33白の大陸 ~誰にも話した事のない話1~
ぼんやりとした瑠璃色の双眸に、一羽の鳥の姿が映っている。
窓の向こうの雪景色に溶け込むように、木の枝にひっそりと止まった真っ白なその鳥は、彼の様子を見守るかのようにもう随分前からそこにいた。
『……またいる』
熱のためボンヤリした頭でディートハルトはそう思った。
いつからそこに居るのか分からない、と言うより、初めて見かけた時から目にするのがこれで何度目になるのか分からなかった。
『あの木に棲んでるのかな……』
改めて目についてみると何故か妙に興味を惹かれ、ディートハルトはその鳥を眺めていた。と、ディートハルトの視線に気付いたのか、真っ白な鳥が小さく翼を広げた。そして、何度か同じような動作を繰り返した後、澄んだ声で一声鳴いた。二重になった窓はしっかりと閉ざされているため、その声はディートハルトの耳には届かなかったが、その瞬間、ディートハルトは白い鳥が自分を呼んでいるような気がした。
「……」
思わず体を起こす。
すると、鳥は今度は大きく翼を広げた。それは何かを伝えようとするかのような仕草にも見える。ディートハルトは無性に鳥の元へ行きたくなり、ベッドを抜け出した。
「あ」
足を床に下ろそうとした瞬間、世界が揺らぎ転倒する。
「う……」
ゆっくりと身を起こし窓の方へ目を向けると、鳥は木の枝を飛び立った。
「待てよ」
ディートハルトは何とか立ち上がると、おぼつかない足取りながら窓辺へと歩み寄った。見上げると、鳥はゆっくりと空を旋回している。
「……」
しばらく眺めていたが、彼を待っているかのように、鳥はクルリクルリとやはり同じ場所を飛び続けた。
『呼んでるんだ』
そう確信したディートハルトは、寝間着姿のまま部屋を出た。
追いかけないと……
その思いだけしか頭になく、自分が裸足だという事にも気付かず、廊下を抜け建物の外へと出ていた。
あそこだ……
白い鳥が同じ位置を飛び続けている事を確認し、空を見上げたまま鳥の元へと急ぐ。
「あ」
ディートハルトが近付くと、白い鳥は距離を保とうとするかのように今度は西の空へ向かって羽ばたいた。その先に広がるのは、シヨウと二人、一度訪れた事のある深く広い森だ。
森に来いって言ってるんだ……
時折進むのを止め、ディートハルトを待つように同じ場所を旋回する鳥を追い、ディートハルトは雪の中を歩き続けた。しかし、長い間寝込んでいたせいか体が思うように動かず、屋敷の広い庭からなかなか抜け出す事が出来ない。
「くそ……」
もどかしい思いで必死に前進するが、何かに躓いて転んでしまい、薄く積もった雪の中に倒れ込む。
「!」
痛いとも冷たいとも感じなかった。ただ、悔しかった。倒れた姿勢のまま顔だけを上げ、瑠璃色の瞳で鳥の姿を捜す。
届かない……
白い鳥がゆっくりと舞う早朝の薄曇りの空は、やけに遠くに感じられた。
届かないよ
追いかけなければならないのに、白い鳥の姿は徐々に小さくなっていく。
待って……
空に向かって手を伸ばす。
お願いだから、行かないで……
待っ……
何もない空を掴むはずだった手に、何か手応えがあった。
「ディートハルト」
名前を呼ばれ、ゆっくりと目を開く。
「……」
視界に入ったのは、冷たく重い灰色の空ではなく温かみのあるダークブラウンの瞳だった。ディートハルトの手を掴んだのは、その瞳の主だ。
「いなくなった……」
聞こえるか聞こえないかといった程度の声量でポツリと呟くと、覗き込んでいたダークブラウンの瞳は怪訝そうな表情を見せた。
「誰が?」
「……鳥」
そう、追いかけなければならなかった鳥は居なくなった。待っていてくれなかった。いや、自分が追いつけなかったのだ。
「鳥?」
「追いかけてたのに……」
虚ろな瞳で哀しげな表情を作るディートハルトに、ダークブラウンの瞳の主は困ったような笑顔を向ける。
「追いかけていたのは、俺達だよ。追いかけていた相手は鳥じゃなくて、ディートハルト、お前だ」
「……」
ぼんやりとした瞳は一度瞬きし、エトワスの顔を見上げた。
「寝ぼけてんの?しっかりしなよ~」
呑気な声と共に、翠も横からディートハルトの視界に顔を覗かせた。
「やっと見付かったってんで駆けつけてみれば、朝っぱらからコッソリ部屋を抜け出して外に倒れてたってゆーし。ディー君って早起き苦手な上に寒がりなんじゃなかった?薄着のまま裸足で雪の中歩いた挙げ句、その場で寝るなんて何かあったの?」
ディートハルトは翠をぼんやりと眺めた後、すぐに視線をエトワスに戻した。
「エトワス」
「うおっ!オレは素通りっ!?完全無視っ!?」
「俺なんか、多分視界にすら入ってないから」
翠の斜め背後に立っていたフレッドが薄く笑う。
「……」
ディートハルトの視線は、顔を覗き込み身を屈めて喋り出した翠ではなく、その隣のエトワスの姿を捉えていた。フレッドの言う通り、エトワスの姿しか視界に入っていないようだ。
「エトワス……」
ディートハルトは上体を起こすと恐る恐る左手を伸ばした。すぐにエトワスはディートハルトが体を起こすのを助け、笑顔で再びその手を握る。
「大丈夫か?」
ディートハルトは掴まれた手にゆっくりと視線を移した。自分の体温が高いせいか少し冷たく感じられたが、その手は確かにそこに存在する生きた人間のものだった。
「え?幽霊……じゃない?」
ディートハルトは眉を寄せた。
「そう何度も、人を勝手に殺さないでくれるか?俺は約束しただろ?」
苦笑いするエトワスに、ディートハルトは微かにコクコクと頷く。
「3人で随分捜したんだぞ」
そう言ってエトワスは翠とフレッドの方に視線を投げた。
「ほ~んと、もう、この1ヶ月半、涙なくしては語れないくらいの苦労しちゃっ……何?」
翠の顔をじっと眺めていたディートハルトは、エトワスが放した手を伸ばし今度は翠の体に触れた。壁か何かを確認するかのように、掌でペタペタと腹の辺りを探っている。
「あれ?やっぱり、本物……?」
「オレらの事、何だと思ったワケ?」
「夢だと思った。だって、こんなところにいるわけ……」
ディートハルトは翠の視線を避けるように、決まり悪そうに俯いた。
「サラさんに話を聞いて、すぐに追いかけて来たんだ。レテキュラータ王国の王都に向かったって事しか分からなかったから、どこを捜せばいいのか分からなくてこんなに時間が掛かってしまったけど、シヨウとレトシフォン閣下も俺達を探してくれてて。やっと今日シヨウと会えて、ここにディートハルトがいるって分かったんだ。心配したんだぞ」
ディートハルトは視線を上げ、再びエトワスの顔を見上げた。その笑顔はいつも通りのもので、元気そうで安心する。
改めて部屋の中を見回してみると、シヨウやシュナイト、いつも世話をしてくれているこの屋敷の使用人レイチェルの姿もあった。
「念のために言っとくけど、俺とキサラギだって、別に命令受けてるからお前を追って来たって訳じゃないからな」
とりあえず自分も存在だけはしっかりアピールしておこうと、フレッドも身を乗り出す。
「具合悪いクセにいきなり理由も言わずに姿消されちゃ、お友達としては気になっちゃうワケよ」
「……」
ディートハルトは、困惑したような表情をして翠を見ている。言われている事が分からない訳ではないが、”どうして?”という思いが強かった。迷惑を掛けるつもりはないのに……。そうも思う。
「何にせよ、会えて良かった」
エトワスの言葉に、黙って立っていたシヨウが無言で深く頷いている。ラファエルの事をよく知るファセリア人達と合流出来て助かったと心の底から思っていた。彼らなら、ラファエルの力になってやれるだろう。
「……おれを、迎えに来てくれたのか?」
戸惑ったように尋ねるディートハルトに、エトワスは軽く頷いて見せた。
「ああ、そうだ。今度こそ一緒にファセリアに帰ろう。でも、その前に、どうしてこの国に来たのか詳しい事情を話してくれないか?何か不安な事があるなら相談に乗るし、やりたい事があるなら協力するから」
「……」
ダークブラウンの瞳に見つめられ、ディートハルトは気恥ずかしそうに俯いた。
「あ……ん、いや、もう、それはいいんだ。わざわざ来たのが間違いだったってゆーか、馬鹿だったってゆーか……」
はぐらかそうとするディートハルトの言葉を、エトワスは遮った。
「よくない。さっきも言ったけど、俺達はディートハルトが心配でずっと捜してたんだ。すぐに連れ帰るためじゃなくて、何か少しでも力になりたくて、ここまで来た。俺達も手伝いたいんだ」
ダークブラウンの瞳にじっと視線を注がれ、ディートハルトは逡巡したあげくポツリと答えた。
「でも、これ以上迷惑かけたくねーし……」
「俺達は迷惑だなんて思わないよ。思った事もない」
エトワスの言葉に、ディートハルトは困惑したような表情を浮かべた。やはり”分からない”とでも言いたげだ。
「ディートハルト、俺達は……」
ディートハルトが言いたいことをよく分かっているエトワスは、さらに言葉を続けようとしたが、思い直して一度口を閉ざした。そして、少し屈むとディートハルトとしっかり視線を合わせた。鮮やかな瑠璃色の瞳を真正面から見つめる。
「ディートハルト、俺はお前を助けたい。元気になってほしい。不安があるなら取り除いてやりたいし、そのために力になりたいと思ってる。だから、話してほしいんだ。それからもう一度情報を整理して、何をするか俺と一緒に考えよう」
ディートハルトはぼんやりとダークブラウンの瞳を見返したまま、瑠璃色の目を瞬かせた。
「……」
レテキュラータへ来る前に、ラビシュの西の教会でシヨウに聞いた言葉を思い出す。
『お前が死んだら、ジェイドって奴は悲しむと思うぞ』
本当に、エトワスだけだと思った。彼だけはいつも自分の事を気に掛けてくれている。正直、その理由は分からないし、自分にそれ程の価値があるとも思わないが、その事を酷く嬉しいと感じていた。そのせいか視界が徐々にぼやけてきて、慌てて瞬きを繰り返した。
「な?」
真摯な眼差しと囁きかけるような声に、自然と首を縦に振っていた。
「……分かった」
迷惑じゃないって言ってくれんなら……。
エトワスには全部話そう。
自分の事を話すのは得意ではないが、今まで誰にもした事のない話を彼には聞いて欲しかった。彼が聞いてくれるのなら嬉しいとも思った。
「ディー君ってさぁ、ややこしく考えすぎなんじゃないの?好きで付き合ってやってんだから、もっと遠慮無く甘えちゃいなよ。ディー君の事好きで、やってんだから。なぁ?」
翠は敢えて主語を抜いた言葉を繰り返しエトワスに笑顔を向けるが、それに答えたのは、周囲のキャラが濃いせいで影は薄めだが密かに魂は熱い男、フレッド・ルスだった。
「そうそう。リカルド達の言った事なんか気にするなよな!俺達は本気でフレイクの助けになりたいって思ってるんだぞ!」
「……」
ディートハルトは戸惑ったような表情で翠とフレッドの顔を順に見た。
「なんなら、オレらもエトワス君みたいに、ここまで来た理由をきちんと話そうか?」
翠が首を傾げると、ディートハルトはゆっくりと首を左右に振った。
「もう、分かったから……」
視線を逸らした顔が少し拗ねた表情にも見えるのは、照れているからだ。照れ隠しで下を向いたまま、ディートハルトはベッドを下りようとした。
「何をするつもりですか?」
誰より早くディートハルトを止めたのは、それまで黙って部屋の隅に控えていたレイチェルだった。
「え……あ、帰ります。お世話になりました。あの、また改めて……」
「無理です!」
言葉遣いは丁寧だが、子供を叱りつけるような口調でディートハルトは制された。
「お医者様が、安静にしているようおっしゃったばかりですよ」
彼女はディートハルトらがこの屋敷へ来てから毎日彼の世話をしている。そのため、彼の容態を一番よく把握していた。今朝早く、ディートハルトが部屋に居ないことに一番最初に気付いたのも彼女だった。空っぽのベッドに気付いた時は酷く驚いたが、見回りの兵に抱えられ屋敷内に運び込まれて来たのを目にした時には呆気に取られて言葉を無くしてしまった。
「でも、おれは……」
ディートハルトが口を開きかけると、今度はシュナイトがゆっくりとベッド近くに歩み寄ってきた。
「彼女の言う通りだ。帰りたいという気持ちは分かるが、もう少し回復するまでは出歩かず休んでいなさい。友人達も協力してくれると言っているのだから、彼らに頼ればいい」
ディートハルトが視線を上げると、彩度の高い若葉色の瞳が彼を見下ろしていた。
「……」
今回もまた、ディートハルトは不思議そうな表情を見せた。エトワス達はともかく、シュナイトが自分に親切にしてくれる理由が分からないからだ。今まではやむを得ず置いてくれていたにしろ、一刻も早く厄介払いしたいのではないのだろうか。
ディートハルトは一ヶ月半程この屋敷に滞在してはいたが、これまでシュナイトとまともに言葉を交わした事はほとんどない。シュナイトは王城に滞在している時間が長く、ディートハルトも眠っている時間が長いため、顔を合わす機会自体ほとんど無かったからだ。だから、シュナイトという人物がどういった人間なのか全く分からない。
「私も手を貸そう。西の森に関する事なら私も放ってはおけないからな」
『そうか……』
その言葉でディートハルトは納得した。
* * * * * * *
どれくらい眠っていただろうか。目を覚ましたディートハルトは、慌てて体を起こした。
「……」
すぐに捜していたものを視界に捉え、安堵の息を吐く。
いつの間にか曇っていた空は晴れ、傾き始めた太陽は積もった雪を殆ど溶かしていた。水に濡れてやけに眩しく感じられるその景色を窓際に立ち眺めているのはエトワスだ。
ディートハルトの体調を考慮し、彼を休ませるため全員一度部屋を退出していたのだが、彼だけは残っていた。
しばらくの間、ディートハルトは窓から入る柔らかな日差しの中に立つエトワスの姿を無言で眺めていた。ほんの数ヶ月前までは毎日目にしていた……と言うより、視界に入るのが当たり前だったその見慣れた姿が今はとても懐かしい。それは久し振りに再会したから、というだけではなかった。そして、追わなければと感じた鳥の時と同じく、今のディートハルトには遠くに感じられた。すぐ近くにいるのにまるで硝子越しに眺めているような、互いが別の空間に存在しているような感じがする。
また夢でも見ているのだろうか。それとも、自分だけやはり皆とは違う世界にいるのだろうか……。ふと浮かんだ考えに淋しくなる。
その時、気配に気付いたエトワスが振り返った。
「目が覚めたのか。どうかしたのか?」
問われて、ディートハルトは慌てて俯いた。
「ん、いや、あの……。エトワスがここにいるのは、夢なのかなってまた思って……」
ディートハルトはそう言いながら、以前の夢の中に見たエトワスの姿を思い出していた。
「そうだ、エトワス、怪我は!?」
ハッとして唐突に心配そうな表情を浮かべたディートハルトに、エトワスは笑いながらベッドに歩み寄ろうとしたのだが、ディートハルトの方が焦った様子でベッドを出て、ふら付いた足取りでエトワスの元へ行こうとした。
「無理するな」
掛け寄ったエトワスが、腕を伸ばしてその身体を支える。
「ベッドに戻ろう」
「怪我はもう大丈夫なのか?」
聞く耳を持たない様子で、不安げな顔をしてディートハルトがエトワスを見上げる。
「夢でもないし、怪我も大丈夫。心配しなくても、俺はそんなに儚い存在じゃないよ」
ディートハルトの方がはるかに存在が危うい……。ふざけた口調で言いながら、エトワスはそう思っていた。
「でも、軽い怪我じゃなかっただろ」
少し体を休めたおかげで意識がはっきりしたせいか、強い後悔の念が押し寄せていた。
「まあね。でも、俺の剣で、相手の攻撃の勢いが殺されてたし急所も外れてた。それに、最初に処置をしてくれたルーサーさんが名医だったから、本当にもう大丈夫だよ」
とは言ったものの、酷く辛かったしかなりの無茶をしたのも事実だった。レテキュラータ行きの船はサラが手配してくれたもので、予め船医にも事情を話していて怪我人のエトワスのために個室も用意して貰ったのだが、ヴィドールで船に乗ったその日からほとんどずっと寝ていて、すっかり船医や船長の世話になってしまっていた。
「でも……」
ディートハルトは疑っているのか、その表情は翳ったままだ。
「俺より、ディートハルトは?大丈夫なのか?」
言いながら、エトワスはディートハルトの額に触れた。そのまま掌を滑らせて頬を撫でる。
「熱は下がったみたいだな」
数時間前に比べ、体温は正常なものに戻っているようだった。
「……おれは、多分、まだ平気だと思う。……今会えて良かった」
ディートハルトの言葉に、今度はエトワスが眉を顰めた。
「すげー後悔してたんだ。ちゃんとエトワスのお見舞い行っとけば良かったって。もう会えないかもって思ってたから」
続けられた台詞に不吉なものを感じ、エトワスは急に不安になった。自分は儚い存在ではないとディートハルトに対して言ったばかりだったが、人も含め生き物の存在が案外呆気ないものだという事はよく知っている。どんなに神に祈ろうと、強く願おうと、救いたいと思おうと、簡単に消えてしまうものだ。
「エトワス?」
悲しげな表情を浮かべるエトワスに、ディートハルトは戸惑ってしまった。
『何でそんな表情するんだよ……?』
「……ディートハルト」
一度目を伏せた後、エトワスは真っ直ぐとディートハルトに視線を注いだ。
「今、喋るのが辛いか?」
「……」
真剣な眼差しでダークブラウンの瞳に見つめられ、ディートハルトはただ首だけを左右に振った。
「それじゃあ、話してくれ。この国へ来た理由を」




