とも”かっこいい”ともみなされなかった事が妙に悔しかった。
『絶対、人形を魔物から奪い返してやる!』
しかし、すぐに何も武器を所持していなかった事を思い出した。
『でも……』
「おれには、これがある」
と、左拳をギュッと握って格好をつけてみるが、周囲に誰かいる訳でもなくむなしいアピールだった。
「……フゥ」
馬鹿馬鹿しくなって自嘲に近い短い溜息を吐く。
「まあ、魔物が出た場所はすぐ近くだって言ってたからな」
さっさと用を済ませて帰ろう。
そう考えながら二人に教えられた茂みを抜けてみると、そこには意外にも小道があった。村人達がよく通っているのだろう。子供の感覚で“ほんの少し”歩いたところで魔物に遭遇したと話していたので、森に迷い込む事もなさそうだった。
幸運な事に、すぐに人形は見つかった。それはディートハルトが想像していたドレス姿の可愛らしい少女の人形ではなく、何かの動物のようだった。ベージュの毛糸で編まれたあみぐるみで、三角形の耳と丸いしっぽが付いていて、顔の部分には口らしきものが刺繍され、その上には丸い鼻が、そして恐らく目が付いていたであろう部分には糸のみが残され、無理に引きちぎったのか毛糸が切れて中の綿がはみ出してしまっていた。魔物はガラスの目だけを持ち去ったのだろう。
泥で汚れたあみぐるみを拾い上げ、ディートハルトは周囲を見回した。このまま人形だけ持ち帰っても良いが、汚れている上にガラスの目が両方とも無い人形を見たらアヤメはがっかりするかもしれない。運良く、ガラスの目もその辺に落ちていないだろうか。
『あっちに行ったのか……』
明らかに何かが通ったように背の低い植物が踏み荒らされている様が目に入り、ディートハルトはその跡を辿って歩き出した。途中、木の根に人形と同じ素材の毛糸が引っかかっていた。出来たばかりの道を残したのは人形を襲った魔物に間違いない。
程なく、地面にぽっかりと空いた穴を見付けた。大きさは直径30センチ程だろうか。二人がモグラと呼んでいた魔物が地面に潜った穴だろう。想像していたよりもずっと小型の魔物のようだった。
ディートハルトは安全と思われる距離を取って立ち止まり、そっと木の陰から穴の様子を窺ってみた。魔物の気配はない。
「?」
その時、真っ黒な穴の奥に何か光る物を見付けた。人形に付けられていたガラスの目か、それとも生きた魔物自身の目か……。
確かめようと、ディートハルトはほんの少しだけ木陰から身を乗り出した。
「うわっ!?」
突然、足場が無くなり、ディートハルトは落下した。落とし穴の様に急にごっそりと地面が広範囲に渡って沈下したからだ。先程見付けた魔物が通ったと思われる直径30センチ程の穴を中心に、数メートルの大きさに広がった穴の底でディートハルトはゆっくりと身体を起こした。一緒に崩れ落ちた地面を覆っていた朽ちた枝葉や土砂がクッション代わりになったので、掠り傷程度で怪我はない。
「何でいきなり穴がデカくなったんだ?」
頭上を見上げてみると、自分が立っていた地上までの距離は穴の幅よりは少し短いようだが、身長よりもだいぶ高く簡単には登れない高さだった。
「……!」
周囲の様子を確かめたディートハルトは、背後を振り向いたところで息を呑んだ。横穴がある事に気が付いたからだ。その穴はディートハルトが少し頭を下げて屈めば立って歩けるほどの大きさはある。光が届かないためどこまで続いているのか見当もつかなかった。
そして、その横穴の奥から何か生き物の気配がする。固い物どうしがぶつかるような小さな音が聞こえ始め、しばらくすると一対の赤い光が揺れながら真っ直ぐにこちらに向かって接近して来るのも見えた。
「……何で”モグラ”なんだよ、あれが!」
横穴の奥を見据えたままディートハルトは可能な限り後退して、そう吐き捨てた。術を使おうと、急いで左手を顔の前に掲げ意識を集中する。
「モグラじゃねえだろ!」
光が届く辺りまで姿を現した魔物は、愛らしい小動物ではなかった。少なくとも見た目はモグラではなく蜘蛛に近い。頭胸部と複数の脚は蛇のような模様を描く鱗で覆われ、寒い地方の生物らしく大きな腹部はふさふさとした毛でしっかりと覆われている。目は小さなものが1対しかなかった。目ではなく、代わりに他の器官が発達しているのだろう。
“土の中に棲んでる、大きくて毛が生えた奴”そう言った少女の説明の通りで間違ってはいない。しかし、何故モグラと呼ばれているのか謎だった。
見た目はともかく、その習性はモグラの様に小さなミミズや虫を食べるというものであって欲しい。ディートハルトはそう裏切られる可能性の高そうな期待を抱き、じっとしたまま魔物の出方を窺っていた。子供には見向きもしなかった魔物なので、こちらから攻撃するなど刺激しなければ襲ってこないかもしれないからだ。
「……」
横穴を前進し、とうとう固唾を呑むディートハルトのすぐ目の前に姿を現したモグラは、最前列とその次列の二対の脚を上げて立ち上がるような体勢を取った。ディートハルトの期待は完全に裏切られていた。
「っ!」
モグラは、大きく跳ねてディートハルトに覆い被さるように飛び掛かった。掲げられた4本の爪が柔らかい地面に深く突き刺さる。
ディートハルトはモグラが跳ねるのと同時に左方向に身体を捻って転がり、すんでの所で攻撃をかわしていた。
すぐに飛び起きて先程と同じように左手を顔の前に掲げる。直後に緩く握った拳の中に小さな白い光の球が発生する。
「モグラじゃねえよ!」
ディートハルトはもう一度同じ言葉を吐き捨て、モグラの腹部めがけて光球を放った。
* * * * * * *
ディートハルトのいる小屋から数件離れた民家に、エトワス、翠、フレッド、そしてシヨウの4人は昨夜から滞在していた。その家に住むひとり暮らしの老婆は、村の外からやって来た来客が余程嬉しいらしく甲斐甲斐しくもてなしてくれている。今もまた、ニコニコしながら木製のテーブルの上に湯気の立つ焼き物の器と菓子の盛られた皿を人数分並べて置くと、いそいそと忙しそうに台所へ姿を消した。
「いただきまーす!」
フレッドはカップを手に取り、馴染みのない味のするお茶を飲んだ。薬草のような匂いは香ばしくもあり少し癖になりそうな味がする。
「ファセリア大陸を離れたのは、まだあったかい季節だったよな。でも、今はもう冬でしかも年末って。まさか、こんなに長い間ファセリアを離れる事になるなんて、思わなかったな」
温かいお茶を飲みホッと息を吐いたフレッドが、しみじみとそう言った。今日で今年も終わってしまう。まさか、外国の地で新年を迎える事になるとは思わなかった。
「そうだな。ファセリア大陸を離れたのは何年も前の事の様な気がするな」
ぼやくエトワスの言葉に、翠も笑いながら頷く。
「ほんと、卒業式の日が何年も前の事の様な気がするわ」
「でもさ、もうすぐ帰れるじゃん。ファセリアに着いたら、まずはウルセオリナに行かないとな」
嬉しそうに話すフレッドの言葉に、彼の向かい側の席に着いたシヨウは手にした地図に視線を走らせた。
「ウルセ、オリナ……?」
「ここ」
身を乗り出して覗き込み、フレッドはファセリア大陸の南を指さす。アズールへの扉があるというルピナス地方の遺跡は、そこからは大分離れた大陸の北東部にあった。
「オレとフレッド君とディー君には、会わなきゃならない方がいるんで。エトワス君は、実家があるしね。ルピナス地方の遺跡に行くのはその後だね」
窓枠に腰をかけて煙草を銜えていた翠が、そう言って煙を吐いた。
「……」
翠の言葉にエトワスは憂鬱になった。祖父に言われるであろう事は分かっている。私情にとらわれた、自らの立場を自覚していない浅はかな行動を責められるに違いない。しかし、叱責を受けるのはまだいい。その結果、謹慎を言い渡される等して自由がきかなくなる可能性が高いのは困る事だった。ウルセオリナの城から一歩も外に出られなくなってしまえば、これ以上ディートハルトの側にいる事が出来なくなってしまうからだ。
「だけど、直接ルピナス地方の遺跡に行くのは危険だから、まずは情報収集しないとだね」
翠がそう言ってエトワスに視線を向ける。
「俺達の目的地の扉がある遺跡は、グラウカ達が見付けたと話していた遺跡と間違いなく同じ場所だからな。グラウカ達が予定通りにファセリアに向かったなら、もう2か月近く前に着いているはずだから、まだいるかどうかは分からないけど……」
「グラウカ達は、扉の鍵を“翼”だって思い込んでんだもんな」
エトワスの言葉を聞いたフレッドがそう言って笑う。
「ルシフェルって奴じゃどう頑張っても扉は開かないだろうし、諦めてヴィドールに帰ってる可能性もあるよな」
「いや、まだいると思うぞ」
菓子を頬張っていたシヨウが、首を横に振る。
「研究員達は、メンバーの交代はあっても毎回数か月は同じ遺跡にいるんだ。特に、遠い場所に行く時は滞在期間が長い」
「それじゃ、ディー君を喰うっつってたルシフェル君も、まだいるって事か」
翠が薄く笑う。
「あいつらに見付かれば、フレイクを狙ってくる可能性はほぼ100パーセントだな」
フレッドはちびちびとお茶を啜りつつ話に参加している。
「まあ、ディー君が狙われるかどうかって点を抜きにしても、ファセリア帝国的にもヴィドールの研究員チームの皆さんの動きには、注意しとく必要があると思うけどね」
口調だけはのんびりとしている翠の言葉に、エトワスが頷く。
「あいつらがアズールへ向かう事は阻止したいからな。それと、本当の鍵が何なのかも知られたくない」
「扉を開くのは、グラウカ達を遺跡から追い払うか、近くに居ない事を確かめてからの方がいいかもね」
「なんか、すげえ大事になってフレイクも色々大変だよな」
同情した様子で言いながら、フレッドは皿に盛られた菓子に手を伸ばした。それは何か穀物の粉で作られた仄かに甘い団子状のものだった。
「んん!?」
パクリと一口食べた直後、感激した様子でフレッドは歓声をあげる。
「ハナさーん、これ、滅茶苦茶うまいです!」
と、家の主の老婆に声を掛けると、老婆は台所からヒョコッと顔を出し、「あら、そお?いっぱい食べなさいね!」と嬉しそうに笑った。
「……ファセリアには、ディー君を狙う奴がいなきゃいいけどな」
窓の外に視線をやり、2本目になっている煙草を銜えた翠がそう言った。
「そうだな」
エトワスはフレッドの隣の席を立って翠の近くまで行き、窓の外に目を向けた。立ち並ぶ小屋の先に、かろうじてディートハルトがいる建物の屋根も見えていた。
「ファセリアに戻ったから安心、って訳でもないだろうな」
アズールの存在や、ディートハルトが鍵になる純粋な空の種族だという事が知られてしまえば、ファセリア帝国の中にも興味を持つ者が出てくるかもしれない。そう考えると心配だった。
「だけど、何かヤバイ状況になっても、お前が命を懸けて守るだろ」
翠がニヤっと笑って言う。
「お前だってそうだろ」
エトワスはそう言って視線だけチラリと翠に向けた。いつも軽口を叩いたりエトワスをからかったりしている翠だが、結局彼もエトワス同様ディートハルトを放っておけないという事を、エトワスは知っている。
「そりゃ、仲間だしな。危ない時は俺達だって一肌脱ぐって。なあ?」
菓子をモグモグ食べていたフレッドが、そう言ってシヨウに同意を求めた。シヨウは、いや、仲間と言われても俺はファセリア兵じゃないし、そもそもファセリア人でもないんだが……と思いながらも頷いていた。
「まあな」
「ディー君もそろそろ診察とお薬タイムが終わった頃なんじゃねえ?会いに行かないの?」
翠がエトワスに視線を向ける。
「そうだな。様子を見に行ってみようか」
エトワスが答えた時だった。ノックもなしに小屋の扉が大きく開いた。
「?」
姿を現したのは、シュナイトだった。
「ディートハルトが、いなくなった!」
シュナイトの言葉に全員が沈黙する。
「アカツキが30分程前に外出の許可を出したらしいが、村の中のどこにも姿が見当たらないらしい」