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LAZULI  作者: 羽月
36/77

36灰色の森 ~扉の守護者1~

 窓に掛けられたカーテンの隙間から、夜空に浮かぶ青みがかった銀色の月が覗いている。冴えた月の光は眠るディートハルトの上に静かに降り注ぎ、薄闇の中にその姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。

『ヴィドールの教会で見た有翼の彫像みたいだ……』

ディートハルトの姿を眺めていたエトワスは、ふとそう思った。しかし、冷たい石で出来た彫像の方が、血の通う生身の彼よりもはるかに強い生命力に溢れ存在感があったように思える。穏やかだが表情の全く無い端麗な顔もその滑らかな白い肌も、少し伸びた艶やかな金色の髪も以前に増して細くなった華奢な体も、彼を成す全てが冷たい光の(もと)で精巧な人形のように……魂を持たない、いかにも作り物めいて無機質な存在であるかのようにエトワスの目に映る。

 不安にかられたエトワスは、座っていたベッド近くの椅子から立ち上がると、傍らのランプの明かりをつけた。一瞬にして、月の青白い光に代わり柔らかいオレンジ色の光が辺りを照らし出す。静かに眠るディートハルトの様子に変化は全く見られないが、温かみの感じられる今の光に包まれた姿の方が、まだしもましだと思えた。人工の温かい光が不吉な影を払ってくれたかのようで、少しだけ落ち着く。

『俺に、治癒や回復の術が使えたらいいのに……』

静かに手を伸ばし、エトワスは指の背でディートハルトの頬に触れた。そのままひんやりとした肌をそっと撫でる。

『もし、命を分け与える事が出来るのなら、いくらでも差し出すのに……』

エトワスの祈りにも等しい想いが届いたのか、固く閉じられていた瞼が静かに開き、薄く淡いオレンジ色の光を湛えた瑠璃色の瞳がゆっくりとエトワスの姿を捉えた。

「……エトワス」

声にならない微かな吐息が、唇の動きで名前を呼ぶ。

「起こしたな。ごめん」

謝罪しながらも、ディートハルトの反応があった事にエトワスは安堵していた。彼がこうして動き話すという何でもない事実が酷く嬉しい。

「おれ、どれくらい眠ってた?」

窓にカーテンが下ろされていることで今が夜だという事は分かったが、”いつ”であるのかはディートハルトには分からなかった。

「二日間だよ」

シュナイトにセレステと呼ばれる空の種族達の話を聞いてから二日の間、ディートハルトは眠り続けていた。

「二日……」

ディートハルトは呟いて再び目を閉じた。それはディートハルトにとってはほんの2、3時間の事のようにも思えたが、同時に2、3年の様にも感じられた。すっかり時間の感覚が狂ってしまっている。

「すまない。まだ、扉の守護者は見付かってないんだ」

そうエトワスは幾分沈んだ表情で報告した。シュナイトらと供に連日早朝から日暮れまで森の中を探し続けているのだが、未だそれらしき人物を見付ける事はできていない。

「明日は今までよりもう少し北の方を捜してみるつもりだけど、明日も見付からないようなら、翠が宝剣を取りに一度ファセリアに戻る事になってる」

『エトワスがそんな表情(かお)する事ないのに……』

ディートハルトはそう思った。エトワスに悲しい顔をされるのは本当に嫌だと感じていた。

「あのさ……」

もう捜してくれなくてもいい……そう言おうとして、ディートハルトは口を閉ざした。”お前の力になりたい”そう話したエトワスの言葉を思い出したからだ。彼に負担を掛け迷惑な存在になるのは嫌だったが、せっかくの厚意を無下にしたくもない。それでは、どうしたら彼から暗い表情を消し去る事が出来るのだろう?

しばらくの間、懸命に考えていたディートハルトは、ある事を思い出した。

「……おれも一緒に森に行く」

「それは無理だ」

ディートハルトの言葉にエトワスはすぐに首を横に振った。

「外は寒いし森には危険な魔物も出る。もちろん、ディートハルトが強いって事は知ってるけど」

ディートハルトが機嫌を損ねないよう、そう付け加える。

「鳥……」

「?」

「鳥を追いかけてたって言っただろ?」

「……ああ」

ディートハルトが目を覚ました時の開口一番の台詞を思い出し、エトワスは訝しく思いながらも頷いた。

「いつからか分からないんだけど、前からそこの木でおれの事をずっと見てる鳥がいてさ……」

ディートハルトは、今はカーテンが引かれている窓の方へゆっくりと視線をやった。

「この間は、何だかおれに”ついて来い”って言ってるような気がして外に出たんだ。そしたら、そいつは、おれが追いかけてくるのを待ってるみたいに、同じとこを何度も旋回しながら森の方に飛んでいった。……多分、本当におれを呼んでたんだと思う。森に、もしかしたら扉の守護者って奴のとこに、案内してくれるつもりだったんじゃないかと思うんだ。だから、またそいつを捜せばいいのかもしれない」

「どんな鳥なんだ?」

藁にも縋る思いでエトワスは尋ねていた。

「白い大きなヤツ。多分、おれにしか分かんねえと思う。だから、おれも行く」

瑠璃色の瞳が、しっかりとエトワスを見つめる。

「……」

ディートハルトの話した事は嘘ではないだろう。その鳥を捜せば本当に案内してくれるかもしれない。そう思ったが、エトワスは頷くことが出来なかった。

「おれが行かなきゃいけないんだ」

ディートハルトはもう一度、そう繰り返した。



* * * * * * *


 翌朝、久し振りに外出のための身支度を整えたディートハルトは、他に全く手がかりがないため、結局ディートハルトの言葉を受け入れざるを得なかったエトワスらと供に西の森に足を踏み入れていた。

 同じ景色にしか見えない森林の中を、今度はシュナイトらの案内で奥深くへと進んでいく。シヨウと二人で訪れた時とは違い人数が多いため魔物の事は周囲に任せて、ディートハルトは白い鳥を捜す事に専念していた。樹上ばかり見ながら歩いたため何度も木の根や生い茂った植物に足を取られて転びかけたが、寄り添う様に隣を歩くエトワスがその度に手を差し伸べてくれたので、今回は派手に転ぶ事はなかった。


 白い鳥を見付けられないまま2時間近く経った頃、一行はディートハルトを休ませるために足を止めた。前日のエトワスの言葉通り森の北側に向かっていたが、まだ森の中心部からもほど遠い位置にいる。

「もう、戻った方が良くないか?」

木の根元に座り込み俯いていたディートハルトは、傍らに屈んだエトワスの言葉にゆるゆると首を横に振った。

「でも、きついんだろ?」

「……少し寒いだけだ」

エトワスが疑わしそうな目で見ているため、そう言って顔を上げ、しっかりとダークブラウンの瞳を見返した。しかし、本当は気分が悪く体も重くて立ち上がる気力もない。

「……」

嘘を見抜いたエトワスは、小さく溜息を吐き無言で自分が羽織っていたフード付きの外套を脱ぐと、ディートハルトの体をくるんで喉元できっちり留めてフードをかぶらせた。

「やっぱり、戻ろう」

「全然、平気だ……っ!」

エトワスに、というより自分にそう言い聞かせると、ディートハルトは足に力を入れ勢いを付けて立ち上がった。しかし、勢い余ってバランスを崩したところをエトワスに支えられてしまう。

「ディー君さぁ、エトワス君と帰って待ってなよ?」

「それがいい。奥に入った分だけ出る時も時間がかかる。これ以上体に負担をかけない方がいい」

エトワスと同様に見かねた翠が提案し、シュナイトも頷いた。

「本当に、大丈……」

言いかけたディートハルトは、翠の背後に立つ木の枝にようやく目当ての鳥の姿を見付けた。薄暗い森の中で、雪のように真っ白な姿が浮き立っている。それが数日前に追いかけた鳥と同じものだと言い切る根拠はないのだが、何故か同じ鳥だとディートハルトは確信する事が出来た。

「……いた!あの鳥だ!」

息を呑むディートハルトの視線を追い、全員が木の上方へと視線を向けた。町中でよく目にする鳩よりは少し大きめで細身の尾の長い真っ白な鳥が、彼らを見下ろすようにそれ程高くない位置にある枝にとまっていた。引き寄せられるようにディートハルトが木の下に移動すると、小さく翼を広げ一声鳴き、徐に翼を広げ枝から飛び立つと少し先にある木の枝に止まった。そこでまた呼ぶように短く鳴く。その鳥は本当にディートハルトを案内するかのように、少し飛んでは止まり、ディートハルトが追いつくとまた少し飛ぶという動作を繰り返しながら確実に森の奥へと向かい始めた。


「……迷い込んだら、死んじまう訳だよな」

フレッドがぼやく。短い休憩を取ってからさらに1時間近く鳥を追って歩いただろうか。進めば進む程周囲の薄暗さは増し魔物の出現率も上がってきていた。

「こんなとこに住んでる守護者さんって、かなりの強者だよね」

地面に転がる倒したばかりのムカデのような魔物の骸から剣を引き抜き、翠は視線を上げた。少し離れた木の枝に白い鳥の姿がある。それは、薄暗がりに灯る明かりのようだった。もう15分程同じ枝から移動していない。

「あの鳥が、俺達だけでも案内してくれたらいいのにな」

フレッドが表情を曇らせる。再び休むため足を止めたディートハルトは、地面に腰を下ろし木の幹に体を預けて固く目を閉じたままだった。

「そりゃ無理でしょ。ディー君以外に用はないみたいだし」

ディートハルトの傍らでは、エトワスとシュナイトが、すぐにでも引き返すかそれとももうしばらくディートハルトの様子を見るかを話し合っている。

「なあ、本当にあの鳥が、扉の守護者って奴のとこに案内してくれると思うか?」

フレッドと翠の会話に加わったシヨウが、眉間に皺を寄せて疑問を投げかけた。

「間違いなく森の奥深くに引きずり込んでるだろ?どこに案内するつもりなのか……」

「確かに、周りがどんどんヤバそうな雰囲気になってきてるよな」

フレッドが気味悪そうに周囲を見回す。太陽は高く昇っているはずなのに、陽光は背の高い常緑樹の枝葉に遮られて周囲は薄暗く、気温も下がってきているような気がした。

「あの鳥は実は魔物の使いで、俺らを巣に案内しようとしてるんじゃないか?こんな薄暗いとこでやけに目立ってて、何だか不気味で妖しいだろ。俺ら全員、生きてこの森から出られなかったりしてな」

「……嫌な事言うなよ」

フレッドがそう言った時だった。

「何か、いる?」

「いるねぇ」

翠が答えるのと同時に白い鳥が止まった木の方角から、小枝が折れるような物音が聞こえた。

「また魔物か?」

「マジで巣が近いとかだったりしないよな?」

フレッドとシヨウが気配がする方へと向き直った。

「エトワス~、また来るよ」

翠に呼びかけられ、エトワスが3人の元まで歩み寄る。

『……上?』

エトワスは視線を前方の樹上に移した。

それと同時に、木の枝に止まっていた白い鳥が飛び立ち、上空からボトリと何かが落ちてきた。

「うわ、グロ系の魔物さんだ」

樹上から落ちてきたのは、極端に羽の小さな蛾のような魔物だった。派手で不気味な色合いは警告色である可能性が高い。のそりのそりと這いずるように寄ってくる魔物のすぐ近くに立っていた翠とフレッドは、剣を構えたまま静かに後退した。

「まずいな」

未だディートハルトの傍らに片膝をついていたシュナイトが、そう呟いて立ち上がった。僅かに目を伏せ、聞き取れない程の声量で何事か呟く。すっと前方に伸ばした右掌付近に白っぽい霧のようなものが現れた次の瞬間、魔物の派手な色の体が氷で覆われた。

「こいつは毒を持っている。手は出さない方がいい。これで殺す事はできないが動きを封じる事はできる」

シュナイトの言葉通り、動きを封じられた魔物は、派手な赤紫と目に痛い程のオレンジ色の模様入りの腹を僅かにひくつかせていたが、その場から動こうとはしなかった。

「すぐに移動しよう。どうやら巣に入ってしまったようだ」

そうシュナイトが言い終わらないうちに、別の木の上から同じ魔物が続けざまにボタボタと数匹落ちてきた。シヨウが危惧した通りの展開になっていた。

シュナイトと彼の4人の部下達が、すぐに先程と同様の術を使って魔物を凍らせていく。

「繭があるのか」

「あるね」

エトワスに並んで立ちその視線の先を追って翠も樹上を見上げてみると、白っぽい繭のような塊が、高い位置の大きな枝に幾つも貼り付いているのが分かった。その中の幾つかは破れているようだ。それらの中に入っていたのは、今地上で凍り付いているものだろう。仲間の危機に気付いているのか、こうして観察している間にもどんどん新たな繭が裂け、中から人間の子供程の大きさの魔物が姿を現し落ちてくる。

「!」

「!?」

ちょうど二人が立つ位置の真上あたりの枝に見えていた繭からも落ちてきた。

「襲う気満々だね」

二人が避けた魔物は、威嚇するようにキリキリキリキリと音を立てながら羽を震わせている。

「待て、翠!」

飛び掛かってきた魔物を避け、反撃しようと剣を構えた翠をエトワスは制し、代わりに、手にした青白い光を纏った剣を魔物の腹に突き立てた。直後に高い金属音のような涼しげな音が響き、魔物は氷の塊に覆われゴツゴツした氷塊に押し固められたような状態になる。エトワスは氷の塊を片足で踏みつけると、剣を魔物の体から一気に引き抜いた。その弾みで氷に亀裂が生じ、魔物の胴体ごと真っ二つに割れる。

「っ……!」

「っ!?」

魔物の体の断面から立ち上る強い刺激臭に、二人は思わず後退った。

「うぅっ……手は出さないで、コーティングして完全に密封した方が……良いわけだ」

鼻と口を押さえた翠が顔を顰める。シュナイトが”封じる”と言った意味を、身をもって知ってしまった。

「悪い」

「倒せないんだったら、逃げるしかないな。どんどん落ちてくるぞ」

そう言ったシヨウの言葉通り、何とか後退しようと努めるが、蛾に似た魔物達の数はシュナイトらの術も追いつかない程に瞬く間に急増し、威嚇しながら羽を震わせ派手な色の鱗粉を撒き散らし始めていた。完全に臨戦態勢となったようで地面に下り立つとすぐに飛び掛かってくる。

「閣下」

エトワスは確認するためシュナイトの方を窺った。

「ああ、潮時だな。このまま退いて森を出よう」

シュナイトが頷く。その僅かな間にも、雨でも降るようにボタボタと魔物達が木の上から落ち続けていた。

「!」

エトワスは、背後から飛びかかってきた魔物を正面に構えた剣で受け止めた。蝶の様に蜜や樹液を吸うためと言うよりは、生物を一撃で突き殺しその血肉を啜るために役立ちそうな牙のように尖った管状の物が、エトワスの頬に触れるギリギリのところを掠めていく。エトワスの研ぎ澄まされた刃によって深く傷ついた魔物の大きな複眼から、濁った橙色をした嫌な匂いの体液が大量に飛散した。それとほぼ同時に、刃に触れた部分から魔物の体は一気に凍り付き瞬く間に氷塊の中に封じ込められる。

「……」

浴びてしまった魔物の体液の異臭に、エトワスは吐き気を感じ眉を顰めた。恐らく、この体液も有害なのだろう。地面に落ちた魔物の骸を足で蹴って押しやると、エトワスは剣を鞘に収め、未だ木の根元に座っていたディートハルトの元に向かい片膝を落とすと数回呼びかけた。

「……」

眠っているのか返事がない。エトワスはディートハルトが魔物に傷を負わされていないか手早く調べると、防寒のため首元に巻いていた布を引き上げて鼻と口を覆った。そして、もう一度しっかりとフードをかぶり直させ、その体を抱え上げた。彼が魔物に攻撃されないよう、有毒の鱗粉や体液の害を受けないよう、守りながら早々にこの場を立ち去るためだ。

「いっその事、繭ごと全部吹っ飛ばすか?」

汚れた剣を片手に口元を腕で覆った翠が、くぐもった声でそう尋ねる。シュナイトやエトワスと違い、向かってくる全ての魔物を叩き斬っている分、既にかなり毒の影響を受けていた。普段の彼なら「お姫様抱っこ」だと、すかさず冷やかす状況だが、今はその余裕すらも全くない。彼と同じ戦い方をしているフレッドやシヨウもそれは同じで、フレッドに至っては青い顔で地面にしゃがみ込んでいる。

「それでうまく一掃できたらいいけど、これ以上、有毒の鱗粉や体液を振りまかれたら、もたないぞ」

「確かに。にしても、あの鳥、マジで魔物の使いだったのか?」

改めて周囲に視線を巡らせた翠がぼやく。白い鳥は魔物と入れ違いに飛び立ったきりその姿を消し、彩度の高い赤紫と橙色の身体に同じ配色の小振りな羽を持った大きな蛾が、周囲の地面や木の幹を今やびっしりと覆っている。出来る限り全員が同じ方向にいる敵を倒し突破口を開こうと努めているが、四方を囲まれている上に後から後から新手の敵が降って襲いかかってくるので、なかなか進む事が出来ない。

程なく、周囲は生きた魔物達ばかりでなく、やむを得ず斬って倒した魔物達の骸だらけになり、辺りは鼻をつく濃く重い臭気に包まれた。


『……?』

ディートハルトを抱えながらも何とか敵襲に応戦していたエトワスは、いつの間にかうっすらと白く霞んでいる視界に気が付いた。飛散している魔物の鱗粉とは違う、霧のようなものがどこからかゆっくりと流れてくる。

『霧?』

確認するため周囲に視線を走らせるが、本当に霧か何かが発生しているのか、魔物の毒に犯されて単に視界が霞んできているだけなのか判別が付かない。

「何か、周りが霞んでないか?」

「やっぱ霞んでる?毒がまわって、いよいよヤバイ状態なのかと思った……」

傍らにいた翠がそう答えたところからすると、周囲の霞はやはり己の目の異常では無いようだ。それを裏付けるかのように徐々にその濃度は高くなり、それに伴い魔物達に異変が現れた。それまで威嚇し襲い掛かってきていた魔物達が、目の前の敵には見向きもせず、急に何かに怯えるかのようにせわしなく動き始めていた。


 それからしばらくすると、今度は逆に右往左往していた魔物達の動きは鈍くなり、やがて完全に、その場にいる全ての生きた魔物達も動きを止めてしまった。

「何なんだ、一体?」

翠は、全く動かなくなってしまった魔物を足で転がして裏返してみた。太い胴体は軽く内側に弧を描くように曲がり、突起の並ぶ長い紫色の複数の足がギュッと縮まって集まっているが、ぴくりともしないので生きているのか死んでいるのかも分からない。

「う、裏返すなよ!俺、虫の裏側って苦手なんだよ」

ただでさえ顔色の優れない顔をますます青くし、フレッドが嫌そうに顔を背けた。

「裏側……」

表も裏も大差ない程に気色悪い。それ以前に、虫には表と裏があるのか。翠はそう思いはしたが、言葉に出す余力がない。

「助かったな……」

エトワスや翠からは少し離れた位置に座り込んでいたシヨウが、浅く息を吐いた。シュナイトの部下達も胸をなで下ろしている様が窺える。

「いや、そうでもないかも。何か近付いて来るぞ」

霧の向こうに視線をやったエトワスの言う通り、今まで戦っていた魔物とは別の気配が森の奥の霞の向こうから感じられた。

「今度は何だよ?」

フレッドの問いに答えるかのように、すぐに木々の間にぼんやりとした影が現れた。はっきりとした輪郭は分からないが、人間と同じくらいの大きさのある影が徐々にではあるが近付いて来る。

「人?」

やがてそれは彼らの4~5メートル程先で立ち止まったのだが、影の正体は魔物ではなかった。


 濃い霞の中から姿を現したのは、全身を覆う裾の長い服を身につけてフードを目深に被った人間だった。手にした大きめのランタンのような物からは濃い煙が勢いよく溢れだしている。どうやら周囲に霞を作り魔物達の動きを封じたのはこの煙のようだった。これだけ大量に発生していながら煙の臭いが感じられないのは、魔物の臭気の方が強いせいだろう。

「セレステのヒナをこちらへ」

フードが作る深い影のせいで顔は窺えないが、静かに発せられた声から、現れた相手が男だという事が分かった。

「!……扉の、守護者なのか?」

抱えていたディートハルトの体を庇うように無意識に後ろへ引き、エトワスが尋ねる。

「その一人です。さあ、ヒナをこちらへ」

もう一度、同じ言葉が繰り返された。

「……」

どういった意味で渡すよう言っているのかは分からないが、エトワスは反射的に嫌だと思った。相手が誰であろうと渡したくない。

「治療が必要なのでしょう?」

扉の守護者がゆったりとした足取りで歩み寄ってくる。近くにいた翠が警戒する様にエトワスの少し前に立つと、フレッドとシヨウもその隣に並んで立った。

「村へ運びます」

その言葉には、有無を言わせず従わせようとする響きがあった。

「私達も同行させてもらう。彼が無事に空の種族の国へ戻るところを確認したい」

頭では理解していたが躊躇し言葉を発する事が出来なかったエトワスに代わり、シュナイトがそう告げると、顔の見えない扉の守護者はしばらく思案するかのように沈黙していたが、やがて軽く頷いた。

「それでは、付いてきて下さい」


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