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LAZULI  作者: 羽月
31/77

31白の大陸 ~風の噂~

 天を仰ぐ。

視界に入るのは背の高い常緑樹の枝葉と、その隙間から覗く白っぽい空の光だけだった。太陽の位置は確認出来ない。

「……」

頭上を見上げていたシヨウは、ついでにそのまま首を動かしポキポキと鳴らす。船に乗るのも初めてだったが、このような木々の生い茂る森に入ったのも初めての事だった。

「どこにも、何もいないみたいだぞ?」

朽ちて横たわった大木に腰を下ろし怠そうに俯いていたディートハルトは、シヨウの声に反応しゆっくりと顔を上げた。ぼんやりとシヨウを見上げた瑠璃色の瞳は僅かに潤み、その頬は、ほんのり紅潮している。

「……じゃあ、おれの気のせいかも」

この森に入ってから、ディートハルトは自分達のものではない微かな気配と視線を感じていた。しかし周囲を確認してもそれらしき姿は見当たらない。

「なあ、やっぱり今日のところは町に戻らないか?」

「そ、だな……」

二人が今いるのは、レテキュラータ王国王都の西に広がる森の中だった。港町ラタから船を乗り換え、レテキュラータの王都に着いたのは今朝の事で、それからこの森へと入っていた。


 王都の港に着いてすぐ、剣の幽霊に言われた通り近くに“森”があるかどうかを確かめるため、たまたま港にいた人に聞いてみたのだが、すぐに王都の西の方に森があるという事が分かったので、試しに町の西側に行ってみる事にした。

『(森だ……。本当にあった……)』

町の西の端には港で聞いた通り鉄格子で出来た閉ざされた門があり、そこから先に森が広がっているのが見えた。ディートハルトは、剣の幽霊の話は本当だったのかと少し怖くなったが、ヴィドール国の様な気候の土地でなければ森があっても珍しくはない。問題は、この森に剣の幽霊の話していた“扉の守護者”という人が住んでいるのかどうかだった。

『森って、すげぇんだな……』

鉄格子の先を眺めていたシヨウが唸る様に言う。

『おれの出身地のすぐ近くにも森はあるんだけど、こんなんじゃないから、ちょっとおれもビックリしてる』

ディートハルトの出身地、ルピナス地方にある小さな町ランタナの周囲に広がる森は、もっと明るくて、町の人達が木の実やキノコを採取したり、町の特産品にもなっている石鹸や化粧品などの材料になる植物を集めに行ったりするような場所だったが、目の前に広がる森は真っ暗だった。そして、門のすぐ横には注意書きの看板が立っていて、“立ち入り禁止”、“入れば命の保証はない”等といった警告の文字が書かれていた。

『やばそうだけど、行くんだよな?』

『せっかく来たし……』

シヨウの言葉に、少し躊躇いながらディートハルトは頷いた。

『多分さ、森の中に集落があったり、個人の家があるなら、分かりやすいところに案内の看板とかがあると思うんだ』

『なるほど。じゃあ、ちょっと行ってみて、案内板があるか調べてみるか』


 それからすぐにシヨウが重い鉄の門を開け、二人が暗い森に立ち入ってから既に30分程木々の間を歩き続けているのだが、看板などはなく今のところ出くわすのは魔物だけだった。

「そっちじゃない」

町に戻ろうと、立ち上がりフラリと歩き出したディートハルトをシヨウが止める。迷い込まないように、シヨウは道すがら目印を付けて来ていた。それを辿って行けば森を出る事ができるはずだ。

「地元の人間に話を聞けば、この森に住んでるって奴の事を何か知ってるかもしれない。先に色々調べてそれからまた出直そう。ほら、こっちだ」

目印として折った枝の方へ歩き出したシヨウは、背後で重い音を聞いた。


ドサリ


「おい!」

振り向くと、ディートハルトが木の根に足を取られて転んでいた。反射的に両手は地面に着いたようだが、支えきれずに顔もしっかり着地している。

「お前はガキか……」

泥で汚れた顔を上げたディートハルトは、不機嫌そうに口を尖らせていた。

「しょーがねえだろ。この服、動きにくいんだよ」

ラビシュを出る時にサラが用意してくれた外套は少し丈が長く、彼が転倒するのは森に入ってから今回で3度目だった。

『何でこんなに重いんだ……』

おもりでも縫い込んであるのではないだろうかと思えるほど、その外套は重かった。それに加え、腰のベルトに吊した中剣も邪魔だった。ファセリアで使っていた長剣に比べると長さもなく、重量も軽いはずなのに負担になっている。

『寒くなければ脱いでくのに……』

何枚も服を重ね着していたが、ディートハルトは密かに体を震わせていた。低く冷え込んだ気温のせいだけではない悪寒のためだ。

「大した傷じゃないよな?戻ってから手当てし直してやるから我慢しろ」

2度目に転んだ際に左の掌を切ってしまっていたのだが、再び転んだはずみで傷口が開き、軽く巻き付けた布きれの湿った泥の汚れの中には、新しい血が滲んできていた。

「ああ、いや、大丈夫。何ともないから」

シヨウに指摘されその事に気付いたディートハルトは、かなり汚れてしまったその布を外した。そのまま傷口に触れさせておくのは逆に不衛生だと思ったからだ。

「!」

外した布をポケットに入れようとした時、すぐ近くで何か物音がして、ディートハルトは中剣を鞘から抜くと背の低い茂みの方を睨んだ。急いで剣を抜いたため、ちゃんとポケットに入らなかった包帯代わりの布が地面に落ちている。

「魔物か?」

先に歩き出していたシヨウも、すぐに気付いて戻って来てディートハルトの傍らに立った。

「多分……!?」

ディートハルトが答えた瞬間、すぐ近くの茂みの中から何かが飛び出し、その直後に再び茂みの中へと姿を消した。何か黒い影が出てきたと思った時には、もう地面に落ちてしまっていたディートハルトの血の付いた布は無くなっていた。

「逃げた方がいいかもしれない」

ディートハルトは茂みを睨み付けたまま、ゆっくりと後退りした。嫌な予感がしていた。自分の血や肉を求め襲ってきた記憶の中の魔物の姿が脳裏にちらつく。空の種族を”至高の獲物”としている地底の種族の、”なれの果て”と呼ばれていた怪物だ。

『まさかあの気配は。でも、こんなところに……』

いるのだろうか?そうディートハルトが疑問に思う前に、その”何か”は再び茂みの中から姿を現した。

複数並んだ赤く光る目は、過たずに血の持ち主を狙っている。

「!」

ディートハルトが動くより一瞬早くシヨウが蹴り飛ばしたのは、予想していた赤い目の人型の大きな化け物ではなく、1メートル程の長さの百足の様な魔物だった。頑丈そうな黒っぽい金属に似た光沢のある節に別れた長い体に、無数の青い足が付いている。そして、その大きな頭部は複数の目を持つ骸骨のような形状をしていた。その不気味な髑髏(どくろ)は巨大な一対の牙を持ち、さらにその下に人の腕のような長いものが生えている。

「こんな場所に住んでる奴なんているのか?」

そう呟いたシヨウと同じ事をディートハルトも考えていた。

『……おれは、また間違った行動をとってしまったのかも……』

レテキュラータ王国に来たのは間違いだったのかもしれない。そう思いかけたディートハルトのすぐ傍らに、頭上から何かが降ってきた。

「!」

恐らく木の上に居たのだろう。それはシヨウが相手にしているものと同じ魔物だった。

「嘘だろ」

魔物に向かい手にした剣を構えたものの、新たに現れた魔物がその一体だけではない事に気付く。

「シヨウ、囲まれてる!」

「なっ!?どっから湧いて来やがったんだ?」

茂みの中や木の上、または土の中から現れた魔物は、ざっと見た所10匹はいるようだった。

「おれの血に寄ってきたのかもしれない」

剣を握った左手を右手で庇うように掴みながら、ディートハルトは独り言のように呟いた。

「ああ、あれか。地底の種族の仲間って奴か」

翠と共に、ディートハルトに話すルシフェルの言葉を間近で聞いていたシヨウが、ニヤリと笑う。

「それなら狙われてんのは、おれだけだから、逃げてもいいぞ」

前にも一度、同じ事を言ったような気がする……。やけに重さの感じられる剣を落とさないよう両手で支え直しながら、ディートハルトはぼんやり考えていた。

「ラファエル、お前死にたいのか?」

シヨウが呆れた様に言う。

「まさか。こんなとこで魔物に喰われて死んでたまるかよ。……でも、うん。……ほんとは、よく分かんねえんだ。嫌だけど、怖いけど……いや、なんかもう、何が怖いのかも分かんねえや」

最後の方は、ほとんど独り言の様で消え入るような声で呟いていた。

「……」

何か言ってやった方がいいのかもしれない。それは分かるが、シヨウは彼にかける言葉を見付ける事はできなかった。魔物に囲まれている状況からしても悠長に考えている余裕はない。

『今は……』

シヨウは魔物に向かい身構えた。

『こいつらを全滅させたら、何て言ってやるかゆっくり考えよう』

「虫なんかに殺られるな。ここでお前が死んだら、サラに酷い目に合わされる」

シヨウが言い終えると同時に、魔物の一匹が躍りかかってきた。



* * * * * * *


 冷たい風が肌を刺す。

ヴィドール国の新人ファイターから、ファセリア帝国の新人I・Kに戻ったフレッド・ルスは、砂色の厚い防寒着の喉元をキッチリと手で寄せた。少しでも体温を奪う風が入り込まないようにするためだ。

彼は現在、ファセリア帝国より遙か西、ヴィドール大陸からは北に位置するレテキュラータ大陸北東部にあるレテキュラータ王国の王都を一人歩いている。正午前という事もあり、王都中央の広場へ続く煉瓦が整然と敷き詰められた通りは大勢の人で賑わっていた。最近までいたヴィドール国とは全く違い、その町はファセリア帝国に近い雰囲気だった。

 広場中央の噴水前でタバコを銜えていた翠が、フレッドの姿に気付き軽く片手を上げる。季節的なものもあるが、ファセリア帝国は温暖な気候のため、フレッドにとってこの国は寒くてたまらなかったのだが、地元の者達と同じ様に翠はフレッドほど着込んではいなかった。ヴィドールでファイターとして支給された濃緑の上着と、カーキ色のズボン姿で、上着の中には黒っぽい長袖のTシャツを1枚、さらにその下に半袖の白いTシャツを1枚着ているだけだ。あまり着込むと動きづらくなるのが嫌らしい。とはいったものの、やはり寒いようで片手はポケットに突っ込んでいる。

「どうだった?」

煙草の煙を吐きながら翠が尋ねた。

「全然ダメだった。その様子じゃ、そっちもか」

フレッドは肩を落とした。彼が故郷に戻るのはまだ先の事になりそうだ。

「あっちも、みたいだね」

翠が指し示した人混みの中から、エトワスが真っ直ぐこちらに向かって歩いてくるのが見える。

「……」

雲一つ無い晴れ渡った青空の下、低い気温のせいか空気さえも澄みきっているように感じられる清々しい光景の中、彼の周囲だけがどんよりと重苦しいオーラに包まれているような錯覚を覚えた。

『暗い……』

『重い……』

「どうだった?」

無表情にやって来たエトワスは、にこりともせずに翠と全く同じ台詞を口にした。二人は反射的に首を振る。

「そうか……」

溜息を吐いたエトワスは、上着のポケットから折りたたまれた小さな地図とペンを取り出し×印を1つ書き加えた。


 レテキュラータ王国の王都は、彼らが現在居る広場を中心にほぼ正六角形となっている。六角形であるのは、寒冷地のこの国に馴染みの深い雪を神聖化しその結晶を模したもので、術的な意味合いもあると言われていて、この王都には南北に真っ直ぐ目抜き通りが走り、それに加えて六角形の頂点へ向かって6つの大きな通りが走っている。その通りは方角にすると、それぞれ北東、東、南東、南西、西、北西へと続いている。目抜き通りを北へ行くと王城へ続き、南は町の外へと続く門へ、六角形の頂点へと続く道の先にはレテキュラータ国王に仕える”六将”と呼ばれる武人でもある6人の貴族達の屋敷がある。と言っても、皆それぞれ国内の自分の領地にいて、用があって王都に来た時に滞在するだけの場所なので屋敷は無人らしい。唯一、西の屋敷に住むシュナイト・W・レトシフォンという人物だけは、西に広がる大森林を監視する役目を負っているため、逆に自分の領地に戻る事の方が少なく王都内の西の屋敷で生活しているという事だった。


 ラビシュから船で向かったラタの町で、結局ディートハルト達に追いつけなかったエトワス達3人は、すぐに陸路でレテキュラータ王国の王都へと向かった。ラタへ着いてから10日経ち、レテキュラータ王国の王都へ着いてからはそれよりさらに約3週間近く経過しているが、その間、手分けしてディートハルトとシヨウの行方を捜している。

六角形の頂点にある六将の屋敷を目印に王都を6等分して時計回りに捜索しているのだが、今のところ全く手がかりは掴めていない。そして、サラに聞いた扉の番人という人物も同時に捜しているのだが、その人物について全く情報がないので、ひとまず単純に“扉の番人”を“門番”だと解釈し、北の王城へ続く城門と南側にある町の外へ続く門、さらに、同じく町の外へ続く東側の門に行ってみたが、それらしき人物はいなかった。

地図上の六将の屋敷には既に今の時点で4つの×印が付いていて、まだ印が付いていない2か所は、西と北西の屋敷方面だった。そして、扉の番人がいるかどうかをまだ確認していない町にある大きな門は残り1か所――西の森へと続く門のみとなっている。



「ガッカリするのは早いと思うぞ!まだ西と北西側は捜してないんだしさ」

沈んだ表情のエトワスを何とか元気付けようと、フレッドは明るい調子でそう言った。昼食をとるため、3人は広場に面した食堂に入っていた。

「それにさ、もし次もまた手がかり無しだったとしても、こんなに広い町なんだからたまたま情報を掴めなかっただけって可能性は大きいと思うし。フレイクがこの国にいるのは確かだろうから捜し続けてたら絶対会えるって!」

フレッドの慰めは大して効果がなかったようではあったが、その心遣いは届いたようでエトワスは「そうだな」と僅かに笑顔を作って頷いた。しかし、すぐにぽつりと呟く。

「でも、3人じゃいつまでかかるか……。ライザ達を帰さなければ良かった」


 ディートハルトの後を追いレテキュラータ王国に向かうというエトワスを、当然ライザは止めた。

『フレイクさんにはシヨウさんが付いています。今回は、彼が自分の意思でレテキュラータ王国に向かったのですし、何よりご本人が“ファセリアに先に帰って”と言っているのですから、エトワス様が行かれる必要はないでしょう。心配なのは分かりますが、キサラギさんとルスさんが向かうとの事ですし、エトワス様は大怪我を負っているのですから、今回はお止めください』

ライザはキッと強い視線で睨み付けてそう告げ、ジルとマリウスは苦笑いして見守っていた。

『ライザ、すまない。正論だと分かっているから今回は説得するつもりはない。次期ウルセオリナ公爵エトワス・J・ラグルスとして命令する。E・K3名は、I・K6名と共にこのままファセリア帝国へ、ウルセオリナ城へ帰還しろ。そして、この国で得た情報を陛下と公爵閣下に全て伝えてくれ』

エトワスの言葉に、ライザはプルプルと震えていた。怒っているからだ。

『公爵閣下がこの場にいらっしゃったら、エトワス様も帰還せよと仰るはずです』

『ああ、もちろん分かってるよ』

『ライザさん、ウルセオリナ卿のご命令です。従わないと』

と、ジルがやんわり声を掛けた。

『船に乗ってる間はずっと体を休められますし、着いた先のレテキュラータ王国はファセリア帝国とは友好国ですから危険はありませんよ。それに、ヴィドール国よりもファセリア帝国へ近いですし、ファセリア帝国への直行便もありますから帰ろうと思えばいつでもすぐ戻れますし』

マリウスもそう言ってライザを宥めた。その結果、ライザはプリプリ怒りながらも命令に抗う事は出来ず、ジルとマリウス、そして教会に残っていたI・K達と共にブルネットの待つジャスパへと出発した。その後は、ジャスパで待機していたI・Kと合流し、当初の予定通りブルネット達の島に到着後、ラリマーから船でファセリア大陸へと向かったはずだ。


「ライザさんがここに居たら、もう諦めろっつって、お前に一服盛ってでも今頃ファセリア行きの船に無理矢理乗せられてんじゃねえ?」

翠が苦笑いするとフレッドも頷いた。

「滅茶苦茶キレてたもんなぁ」

「確かにそうだな……。やっぱりライザがいなくて良かった」

エトワスもライザを思い出して眉を顰める。


「どうも」

頃合いを見計らって食後のコーヒーを運んできてくれたウェイトレスに、翠が笑顔を向ける。この食堂は彼ら3人が宿泊している宿と隣接している事もあり、レテキュラータ王国の王都に着いてから毎日この店で食事をとっているため、すっかり顔馴染みの客になっていた。

「皆さんは、この国で年を越されるんですか?」

ウェイトレスが笑顔で尋ねる。いつの間にか、新年まで1週間を切っているという状況だからだ。

「あ~、そうなるかなぁ」

苦笑気味の翠に気付かず、ウェイトレスは『素敵ですね』と羨ましそうに言った。

「私も、仲のいい友達と旅行先で新年を迎えてみたいです。あ、じゃあ、次はどこに行くんですか?」

赤みの強いライトブラウンの髪を後ろで1つに結い上げ、サイドの髪のみをクルクルと縦ロールにして垂らしている同年代のウェイトレスは、すぐ目の前のエトワスではなく、その横の翠に親しげに声を掛けている。初対面の時から一度も笑顔を見せた事がなくその上口数も少ないエトワスは、”暗くてちょっと近付きがたい雰囲気の人”と認識されているようだった。本来の彼は人当たりがよく、少なくとも地元ウルセオリナではファンクラブまで存在するほど女性達に騒がれている二枚目次期公爵様なのだが、今は別人のようだった。

「次は西方面なんだけど、お勧めの場所ってある?」

ファセリア帝国から来たという彼ら3人を暇な旅行者だと思いこんでいるウェイトレスに、ここ3週間で5回目になる質問を翠はした。3人共ヴィドールの潜入先で貰った給料が残っていたのと、エトワスと翠も多少ファセリアの貨幣の手持ちがあり、さらに、フレッドが、まとまった額を持っていたため、宿に宿泊してこうして食事も出来ているが、これ以上滞在が長引けばこの地でも仕事に就かなければならない状況で、実はウェイトレスが思っているほど余裕のある身分ではなかった。

「西側は、観光客向けのお土産屋さんで売ってるものが、他とちょっと変わってますよ」

「へえ。どんな風に?」

エトワスの向かい側の席に座っていたフレッドがテーブルの上に身を乗り出した。

「普段は閉ざされている西の門は大森林に続いているんですけど、この大森林の奥には”氷の森の住人”って呼ばれる不思議な人達が住んでるって噂があるんです」

ウェイトレスが笑顔で話す。

「え?西にある森って、魔物も多いし氷獣っていう獰猛な生き物の住処で、入ったら絶対出られないとこだから誰も寄りつかないとこだって聞いたけど?」

翠は南西の土産物屋で聞いた話を思い出していた。フレッドも頷いている。一方、エトワスは全く興味なしといった様子で熱いコーヒーに口を付けていた。

「ええ、そうなんです。だから、人間ではなくて妖精とか妖怪とか色々言われていて。それで、それにちなんだ物が売ってるんです。妖精饅頭とか妖怪キーホルダーとか」

「この国の、妖精と妖怪の定義っつーか、違いがよく分かんねえな」

フレッドはコーヒーに角砂糖3つとミルクをたぷり入れて混ぜながらボソリと呟いている。

「可愛い物好きの人向けの商品は妖精もので、怖い物好きの人向けの商品は妖怪もので売り出してるんですよ。最近は、不気味だけど可愛い系というものも出ていて、どれもよく売れてるみたいです」

「なるほど……」

「あ、それから!西にあるのはシュナイト・W・レトシフォン様のお屋敷なんですけど……」

思い出したように六将の名前を挙げると、赤毛のウェイトレスは急に声を落としテーブルの方へ身を屈めた。

「レトシフォン様の奥様は、天使だって言われてるんです」

とっておきの秘密を話すかのように、頬をほんのり紅潮させたウェイトレスが得意げに囁く。

「天使?めっちゃ善人って事?」

キョトンとしたフレッドが尋ねる。

「それか、羽でも生えてるとか?」

翠が笑うと、ウェイトレスは大まじめに頷いた。

「羽の方です」

エトワスも含め、3人ともウェイトレスに注目した。

「確か、今から20年くらい前の事だったそうなんですけど……」

ウェイトレスが話し出す。


 約20年前、既に六将としての地位に就いていたシュナイト・W・レトシフォンは、任務で訪れていた西の大森林内で偶然有翼の女性と出会い、二人は恋に落ちて結婚したという。しかし、それから約1年半ほど経った頃、身籠もっていた女性は忽然とその姿を消してしまったらしい。

天使の身で人間との間に子を設けたため、強制的に天に連れ戻されてしまったのだと噂ではそう言われている……というのが、ウェイトレスの話の内容だった。


「それはもう、誰もが羨む程に仲が良くて相思相愛だったらしいんです。それなのに、許されない恋だったばかりに引き裂かれてしまうなんて……あんまりですよね」

本気で目を潤ませながらウェイトレスは、ハァと溜息を吐いた。

「でも。美しい悲恋物語ですよね……」

『うーん。美しいというか、普通に奥さんが出てっただけの様な気もするけど。実は旦那が浮気してたってオチなんじゃねえの?』

と、翠は密かに心の中で苦笑いしていた。

「今でも、レトシフォン様はお二人の帰りを待ってらっしゃるそうです」

「健気だねぇ」

揶揄混じりに翠が感想を漏らすと、ウェイトレスは大真面目に頷いた。

「ええ、本当に。奥様と、生まれる予定だったお子様のお部屋は、今でもそのままだって噂です」

「何て気の毒な話なんだ……」

翠とは違い、フレッドは同情した様子で表情を曇らせている。気のせいではなく、そのブルーグレーの瞳を潤ませていた。

「泣ける話だな。子供が生まれるの、楽しみにしてただろうに」

「ええ」

フレッドにつられてウェイトレスまでもが鼻をすすっている。一方、エトワスの方は相変わらず無表情に口を閉ざしたままなので何を考えているのか分からないが、とりあえず彼のダークブラウンの瞳は必要以上に水分を湛えてはいないようだった。

「名前まで決まっていたそうですよ」

「そりゃ辛いだろうな。ちなみに、何ての?」

何気ないフレッドの問いに、ウェイトレスはフリルのついた白いエプロンの裾で涙を拭いつつ答えた。

「確か、女の子ならディアナ様、男の子ならディートハルト様と」

その一瞬、エトワスも含めた3人は固まった。

「その、有翼の女性の名前は?どうして西の森にいたんだ?」

コーヒーカップを置いたエトワスが、誰よりも先に口を開いた。

「え、え?ええとっ、奥様の名前は、確かシャーリーン様、だったと……」

初めてダークブラウンの瞳に真っ直ぐ視線を向けられ、ウェイトレスはしどろもどろに答える。突然意外な人物に話しかけられ驚いてしまっていた。

「森に居た理由は分かりません。魔物に襲われていたのをレトシフォン様が助けたって聞いてますけど……。それで、二人は親しくなったって……」

「その女性について、知っている事を詳しく教えてくれないか?」

「ええ……。今、お話した事以外は知らないんです……。それに、20年くらい前の話で、あくまで噂なので、本当にシャーリーン様に羽があったのかは分からないですし……。ただ、すごく綺麗な人だったから天使って言われてたのかもしれないですし……だって、羽がある人間なんて、ねえ?」

困った様に口ごもるウェイトレスを、店の主が呼んだ。彼ら以外にも客は大勢いるのに、長い時間話し込み仕事に戻らなかったからだ。

「すみません。失礼します!」そう言い残し、逃げる様に去っていったウェイトレスの姿が厨房へ完全に消えると、翠はエトワスに視線を投げた。

「ディー君のママの事、知ってんの?」

「いや、知らない」

エトワスは首を振った。

「なんだ。思わせぶりな質問しといて」

翠が笑う。

「だって、気になるだろ?」

「まあな。本当に有翼ならその人は空の種族だった可能性は高いし、さらにその子供が、空の種族かもって言われてるフレイクと同じ名前が付けられる予定だったってのはなぁ」

エトワスの言葉にフレッドが同意する。

「オレは、ディー君の名前が出てきたのは偶然だと思うな。まあ、ビックリはしたけどね。よっぽど珍しくなきゃ同じ名前なんて結構あるしさ」

「まあ、それもそうだな。って言うか、フレイクにはランタナに家族がいるんだよな?」

今度は、翠の言葉にフレッドは頷いている。

「パパとママと弟が一人、さらにその下に双子の兄妹がいるって言ってたよ」

記憶を辿った翠がフレッドに話す。

「えっ!4人兄妹の長男?兄貴って感じはしないよな」

それは知らなかった!と驚くフレッドの向かい側の席で、エトワスはしばらく俯いて何か考えているようだったが、顔を上げると静かに言った。

「ランタナにいる家族とは血は繋がってないらしい。父親は元々いなくて、生まれてすぐに自分を”産んだ人”は、死んでしまったって話していた」

以前、長期休暇中にエトワスの自宅に招いた時、ディートハルトが話してくれた言葉を思い出していた。エトワスの私室のバルコニーで、暮れかけたグレーに近い薄紫の空を見上げながら、何でもない事のように彼は話していた。


『”産んだ人”って、母親だよな?』

妙な言い方だと感じながら思わず聞き返すと、ディートハルトは少し不機嫌そうに瑠璃色の瞳を細めた。

『”母親”じゃねえよ。おれにはそんなもん元々いねえよ』

『……』

彼がその女性を母親と呼びたくないのだという事を察して、エトワスはそれ以上何も言わなかった。

『父親も産まれる前からいなかったしな。おれは、周りの奴らが言うには、間違いで出来たガキらしいぜ』

その時、そう付け加えたディートハルトが、自嘲気味に冷たく笑っていたのを今でもよく覚えている。


「ああ、それで、“家族はいない”とか“他人”だって言ってたのか。やっぱ本当だったんだ」

エトワス程詳しくは聞いていないが、翠もディートハルトが“家族はいない”と話すのを何度か聞いていた。

「それなら、やっぱフレイクの母親はそのシャーリーンさんって天使説もあり得ない訳じゃないのか……。その人が、レテキュラータで姿を消した後ファセリアに行ってたらって事になるけど」

「そうだな。子供に付けられるはずだった名前が一致してるって事と、その女性とディートハルトが空の種族の血を引いてる可能性があるって事、そして、さっきの店員の話じゃ20年くらい前の話って曖昧な表現だったから、ディートハルトは今18歳になったばかりだから、まあその女性の子供だったとして一応当てはまる範囲には入るって事にはなるよな」

「ええっ!?」

どこが驚くポイントだったのだろうか。目を丸くするフレッドに、不思議そうな二人分の視線が注がれる。

「ふ、フレイクって、18だったのか!?」

エトワスは頷いた。

「ヴィドールで、俺達が潜入する少し前に誕生日を迎えてるからな」

「いや、そうじゃなくて……」

「ああ、そっちか。学校に行くようになった年齢が、早かったらしいよ」

彼らの生まれ育ったファセリア帝国では、子供達は皆、教育を受ける権利を保証されており、その親たちは子供達に教育を受けさせる義務を負っている。子供達は居住する地域にある学校に通うなりして一定の期間就学する事になっているのだが、通い始める年齢が特に定まっているわけでは無く、大体7歳前後が一般的となっていた。それが、ディートハルトの場合少し早かった。その理由は、彼本人に聞いたところによると、養い親夫婦が『近くにおれの気配があると、ウザかったから』らしい。

「いや、そういう事でもなくて」

エトワスの説明に、フレッドは首を振る。

「そうなんだろうな、とは思ってたんだけど。もっと下だと思ってた。15か16くらいかなって」

「いや、俺達より2つ下だよ」

エトワスと翠は苦笑いした。

「ええと。じゃあ、まあ、そうとして。フレイクは今、父親かもしれないレトなんとかさんって人の家にいるって事なのかな?」

「それとこれとは、また別の話だと思う」

フレッドの言葉にエトワスは首を振る。

「ディートハルトは、両親の事は全くと言っていいほど知らなくて、しかもよく思っていないみたいだったから、もし、この国で初めてこの噂話を耳にしたとしても、自分と関連付ける事自体しないだろうから、わざわざ会いに行く事もないと思う」

ディートハルトの暗い笑顔を思い出していた。

「それに、元々この国に来た理由も、剣の幽霊の話が事実かどうか確かめるため……扉の番人がいるのかを確かめに来たわけだしね」

翠も頷いた。

「じゃあ、やっぱフレイクの行方は手掛かりは無しか」

「まだ、この町にいると思うんだけどな……」

ディートハルトがこの町を去る場合、行先はファセリア帝国か、シヨウが一緒なので一度ヴィドール国に戻るかのどちらかになるだろうと予測していて、それぞれの地に向かう船が出る港で、ディートハルトやシヨウらしき人物を見掛けたら教えて貰える様頼んでいた。しかし、どちらの行先の船の乗り場にも、今のところ二人らしき人物は姿を見せていなかった。

「じゃ、とりあえず。元気出して、次は西のエリアに行ってみようか。落ち込むのは、最後の北西のエリアを調べ終わって、それでも情報が全くなかったって時でも遅くないよ」

そう言って、翠は温くなったコーヒーを一気に飲み干した。


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