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LAZULI  作者: 羽月
30/77

30霞 ~少年とうさぎ~ 

 翌日の早朝――。


翠とフレッドは再び二人だけでエトワスの元を訪れたのだが、何故か彼らは目に見えて困ったような表情をしていた。

「何かあったのか?」

エトワスの問いに、フレッドはあからさまに視線を逸らし、翠は薄く笑っている。

「ディートハルトは?」

「おはよ。今日は怪我の具合は?」

エトワスの質問には答えず、翠が胡散臭い満面の笑顔を作る。

「いいよ。ディートハルトは?」

「やだなァ。せっかくオレらがこうして心配してお見舞いに来てるってゆーのに、会いたいのはディー君だけ?寂しいなァ」

「悪かった。来てくれて嬉しいよ」

大げさに悲しげな表情を作っている翠に笑顔を作って返すと、エトワスはターゲットを変えフレッドの方に視線を向けた。

「ディートハルトはどうしたんだ?何か隠してるだろ?」

笑顔から早くも一変して、どことなく厳しい表情を浮かべている。

「隠してるって訳じゃ……」

フレッドは翠の横腹を肘で小突いた。

「何でオレばっかし、こーゆー役目……」

翠はブツブツ言いながら徐にズボンのポケットに手を入れると、折り畳まれた小さな紙切れを取り出してエトワスに差し出した。


----------------------------

『先にファセリアに帰って下さい。


 ディートハルト フレイク


 追伸:エトワスへ

  早くよくなって下さい。色々ゴメン』

----------------------------


黒いインクで不揃いに書かれた見慣れたファセリアの文字は、署名の通り確かにディートハルト本人の筆跡だった。

「………………」


怖い。


署名まで入れても僅か4行しか書かれていない紙を長い間無言で凝視しているエトワスに、彼以外のその場にいた全員がそう思った。

「……どういう事だ?」

「いや~。オレ達に聞かれてもぉ?」

ねえ、と翠に同意を求められ、フレッドは困ったような表情で大きく頷いた。

「夕飯の頃までは、間違いなくいたんだ」

「いなくなったのか!?」

エトワスはそう言いながら慌ててベッドを下りようとし、素早く動いた無言のマリウスに止められている。

「ああ。まあ、そういう事」

昨日の午後、エトワスが目を覚ました事を伝えた時には確かに居た。前日と同じように一人でぼんやりと礼拝堂に座っていた彼と直接言葉を交わしたのだから間違いない。その時もディートハルトは一緒にお見舞いには行かないと言ったため、翠とフレッドの二人でエトワスに会いに行き、その後、まだ日の高いうちに病院から戻り実際に見て来たエトワスの様子を伝えた時も、やはり礼拝堂に座っていた。


『もう、心配いらないと思うよ。まだ当分の間は安静にしてなきゃだろうけど、2、3日中にはこっちに戻れるんじゃないかな。そしたら、皆でファセリアに帰れるよ』

翠がそう伝えると、ディートハルトは俯いて小さく頷いた。

『そっか……。ほんと良かった』


「でも、今朝になったら姿が見当たらなくて、部屋の机の上にその紙が置いてあったんだよな」

フレッドが困り顔でそう話す。

「……行き先に、心当たりはないのか?」

急に動いて傷が痛んだのか、エトワスは眉をきつく寄せている。

「ビルに戻ったとか追っ手に捕まったとかではないみたいなんだけどね」

「サラさんが何か知ってるみたいで、シヨウが一緒だから心配いらないって言ってるんだけど、それ以上教えてくれないんだよな」

翠とフレッドが顔を見合わせ頷きあう。

「シヨウと一緒なのか……」

エトワスが不安そうに呟く。

「あいつは、お前の事助けてくれたんだしさ、今更フレイクを聖域に連れ帰るって事はないと思うぞ」

「オレも、それは心配しなくていいと思う」

「……そうだな」

二人の言葉を聞き、グラウカ達の“ラファエル”に対する扱いについて、シヨウが“気に入らない”と言っていた事を思い出し、エトワスは疑うのをやめた。

「サラさんが知ってるのは確実だから、また話を聞いてみるよ」

「ああ。もしかしたら、すぐ戻って来るかもしれないしさ。何か分かったらすぐ知らせるから、あんまり心配しないでゆっくり休んでてくれ」

翠とフレッドはそれだけ伝えると、教会へと戻って行った。


 二人が去った病室で、エトワスは無言のまま紙切れを眺めていた。

『ファセリアに帰れるのが嬉しいんじゃなかったのか?……ゴメンって、なんだよ?』

苦労したというのに、これでは振り出しに戻ってしまったようなものだった。

「どうしてなんだ……?」

エトワスは深い溜息を吐いていた。



* * * * * * *


「……フレイクってさぁ、やっぱ本当に空の種族で翼があるんだなって、最近思うんだ」

蝋燭のオレンジ色の明かりに照らされた有翼の像を見上げ、ぼんやりとフレッドがそう言った。

「は?」

近くの椅子に座り、メモ帳に何やら書いていた翠が顔を上げる。

「服脱いだとこ何回も見たことあるけど、別に背中には何もついてなかったよ?」

学生時代、喧嘩がほぼ日課だったディートハルトは、寮で同室だった翠とエトワスに幾度となく怪我の手当をしてもらっていた。体中に痣や擦り傷、切り傷を作っていたため、翠達は背中どころか全身を何度も観察済みだし、同じ部屋で生活していたため着替えの時は別に見ようと思わなくても視界に入る場合があった。

「そういう事じゃなくてさ」

笑っている翠にフレッドが真剣な目を向ける。

「まるで見えない翼でも持ってるみたいに、遠くへ飛んで行ってしまうって言いたかったんだ」

「フレッド君って、意外と詩人だねぇ」

翠は苦笑いすると、再びメモ帳に視線を落とした。それは、ヴィクトールに提出する報告書の下書きだった。今更ながら、ヴィドールへ着いてからの出来事や得た情報をまとめてみている。忘れないうちにきちんと書き留めておくつもりだった。幸い、潜入したメンバーはI・Kだけでも8人もいるため、記入漏れがあったとしても問題はなさそうだが、ヴィクトールに直接命令されたのは自分とフレッドの二人だけなので、あまりいい加減な報告は出来ない。

「俺、詩って好きだな。短い言葉の中でいかに表現するか……リズムを持たせてさ。韻を踏んでるのなんて、たまんないよな」

ブルーグレーの瞳を輝かせるフレッドに、翠は意外な一面を知ってしまったと思っていた。

「詩はともかく、報告書は準備出来てんの?」

「もちろん。ちゃんと記録してるから。あとはまとめるだけだよ」

フレッドの言葉に、そう言えば毎晩何か書き留めている様だったなと翠は思い出していた。

「あ~、そうなんだ。じゃあ、オレは、ファセリアに帰ったら詩じゃなくて体験記書いて本出しちゃおうかな。ファセリアにいたら体験できないような事もいっぱいあったし」

「は?お前が?」

フレッドは目を丸くして翠に視線を向けた。

「そう。拉致られたI・Kを救出するため遙か異国の地で大奮闘する怒濤のノンフィクション」

「はぁ、なるほど」

「タイトルは、『属性魔術の得意な次期公爵様は恋の炎は操れなくて苦戦中!溺愛する青い目の小鳥を早く捕まえたい!』

「何だそれ。体験記じゃねえじゃん」

「楽しそうだな」

突然の第三者の介入に、笑っていたフレッドは固まった。

「あれェ、寝てなくていいの?」

礼拝堂に入ってきたエトワスに翠は愛想笑いを浮かべる。

「いや、次期公爵様が一途にディー君を追いかける健気な様を、是非歴史の1頁に文字という形で刻んで残しておきたいなぁなんて思ったんだけどさ。どう?」

「悪いけど冗談に付き合ってる余裕はない」

溜息を吐くように言って、エトワスは近くの椅子に腰を下ろした。

「ノリ悪いなぁ」

翠は首を横に振った。

「そんなに心配しなくても、シヨウが一緒なんだし大丈夫だろ。あいつなら、危害を加えたり見捨てたりって事はないだろうし」

元気付けようというのか、フレッドが妙に明るい調子で言う。

「別に、彼を信用していない訳じゃないよ。彼がいなければ俺は死んでただろうし」

「じゃあ……」

「ディー君がシヨウ君を選んだから、拗ねてんだよ」

「ああ、なるほど」

エトワスは微妙な表情をしていたが、フレッドは納得した様子で大きく頷いた。

「ほんと、俺たちにも相談してくれたら良かったのになぁ」

ディートハルトが姿を消したとエトワスに伝えた翌日になり、やっとサラに話を聞き出す事ができていた。今から2時間程前の事になる。


『本当は、ラファエル君との約束は破りたくないんだけど。……まあ、仕方ないわね。彼にもしもの事があって、貴方達に一生恨まれたりしたら嫌だし』

長く伸ばした爪を自室で磨いていたサラはついに根負けして溜息を吐くと、ディートハルトがレテキュラータに向かった事とその理由を、病院まで出掛けエトワスの前で話してくれた。翠とフレッドの二人にしつこくつきまとわれ、いい加減うんざりしていたせいもある。

『レテキュラータ王国に行った?』

エトワスの言葉に、サラは頷いた。

『ええ。剣に憑いてるらしい幽霊が、ラファエル君に“お前はもうすぐ死ぬ”って言ったらしいの。それで、”死にたくなかったら、レテキュラータ王国に行け”って言ったんですって』

『どうして?』

エトワスの問いに、サラは『さあ?』と、首を傾げた。ディートハルトはサラに幻聴の話をする際に、自分がセレステのヒナと呼ばれた事や、『眠りにつけ』と言われた事、剣の幽霊が話した、その“セレステ”や”アズール”と言った言葉に心当たりがある等といった事に関しては一切触れてはいなかった。

『”扉の番人さん”?だったかしら?……その人がレテキュラータ王国にいるらしいんだけど、その人を訪ねろって言われたみたい』

『扉の番人って、どっかの門番って事?』

フレッドが首を傾げる。

『何そいつ、医者なワケ?』

翠が問うと、サラは『そこまでは知らないわ』と首を横に振った。


 生きた人間の言葉でさえ簡単には信じないディートハルトが、”幽霊”等というものと接触し、その言葉を真に受け行動を起こしたという事は意外だったが、エトワスら三人にとっては、友人だと思っている自分達に相談してくれなかったという事は寂しい事実だった。

「……信頼してくれてると思ってたんだけどな」

エトワスは薄暗い天井を仰ぐと、右腕で目の辺りを覆った。痛み止めの薬は飲んでいるが、ずっと負傷したところが疼いている。処置を施した医師のルーサーと、入院先の医師にも絶対安静を告げられていながら、E・K達を振り切って寝台を下りたが、本当はまだ体を動かす事は出来ない状態だった。

「そういう事じゃなくてさ、単純に、誰にも迷惑を掛けたくないって思ったから何も言わないで出てったんだろ。ディー君らしいじゃん。しかも、怪我してて安静にしてなきゃなんないって状態のお前に、わざわざ新たな問題事を相談する訳ないだろ」

珍しく茶化す事無く翠が言う。

「俺は……」

「迷惑だなんて思わない、って?」

エトワスの言葉を遮り、翠が小さく笑う。

「だよな。それに、エトワスは今そんな状態だから無理だとしても、俺達はフレイクを連れ帰れって命令受けてる訳だしさ、言ってくれれば付き合ってやるのにな」

フレッドが頷く。

「まあ、ほら。それはさぁ、追いついてから直接本人に言ってやんなきゃだね」

ポトリと煙草の灰が石造りの床に落ち、翠は『ヤベ』と、ササっと靴で踏みつけた。

「でも、フレイクの気持ちが分からないでもないよな。迷惑かどうかは置いといて、自分が死ぬって幽霊に言われたから、ちょっと出かけてくるなんて言えないだろ」

「大体、ディー君が幽霊ってもんを信じるってのがかなり意外だけどねぇ、オレは。サラさんが『かなり取り乱してた』って言ってたけど、よっぽど怖い目にあったんだろうね」

翠が、視線だけをエトワスに向ける。

「幽霊がどうのってのは、俺も意外だと思った。でも、ディートハルトはそれまで一人でずっと考えてたんだと思う。滅んだ3種族の事とか、自分が何者なのかとか体調の事とか。自分では認めたくないって思ってても、やっぱり不安だったんだろうな。そんな状態で聞いたその幽霊?か何か分からないけど、言われた言葉がきっかけになって、今までの考えを一変させたのかも。翠が言う通り、かなりショックな事があったんだろうな……」

エトワスはどこか遠い視線で像の足下に置かれた蝋燭の灯りを見つめたまま、『今更気付いても遅いけどな……』と溜息を吐いた。

「まあ、とりあえず、これからの計画練ろうか?」

携帯灰皿に煙草の吸い殻を入れると、翠は座っている椅子の背もたれに両腕を乗せた。

「やっぱ船で追いかけるのか?」

船に弱いフレッドが少し嫌そうに言った。サラに聞いた話では、ディートハルトの乗った船は、レテキュラータ大陸の東の沿岸にある町に寄港しながら北へ向かい、トレニアという大きな町に4日間停泊し、その後も北上して最終的にラタという町に着く船だという。ディートハルト達の最終目的地と予想されるレテキュラータの王都は、ラタよりさらに北にあるのだが、そこへ向かうためにはさらに別の船に乗り換えるか、そうでなければ陸路で向かう事になるらしい。

「当然。陸路より海路の方が早いでしょ。それに、今回はエトワスが怪我人だし、しばらく動けないだろうから、寝てられる船一択だよ」

「えっ?その怪我でエトワスも行くのか?マジで動けないだろ?」

フレッドが驚いたように声を上げた。

「そうだけど、行かないと思う?」

翠が笑うと、当然の事のようにエトワスが口を開いた。

「このまま寝込んでる事なんて出来ないし、ファセリアに戻るつもりもないよ」

「そ、そうか」

エトワスの答えを予想していなかった訳ではなかったが、ライザ達は困るだろうなと、フレッドはE・K達に同情した。

「オレが聞いた情報によると、ディー君達の船とは別に、トレニアって町に何日も停泊しないでラタに向かう船があるらしいんだよね。一応、補給とかで寄港はするんだけど数時間しか停まらないんだって。それに乗ったら時間を稼げそうだしディー君達の近くまで追い付けそうじゃね?」

翠の言葉に、「それはいいな」と二人が答える。

「後は、エトワスが頑張ってE・Kの皆さんを説得しなきゃだね」



* * * * * * *


 北のレテキュラータ大陸行きの船は、強い風を受け快調に航海を続けていた。陽光を受けた紺碧の水面がキラキラと輝いている。

サラの商売仲間でもある船の持ち主の厚意で、船に格安で乗せて貰える事になっただけでなく、部屋も良い部屋を用意して貰っていたため、ディートハルトとシヨウの船旅は非常に快適だった。

「フンフンフーン……」

シヨウは船縁に沿って甲板を歩きながら、少々音程の狂った鼻歌を歌っていた。ヴィドールでは恐らく誰もが知っている童謡だ。

『水の海ってのは、良いもんだ』

彼にとって砂の海は身近なものだったが、船に乗り水の海に出るのは初めての体験だった。そのため、少しベタつく潮を含んだ風を受け、視界いっぱいに広がる深く濃い青をした海と水色の空をただ何をするという訳でもなく眺めているのが妙に楽しい。すっかり旅行気分だった。

「ほら、食い物持って来たぞ」

シヨウは甲板の隅まで行くと、ベンチでフードを目深に被り休んでいた人物の鼻先にサンドイッチの紙包みを差し出した。船内にある食堂で買って来た物だ。

「……」

相手が身じろぎ一つしないので、身をかがめフードの中を覗き込んでみると、瑠璃色の瞳は伏せられていた。

「……なんだ、また寝てるのか」

僅かに緊張した面持ちでその首筋に手を当て体温と脈を確かめてから、シヨウは息を吐くと彼――ディートハルトの横に腰を下ろした。

「こんなに天気も良くて、いい眺めなのにな」

ラビシュの港を出てから、昼夜を問わずディートハルトは眠っている時間の方が長かった。それが快眠を貪っているというのなら問題ない。しかし、今の彼は起きて活動する体力がないため、体力を温存するために意識も閉ざしているように見えた。血の気のない、瞼を固く閉ざしたその顔に表情はなく、かなり近付かないと確認する事の出来ない穏やかすぎる呼吸はその生死を疑う程だ。良く言えば人形、悪く言えば死人のようだった。


 シヨウ達の姿に気付いた船員が一人、申し訳なさそうな表情で歩み寄ってくる。

「お客様、ここは風が強く冷えます。お連れ様を、どうぞ客室の方へ」

二人の乗った北の大陸行きの客船が、主要な経由地であるトレニアの港を出てから3日経っていたが、時折フラフラと甲板を歩いているディートハルトの姿は船員達にも認識されていて、体調が悪そうな事もありその注意を強く引いているようだった。少なくとも、サラの手配してくれた船でラビシュを出てしばらくの間は元気だったのだが……。


『ジェイドが目を覚まして、良かったな』

ラビシュからラタ行きの船に乗った直後、シヨウがそう話し掛けると、ディートハルトは僅かに眉を寄せ唇をキュッと引き結ぶと深く頷いた。

『ああ、うん。ほんと良かった。シヨウのお陰だよな。シヨウが来てくれなきゃ、おれ、何も出来なかったから、もしあのままだったらエトワスは……』

と、言葉を詰まらせ、ウルっと瑠璃色の瞳が潤む。

『きっと、あれだ。光の神のおみちみきって奴だ!』

焦ったせいで、“お導き”を言い間違ってしまった。ディートハルトは何の事かと目を瞬かせている。

『ジェイドも無事だし、お前もアクアも脱出出来たし、みんな運が良かったな!』

笑いながらそう言って誤魔化した。

『そう言えば、アクアは、ちゃんと家に帰れたかな?』

上手く誤魔化せたのか、“おみちみき”の事には触れずディートハルトがポツリと呟いた。

『ジェイドが動けるようになってたら、それぞれみんな帰郷する事になってるだろうから、今頃俺らみたいに船の上なんじゃないか?』

シヨウが答える。

『そっか、……なら良かった』

アクアはルシフェル同じで、実験体として暮らす事に対して全く不満はないように見えたが、ランクBと呼ばれていた少女があの場から解放されて良かったと、ディートハルトは思っていた。

『あのさ、おれ、少し寝てもいいかな?何かちょっと疲れてるんだ』

『ああ、もちろん』

そうシヨウが答えてから現在に至るまで、その時以上にディートハルトと会話した事はない。


「お医者様が必要でしたら、お呼びしますが?」

「そうだな。頼む」

航海中に船内で死人を出されては困るといった様子の船員の言葉に苦笑いしつつ、シヨウは眠ったままのディートハルトの体を抱え上げると、個室となっている自分達の客室へと向かった。



* * * * * * *


 どこか遠くから笛の音のような音が聞こえてくる。

それに合わせ軽やかな旋律を奏でているのは何か弦楽器のようだ。


ウルサイな……。


そう思いながら目を開けると、ライトブラウンの瞳がじっと自分を覗き込んでいた。

『あ、起きた?』

ライトブラウンの瞳をした2、3歳年下の少女が嬉しそうにニッコリ笑う。肩まで伸ばした淡い茶色の髪が少女の動きに合わせて揺れている。

『……』

ディートハルトは無言でベッドから体を起こし、自分の部屋を見回した。何故か、周囲がぼんやりと霞が掛かっているように見える。粗末な木製のベッドも、小さなテーブルとその上に置かれた小さな空っぽの金属製のカップも、窓脇に置かれた3本足の低い椅子も、そこに置かれた彼が“ラビくん”と呼び密かに世界でただ一人の親友だと思っているウサギのヌイグルミも、いつものように確かにそこに存在しているはずなのに、どこか遠くにあるもののように感じられた。

『あのね、ディートハルト君、これ、あげる!』

唐突に少女が差し出したのは、串にさされた赤いリンゴを飴でコーティングしたものだった。霞がかった世界の中で、やけにその赤い色だけが鮮やかに見えている。

『おいしいから、食べてみて!』

『……いらねえ』

一瞬沈黙した後、ディートハルトは首を振った。昨日から何も食べていないのでかなり空腹だったが、受け取る気は無かった。

『パパとママには言わないよ。あ、お兄ちゃん達にも黙っててあげるから。ね?』

ディートハルトは少女から逃れるように視線を逸らした。

『片割れは?』

代わりにそう質問すると、少女は少し不満そうに口を尖らせた。

『リラ君の事?男の子同士で遊びに行くって』

『(なるほどな)』

納得した。どんな時でも一緒にいる双子の兄に置いてけぼりにされ、ここへ暇つぶしに来たに違いない。

『それで、おれを冷やかしに来たのか?』

冷えた視線を投げると、少女は怒ったような表情で首を振った。

『ディートハルト君が可哀想だから、わざわざお菓子あげに来たんだよ。一緒にお祭行ってあげるから行かない?楽しいよ』

“可哀想だから”“行ってあげるから”……少女が何の悪意もなく、おそらく同情心から口にした言葉は、ディートハルトの中に重く冷たい固まりとなってまた一つ溜まっていく。

『楽しい?』

自分が楽しい事を他人も同じように感じると思い込むのは、傲慢以外の何ものでもない。ディートハルトはそう思った。

『そう。行きたいでしょ?私、パパにお小遣い貰ったから、お菓子ちょっとなら買ってあげられるよ。こんなところに閉じこめられてるなんて、すごく可哀想』

少女は心底憐れむようにそう言いながら、ベッドの端に腰を下ろした。

『ディートハルト君も、喧嘩ばっかりしなきゃいいのに。そしたら、パパも閉じこめたりしないのに』

少女は言いながら、床に届かない足を交互にブラブラと振り始めた。新しく買って貰ったものなのか、視界の中で揺れるリボンの付いた少女の革靴は、リンゴの菓子と同じ艶やかで鮮やかな赤い色をしていた。

『あんたのパパは、おれが何をしても、何をしなくても、気にくわないんだから、関係ねえよ』

養父につけられた目元の痣に無意識のうちに手をやりながら、冷えた声でそう答える。

『パパもママも、お兄ちゃんたちも、ディートハルト君の事嫌いだもん。しょうがないよ』

やはり何の悪意もなく、当たり前の事を口にするように少女はサラリと言った。

『でも、リタはディートハルト君の事好きだよ。綺麗だもん』

最高の褒め言葉を贈ったつもりなのか、少女――リタは、ディートハルトに笑顔を向けた。

『リタね、ママがお兄ちゃん達に買ってくれるみたいな服をディートハルト君が着たら、絶対似合うと思う。だって、お兄ちゃんたちより全然かっこいいし』

リタはそう言いながら、気の毒そうな視線でディートハルトのよれたTシャツと色褪せたズボンを眺め回した。

『……』

8つになったばかりの少女のませた言動に、ディートハルトは何と言っていいのか分からない。ただ、酷く嫌な気分になっていた。邪気はないのだろうが、自分より優位な立場に立っている事を自覚しているからこそ掛けられる言葉は、全てが反感を抱くものにしか聞こえない。

と、リタは思い出した様に淡いオレンジ色のワンピースのポケットに手を入れた。

『あのね、これ見て。パパに買ってもらったの。綺麗でしょ?』

少女が大事そうに取り出したのは1枚の絵ハガキだった。そこには性別の分からない有翼の人間の姿が描かれている。

『この人、ディートハルト君に似てない?』

『は?』

先程からずっと無表情のまま冷たい言葉を返していたディートハルトは、意表を突かれたように眉を顰めた。

『……』

その描かれた人物は、金色の髪に青い瞳をしていたが、ただそれだけで他に共通点らしきところは見当たらない。

『でも、ディートハルト君の方が、目の色が綺麗』

冗談じゃねえ!こんな化け物と一緒にするな!もう、ここから出てってくれ!

リタの言葉に耐えきれなくなったディートハルトが、そう口にしようとした時だった。

『いたよ、パパ!』

すぐ近くにあるのに、そこにあるような気がしなかった部屋の扉が突然開き、リタとよく似た少年が姿を現した。リタの双子の兄、リラだ。

『あ、リラ君』

リタが嬉しそうにベッドを下りる。

『リタ、何でこんなところにいるんだ?』

パパと呼ばれた黒髪の大柄な男が、ゆっくりと部屋の中へ入ってきた。霞のせいか心なしか普段に増して彼の体が大きく見えるような気がする。

『ディートハルト君にも、コレをあげようと思ったの。“いらねえ”って言われたけど』

リタは父親にリンゴの菓子を掲げて見せた。

『リタは優しいな』

鼻に掛かった優しく甘い声音でそう言い、黒髪の男は愛おしそうに娘の頭を撫でた。

『リタが、わざわざ自分のお小遣いでお前に買ってやったんだ。貰ってやれ』

娘に掛けた声とはうってかわり、明らかに刺のある口調でそう言いながら、男はディートハルトの方へリンゴの菓子を突き出した。

『……』

ディートハルトは、男の顔は見ずに無言で首を横に振った。ギュッとベッドのシーツを掴んだ小さな手が震えているのが、自分でも分かる。恥ずかしい上に悔しくて情けないと思うが、この男を怖いと思う気持ちはどうしようもなかった。

『素直に感謝も出来ない上に、リタに悪いと思わないのか?……まあ、無理な話か。お前みたいなガキにそんな感情があるわけないな。全く迷惑なだけの目障りな存在だよ、お前は。早くこの家から出て行って欲しいもんだ』

男はそう言いながら、小さなテーブルの上に直にそのリンゴの菓子を置くと、双子を促し部屋を後にした。すぐに鈍い金属音がしたのは、外から鍵を掛けられたからだと分かる。

相変わらず遠くから聞こえている祭の音楽の中、不揃いな足音が部屋から遠ざかった事を確認すると、ディートハルトはベッドを下り、窓際に置かれていた自分の背丈の半分程もある大きさのウサギのぬいぐるみを手に取るとぎゅっと抱きしめた。

『……』

石造りの床にしゃがみ込み、身動き一つせず乾いた瑠璃色の瞳で床の一点をじっと見つめている。いつも彼は、こうやって悔しい気持ちや悲しい気持ちが収まるのを待っていた。


 ふと、視界の中に誰かの足が現れた。大人の男性の靴だ。養父が戻ってきたのかと思い、恐る恐る床から視線を上げてみると、そこには全く違う人物が立っていた。

視線が合うと、ダークブラウンの瞳が笑みの形に細められる。

『どうしたんだ?』

そう言いながら、その人物は10歳かそこらのディートハルトと視線の高さを合わせるため少し屈んだ。

『……みんな、おれの事嫌いだって』

『ああ、そうみたいだな』

穏やかな口調の答えに、ディートハルトは悲しくなった。

『それから、おれが迷惑な存在だって』

『うん』

ダークブラウンの瞳は、口調と同じく穏やかな視線でディートハルトを見つめている。

『……エトワスは?エトワスもおれの事嫌いだとか、迷惑なヤツだとか思ってんの?』

意を決して尋ねると、エトワスはすぐに首を横に振った。

『まさか』

その答えを聞いたディートハルトは、ウサギのぬいぐるみを片腕に抱いたまま、縋るようにエトワス腹の辺りに手を掛けその顔を見上げた。

『じゃあ!じゃあ、おれを助けて?おれをここから連れ出して!』

『……ごめん。それは、できない』

申し訳なさそうにそう言ったエトワスに、ディートハルトは違和感を感じていた。

『どうして?』

何故か急に湧き上がる不安を押さえながら、ディートハルトはそう尋ねた。

『分かってるだろ?俺は、死んでしまったからだよ』

ハッとして見ると、いつの間にかエトワスの服に赤黒い染みが浮かんでいた。腹部の辺りを中心にジワジワと広がり、やがて傷口から溢れだした液体は服を伝って流れ落ち石造りの床に溜まっていく。

『!』

悲鳴を上げるディートハルトに、エトワスは困った様な笑顔を見せた。

『俺は何も出来ないけど、代わりに迎えに来た人達がいるから、一緒に行ったらいいよ』

赤く染まった手が指し示す方に目を向けると、少し離れた霞のなかに、ぼんやりと複数の人影が浮かんでいるのが見えた。はっきりと見えているわけではないが、その者達が背に鳥のような翼を持っている事が分かる。その中の一人がディートハルトに向かい、手招きしていた。

『行きたくない。エトワスと一緒にいる!』

そう言ってディートハルトが首を振ると、エトワスはまた少し困ったように笑った。

『ダメだよ。俺といたら、ディートハルトも死んでしまうから。ほら、行って』

背中を軽く押され、ディートハルトは数歩よろめいた。それはほんの2、3歩だったはずなのに、気が付くと有翼の者たちのすぐ近くまで来ていた。

『エトワス!』

後ろを振り向くが、どこに行ったのか彼の姿は見えない。そして、自分の部屋に居たはずなのに、周囲はいつの間にか森の中のような木々に取り囲まれた場所に変わっていた。

『待たせすぎだ』

有翼の誰かが、ディートハルトの腕を掴みそう言った。ディートハルトは、後ろを振り向いたままエトワスの姿を探し続けていた。

『そんなに、地上の種族の事が気になるのか?』

腕を掴んだ人物が、呆れたような口調で言う。

『放せ!』

ディートハルトは有翼の者には目を向けず、自分の手を強く引いた。

『!?』

有翼の人物はあっさりとディートハルトの腕を掴んでいた手を放し、ディートハルトはその反動で地面に倒れ込んでしまった。

『寄り道しないで、さっさと帰ってくるんだ。本当にもう時間がない』

『……』

ゆっくりと体を起こし今まで喋っていた人物の方を振り返ってみると、そこには誰の姿もなく、一人きりでその場へ取り残されていた。しっかりと抱いていたはずのラビくんの姿も消えている。四方を見渡すと、目に入るのは背の高い木々や生い茂る植物だけだった。頭上を見上げると、伸びた枝葉の隙間から水色の空が見える。

『……』

しばらく不安げに辺りを見回していたディートハルトは、足下に淡い青色の花が点々と咲いている事に気付いた。

そして、その花を辿るように歩き始めた。


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