28青の呼び声 ~イシ1~
体が動かない。まるで金縛りにあったようだ。
しかも身体だけでなく、意識までもが重いような奇妙な感覚がしている。
ぼんやりと霞がかかったような頭の中に、ひっきりなしに何かが流れ込んでくるのを感じるが、それが何であるのか全く分からなかった。
しかし徐々にその感覚は音であると認識し、それと同時に複数の人物の発した言葉だという事が判別出来るようになってきた。
……毎度の事ながら迷惑な……
……ス~……ス~……
……振り回されるのは、ごめんだ……
……キコエテ イルダロウ?
……こいつのせいで……
……ワガ モトヘ……
……ス~……ス~……
……それだけじゃない……
……ヒナ ヨ
……ス~……ス~……
……エトワスが怪我を負ったのも……
音を言葉として認識出来てはいるものの、断片的で繋がりのない内容は意味を成したものとして理解する事は全くできなかった。しかし、ふと耳に飛び込んできた名前は、深く眠りの底に沈んでいた彼の意識を覚醒させた。
「……」
ディートハルトは気怠く重い体を動かしベッドから身を起こそうとした。鈍い頭痛がする。
「!」
金縛りにあうはずだ。狭いベッドで添い寝状態の翠の右腕が、仰向けに寝るディートハルトの腹の上に無遠慮にズッシリと乗っている。
『重い……』
翠の腕の下から這い出て身体を起こすと、すぐ近くの小さな木製のテーブルに着いたI・Kのリカルドとロイの二人組が、ディートハルトが目を覚ました事に気付きチラリと冷めた視線を投げる。
『何でこの二人がいるんだ?』
一瞬そう思ったが、すぐに、彼ら二人も無事で一緒にヴィドールまで来てビル内に潜入もしているという、翠達に聞いていた話を思い出した。ウルセオリナで別れて数か月ぶりに再会した事になるが、互いに無事を喜び合う事もなく無反応だった。
先程から聞こえてきた言葉は彼らの会話だったらしい。そして、その会話に混ざった規則的な音は、すぐ近くに居た翠の寝息だったようだ。
ベッド2つと長椅子が1つ、テーブル1つに椅子2つ。家具のせいで殆どスペースのなくなるその部屋にI・K5人が詰め込まれている。別に監禁されているのではなく、教会敷地内にある別棟の部屋が現在全て埋まっているため、やむなくそのような状態になっていた。ロイとリカルドは深夜だというのに起きているため部屋にもう一つあるベッドの方は空で、壁際に置かれた長椅子の上では毛布にくるまったフレッドが丸くなって眠っている。
彼は予定通りI・Kのブランドンやブルネットと共にアクアを連れ出す事に成功し、一足先にこの教会へ辿り着いていた。ディートハルト達がルシフェルの部屋で騒ぎを起こしたことでファイターや警備兵たちがそちらに集中していた事もあり、全く何の妨害も問題もなく脱出する事が出来ていた。宝剣を回収しエトワスと別れたE・K二人も何事もなく無事に戻ってきている。
「まあ、何にせよ。後はファセリアへ戻るだけだ。これ以上被害を受ける事はないだろう。と言っても、当人が自覚さえしていればの話だがな」
視線を話し相手の顔に戻したリカルドは強調するように語尾を強めた。
『おれが、迷惑をかけてるって言いたいのか……』
先程から聞こえていた言葉は、自分に対するものだったのだとすぐに気が付いた。
「それじゃあ、まだこれから先も振り回される可能性は大きいだろうな」
フンと嘲笑するように、ロイが冷めた口調で答える。よくある事だ。他人に嫌みを言われるのも罵られるのも慣れている。気にする程の事ではない。それよりも、頭痛が辛かった。
ディートハルトは翠を乗り越えてベッドを下り、二人には視線すら向けずにそのまま部屋を出ようとした。
「本当に気の毒だが、あそこまでくるとエトワスも物好きを通り越して愚かとしか言いようがないな」
リカルドの言葉にピタリとディートハルトの動きが止まる。
「何だ?何か言いたい事でもあるのか?」
ギロリと鋭い視線を向けているディートハルトを見返し、リカルドは口元に冷たい微笑を浮かべた。
「馬鹿はテメェだろ」
ディートハルトの言葉に、ロイがフッと笑う。
「分からないのか?彼は哀れだと言ってるんだ。お前なんかに関わったばかりに、今まで散々振り回されたあげく、こんな遠い異国の地で重傷まで負ってしまった」
「……」
「一番馬鹿なのはお前だ。分からないだろうから教えといてやる。みんなお前のせいなんだ。分かるか?今ここに来ているファセリアの人間は、望んでこの地に居る訳じゃない」
「おれは、来てくれなんて頼んじゃいない」
ディートハルトは唇を噛んだ。
「それなら、もう一度、実験体として”兄さん”のおもちゃに戻ればいい」
リカルドが冷めた口調でそう言った一瞬の後、ディートハルトは彼に飛び掛かった。
「!」
鈍い音と供にディートハルトの左拳は彼の右腕で受け流され、直後に腹部、続けて背中、頭の順に衝撃が走る。
「う……」
腹部を蹴られ漆喰の壁に叩きつけられた後、床に前屈みに崩れ落ちかけたディートハルトの胸倉を掴み上げ、リカルドは冷めた暗緑色の瞳で睨み付けた。
「リカルド、やめろ!」
目を覚ましたフレッドが止めようと立ち上がるが、傍らで見ていたロイがそれを制止する。
「周りの人間を振り回すのはいい加減にしろ。全ての元凶はお前だと自覚したらどうだ?俺たちが望んだ訳でもなくファセリアを離れこの地に居るのは、お前のせいだ。お前がいなければ、エトワスは怪我を負わなかった。キサラギだってそうだ。あのシヨウとかいうファイターだって職を失う事はなかった」
「……」
瑠璃色の瞳は氷のように冷たい怒りを湛えた視線で暗緑色の瞳を睨み付けていたが、何も言い返そうとはしなかった。
「陛下の気紛れで運良くI・Kになれたのかもしれないが、お前の様な奴は帝国兵に、ましてやI・Kには必用ない。幼稚で役立たずな上に、足を引っ張るだけだからな。体調が悪くて与えられた職務を全うする事も出来ないくらいなら、さっさと親元へ帰ったらどうだ?いい加減、身の程をわきまえろ」
嫌悪を込めた低く冷たい声と冷えた視線に、ディートハルトは反論する事が出来なかった。腹は立つが、彼の言葉を認めている部分も少なからずあるからだ。
「……お前ら、喧嘩するなら外でやれよ。真夜中にこんな狭い部屋で騒がれちゃ迷惑なんだよ」
ベッドの上に胡坐をかき、不機嫌そうな表情と声音で目を覚ました翠が口を挟んだ。一瞬、リカルドの手が緩む。しかし、リカルドの腕を振りほどこうと爪痕が残るほど彼の腕をきつく握っていたディートハルトの手の力も、不意に弱くなった。その瞬間、ディートハルトは強い吐き気を感じていた。
『え……?』
それから数秒後、体に違和感を感じた直後に世界が回っていた。
「!?」
急激にディートハルトの体が重くなり、リカルドは思わず手を放してしまった。重い音とともにディートハルトの体が床に落ちる。
「リカルド、お前……な、何も殺さなくたって!」
「馬鹿を言うな!いくら嫌っていても殺す訳ないだろう!」
青くなるフレッドに、流石に焦ったリカルドが反論した。
「……」
無言でベッドを下りディートハルトの脈と呼吸を確認した翠は、悲痛な表情を作るとリカルドの顔にジッと視線を注いだ。
「!?」
リカルドは血の気の引いた顔でディートハルトの傍らに膝を着く。
「……ふざけるな!生きてるじゃないか!」
「オレ、何も言ってないよ?」
翠は怒るリカルドを無視し、ディートハルトの頬を掌で軽く叩きながら名前を呼びかけた。しかし、反応がなかったため、“よっこらしょ”と、ディートハルトの体を抱え上げベッドに移動させた。
「エトワスが怒るだろうなぁ」
翠にチラリと視線を向けられ、リカルドが怯む。跡継ぎではないがルピナス地方の領主である伯爵家の令息のリカルドとしては、ウルセオリナ地方の公爵家次期当主であるエトワスとは友好的な間柄でありたいからだ。
「エトワスには関係ないだろう!?大体、こいつが……!」
「お前の方が喧嘩売ってたように聞こえたぞ。ってゆーか、俺とキサラギはともかく、お前らがファセリアを離れたのもこの国に来たのも、フレイクが理由じゃないだろ」
目を覚まして聞いていたフレッドが呆れた様に言う。リカルドとロイがファセリアを離れたのはブルネットに助けられたから、そして、船がファセリア大陸に上陸する機会を失ったのは魔物と怪我人が理由で、避難先の島からヴィドール大陸へ渡ったのは、偶然出会う事になったフレッドと翠が皇帝に与えられていた任務に加わるためだ。その任務は、ディートハルトの救出だけではなくヴィドールについて探ってくるという物もでもあり、二人はその事を目的に志願して来ていたはずだ。
「だが、いきなり飛びかかってきたのは、こいつだ!」
リカルドが指さすと、意外にもディートハルトは突然パッチリと目を開いた。そして、すぐにノッソリと体を起こしたため、リカルドは思わず身構える。
「……」
瑠璃色の瞳はしばらくそのまま空を見つめていたが、不意にその視線はリカルドを捉え、再び彼は飛びかかる……かと思いきや、そのまま素通りし、注目している4人の元同級生達を完全に無視するとフラフラとベッドを下りそのまま部屋を出て行ってしまった。
ディートハルトは、薄暗い廊下に出るとおぼつかない足取りで歩き出した。冷たい空気が吸いたかった。冷たい水が飲めたらもっといい。
「……」
気が付くと、自分が居た教会の別棟を出てそこから続く小さな中庭に面した短い渡り廊下に出ていた。辺りがまだ暗いところを見ると、夜明け迄にはまだ時間があるようだった。中庭の隅にある大きな木の根元には、今は蓋がされている地下へと続く階段がある。ディートハルト達がシヨウに案内され通って来た地下水路だ。
助けてくれると言ったシヨウは、本人がそう言った通り迷うことなく慣れた足取りで地下の通路を進み、短時間で目的地の西の教会の敷地内へと案内してくれた。
教会へ着くと、シヨウの父親だという祭司のサンヨウと、姉だという華やかな雰囲気の女性に出迎えられたのだが、その時僅かに交わした言葉の内容はもちろん、それ以後の事はあまり記憶がなかった。負傷したエトワスの事で頭がいっぱいだったからだ。
別行動していた他のメンバーは無事にそれぞれ目的を果たし、既に教会に着いていて、待機していたE・K達はエトワスの負傷を知って驚きはしたものの取り乱す事はなく、教会に滞在中だったルーサーの指示ですぐに冷静且つ迅速に対応し、サラとその両親は処置に必要であろうと思われる物を準備した。ベテランで経験豊富な医師ルーサーが滞在していただけでなく、元々、光の神の教会は、何かあった際に避難してきた者達を受け入れるだけでなく病院として使える様な環境にもなっていた事もあるが、E・K達の行動は、何も出来ずに呆然として泣くだけで、ただ運良く現れてくれたシヨウに助けを求める事しかできなかった情けない自分とは大違いだった。
ルーサー夫妻が教会で出来得る最善の処置を済ませると、サンヨウとサラの案内で、E・K達は教会近くの環境の整った病院へとエトワスを連れて行った。
その後、誰かが、ディートハルトに部屋で眠る様促してくれたのだが、それが誰であったのかは思い出せない。
「あれ?フレイク君。眠ってなかったのかい?」
廊下の柱の横にぼんやり立っていたところ、不意にそう声を掛けられた。振り返ると、短い黒髪に明るい茶色の瞳をしたE・K、ジルと、鳶色の目に緩くウェーブの掛かったオレンジに近い茶色の髪をしたE・K、マリウスの姿がある。
「エトワスは!?」
不安そうな表情で掛け寄って来たディートハルトに、声を掛けたジルが小さく笑った。
「変わりないよ。処置も無事に終わったし、落ちついた状態で眠ってる。護衛には今ライザさんが付いてるから、俺達は交代で休む事にして戻って来たんだ」
「君も休んでいた方がいいんじゃないか?」
薄暗いながらも体調が悪そうな様子に気付いたマリウスが、眉を寄せる。彼は、主と仲の良い友人を気遣って言ったのだが、ディートハルトはE・K達に責められているような気がしていた。つい今し方ロイやリカルドに言われた言葉のせいで、強い罪悪感を抱いていたせいもある。
「……」
「心配で、まともに眠れないか」
ディートハルトが無言で首を振ると、マリウスは苦笑した。
「じゃあね」
二人はそう言うと、自分達が借りている部屋のある別棟の方へ去っていた。
一人残されたディートハルトは、石作りの廊下の柱にもたれ掛かるようにして地面に座り込んだ。廊下の壁に取り付けられたランプの明かりが申し訳程度に辺りを照らしていたが、彼が居る場所まではほとんどその明かりは届いていなかった。
『おれのせいなんだ』
暗がりの中で膝を抱えて蹲る。頭痛に加え、胸の辺りがムカムカした。悔いているのか、腹を立てているのか、悔しいのか悲しいのか、自分がどんな気持ちでいるのかよく分からなかった。
『痛い』
それだけは、分かった。先程からずっと続いている頭痛の痛みとはまた違う種類の痛みだった。ただ、何が痛いのか……物理的に体が傷ついた痛みなのか、自分を嫌っている者達に向けられた言葉による胸の痛みなのか、それは全く分からなかった。それなのに、何かが痛い。泣きたいような気がするが、もの凄く腹が立っているような気もするし、笑いたいような気もする。何もかもが滅茶苦茶で気分が悪かった。
「ごめん、エトワス……」
項垂れて呻くように呟いた。
街灯の明かりを受け、赤く濡れた刃が冷めた光をぼんやりと放っていた。あれは夢ではない。悪夢のような現実だった。自分が傷ついた訳ではないのに、酷く辛い。そして、思い出すだけで恐ろしかった。
「ごめん」
もう一度呟く。
『おれは大事な事を忘れてた。”赤いヤツには近付くな”って自分で言っといて、何であの時思い出さなかったんだろう?』
自分が情けなかった。
「……そうじゃない」
ディートハルトは唇を噛んだ。
おれが軽はずみな行動を取らなければ、こんな事にはならなかったんだ……。
それ以前に……
おれがヴィドールなんかに連れて来られなければ!
『お前がいなければ』
リカルドの台詞が頭の中で再生される。それは彼だけが口にしたものではなく、過去に何度も聞いたものだった。
おれがいなければ……
おれがいるから、周りが迷惑してる。
『どこかに行ってしまえばいいのに』
そういえば、今まで”居ていい”と言ってくれた者は誰もいなかった。
……だから、おれは出ていったじゃねえか。
ダメなのか……?
何処に行っても、やっぱりおれは迷惑な存在なんだな。
どうしようもなく暗い気分に沈みかけたその時、ディートハルトは何者かの呼び声を聞いた。
「……?」
それが、つい先程目を覚ます前に聞いた、ロイとリカルドの会話と翠の寝息の中に混ざっていた声と同じものだという事に気付く。
「!」
同時にそれが音ではない声であると悟り、声の主はルシフェルだと思いかけたのだが、直後に違うという事にも気付いた。ルシフェルはセンタービルからは出ないはずだし、ルシフェルの声とは明らかに性質が異なっていたからだ。それは彼の声よりどこかもう少し親しみを憶えるような、それでいて酷く恐ろしいような、不可思議な感覚を彼に与えた。
「……」
強い頭痛を感じながらもディートハルトはゆっくりと立ち上がると、引き寄せられるようにその呼び声の主を捜し始めていた。
『……おれは、何をやってるんだ?』
礼拝堂に隣接する建物内の奥の小さな部屋に辿り着いた時、ディートハルトは自らの行動に気付き首を傾げた。その部屋には、野菜が入った籠や積み重ねられた木箱、古びた縄を巻いたもの、年季の入った農具等に加え剣や弓などの武器等、様々なものが雑然と置かれていた。どうやら倉庫のようだった。
『……寝ぼけてんのか?』
そう考えた時だった。
『……ヨ』
突然、背後からハッキリとした音声が聞こえたような気がして、ディートハルトはギョッとして振り向いた。
「…………」
そこには誰の姿もなく、代わりに木箱に立てかけられた複数の剣のうちの1つ――厳重に厚い布でグルグルと巻かれたものの一部が、ぼんやり青く発光していた。それはファセリア帝国の紋章が刻まれた皇帝家に伝わる長剣だったのだが、布で隠れていたためディートハルトは気が付かなかった。しかし、その布の形状と、青く発光しているところから、恐らくラズライトの飾られた剣であろう事は分かった。
『あの石か……』
青く光る石には、正直うんざりしていた。彼にとって、その石はあまり良い印象はない。近付くだけで何故か気分が悪くなり、触れた訳でもないのに彼の前でのみ粉々に砕け散ってしまう。そのせいで何度グラウカに責められたか分からない。ただ今回に限っては、先程目を覚ましてからずっと気分が悪い状態が続いているので、それがこの石のせいなのかどうかは分からなかった。しかし、青い光を眺めているうちにグラウカを思い出し、段々と腹立たしくなってきた。
『待ちわびたぞ』
八つ当たりで剣の包みをを蹴り飛ばそうと片足を引きかけていたディートハルトは、動きを止めた。
「……おれの耳、おかしくなってんのか?あー、あー」
ディートハルトは耳の調子を確認するため敢えて声に出してそう言ったのだが、その直後、今度は耳ではなく頭の調子を疑わざるを得なくなった。
『ようやく、我が声に耳を傾ける気になったか。セレステのヒナよ』
「!?」
元々大きな瑠璃色の目をさらに大きく見開き、ディートハルトは発光している剣の包みを凝視した。
「こ、コレが喋……るワケねーよな。馬鹿みてえ」
『我の名は、ルベウス』
「ふぅあっ!?」
妙な叫びを上げ、ディートハルトは大きく退いた。その拍子に背後の木箱にぶつかり、バランスを崩して尻餅をついてしまう。籠に山積みにされていた名前の分からない芋らしき野菜も転がり落ち、周囲にゴロゴロと転がった。
『今は精神のみの存在となっているが、以前はセレステとしての肉体を持っていた者だ』
誰かが自分をからかおうとしているのではないだろうか。そう考えたディートハルトは慌てて周囲を見回した。しかし、荷物の積まれたその部屋に人が潜めそうな場所は見あたらず、気配も全く感じられなかった。
『レウィシアとの契約に基づき、彼女の血を引く者を守り続けてきた』
レウィシアとはファセリアを建国した王の名だった。ファセリア帝国の人間で知らない者はまずいない。しかし、ディートハルトの注意を引いたのは別の部分だった。
『せ、精神のみの存在!?って事はユーレイかよ!?』
生きた人間の気配がしない訳だ。そう、妙に納得しかけてしまい、慌てて否定する。
『これは幻聴なんだ!』
『ヒナよ。我はずっとお前を呼んでいた』
呼ぶなよ!気味悪ィ!……思わずそう思ってしまいながら、ディートハルトは慌てて首を振った。
「けっ剣が喋るワケねえって!……もしかして、この剣に斬られた奴の怨霊が……いや、でも!おれがこの剣のせいで死んだヤツに恨みかうような事した憶えはねえから、幽霊なんかに呼ばれるいわれもねえし。おれは”ヒナ”って名前じゃねえし。ああっ違う!それ以前に、これは幻聴なんだ!」
ディートハルトは自分に言い聞かせる様に喋ると、一度大きく深呼吸した。相変わらず頭痛がするが、それどころではなかった。
『我は幽霊ではない。そして、名前を呼んでいるのでもない。”ヒナ”というのは、セレステの成長段階におけるごく初期の呼称だ』
『マズイ。さっき打ったせいで本気でおれの頭ヤバくなったのかもしれない。リカルドのせいだ』
ディートハルトはゴクリと唾を飲んだ。否応なしに聞こえる……というより、音として認識しているものかどうかも定かではない、脳に直接響いてくるような気もする不可思議な言葉の意味を理解するより、それは現実のものではなく、あくまで体調不良から来る幻のものだとみなすのに必死だった。鼓動が早くなってきているのを感じる。体を流れる血液まで熱くなったような気もする。
「やっぱおれ、す、睡眠不足なんだよな」
わざと声に出してそう言い、よろめきながらも立ち上がり、発光している剣の包みの前で回れ右をしてほとんど走り出すように立ち去りかけたところ、すぐに転がった野菜に足を取られて再び転んでしまった。その背後で”幻聴”はさらに言葉を続ける。
『ヒナよ、命を失いたくなければ扉の守護者に会い、アズールへ向かえ』
ディートハルトはドキリとして振り返った。”アズール”という言葉に憶えがあったからだ。”命を失いたくなければ”という前半部分より、”アズール”という語の方が衝撃的だった。数日前に見た夢の中で、今聞いている幻聴とは違う別の、”夢の中の声”がこう言った。
『お前は、セレステ……。アズールの民』と。
夢を見た直後には忘れていた言葉が、今聞いたばかりの幻聴によって、ハッキリとした言葉となって蘇る。
そして、ディートハルトは気付いた。”セレステ”、”アズール”、この言葉を自分は以前にも、しかも何度も聞いた事があるのではなかっただろうか……。いつも、何故か目覚めた時には忘れてしまっていた夢の中で、今聞いている幻聴のような、しかし別の複数の声が、幾度と無く囁いていた言葉ではなかっただろうか。
『”アズールへ帰っておいで。早く……”』
以前見た夢の中では全く理解できなかった声は、こう言っていたのではなかっただろうか。……何故か、今そう感じた自分に気付くと、ディートハルトは強い不安を感じ、眉根を寄せて頭を振った。
「アレは単なる夢なんだ!何も聞こえねえ!!」
頭痛がさらに酷くなり、頭の芯に突き刺さるような鋭い痛みが走る。たまらず、ディートハルトはその場に座り込んだまま頭を抱えた。
「……おれは、ファセリアの人間なんだ!……化け物なんかじゃねえ……声なんかっ……!!」
『ヒナよ、我らを拒むな。そうやってお前は、今までにどれだけの仲間のイシを消滅させた?』
地面に蹲ったディートハルトに、静かだが責めるような声がそう語りかける。
「何の事だ!?知らねえよ!おれは何もしてない!」
ディートハルトはたまらず叫んだ。
『ヒナよ、アズールへ向かい、一刻も早く眠りにつけ。さもなくば、近い将来死ぬことになるぞ』
「うるせえっ!黙れっ!」
幻聴は、宥め賺すように言葉を続ける。
『扉の守護者達はレテキュラータの森に住む。守護者達に現在の扉の場所を尋ねるがいい』
「幽霊のクセにおれに構うな!……おれは……」
おれは……もうすぐ、死ぬ……?
「ね、大丈夫?」
突然肩を掴まれ、ディートハルトはハッとして顔を上げた。いつからそこにいたのか、屈み込んだサラが怪訝そうな黒い瞳で覗き込んでいた。
「どうしたの?」
サラが小首を傾げると、ディートハルトはしばらくしてから、ゆるゆると首を横に振った。
「向こうの部屋に行きましょうか?」
「……」
ディートハルトは、恐る恐る剣の方を振り返ってみた。
「どうかした?」
剣は光ってはいなかった。静まり返り、幻聴も聞こえない。
やはり、幻だったのだろうか……そう、安堵しかけた時だった。
『ヒナよ、急ぎ我の言葉に従え』
再び響いた幻聴に、ディートハルトはビクリと体を震わせた。
「大丈夫?」
「何でも……ない」
呟くように言うディートハルトに、サラはスッと手を差し出した。
「さあ、行きましょう」
無言で座ったままのディートハルトに、サラはハーブティーの注がれたガラス製のティーカップを手渡した。
「どうぞ、飲んで。落ち着くわよ」
湯気と供にほんのりミントの香りがする。一口飲んでみると、香りだけでなく仄かに爽やかなミントの味がして、たった今体験したばかりの事は悪い夢だったのではないかという気になり、ほんの少しだけ気分が落ち着いた。そして、これもまたこのお茶の効能なのか、頭痛も和らいだような気がする。
「ラファエル君だったわよね。ほんっとに可愛いわねえ♪」
サラはニコニコしながらディートハルトの向かい側の席に着いた。
「お化粧のしがいがありそうねえ。コーラルピンクのグロスなんて似合いそう♪」
そう言う彼女は、眠っていたところをディートハルトの声で起こされたため化粧はしておらず、全くの素顔だった。着ているものも昼間着ているような体のラインがはっきりと分かる露出度の高いものではなく、着心地の良さそうな綿で出来たゆったりとしたデザインのワンピースで、肩から淡いグリーンの薄手のショールを羽織っている。
「ベビーピンクも捨てがたいけど。ああ、でもやっぱり、いちごみるく系かしら~」
グラウカらの元から逃げてきたつもりが、また新たに別の類の”実験体”にされるかもしれないという状況に気付きもせず、ディートハルトは非常に楽しそうなサラの言葉を他人事のようにぼんやりと聞いていた。
「ファセリアの兵士だっていうから一体どんなイカツイお兄さんだろうって思ってたんだけど、こんなに可愛いんじゃ、彼が一生懸命になってるのも納得だわ」
「……」
ディートハルトが殆ど反応を示さないので、サラは近くの長椅子に横になりグッスリと眠っている弟に視線を投げ、しばらく眺めてからフウと溜息を吐いた。
「あれでも、昔は小動物みたいで可愛かったのよ。……知らないうちに巨大化しちゃったけど。何を食べてあんなに育ったのかしら?」
『小動物?』
ディートハルトは、どうでもいいと思いつつ、”可愛かった”というシヨウの幼少時代を思い浮かべようとしたが、どうしてもイメージが浮かんでこなかった。
「可愛いリボンがたくさんあるのよ。付けてあげよっか?」
「遠慮します」
反射的にディートハルトは即答していた。
「ね、ラファエル君。さっきは、どうしたの?」
急に話題が代わり、ディートハルトは面食らったようにカップの中のハーブティーに視線を落とした。
「誰かと喋ってたみたいだったけど?」
ドキリとしてディートハルトは視線を上げた。まさか、サラも”幻聴”を聞いていたのだろうか……。
「って言っても、私には貴方の声しか聞こえなかったんだけど」
「……」
「幽霊って言ってたわよね、見たの?」
『どうせ言っても信じねえだろ……』
ディートハルトは内心そう思いながら、矛盾している事に気が付いた。
『馬鹿だな、おれ。あれは”幻聴”だったっていうのに、おれが信じてどうすんだ』
自ら否定しているはずの出来事を、他人に信じて貰えるかどうか等と懸念している自分に気付き、情けなくなる。
「見たってゆーか、聞いたんだ」
他人にも、それは夢だと否定してもらいたい。そういった思いで口を開いていた。
「聞いた?」
* * * * * * *
シヨウが目を覚ますと、いつになく真剣な表情をした姉が、何やらディートハルトと話をしている最中だった。
「おれ、風邪引いてから変なんだ。前からよく変な夢は見てたんだけど、なんか最近ちゃんと眠れたような気がしないし、いつも体が怠くて……疲れすぎなのかも。そのせいで妙な声まで聞いたってゆーか、自分でもヤバイって思うんだけど……笑えるよな」
たった今体験したばかりの”幻聴”の出来事を話し終え、ディートハルトは半ば自嘲するようにそう付け加えた。
「レテキュラータ王国に、行ってみたら?」
当然、信じはしない。そう思っていたディートハルトは、唖然としてサラを見た。
「え?でも、おれは……」
「行ってみたら、幻聴かどうか確かめられるでしょ?レテキュラータに扉の番人さん?が、いなかったら、ラファエル君の思ってる通り夢とか幻とかだったって事だし、そうしたら安心するじゃない」
「だけど……」
「これから先も、ずっと気になってるって状態は嫌でしょ?」
「でも……」
「ラファエル君」
サラは幾分厳しい口調で、煮え切らないディートハルトを呼んだ。
「もしも……これは、あくまでも仮定として聞いてね。もしも、ラファエル君がレテキュラータに行かなかったばかりに、その剣の幽霊が話した通り、若い身空で死んじゃったとしたら……」
ディートハルトは何か言いたげに口を尖らせたが、何も言わなかった。
「そうしたら、悲しむのは誰ですか?」
「へ?」
ディートハルトは思いっきり間の抜けた表情で、サラの顔を見た。
「へじゃ、なくて。誰ですか?お父さんやお母さんが……」
「いや、おれ、親っつーか、家族とか親戚とかもいねえし」
困ったような表情のディートハルトに、サラは両手で自分の口を押さえた。
「まあ、ごめんなさい。知らなかったから。でも、家族とか親戚以外にもいるでしょ?」
「おれ、嫌われてるから、誰も悲しまないと思う。おれがどうなろうと、どうでもいいって感じじゃねえかな。ってゆーか、むしろ、いなくなって良かったって思うと思う」
淡々と答えるディートハルトを、サラは呆気にとられたように見ていた。
「本当にそう思うの?」
「ああ」
当然の事のように即答で肯定され、サラは困ってしまった。彼の交友関係を知らないので、それ以上言及することは出来ない。
「ラファエル」
それまで黙って姉とディートハルトの様子を観察していたシヨウが、突如話に割り込んできた。
「話はよく分からねえけど、お前が死んだら少なくともあの研究員、じゃなかった、本当はファセリアの兵士だって言ってたな……あいつ、ジェイドって奴は悲しむと思うぞ」
「え……」
ディートハルトは、シヨウはいつ目を覚ましたのだろうと思いつつ、その言葉に驚いて顔を見上げた。自分の腕に顔を乗せずっと同じ姿勢で眠っていたせいで頬に赤く布の皺の跡が付き奇妙な模様が描かれているが、その表情は真剣だった。
「変だと思ってたんだ。研究員のくせに、やたらとお前の事を気に掛けていたからな」
「エトワスは、誰にでも優しいから……」
俯いてそう答えながらも、ディートハルトは少し胸の奥が温かくなったような気がしていた。
「その彼に、泣いて欲しい?」
再びサラが尋ねた。
「……」
ディートハルトは困ったような表情ながら、首を横に振った。シヨウの言う事がもし本当だとしたら、唯一自分の事を気に掛けてくれているかもしれない人物を悲しませるのは嫌だと思った。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
そう言うとサラは立ち上がり、部屋の隅から巻かれた紙の筒を探し出すと、テーブルの上に広げた。
「ここが、レテキュラータ王国ね。船で行くのが一番早いわ。ヴィドールからも船は出てるから、普通に客船に乗るのが一番早いと思うわ。夜が明けたら、早速ファセリアの人達に話をしておいて。私の方もすぐに乗船の手配をしといてあげるから」
着々と話が進んで行く様子に呆気にとられていたディートハルトだったが、不意に我に返ると焦ってサラを止めた。
「あ、でも……おれ、船賃が無くて……。と言うか、全く金は持ってないんだ」
ディートハルトの言葉に、サラが笑う。
「身一つで攫われたんでしょ?知ってるわ。知り合いの船だから大丈夫よ。何とかするわ。それに、貴方とアクアちゃんの救出に協力する事になった時に、事前に報酬は貰ってるのよ。あとね、今回、センタービル内の情報もたっぷり貰っちゃったし。レテキュラータ行きもオマケで付けてあげるわ」
「あの……この話、誰にも言わないで欲しいんだ」
「え?どういう事?」
サラはキョトンとして首を傾げた。
「おれは一人で行く。だから、ファセリアの奴らには誰にも言わないで欲しい」
「どうして?」
サラが尋ねると、ディートハルトは少し俯きながらボソボソと答えた。
「言うと迷惑になるから」
「そうは言ってもねえ」
「勝手な事を言ってるのは分かってる。……でも、個人的な事だし、おれは一人で行かなくちゃいけないんだ」
困り果てたような表情をしたサラは、何か思い付いたように急に笑顔に変わった。
「じゃあ、シヨウ君も一緒に連れて行って。それならいいわ」
「誰にも迷惑をかけたくないんだ。だから、行き方だけ教えて貰えたら、おれは一人で行ってくる」
頑なに言い張るディートハルトに、サラは苦笑した。
「それはダメ。どう見ても一人じゃ無理そうだもの。本当は、出歩くのも止めたいくらいなのよ。それに、迷惑になるって言うけど、どっか途中で倒れちゃったりしたら、かえって知らない人にまで迷惑かけちゃうのよ?」
「……」
悔しげに俯くディートハルトを、サラは『困ったコねえ』とでも言いたげに見ていたが、不意に傍らに立つ背の高い弟の顔を見上げた。そして、無言で『言いなさい』と促す。
「あ?」
サラは、目でチラチラとディートハルトの方を見た。
「あ!あぁ。オレが一緒に行ってやるよ。どうせ、暇だしな」
シヨウが少々投げやりにそう言うと、ディートハルトはハッとして顔を上げた。
「ゴメン、おれのせいで……」
瑠璃色の瞳が罪悪感でいっぱいになっている事に気付くと、シヨウは困ったように視線を彷徨わせた。
「あっ、いやぁ、別に、暇なのはラファエルのせいじゃ……」
フラフラと揺れる視線は、姉の黒い瞳が責めるように自分を睨み付けている事に気付く。しかし、気の利いた言葉は出てこない。
「ううぅあ~……う~……あ!暇とか関係なく、実は俺も前からレテキュラータ王国って行ってみたかったんだ!旅行大好きでさ!」
そう言って、シヨウはハハハッとわざとらしく笑う。
「ちょうど良かったわね。じゃあ、出発は準備出来次第、すぐって事でいい?」
口をパクパクやって適当な事を言っている弟を一瞥し、サラはディートハルトに尋ねた。
「もうしばらく待って欲しいんだ」
エトワスが目を覚まし、無事だという事が分かるまでは、この教会を離れる事はできない。
「じゃあ、朝になったら船の手配だけしといてあげる。もちろん、ファセリアの人達には内緒でね」
サラは、ノーメイクながら充分長い睫に縁取られた瞳でウィンクして見せた。
「出発は、ラファエル君の都合が良くなったらそう言って頂戴」
「わかった。ありがとう」
「ちょっと待った」
話が終わり、立ち上がった二人をシヨウが止める。
「行くのはいいけど、レテキュラータまで一体何しに行くんだ?」
眠っていたため、彼は話の内容が掴めてはいなかった。
「それは……」
再び幻聴の話をしなければならなくなり、ディートハルトは少し躊躇ったように言い淀んだ。
「まあ、じゃあそれは後で教えてくれりゃいい。それより……」
実は目を覚ました時から気になっていて、どうしても聞いておきたい事が1つあった。
「その頭は、なんだ?」
シヨウの視線の先には、左右のサイドの髪を少しとり、細い空色のリボンを結んだディートハルトの姿があった。
「!」
忘れていたのか、ディートハルトは慌ててリボンを取ろうとした。しかし、すかさずサラによって阻まれる。
「かっわいいでしょ~!?ちゃんと瞳の色に合わせたのよ♪♪」
指摘される事を待っていたかのようにはしゃぐサラに背後からギュッと抱きしめられ、ディートハルトはほんのり目元を染めている。よくよく見ると、リボンを結んでいるだけでなく、サラサラの金色の髪はそれ程長さが無いにも関わらず、器用にも丁寧に編まれていた。
『可哀想に。抵抗できなかったんだな』
彼の姿に幼い頃の自分を重ね見たシヨウは、少し切なくなった。
もしかすると、あの頭とプライドを犠牲に深刻な(多分)話を聞いてもらったのかもしれない。
『それにしても……』
妙に似合っているように見えるのは気のせいだろうか……。まじまじと観察していたシヨウは、あるものを思い出していた。
『似てる……』
初めて給料を貰った時、12日間と半日悩んで自制したもの……センタービル近くの公園で保護団体が里親を募集していた生き物……涎まみれになったウサギのぬいぐるみをズタズタに引き裂き、腹部からはみ出している中の綿を引きずり出して、無邪気に遊んでいた耳の垂れた子犬も、両耳にちょうどこんな風に空色のリボンを付けていた。
「……」
何故かどこか遠い目をして自分を見ているシヨウに、ディートハルトは僅かに寒気を感じていた。