32白の大陸 ~青の狭間~
レテキュラータ国王に仕える六将の一人、シュナイト・W・レトシフォンの屋敷で働くレイチェルは、アイロンをかけた洗濯物の入った籠を抱えたまま南の客室の扉へ手を伸ばした。
「!」
荷物を抱えた彼女に代わり、後ろからやって来た誰かがスッと扉を開ける。
「閣下」
「ご苦労様」
現れたのは、屋敷の主シュナイトだった。
「彼の具合は?」
「はい、また熱が上がってきたようです」
「そうか」
部屋に入ると、シュナイトは真っ直ぐベッドへと向かった。覗き込んでみると、レイチェルの言った通り眠っている客は頬を上気させ苦しそうな息を吐いていた。
「こんな状態なのに、相変わらず目を覚ますと『森に行かないと』なんて言ってるんですよ」
レイチェルが困ったように笑う。
もう随分前の事になるような気がするが、彼と西の森の中で出会ったのは1ヶ月半近く前の事だった。レテキュラータ大陸北西部の森林地帯は噂されている通り危険な場所だったが、この森にしか生息しない氷獣と呼ばれる珍しい生き物を狙った命知らずの狩猟家達が密かに訪れる地でもあった。氷獣の毛皮や角は美しく高値で売買されるためなのだが、安易にその危険な森に踏み込む者達があまりに多く、森に棲む氷獣を含めた獰猛な生き物に襲われ命を落とす者も少なくない。そのため、シュナイトの部下達は定期的に森林内を巡回し、そのような者達に警告したり、運悪く命を落とした者を発見した場合はその遺体を回収したりする役目を負っているのだが、希にシュナイトも同行する事がある。彼とその連れが魔物達と戦っていたところに遭遇したのも、たまたまシュナイトが森に入った日の事だった。
『大丈夫か?』
シュナイトは魔物達を部下に任せ、地面に両膝と両手を付いていた青年の元へと歩み寄った。
『そのような軽装でこの森に入るなど、命知らずもいいところだ』
呆れてそう言いながら手を差し出すと、俯いていた青年はゆっくりと顔を上げ、鮮やかな瑠璃色の瞳がシュナイトの姿を捉えた。
『!』
初めて見るその希有な瞳の色に、シュナイトは一瞬、既視感に似た感覚を覚えて目を奪われた。
『大丈……』
そう言いながら立ち上がりかけた青年は、そのままフラリとバランスを崩しシュナイトが咄嗟にその体を抱きとめた時には既に意識を失っていた。
『ラファエル!?』
彼の連れらしき男が、異変に気付き駆け寄ってくる。
『魔物にやられたのか?』
『いや。多分、熱のせいだろう』
シュナイトの言葉に、その男は虚を突かれたような顔をした。連れの異常に全く気付いていなかったらしい。
その後、魔物を一掃し、シュナイトはヴィドール国から来たというシヨウと名乗った男と意識を失ったままの”ラファエル”と呼ばれていた青年を連れ屋敷へと戻った。
『氷獣目当てではないのか?』
当然、シュナイトは、この二人連れは氷獣を狩る事を目的に来たのだろうと考えていた。予備知識も無く、金儲けの事だけを考えて必用な装備すら調えずに軽い気持ちで訪れた浅はかな者達だろうと。その様な若者達をこれまでに何人も見てきている。
『人を捜している?』
予想外のシヨウの言葉に、シュナイトは眉を顰めた。
『森に住む人間などいないと思うが……』
『だろうな』
シヨウは、そう深い溜息を吐いた。
『誰を捜している?名前は?』
シュナイトの問いに、シヨウは『自分には分からない』と答えた。
『この国に捜している人物がいるのなら、手を貸そう。それから、連れの少年が回復するまではここに居たらいい』
それから、現在に至っているのだが、ほとんど眠ったままの”ラファエル”の容態は一向に良くなる様子はない。医者に診せたのだが、特に異常はないという事だった。
「何だかそうしていると、まるで閣下のお子さんみたいですね」
ベッド近くに寄せた椅子に座ったシュナイトが青年の顔をジッと見ていると、運んで来た洗濯物を部屋の棚にしまい戻って来たレイチェルが、そう言って小さく笑った。
「髪の色が同じせいかしら?」
「え?」
初めて気が付いたが、そう言われるとそうだった。青年の艶やかな金の髪はシュナイトと全く同じ色だ。
「これくらいの子供がいてもおかしくはないが、歳は、幾つなんだろうな?」
思わず笑いながらそう言うと、レイチェルが「ええ」と頬に手を当てる。
「目を覚ました時に少し話せたんですが、確か18になったと言ってましたよ。どうしてこの国に来たのか、誰を捜しているのかって聞いてみたんですが、やっぱり“とにかく森に行かなきゃいけなくて”って」
「森か……」
タオルで額の汗を拭ってやりながら、シュナイトは今からおよそ20年前の出来事を思い出していた。同じように森の中で魔物に襲われていた女性も、そこである人物を捜していた。右の瞳は深い青、左の瞳は深い緑色という類い希な色の瞳の彼女と、目の前のやはり希有な色の瞳を持った青年に似通っている所は全くない。性別はもちろん、纏う雰囲気も容姿も全て異なっている。何より20年前に出会い、後に彼の妻となった女性は有翼だった。しかし、何故かこの瑠璃色の瞳をした青年には親近感のようなものを感じてしまう。単純に、同じ場所で人を捜していたからだろうか。
「一体誰を捜しているんだろうな……」
その問いに、眠る青年からの答えはなかった。
* * * * * * *
深みのある青い空が視界いっぱいに広がっている。
『……』
仰向けに寝ていた状態から、気怠い体をゆっくり起こすと、自分が薄い青色の花畑の中にいる事に気付く。
仄かに甘い香りを放つその青い花の絨毯はどこまで続いているのだろう。延々と続く青のグラデーションはいつの間にか空の青へと溶け込んでいて、どこが地平線なのかが分からなかった。
そして、自分がこれから何処へ向かったら良いのかも分からない。青い花を辿り、森を抜けたところまでは良かった。辿り着いた先は甘い香りに包まれた一面の花畑で、森を背に真っ直ぐ、ひたすら真っ直ぐ青い花の海の中を歩き続けたのだが、行けども行けども景色は変わらない。そのうち、自分が前進しているのかどうかも分からなくなってきた。うるさいと思っていた有翼の人物達も姿を現さないため、広大な青い空間の中に一人きりだった。ヒトだけでなく、これだけの植物がありながら蝶や蜜蜂などの小さな虫の気配すらない。幼い頃から何度も見た青空の夢の中では、一人きりでも平気だった。むしろ、誰にも邪魔されずに、その場所でずっと眠っていたいと思っていた。しかし、同じような青い世界の中で、今は酷く孤独を感じている。そして、その場所の雰囲気を心地よく感じながらも何か物足りなかった。
『エトワス……』
気が付くと、一番この場に居て欲しいと思った人物の名が口を継いで出ていた。
翠たちと、お見舞い行っとけば良かった。
風に乗ってヒラヒラと舞っている花びらをぼんやりと眺め、ディートハルトはポツリと呟いた。
『怪我は大丈夫かな……』
体が重く、もう歩く気がしなかった。
花畑の中に座り込んだまま、ディートハルトはふとあることに思い至り僅かに首を傾げた。
『……もしかして、おれ、もう死んでる?』
突然、声が返ってきたような気がして、ディートハルトは驚いて立ち上がった。慌てて振り返ってみる。
『?』
しかし、そこには誰の姿もなく、海原にも見える青色の花畑が広がっているだけだった。
気のせいか……。
ディートハルトは、疲労を感じて再びその場に座り込んだ。
『帰りたいな……』
有翼の者達が戻って来るよう促す場所へ、ではなく、仲間の元へ戻りたいと思った。もちろん、ディートハルトが仲間とみなしているのは翼を持たない者達の事だ。
『もう、会えないのかな……』
ちょっと出かけて、用を済ませたらすぐに帰るつもりだったのだが……。
おれ、どうせ死ぬんなら、ちゃんと会っておきたかった。
『エトワス……会いたいよ……』
「シャーリーンが、地上に逃れてさえいなければ……」
ディートハルトが青い夢の中を彷徨っている事を知っている声が、忌々しげにそう呟いた。
「彼女のせいではありません」
それを聞いた女性の声が穏やかに宥める。
「分かっている。しかし、もう……僕の声もほとんど届かなくなってしまった。あいつが自分の意思で拒んでいるせいだけではなくな」
それは、限られた時が差し迫っている事を意味していた。
「扉の守護者達が、力を貸してくれたら良いのですが」
女性の声が愁いを帯びる。
「もう、無理かもしれないな。あいつは長く地上に居すぎたんだ」
遙か遠方の地で話題とされている事など知りもせず、ディートハルトは夢の中で花に埋もれて相変わらずボンヤリと座っていた。
仄かに甘い香りをした光沢のある柔らかな花びらが、無数に宙を舞っている。
それはまるで、青い雪のようだった。
* * * * * * *
「これが雪って奴なのか?」
暖かい食堂の中から窓の外に目をやると、外はいつの間にか霙に近い雪が降り出していた。知識として知ってはいたが、生まれて初めて目にする白い物に見惚れてしまっていた。
『……手は尽くしたよな』
チーズと野菜炒めが入った大きなホットサンドにかぶりつきながら、シヨウはぼんやり考える。
レテキュラータへ来た直後に西の森に入り、そこでシュナイトと言う名の人物に保護されてから現在に至るまで、ほとんど眠っているディートハルトに代わりシヨウは王都内を奔走していた。最初の数日間は、ディートハルトが捜しているという、森に住んでいる人物が実在するのかどうかシュナイトにも協力してもらい調べようとした。しかし、肝心のディートハルトが誰を捜しているのか、その相手がどの様な人物なのかが分かっていないので、結局何の情報も得る事ができなかった。そこで、シヨウは姉のサラに手紙を出す事にした。もしまだディートハルトの仲間のファセリア人達がヴィドールに滞在しているのなら、彼らに連絡を取ってもらい、レテキュラータまでディートハルトを迎えに来させようと思ったのだ。そうすれば、自分はヴィドール国へ一人戻り、ディートハルトもわざわざヴィドール国へ行く事なく彼らと供にレテキュラータ王国から直接ファセリア大陸へ戻る事が出来る。そう考えたシヨウは、ディートハルトをレトシフォン邸に預けたまま、レテキュラータ王都のすぐ南にある港町ラタに一人陸路で向かった。ラタの港にはヴィドールからの多くの直行便が定期的に着くため、サラと面識のある船乗り達にも会えるからだ。
『え?俺に手紙?姉貴から?』
ラタの港に着いたヴィドールの船の船員に声を掛け、サラの事を知っている者がいないか捜していた時の事だった。サラは顔が広い……というより船乗りたちの“女神”的な立場らしく知っている者はすぐ見付かったのだが、シヨウがサラ宛の手紙を託す前に逆に姉からシヨウ宛の手紙を受け取る事になってしまった。
『ああ、弟のシヨウに渡して欲しいって頼まれてたんだ。仕事が終わってからレテキュラータの王都に行って探す予定だったんだけど、あんたの方から来てくれるなんて助かったよ』
よく日に焼けた若い船乗りがそう言って笑う。
『でも、あんた、本当にサラさんの弟なのか?あんま似てねえけど、実は恋人なんて事は……』
男の言葉に、シヨウは眉間に深く皺を寄せた。
『勘弁してくれ。血が繋がってなくても、タイプじゃない。俺は可愛らしい清楚なタイプが好きなんだ』
シヨウの言葉に男が声を上げて笑う。
『贅沢だなぁ。じゃあ、確かに渡したって事で、一筆貰ってもいいか?』
シヨウは差し出された紙に、確かに手紙を受け取ったと書くと署名した。
姉から受け取った手紙の内容を確認すると、シヨウはレテキュラータの王都中を飛び回る事となった。サラが寄越した手紙には、ファセリア人3人が、シヨウ達がラビシュを発ってすぐに後を追ったと書かれていたからだ。お陰で、3人を探し回り王都内の地理にも大分詳しくなった。しかし、流石に広い王都内を一人で調べ尽くす事は不可能であるため、シュナイトにも協力を仰ぎ、宿泊施設を初めとする王都内で彼らが立ち寄りそうな場所を全て調べて貰っているのだが、今のところ消息は掴めていない。
『もう、帰ってもいいだろう』
そろそろディートハルトを連れヴィドールへ戻ろうかと考え始めていた。ディートハルトは、仲間に先にファセリア帝国へ帰るよう置き手紙をしてきた。後を追ってレテキュラータ王国に向かったというファセリア人3人が、今もなおディートハルトを捜し続けているとは思えない。きっと、もうファセリア帝国に帰っているだろう。そう考えていた。
ヴィドール国にディートハルトを連れ帰った後は、さらにファセリア帝国へ帰してやらなければならないだろうが、その事については姉に相談し後で考えるつもりだった。
『帰ったら何をしようか』
ヴィドールで自分は無断欠勤し続けている状態になっていて、既に解雇されている確率も高い。
「ま、それは、しょーがねえ。とりあえず、ラファエルの世話はしてやんなきゃな……」
酷く不安げな瑠璃色の瞳が思い浮かぶ。記憶が戻った直後の彼は、“ラファエル”とは全く正反対の別人だと思っていた。いつも何かに怯えたようで気弱な印象を受けたラファエルと、何故かやたらに強気な本来の彼と、あまりの違いに面食らったのも事実だ。しかし、強気な彼に馴れたせいもあるが、今はどちらも彼本来の姿なのだと感じている。強気でありながらどこか虚勢を張っている部分もあるのだという事も分かってきた。結局、どちらが表に出ているか程度の違いで、どちらも彼自身なのだ。それが分かると、余計に放っておく事はできない。
『ヴィドールにいい印象はねえだろうし、きっとファセリアに帰りたがるだろうから、やっぱ俺が送ってやんねえとだな』
等と考えながら、グラスに注がれた濃いトマトジュースを喉に流し込む。以前ディートハルトには眉を顰められたが、シヨウはトマトジュースが大好きだった。
勘定を済ませて食堂を出ると、シヨウはシュナイトの屋敷へ戻る事にした。まだ昼前だが天候のせいで辺りは薄暗くなっている。早速これからシュナイトに暇乞いをするつもりだった。
と、細い路地から煉瓦の敷かれた大通りへと出たところで、背後から呼ぶ声があった。振り向くと、顔見知りの男が二人立っている。レテキュラータに向かったという3人のファセリア人を捜す事を手伝ってくれている、シュナイトの部下達だった。
「見付かったぞ!」
「何だって!?本当か?」
「中央広場の宿に、それらしき人物が3人。一人は名前が一致していないが、偽名を使っているのかもしれない。俺たちじゃ分からないから、確認しに行ってくれ」
* * * * * * *
今からおよそ20年前――。
『え、本当なのか?』
シュナイトは目を丸くする。左右色の違う瞳は、空に住む種族にとっては普通なのだと語った彼女は、真面目な顔で頷いた。
『本当よ。だから、私にとっては貴方みたいに両方の瞳が同じ色だという事の方が珍しい』
そう言うと、本当に物珍しげな表情をして左右色の違う瞳でじっと顔を覗き込んでくる。
『それじゃあ』
あまりに間近でじっくりと観察するので、思わず笑みをこぼしてしまいながら、シュナイトは視線を落とした。ゆったりとしたワンピースを着た腹部は、傍目からではふっくらとしている事は分からない。
『その子も、左右違う色の瞳をした子なのかな?』
『ええ、多分』
腹部に手をあて頷いた拍子に、緩く結い上げた髪を留めていた銀のピンから、艶のある青みがかった長い銀髪が幾筋かはらりと零れる。
『セレステだから、一つは青いラズライトの瞳だと分かっているけど、もう一つは貴方みたいに綺麗な若葉色だといいのにって思ってるの。そうしたら、本当に私たちの子供みたいでしょ?』
そう言って笑った後、僅かに表情を曇らせる。
『この子は望んでいない……いえ、むしろこうなった事を恨んでいるかもしれないけど』
『シャーリーン……』
シュナイトは傍らに立つ妻の肩に、元気付けるようにそっと手を置いた。
『君は命がけでその子を救ったんだ。そして今も護っている。恨んでいるはずがないだろう?それに、その子は本当に私たちの子供だよ。二人で大切に育てて、大きくなったらその子の望むようにしてやればいい』
元来、楽天的な性格であったため、夫の励ましにシャーリーンは安心したように大きく頷いた。
『ありがとう、シュナイト。そうよね!この子の親は、私たち以外にはいないんですものね』
そう言って、彼女は左右色の違う瞳を笑みの形に細めた。
『自分は世界一幸せなセレステだって思ってくれるように、私たち頑張らなきゃ』