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LAZULI  作者: 羽月
37/77

37灰色の森 ~扉の守護者2~

 何の香りだろう……


 爽やかでいて深い香りは、呼吸する度に肺の奥にまで染み入ってくるようだった。それどころか、そのまま血液に溶け込んで体中を巡り、全身の隅々まで行き渡っているのではないかという気さえする。


 溶けてる……


今、不思議な香りと同化した自分は溶けていく最中だった。


紅茶にポトンと落とされた角砂糖のようにシュワシュワと溶けていき、最後には脆くて小さな固まりになって完全に姿を消してしまう。

溶けた分だけ体も心も軽くなり、とても心地が良い。

どんどん浄化されていくかのようだった。


「……」

目を覚ましたディートハルトは、目を擦りながら体を起こした。そこは初めて見る場所で小さな部屋の中だった。家具らしきものと言えば、小さくて低いテーブルのようなものがあるくらいで他に見当たらない。一つだけある硝子のはめ込まれていない窓の外は仄かに明るく、木の枝が見えていた。

「これか……」

ディートハルトは思わず声に出して呟いた。体を支えるために手を付いた厚い布の下に、爽やかな香りのする大量の植物が敷かれている事に気が付いた。名前の分からない草や花や枝葉で出来た山に布が敷かれ、その上で……と言うより、そこに埋もれるようにして自分は眠っていた。まるで、大きな鳥の巣に放り込まれているかのようだ。

『ここは……どこだろう?空の国なのか?』

体に掛けられていた布から出て立ち上がったディートハルトは、窓辺に歩み寄ってみた。空の国かどうかは分からないが、どこかの集落ではあるようで窓の外には木造の小屋が見えていて、少し離れた場所に大きな木が一本見えた。さらにその向こうには、灰色の森が広がっている。

「……」

続いて空を見上げてみる。薄い紫色の雲越しに傾いた太陽がうっすらと見えているが、時刻の見当は全く付かない。朝なのか夕方なのか分からなかった。

「ッ」

小さなくしゃみをする。部屋に火の気がなく窓には硝子もカーテンも何もないため非常に寒い。思わず、もう一度暖かい寝床に潜り込もうかと思ったが、その鳥の巣のような植物の山の傍らに自分が着ていた防寒服がまとめて置いてある事に気が付いた。厚手の上着と手袋、軽く柔らかな素材の外套、そしてもう一枚、フード付きのたっぷりとした黒っぽい外套も畳んである。これはエトワスのものだ。

何故か長く続いていた身体の怠さも和らいでいて気分が良かったので、ディートハルトは自分の上着を手に取ると外に出てみる事にした。


 軋んだ音と供に扉を抜け小屋を出ると、どこに向かおうか少し迷ったが、とりあえず窓から見えていた道を道なりに進んでみる。舗装されていないでこぼこ道を、ゆっくりと歩きながらキョロキョロと周囲を見回すが、看板や標識といった類のものが全くないので地名や居場所を特定出来そうな手がかりも見付からない。そして、ぽつりぽつりと小屋はあるのだが人の気配はない。気温が低く静まりかえっているので、早朝という時間帯なのかもしれなかった。


 程なく、窓から見えていた木の近くに辿り着いた。そこは広場になっていた。この大きな木がある広場がちょうど集落の中心となっているようだった。

『ん?』

ディートハルトは、水の音がする事に気付いた。

『近くに川があるのかも』

そう思った時には既に足は自然と水音のする方へと向かっていた。

『あった』

広場を囲む小屋の裏手には、ディートハルトが思った通り川が流れていた。堤防などはなく自然のままの状態で、雨が降って少しでも増水すれば、すぐに溢れ出してきそうな川だった。ただ、少し助走したら軽く飛び越えられてしまえそうな程に小さい。

ディートハルトは何となく身を屈めて川を覗き込んでみた。それ程深くない緩やかな流れの中に、小さな魚が群れになっているのが見える。手を伸ばせば簡単に掬えそうだった。

「珍しい生き物でもいましたか?」

突然現れた気配と聞き慣れない声に、ディートハルトはハッとして振り返った。急いで水中から引き上げた両手から、冷たい雫がポタポタと落ちる。思わず手を入れてしまったが、水は痛い程に冷たかった。

「おはようございます。様子を見に行ったら居なくなっていたので、捜したんですよ」

聖職者のような長い裾の服を着た若い男が、穏やかな表情を浮かべてゆったりとした歩調で歩み寄ってくる。肩を少し過ぎるくらいの長さの髪は、彩度が低く明度は高い茶系で、瞳は緑がかった薄い灰色をしている。体格は標準、身長はディートハルトより高い。フレッドと同じくらいだろうか。そして、その背に翼はない。

「わたしは、アカツキといいます。この村で薬師をしています」

ディートハルトが警戒心も露わに無言で観察しているので、笑顔を見せその男が名乗った。

「君を治療したのも、わたしです。少しは気分が良くなりましたか?目が覚めたのなら、朝食をとって薬を飲まなければ。さあ、一緒に戻りましょう」

そうアカツキと名乗った男が促すが、ディートハルトはその場から動こうとしなかった。まだ相手が何者なのか、はっきりとは分からないからだ。

「……おれを治療したって事は、空の種族なのか?」

躊躇った後、ディートハルトは思い切って尋ねてみた。

「わたしが?」

まさか、と、アカツキは首を横に振る。

「わたしは地上の種族ですよ。この村の住人は、遠い昔から空の種族の味方で彼らについて他の地上の種族達よりも多少知識があるので、治療薬も作る事が出来るんです」

「……光の神の信者なのか?」

ディートハルトの問いに、アカツキはフフッと笑った。

「いいえ。空の種族を崇め奉ってはいません。友人だと思っています。治療したとは言っても、君の場合は特別なので、アズールの聖地に戻らない限り完全に回復させる事はできませんが」

『知ってるのか……』

自分は空の種族ではないと言ったが、アカツキはディートハルトが空の種族だという事も、空の国へ行かなければならない理由も知っているようだった。

「でも、心配はいりません。もうすぐアズールへ戻れますから」

続けられたアカツキの言葉に、ディートハルトは一瞬目を見張った。

「それじゃ、”扉の守護者”!?」

「と、呼ばれる一族の一人です。ここは扉を守護する者たちの村。住民全てが”扉の守護者”です」

『ほんとに、いたんだ……』

”扉の守護者”という存在が目の前に現れた事で、それまで夢や幻だと思い込んでいたものがいよいよ現実味を増してきたような気がした。”扉の守護者”がいるという事は扉も存在し、その扉の先には空の国もある。

『出来れば、あんまし行きたくねえけど……』

ぼんやりとそう考えながら、ディートハルトは改めてアカツキの姿を観察しなおした。

「扉を守ってるって言うから、衛兵みたいに大きな扉の前に立ってるのかと思ってた……」

ディートハルトはファセリアで見かけるような衛兵の姿を想像していた。しかし、アカツキは雰囲気からしても兵には見えない。体を動かすより頭を使う方が得意そうな印象を受ける。本人が話した通り、薬師という職業が似合っていると思った。

「門番ではありませんから」

そう言ってアカツキは再び少し笑った。

「守っていると言っても、扉に張り付いて見張っている訳ではありません。そもそも、今はこの近くに扉はありませんし」

「え、扉は無い?」

どういう意味だろう?ディートハルトが眉根を寄せると、アカツキは言葉を続けた。

「私達には、扉の位置が分かるのです。風と木と鳥の声を聞き、星を読む事によってその場所を知る」

「あぁ……」

ディートハルトは曖昧な返事を返した。

「じゃあ」

さらに扉の事について尋ねようとしたディートハルトは、急に質問の内容を変えた。それよりもずっと気になっている事がある。

「ここはレテキュラータの森の中?」

「そうです」

「じゃ、おれは一人じゃなくて連れが居たはずなんだけど……」

エトワスや翠は何処に行ったのだろう?扉の守護者達の元へ自分を送り届けて、そのままレテキュラータの町へ帰ってしまったのだろうか。

『その方が迷惑かけねえし、いいけど……』

と胸の中で呟きつつも淋しく思っていると、アカツキは嬉しい事実を告げた。

「彼らも、君が居た小屋のすぐ近くにいます。魔物の毒に大分おかされていたけれど、解毒薬が効いてすっかり良くなってからは、君の事を心配して何度も様子を見に来てましたよ」

仲間の所在を聞き嬉しそうな顔をしたディートハルトだったが、すぐにその表情を曇らせた。

「魔物の毒って?」

「運悪く、有毒の魔物の巣に入ってしまっていたのです。風鳥(かざとり)の知らせを聞いたわたしが間に合わなければ、全滅しているところでした。君が魔物に襲われたり毒におかされたりする事がないように細心の注意を払っていたようなので、君だけは無傷でしたけど」

詳しい話を聞くと、さらに表情を暗くしてディートハルトは落ち込んだ。仲間達の窮地にも気付かず、呑気に眠っていた自分が恥ずかしくて恨めしい。何より、また自分のせいで仲間に迷惑をかけてしまっていたという事実が辛かった。エトワス達は「迷惑だと思った事はない」と言ってくれたが、自分自身は、やはり迷惑を掛けてばかりだと思っていた。

「さあ、行きましょう。薬を飲んだら長の家に案内します。そうしたら、友人達にも会えますよ」

さっさと背を向けて歩き出したアカツキに、ディートハルトはとぼとぼと付いていった。


 小屋を出た時とは違い、辺りが明るくなってきたためか、帰りはちらほらと人影があった。”扉の守護者”の一族と言っても特にこれといった特徴がある訳ではなく、住民達はどこの街でも見かけるような普通の人々だった。

「あっ、セレステのヒナだ!」

「ああ、あれが噂のヒナか!」

「ヒナが歩いてるよ!」

ディートハルトを目にして、足を止めた村人達が囁き合っている。中には物珍しそうに近くまで寄ってくる子供もいた。

「何で、”ヒナ”って言うんだ?」

相変わらず重い足取りでアカツキの背後を歩きながら、少し機嫌を損ねた様子でディートハルトが尋ねた。

「”未成年”という意味ですよ」

振り向かずにアカツキはそう答えた。

「すげえ馬鹿にされてる気がする……」

剣の幽霊にも言われたが、幽霊は”セレステの成長段階におけるごく初期の呼称だ”と言っていた。どちらかと言えば、”未成年”ではなく”ガキ”という意味合いなのではないのだろうか。

「そんな事ありませんよ」

アカツキは歩きながらディートハルトを一瞥する。

「正真正銘のガキにまで言われんのは、腹立つんだけど」

ディートハルトは元々落ち込んでいた気持ちをさらに沈ませて小屋へと戻ると、アカツキの用意してくれたパンとスープで朝食を済ませ、薬草を煎じたものを飲まされると、すぐに長の家へと案内された。


 長の住居はディートハルトが眠っていた小屋からそう遠くない場所にある、他の民家に比べると少し大きな建物だった。扉から入ってすぐの廊下から続く部屋の中は、天井からいくつもの丸い照明が下がっていて温かいオレンジ色の光で照らされていた。床には厚く柔らかなベージュの敷物が敷かれ、大きなクッションが幾つか置かれている。部屋の隅に薪が燃えるストーブがあるためその部屋はとても暖かかったが、人の姿はなかった。

「ここで待っていて下さい」

そう言い残し、アカツキは部屋の奥へと去っていった。


「……」

しばらく誰もいない部屋にぼんやり立ちつくしていると、不意に背後から声を掛けられた。

「ディートハルト」

アカツキのものではない呼び声に、ディートハルトは弾かれたように振り返った。そこには予想通りの人物がいる。

「エトワス!」

見慣れた姿を目にした瞬間、植物の香りの中で目覚めて以来初めて現実の世界に戻ってきたような気がした。同時に、一気に不安から解放され安堵している自分にも気付く。一人見知らぬ土地で目覚め扉の守護者だという人物に会い、自覚は無いものの緊張していたのかもしれない。

「よかった。調子良さそうだな」

エトワスがいつもと変わらない笑顔を向けると、ディートハルトの方も僅かに笑みを見せた。しかし、その表情はすぐに翳る。

「……エトワス達は?魔物の毒にやられたんだろ。大丈夫なのか?」

「や~、気持ち悪くてマジ死ぬかと思ったけどねー」

「ほんと最悪だったんだぞ、あの巨大蛾!」

と、エトワスに代わり喋ったのは、彼の背後から現れた翠とフレッドだった。

「……ゴメン。おれ、寝てて……」

俯いてポソリと独り言のように呟かれたディートハルトの言葉に、翠、フレッド、そしてエトワスの3人は僅かながら驚いた様な表情を見せた。

その時、シヨウとシュナイト、そして最後にアカツキと供に初めて見る女性が部屋の中に入ってきた。


「お待たせしてしまいましたね」

柔らかな灰色の髪を緩くまとめ上げたその女性は、アカツキと同じ色の瞳でディートハルトに微笑みかけた。肉付きも血色もとても良い女性で、今のディートハルトから見れば眩しいくらいに生命力に溢れ非常に健康そうに見える。アカツキの紹介で、彼女はアカツキの母で村の長という事が伝えられた。

「私は貴方を知っていますよ。でも、言葉を交わすのは初めてですね」

長は、ディートハルトを始めとする村の外からやってきた客達に座るよう促した。

「……」

タペストリーの掛かった奥の壁を背に長が腰を下ろし、その左手側にアカツキが座る。ディートハルトは無言で、アカツキに指し示された場所……長の正面に座り、ディートハルトの仲間達は彼の背後に座った。部屋の中に、ディートハルトを中心に周囲を取り囲むような形でそれぞれが腰を下ろしている状態となり、少し居心地が悪かった。


「私は、アズールへ続く扉を守護する一族の長ですが、直接セレステに会うのは初めてです」

そう言って口を閉ざし、柔らかなランプの明かりに照らされたディートハルトを微笑を浮かべて見つめていた長は、やがて小さな溜息を吐いた。

「本当に両目ともなんて……」

「何がですか?」

眉を寄せるディートハルトに、長は「あら」と言って少し笑った。

「ごめんなさい。つい、見とれてしまって。……空の種族達の多くは左右色の違う瞳をしているので、貴方みたいに両目が同じ色というのは珍しい存在なのです。そして、貴方の青い瞳はセレステしか持ち得ない特別なもの。ラズライトは知っていますね?」

長の問いかけにディートハルトは頷いた。

「遺跡から出る、光る石……」

「ええ。石がその力を放つ時、そして、空の種族の元にある時にしか自ら光る事はありませんが」

長の言う通りだった。ラズライトはディートハルトの前で発光し、直後に崩れ去った。

「セレステ達は皆、左右違う色の瞳のうち片方の瞳は青い瞳なのです。その中でも、よりラズライトに近い色の瞳を持つ者ほど力も強い。貴方は両方ともラズライトの瞳を持っています」

「おれが?」

自分の目が例の黒っぽい石と似ているなんて全く気が付かなかった。しかし、ディートハルトにとってそれはどうでも良い事だった。これ以上まだ自分に普通ではない部分があり、それを教えられたところで驚きはしない。

「だからって、何の得にもなんねえし、意味ないと思うけど……」

ふて腐れたように独り言を言うディートハルトの言葉を、長は聞き逃さなかった。

「そうでもありませんよ」

『まだ何かあんのか?』

と、少々うんざりした様子で、ディートハルトはその希少な瑠璃色の瞳を長に向けた。

「貴方の青い瞳はセレステの証であるのと同時に、封印された扉の鍵です。貴方の瞳が、アズールへと続く扉を開く鍵になるのです」

「!?」

長の言葉に一瞬目を見開いたディートハルトは、怯えたような表情を浮かべていた。

「……」

彼の頭の中には恐ろしい映像が浮かんでいる。自分の眼球をナイフでえぐり取り扉の鍵穴にはめ込むというものだ。それはすぐに、ヴィドールで見た赤の海賊、ヘーゼルの姿と重なった。街灯に照らされた彼の顔や体は、途中で折れた剣が突き刺さった片目から滴る赤黒い液体で汚れていた。

『嫌すぎる……絶対嫌だ!』

多少体の具合が良くなった事もあり、空の都へ行こうと思う気持ちは急速に萎み消えてなくなってしまった。

「もちろん、眼球を取り出し物理的に鍵として使用するという意味ではありませんよ」

ディートハルトの顔から血の気が引き、手で片眼を押さえている様子に、長がそう付け加える。

「あ、なんだ……。そっか」

ディートハルトは、心の底からホッとした。

「貴方は扉の場所を尋ねに来たのでしょう?現在の扉は、ファセリア大陸の遺跡にあります。ファセリア大陸の北東、この辺りです」

長の隣に控えていたアカツキが、敷物の上に古びて黄ばんだ地図を広げた。

「え……」

長が指し示した地を覗き込んだディートハルトは一瞬息を呑み、眉を顰めるとすぐに後ろを振り返った。

「ルピナス地方ランタナ、だな」

既に聞いていたのか、頷いたエトワスは驚いた様子も見せずにそう言った。それは、ディートハルトの生まれ育った地だった。

「遺跡があるなんて話、聞いた事なかったけど。でも、じゃあ、おれは元々ずっと空の国に行こうと思えば行けるところに居たって事なのか……」

自分が生まれ育った町のすぐ近くに空の国へと続く扉がある。当然それは偶然ではないのだろう。ディートハルトは急に喉の奥が乾くような息苦しさを覚えた。しかし、緊張するディートハルトに向かい柔らかな笑みを浮かべて、長はゆっくりと首を振る。

「いいえ。”ずっと”、という訳ではありません。扉は複数あり、世界中に点在しています。ですが、どの扉も常にアズールへ繋がっている訳ではありません。不定期に、どこかの扉一箇所だけが繋がるのです。現在繋がっている扉は、恐らくこれから数ヶ月は繋がったままでしょう」

「……」

自分を産んだ人は、過去にランタナの扉がアズールへ繋がった時にその扉を通って地上に下り立ち、そのまま住み着いたのだろうか?

彼女が元々余所者だという事は聞いて知っていたが、それ以上の事はディートハルトは何も知らなかった。

「ですから、もう数日はここへ滞在して治療を続け体を回復させてからファセリア大陸へ向かうといいでしょう。今回はアカツキも同行させるので、心配はいりません」

『”今回は”?』

うっかり聞き流しそうだった長の言葉に引っかかりを覚え、ディートハルトは内心首を傾げた。同時に、彼に向けて最初に長が言った台詞も思い出す。

『私は貴方を知っていますよ。でも、言葉を交わすのは初めてですね』

確か、こう言った。まるで過去に会った事があるかのような言い方だ。

「おれは、貴方に会うのは初めて、ですよね?」

質問してみたものの、馬鹿馬鹿しいと思っていた。数ヶ月前に成り行きで国外に出ることになってしまったが、それまでずっとファセリア帝国で過ごしてきて国外に出た事はなかったからだ。ただし、物心が付く以前の事は分からないが……。

「実際に顔を合わせ話すのは、初めてですよ」

ディートハルトの問いに、長は少しだけ微笑んで頷いた。

「ただ、貴方が貴方の守護者、つまり巫女の胎内にいる時に、巫女とは会って言葉を交わした事があるのです。ですから、あなたの事は知っていました」

「おれを産んだ人?……ここに来たんですか?」

ディートハルトは目を丸くする。

「19年前に」

どこか懐かしそうな瞳をして長はディートハルトに視線を注いだ。

「彼女は運が良かった。当時、この村の若者達数名が用があって町に向かおうとしていたところ、森に逃げ込んで来た彼女に偶然出会ったので、森の奥深くに迷い込む前にこの村に辿り着く事が出来たのです」

長の話では、守護者の村の者達は定期的にレテキュラータの王都に出掛けて氷獣の角や毛皮を売り、そのお金で必要な品を購入し村に持ち帰っているという事だった。

「空の種族の巫女シャーリーンは、セレステである貴方をアズールへ帰そうとしていました」

『そうだった。そんな風に呼ばれてた……』

ディートハルトは、久し振りに自分を産んだ人の名前を聞いた。

「セレステの子はいつ生まれて来るか分からないので、当初は出産を待ってからアズールに向かうつもりだったようですが、夫の不在中に地底の種族に追われて、やむなくこの森に逃げ込んで来たのです」

「夫って、ローマン?」

大嫌いな養父の名前を出し、反射的にしかめっ面を作る。二人は新婚旅行か何かでファセリア帝国からレテキュラータ王国に来ていたとでも言うのだろうか。

「いいえ」

否定した長は、何故かディートハルトの背後に視線を注いだ。

「?」

つられてディートハルトが振り向くと、少し離れた位置に座った沈んだ表情のシュナイトと目が合った。

「シャーリーンは、私の妻だ」

「……」

ディートハルトはシュナイトの言葉の意味が理解出来なかった。

「……同じ、名前?」

混乱したまま首を傾げると、シュナイトが否定する。

「いや、同一人物らしい」

「…………」

しばらく微動だにせず沈黙していたディートハルトは、すぐ後ろに座っていたエトワスの元ににじり寄った。

「どういう意味だろ?」

耳元に顔を寄せひそひそと囁くが、狭い部屋なので周囲には全てしっかり聞こえている。

「ディートハルトを産んだシャーリーンさんは、レトシフォン閣下の奥さんで、ディートハルトがお腹の中にいる状態で19年前にここで長と会っていたって事みたいだよ」

意味がないとは分かっていたが、エトワスもディートハルトに合わせて声を落とす。

「えぇっ!?やっ、で、でも!おれっ見たっ、見たぞ絶対!こっそりあいつの本の中の引き出しに挟んでた写真がっ!マジで結婚式のっ!あのクソ医者と写ってたって!ウェディングドレス着てっ!!」

酷く混乱しているため、話している言葉の文法が非常に怪しかった。しかも、相変わらず耳打ちしているつもりらしいが、普通に話す声量よりも大きな声で狼狽えているため、エトワスが身を引いている。

「……そっちの方が気になるのか?」

異国で偶然知り合った六将が、実は自分の父親のような存在だったという事よりも、自分を産んだ女性が二股をかけていたかもしれないという事の方が、ディートハルトには衝撃的だった。

「マジで嘘じゃねえって!にっこり笑ってて、あいつがキスしてる何かラブラブな写真だったぞ!裏に”最愛の妻 シャーリーンと”って直筆で書いてあったし!?覚えてないけど、ちゃんと日付と名前も書いてあっ……まさか、重婚って奴!?」

ディートハルトが話し続けるうちに、どんどんシュナイトの表情が険しくなっていく。それに気付いている周囲は、彼から視線を逸らし耳はしっかりと傾けながらも聞いていないふりを決め込んでいた。

「シャーリーンはファセリア大陸に渡る前に、ここに来たのです」

話を戻す長の言葉に、ディートハルトはようやく衝撃から立ち直り我に返った。

「その頃既にシュナイトとは婚姻関係にあり彼と供に暮らしていたのですが、偶然シャーリーンを見掛けて血の本能に目覚めてしまったらしい地底の種族の血を引く者に追われ、この森に逃げ込んで来たのです。そして、私に扉の位置を尋ねました」

「じゃあ、その時繋がっていたのも、ランタナの扉だったんですか?」

「そうです」

長の言葉で、段々と分かってきたような気がした。

「じゃあその後に、ファセリアに渡って扉を通ってアズールに帰るつもりだったのか。でも、それからすぐに扉のとこに行ったとしても意味なかったんじゃねえかな?鍵になるっていうおれは、まだ産まれてなかったはずだし……」

ディートハルトが産まれたのは18年前で、それは、鍵ではない普通の空の種族であるシャーリーンがファセリア大陸に渡った1年以上後の事になる。地底の種族の血を引く者に追われてやむを得ずこの村を訪れたのだとしても、そのまますぐにファセリアに向かう意味はなかったのではないだろうか?首を傾げるディートハルトに、長は首を振った。

「いいえ。先程言った通り、眼球を物理的に鍵として使うのではありませんから、貴方が胎内にいる状態でも扉は開いたはずです。ファセリアに渡った後、何故すぐにシャーリーンがアズールへ戻らなかったのかは分かりませんが、貴方達がそのまま地上に留まっていたと知って本当に驚きました」

「……それは、多分……」

ディートハルトは遠い記憶を探る。

「その女の人は、ランタナに来た時に大怪我を負ってたって聞いてるから、行きたくても扉まで行けなかったのかも?」

地図を見る限り、扉があるという遺跡の位置はランタナの南の森の中だ。となると、遺跡に向かう前に、その道中に位置するランタナの町に寄った可能性が高かった。

「シャーリーンさんがいつ怪我を負ったのかは分からないけど、レテキュラータからの船が着く北ファセリアからルピナス地方までは結構距離があるから、それだけでも大変だったかもね」

北ファセリアの町に祖父母が住んでいて地元のようなものである翠がそう言うと、ディートハルトも頷いた。

「ルピナス地方に入っても、領主のいる城下町からランタナ迄も遠いしな。それに、道はあるけど、森を抜けなきゃならなくて魔物も沢山出るから、移動するのはかなり厳しかったと思う。魔物と戦い慣れてる奴じゃなきゃ一人で移動する奴なんていないし」

ランタナで生まれ育ったディートハルトは、シャーリーンが通ったと予想される道を実際に通った事があった。ファセリア帝国学院の入学試験を受けるため下見に行った時、試験当日、合格後の入学手続きの時、その後学生寮に入る時など何度も通っているが、毎回腕の立つ同行者がいた。

「じゃあ、怪我をしたのは領主の住む城下町ルピナスからランタナに行くまでの間って可能性が高いかもな」

ディートハルトの言葉にフレッドが納得したように言った。

「それで、ひとまずランタナに寄って手当てしてから、改めて遺跡を目指すつもりだったのかも?」

ファセリア人達の言葉を聞いていたシュナイトが、今度はどんどん悲痛な表情になっていく。

「だけど、ディートハルトが無事に生まれてるって事は、シャーリーンさんの怪我はよくなったんだろ?」

エトワスが穏やかな口調で口を挟んだ。

「あ、うん。ランタナの医者が治療して怪我は完全に治って元気になったらしい。その医者、腕だけはスゲェいいみたいだから」

ディートハルトもエトワスの言葉でシュナイトの様子に気付き、少しでも安心させようと思ってそう話したのだが、シュナイトの表情が明るくなる事はなかった。

「そして、その治療した医者と彼女は結婚したという事なのか?」

「え……っと。そう、みたいです」

ディートハルトは余計な事を言ったかもしれないと後悔しつつ、無意識にエトワスの服を掴んでいた。

「今度こそ、貴方が無事にアズールへ戻れるよう私達も協力します。扉の元へはアカツキにシッカリ案内させましょう」

長の言葉にアカツキは静かに頷いた。


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