26黒い天使 ~決裂2~
脱出作戦決行の日。作戦開始予定の午前2時より約15分前――。
ファイターのシヨウは、研究室が並ぶ関係者以外立ち入り禁止のフロアをビクビクしながら歩いていた。ここへ来るのは2度目だったが、前回同様ラファエルも一緒だった。そして、今回は同じファイターの翠もいる。彼はシヨウのように辺りを極端に警戒している様子はなかったが、珍しく少し不機嫌そうだった。
“ラファエル”が記憶を取り戻した日の翌日、エトワスの連絡を受けた潜入中のE・Kがビル内に散っている全I・K達と接触し、さらにその翌日、休みだった翠がラビシュ西の外れの教会に行き待機中のライザやブルネットにも作戦の実行を伝え、改めてI・K達が最適な脱出ルート等を導き出し、10日程経った現在、全ての準備が整っていた。
ファイターに化けたブルネットも既にフレッドの手引きで潜入済みで、予定通りアクアの救出はフレッドとブルネットが、ディートハルトは翠が、そして、ラズライトの飾られた剣を回収する役目はエトワスが担当する事になっている。
作戦実行の開始時刻は午前2時。今のところ作戦は順調……と言い切るには問題があった。
「やっぱり、マズイんじゃないか?戻った方が……」
「何言ってんの~、オレは止めたよなぁ?それでもラファエルについて行くっつったのは誰だっけ?今更言っても遅いんだよねぇ」
少し苛立っている様子の翠の言葉に、シヨウは自分の不運を呪っていた。明日は休みのため、たまたまこの日は遅くまでファイターの仲間たちと酒を飲みながら3階の食堂で騒いでいたのだが、ご機嫌のまま11階のオアシスフロアまで酔い覚ましにノンビリ歩いて行って、そのままプールでひと泳ぎしてみてもいいかな等と考えながら階段を上っていたところ、何やら言い争っているらしい翠とラファエルに7階の階段の途中でばったり出会ったのが事の始まりだった。
『何やってるんだ?こんなところで』
単純にそうシヨウが疑問を口にすると、『何ていいところに来てくれたんだ!』と翠はシヨウの肩に手を掛け、『ちょっと聞いてよ』と話し出した。
『ラファエル君がさぁ。これからランクAのとこに行くって言ってきかないんだよね。こんな時間に。止めてやってよ』
翠の話は事実だった。センタービルから脱出するという作戦開始の20分前になり、どういった心境の変化があったのか、突然ディートハルトが『ルシフェルの所に行ってくる』と言い出していた。
『は?』
7階にある“RANK-X”の部屋で、脱出のためディートハルトと二人待機していた翠は彼の言葉に一瞬耳を疑った。
『だからさ、おれは、ちょっと寄るとこあるから出て来るけど、すぐ戻るから』
『トイレなら、さっさと……』
『ルシフェルんとこ』
思わず大きな声を上げそうになるのを堪え、翠は口元だけで微笑む。
『”ラファエル”君。キミさぁ、まさかまた記憶喪失?エトワス君に“おれは、化け物なんかじゃねーんだ。調べる必要なんかねえ”って言ってなかったかな?』
まだ調べたい事があるなら待つと言ったエトワスに対し、文句を言ったのはディートハルトだ。
『別に、その関係の話しに行くとかじゃねえよ』
少しムッとしながら答えるディートハルトに、翠はきっぱりと言った。
『回収物の勝手な行動は、認めません』
『すぐ戻るって。予定時刻までに合流すりゃ問題ねえだろ?』
『問題あるから言ってんの。あのねぇ、そうやって自分勝手な事やってるから攫われてこんな外国にまで来ちゃったんでしょーが』
『そ、それとこれとは関係ねえだろ!それに、今回は、こうやってちゃんと事前に連絡してんじゃん!』
ディートハルトにとっては忘れたい過去の話を持ち出されて恥ずかしかったのか、それとも言い返せなくて悔しかったのか、頬をほんのり染めて声を上げる。
『とにかく、2時になったら作戦通りオレと一緒に来てもらうから、そのつもりで。ディー君が嫌でも、ここを出るまではオレに従ってもらうんで。こっそり逃げてルシフェルんとこに行こうなんて考えんじゃねえぞ』
脅すような口ぶりの翠に、ディートハルトは怒って彼を睨み付けた。
『命令すんじゃねえよ!ってゆーか、おれはガキじゃねーんだぞ!アクアならともかく、何でおれまでお前に護られて一緒に仲良く逃げなきゃならねーんだよ?』
『そーゆー問題じゃねえっつーの。あくまで回収物だって言ってんだろ』
翠は心の底から、フレッドと担当を逆にしてもらえば良かったと思った。
『大丈夫。すぐ戻るから』
そう言って強引に部屋を出たディートハルトを、もちろん翠はすぐに追った。
それから階段でシヨウに遭遇するまで、行くの行かないので揉めていた。そのような訳で、翠にとってはシヨウの登場は好都合だった。当然彼は事情を知らないが、真夜中に立ち入り禁止エリアに居るRANK-Aの元へ行くという”ラファエル”を止めないわけがない、そう考えたからだ。
『本当か?ラファエル。別に、今いかなくてもいいだろ?明日グラウカさんに頼んで連れて行ってもらえばいいじゃないか』
予想通りのシヨウの言葉に、翠は横で頷いている。
『(クソッ、翠のヤツ!)』
ディートハルトは心の中でそう吐き捨てていたが、ここで諦めるつもりはなかった。
『僕は今行きたいんだ。兄さんは怖いから頼みたくないし。だから、行ってもいいよね?』
翠には何を言っても無駄だと悟ったディートハルトは、シヨウを自分の味方に付けることにした。
『(”ボク”?怖いからぁ??)』
翠は白い目でその様子を見ている。
『いや、あいつも、この時間じゃもう寝てるんじゃないか?』
『そうそう。早く”ラファエル”君も、部屋に帰って眠りなさい』
期待通りの展開に、翠はにやついている。
『どうしてもルシフェルのところに行かなくちゃならないんだ。じゃあ、ねえ、シヨウも僕に付き合ってよ?ルシフェルがもう寝てたら、大人しく部屋に戻るからさ。ねえ?』
自分を一心に見上げる大きな瑠璃色の瞳に、シヨウはどうしたものかと考えた。彼は動物や子供等といった、こういった類の目をするものがどうも苦手だった。
『ね、シヨウ、一緒に来てよ?』
縋るような瞳が、ジーッとシヨウを見つめている。
『う~~ん。仕方ないな。じゃあ少しだけなら』
『(マジかっ!?)』
翠は、予想に反してあっけなくディートハルトの視線に負けてしまったシヨウを唖然として見た。
『ちょっと、ちょっと!シヨウ君さぁ。マジでいいの?立ち入り禁止のフロアを彷徨いてるとこを見付かったらヤバイんじゃないの?』
『見付からなきゃいいんだよね、シヨウ』
そう言いながら、ディートハルトは早速シヨウの右腕を掴み、グイグイと引っ張って上の階へ上り始めた。
そして、現在。午前2時より13分前――。
作戦開始直前に、立ち入り禁止区域行きを強行したディートハルトと、それに巻き添えを食った形のシヨウと翠は、目的地のRANK-A、ルシフェルの部屋へと辿り着いていた。
「……行ってくる」
数秒間、躊躇するように扉の前で立っていたディートハルトは、意を決したように翠とシヨウを振り返り、そう言いながら金属の扉に手を掛けた。しかし、翠がそれを止める。
「悪いけど、オレらも行くから。ちなみに8分間以内な。1秒でも過ぎたら引きずってでも連れ出すから忘れないように」
腕時計に目を落としながら言う。
「分かった」
「やあ、ラファエル」
扉は音もなく開き、前回と同様にディートハルトが来る事を待っていたかのような様子のルシフェルが、ゆっくりと部屋の奥の闇の中から姿を現し3人を迎え出た。今日がたまたまそうなのか、それとも夜寝るときはいつもそうしているのか、ルシフェルは長い黒髪を肩の辺りで一つに束ね緩く三つ編みにしていた。
「へぇ。マジで羽根があんのな」
呑気に小さく独り言を呟いている翠とは対照的に、突然ディートハルトはその場を逃げ出したい衝動に駆られていた。初対面の時の記憶が蘇ったせいだろうか。そう考え何とか堪えると、ニッコリ微笑んでいるルシフェルに「コンバンハ」と自分も無理矢理作った愛想笑いを浮かべて返したのだが、目が笑っていないので笑顔というものにはほど遠かった。
「また、君の方から来てくれるなんて嬉しいよ。こんな時間に、大勢で」
ディートハルトの背後に立つ翠とシヨウを一瞥しながらルシフェルが言う。
「ですよね。夜分遅くにすみません」
と愛想笑いを返す翠とは真逆の雰囲気で、ディートハルトは黒い翼を持つ男をキッと見据えて言った。
「何言ってやがる。あんたが呼んだから来たんだろ」
この言葉には翠もシヨウも驚いてディートハルトの方を見た。
「素直に耳を傾けてくれて嬉しいよ」
ルシフェルは満足そうに笑う。ディートハルトは”ディートハルト”としての記憶を取り戻した数日後から、ルシフェルが彼に向かって呼びかける声を感じていた。
『また、僕の所においでよ……』
そう囁くように響く声を初めは空耳だと思っていた。しかし、その頭の中へ直接響いてくる音ではない声が不思議な力を持ったルシフェルの仕業によるものだという事に気付き、煩わしいと感じたものの気に掛けないよう努めていたのだが、聖域を脱出する直前になってその呼び掛ける言葉の内容がどうしても無視する訳にはいかないものへと変わったため、こうして無茶を承知でこの場へやって来ていた。
「おれは、自分の国に帰る」
「何言って……」
ディートハルトの発言に、翠は呆気に取られて彼を見た。帰る直前になってルシフェルと話をしたいと言うから、当然3種族関連の話を聞きたくなったのだと思っていた。自分は関係ないと言っていても、やはり気になるのだろう。そう思ったからこそ、ルシフェルの元へ行くという全く歓迎出来ない要望を、シヨウに邪魔された事もあったが気遣いから深く追求する事も無く最終的に受け入れた。しかし、ディートハルトは“ルシフェルが呼んだからここへ来た”と、そう言っていた。ルシフェルが彼にどう呼びかけたのかは知らないが、こっそり脱出する計画を台無しにするような事を言ってどうするのだろう。そう、翠は溜息を吐きたいのをかろうじて堪えていた。シヨウだけなら、何とか誤魔化してさっさとこのビルからディートハルトを連れて抜け出せると思っていたのだが……。
「絶対に邪魔はさせねえ。でも、もし、あんたにその気があるんだったら、一緒に来るか?」
『ハァ!?』
続けたディートハルトの言葉に、翠は呆れ果てて今度は声すら出なかった。
「こいつ、何言ってるんだ?」
コソッと尋ねて来たシヨウに、翠はげんなりと首を振った。
「分かんねえ……」
「君の国って、空の都の事?」
ルシフェルが僅かに首を傾げると、編み込まれていない幾筋かの長い黒髪がサラリとその肩を滑った。
「寝ぼけてんじゃねーよ。ンなワケねえだろ」
そんなものあってたまるか。とでも言いたげにディートハルトは鼻をならす。
「なんだ、残念だな。君が案内してくれたら、グラウカさん達が探す手間が省けてありがたいんだけどね」
「あのな、ルシフェル。あんたもグラウカ達の話を信じてんだろうけど、昔滅びた人間の都だとかって、まあ、夢を見るのは勝手だしおれには関係ねーけどさ、ここに居てもいいことないと思うぜ。ってゆーか、あんただってここから出たいって思ってんだろ?タグ付きの実験動物扱いに加えて何年も監禁状態なんて、冗談じゃねえもんな。アクアが、あんたはこの部屋から出られないって言ってたけど、どうすりゃいいんだ?出るのを手伝ってやってもいいんだぜ?」
ディートハルトの言葉に、ルシフェルはクスクスと笑った。
「関係ないって言い切ってる割には、親切な事言うんだね」
『ホントに、どういう風の吹き回しなんだか……』
翠は腕時計に目を落としながら、そう心の中で呟いていた。
「でも、がっかりしたよ。せっかく本当のラファエルに会えたと思ったけど、あの時と何も変わっていないみたいだね」
つまらなそうに言うルシフェルの血の様に赤い瞳に見据えられ、ディートハルトは一瞬背筋が冷たくなったような気がした。
「ざ、残念だったな。前も言った通り、おれは、あんたらとは違う普通の人間だ。羽根が生えてくるとでも思ったのか?いくらあんたが待ってようが、おれは変わんねえんだよ。だから、あんたらと同類の仲間になる事なんて絶対にありえねえ」
萎縮してしまいそうな気力を奮い立たせ、わざと強気な態度を取りながらディートハルトは瑠璃色の瞳でルシフェルを睨み付けた。
「って。もう、そんな事はどうでもいいだろ。時間がねえんだよ。行くのか行かねえのか、はっきりしろよ」
当然、ルシフェルは「行く」と答えるとディートハルトは思っていた。ルシフェルに比べるとごく短期間とはいえ同じ境遇に陥った身だ。それがどれだけ屈辱的なものかは身に沁みて分かっている。これから先もずっと、此処でグラウカらのおもちゃとして生きていかなければならないのであれば、自分なら死んだ方がましだと思う。そのため、返って来たルシフェルの言葉はディートハルトを驚かせた。
「君は、そんな事を言うためにわざわざ僕のところに来たのか。……可愛いね、君は」
ルシフェルは赤い瞳でディートハルトを見据え、薄っすらと笑みを浮かべた。
「!?」
「ラファエル、君は、君たちがここを抜け出す事に僕が嫉妬してるとでも思ったのかい?誤解してるみたいだから言っておくけど、僕は自分の意思でここに居るんだ。……ああ、それから、僕は自分と同じ境遇の仲間が欲しい訳でもないよ。僕が欲しいのは、空の種族として覚醒した君の能力なんだ」
淡々と話すルシフェルの言葉を聞き、ディートハルトは苛立ちに唇を噛んだ。今になって自分の判断が誤っていたことに気付いていた。
「お前が何を企んでるのか知らねえけど、もし、もしも仮に、おれが空の種族ってヤツの力を持ってたとしても、そういう意味であんたと仲良くやってく気はねえよ」
ルシフェルはその言葉を聞くと、苦笑したように首を振った。
「そうじゃない。仲間はいらないって言っただろ。協力を要請している訳でもないよ。それは、グラウカの考えだよ。現在の人間達には無い、3種族だけが持っていた特殊な属性の能力を使える、尚且つ思い通りに動かせる駒が欲しいのは、グラウカだ。僕やアクア、君を従順な人形にしたがってるのはね。ああ、そうか。そうなんだね」
突然、ルシフェルは声を上げて笑い出した。
「随分、物分かりが悪いと思ったら、そうか。これも君には教えてあげなきゃならないんだな」
笑いを堪えながら、ルシフェルはディートハルトの前まで歩いて近寄ってきた。
「……」
ディートハルトは無意識のうち身を引いていた。同時に、警戒しているのか、後ろにいた翠がディートハルトの横に並んで立つ。
「前も言ったけど、僕の翼は堕天の印で空の種族の力は全くない。僕は地底の種族の血の力が強いんだ。グラウカ達は文献に記されている事しか知らないから気付いていないんだけど、闇に属する地底の種族と光に属する空の種族は、相反する存在で互いに天敵同士でもあるんだ。つまり、より能力の大きい者が相手を滅ぼす、って関係なんだ。だから、ほら。空の種族の血を持つ君は、僕といると気分が悪いだろう?僕の事を怖いって思うだろう?同じ様に闇属性のランクCやドールと対峙した時もそうだったろ?不安定で眠っている君の能力が、覚醒した時どれ程のものなのかは分からないけど、少なくとも今は僕の能力の方が上なんだよ」
ルシフェルは異様な笑顔を浮かべ、楽しそうに話している。
「それから、これは知ってるかな?地底の種族は自分以外の相手の能力を、捕食することで吸収して自分の物にする事が出来るんだけどね、地底の種族にとって空の種族は単に天敵っていうだけじゃなくて、捕食対象であり至高の獲物でもあるんだ。分かりやすく言えば、酒や麻薬に近いのかな。その血も肉も、地底の種族にとっては最高に美味しいものらしいよ。空の種族としての能力が大きければ大きい程ね。僕はこれまで、この吸収っていう地底の種族の力には興味がなかったんだ。だって、単純に考えて気持ち悪いだろ?生きたまま相手を喰うなんて。それに、吸収に失敗した時の末路は悲惨なものだしね。だけど、君が聖域に現れて気が変わった。目の前に、最高に美味しそうな料理が用意されているようなものだからね。本当に、すごく良い香りがするんだよ」
そう言って、ルシフェルは目を細め薄っすらと笑う。
「だから、是非吸収してみたいんだ。これで僕が君を欲しいって言ってる理由が分かっただろう?」
脅すだけ脅した後、アハハと軽く笑うルシフェルとは対照的に、呆然とした表情で黙ってルシフェルの言葉を聞いていたディートハルトは、その顔から血の気が引いていた。
『……吸収?獲物?』
ディートハルトの脳裏に、”地底の種族のなれの果て”と呼ばれていた怪物の姿がちらつく。彼に向かい、あの怪物も確かにこう言わなかっただろうか?『喰わせろ』と。
「でも、おれは……違う……」
ゆっくり首を横に振りながら、ディートハルトは呻くようにそう呟いた。頭の奥に鈍い痛みが走る。それと同時に、ルシフェルが音ではない声で彼に向かって囁いた言葉も蘇った。
『絶対に君をここから逃がさない』
『何か企んでいるんだろ?僕のところに来ないなら、みーんなグラウカさんに話しちゃうよ』
『君を連れて行こうとするなら、君の仲間にも容赦はしない。全員、魔物の餌にしてあげるよ』
それらは全て、ルシフェルの言った通り自分達に対する嫉妬から出たものだと思っていた。潜入しているファセリア人の事や計画をどこまでルシフェルが知っているのかは分からないが、自由の身となってヴィドールを出ていく事が羨ましいのだと思っていた。それなら、彼もここから助け出してやれば……。ディートハルトはそう考えた。しかし、それは全くの思い違いだった。ルシフェルは、自分のように実験体としての立場を嫌っているわけでも孤独を感じていたわけでもなかったようだ。ルシフェルの赤い瞳を見上げながら、ディートハルトはそれが真実であることを痛感し強い後悔の念を抱いていた。
『他人に関わる事も干渉される事も嫌いなクセに……。何やってんだ、おれは……』
「今更遅いけど、僕の言った言葉は文字通り素直に解釈してくれて良かったんだよ」
自分に対する苛立ちと後悔の混じった怒りは、”今更遅いけど”という言葉で一気に爆発し、その矛先は目の前に立つ赤い瞳の主に向けられた。
「エトワスたちに何かしたら、絶対許さねえ!おれがお前を魔物の餌にしてやる!」
吐き捨てたディートハルトの鮮やかな瑠璃色の瞳は氷のように冷たく煌めき、ルシフェルの赤い瞳を射抜くように睨み付けた。
「文献によると空の種族は穏やかな気性の生き物なはずなんだけどな。個体差が激しいのかな?」
動じる事もなく余裕ともとれる笑みを浮かべて、ルシフェルは不思議そうに首を傾げた。その様な彼らのやりとりを見ながら密かに後退した翠は、すぐ背後の扉を開こうとしていたのだが、鍵が掛かっているようには見えない扉がどうしても開かなかった。そこで、傍らに立つシヨウにも手伝ってもらおうと何度か彼の方を見ているのだが、シヨウは”ラファエル”の突然の豹変振りと交わされている会話の内容に付いていけないらしく、ただ呆然と、文字通り口を開けて実験体達の様子を眺めていて、翠には全く気付いていなかった。
「開くわけないだろう?」
シヨウではなくルシフェルが翠の行動に気付き、悠然とした態度で笑いながら言う。
「なるほど、あんたの仕業か」
翠は諦めたように、しかし彼もまた平然とした態度でルシフェルを見た。
「君たちだけなら出してやってもいいよ?用はないからね」
ルシフェルは楽しそうに告げる。
「……分かった。そいつは置いていくからさ。開けてくんない?」
小さく溜息を吐き、翠はそう言いながらディートハルトの顔をチラリと見た。
「……」
ディートハルトは無表情に翠の方を見返している。
「あぁっ?おい、本気か!?」
我に返ったシヨウは驚いた顔で翠を見た。ついさっき、RANK-Aの実験体はラファエルの事を喰いたいと言っていたのを彼も聞いていたはずだ。それなのに見捨てるというのだろうか?
「悪ィな。オレはいい加減国に帰りたいもんで。でも、ここまで付き合ってやったんだからいいだろ?」
翠の言葉に、ディートハルトは無表情のまま軽く頷いた。
「別にお前らがいようがいまいが、おれには関係ねーよ。さっさと行けよ」
ディートハルトがそう言った直後にルシフェルが彼の腕を掴んだ事を確認し、翠は改めてルシフェルに扉を開くよう要求した。
「じゃ、開けてもらえる?」
ルシフェルが何も言わずに軽く右手の人差し指を動かすと、閉ざされていた扉は音もなく開いた。
「じゃあな、ラファエル君」
未だ部屋を出る事を躊躇っている様子のシヨウの傍らで、翠は無表情に二人を見ているディートハルトの方を振り向いてそう言った。
その刹那。
「!?」
突然、腕を掴まれていたはずのディートハルトが体を捻ったかと思うとルシフェルの方に体の向きを変え、そのままジャンプした勢いで力任せに蹴り上げた。
『嘘だろ!?』
開いた扉を抜けて部屋を出る事も忘れ、シヨウは口をあんぐり開けたまま信じられない思いで大人しいはずの”ラファエル”を見ていた。一方ルシフェルは、前回の事もあるためディートハルトの動きには警戒していたのだが、こういった攻撃は予想外だった上、元々接近戦の格闘には不慣れであったせいで突然の攻撃に対処することが出来なかった。まともに蹴りを食らいよろめいたところ、ディートハルトはさらに驚くべき素早さで間髪入れずに飛び掛かった。
「!」
一瞬、ルシフェルの暗い赤い色の瞳が燃えるような紅に輝く。ディートハルトがルシフェルの顔を殴りつけようとしたその刹那、逆に何か目には見えない力に弾き飛ばされ、床に叩きつけられた。
「っ!!」
全身に衝撃が走り苦痛に顔を歪めたディートハルト目掛けて、今度は床に散乱していたはずの分厚い本が凄まじい早さで飛んできた。
「クソッ!」
降り注ぐ本に、その場から動く事はもちろん、学院で学んだエネルギーを凝縮した光球を宙に生じさせぶつけて目標を破壊するという、前回ルシフェルに使って有効だった術を使う間すらなく、ただ、身を守るために腕で顔を覆うのが精一杯だった。
「……」
一際厚い、百科事典のような本が頭に命中し脳しんとうを起こし掛けた所、スローモーションの用に視界の中で徐々に大きくなっていく重たげな木製の机が見えた。
『……机が飛んでる……』
半分意識が飛んでいるディートハルトにはそれが他人事のように思えていたため、彼に向かって飛んできていた机が、ぶつかる寸前で翠の放った光球によって破壊され砕け散った時にも、まだその状況を理解していなかった。
「ラファエルを置いて帰るんじゃなかったのかい?」
ディートハルトとはまた違った種類の冷たさを持った赤い瞳が二人のファイターに向けられる。その次の瞬間、ルシフェルはターゲットを変え、バラバラになった調度品の欠片は一斉にファイターを襲った。とてもではないがファイターという職業など絶対に無理な気弱で大人しいガキだと思っていたラファエルが、格闘技を使った事だけでも度肝を抜かれたのだが、傍らに立つ翠までもが突然見たことのない魔術のような物を使い、シヨウの頭は混乱していた。しかし、その事についてゆっくり考えている場合ではない。
「!」
シヨウは考えるのは後回しにし、飛んできた木片を蹴り飛ばした。同様に、すぐ側にいる翠もルシフェルの攻撃をかわしながら、壁際で未だ虚ろな目をしている”ラファエル”に向かって怒鳴っている。
「ディートハルト!8分間って言ったろーが!」
その声でハッと我に返ったディートハルトは、未だその場にいる翠とシヨウに気付き驚いたような顔をした。彼は本気で翠とシヨウが自分を置いて部屋を出て行くつもりだと思っていたからだ。
「早くここを出ろ!」
翠の言葉に弾かれたように立ち上がったディートハルトは、開かれた扉へと走った。
「逃がさないって言っただろ!」
ルシフェルの言葉と同時に扉が再び閉まる。
「シヨウ君、悪いけどさァ、ルシフェルをなんとかしててくれる?」
「あ?」
「オレらが扉は何とかするから」
早口で翠に言われ、シヨウは一瞬どうしたものかと躊躇したが、とりあえずルシフェルに飛び掛かった。
「レベル2の方、出来る?壊すぞ?」
体調を気遣い翠がそう尋ねると、ディートハルトは不敵な笑みを返した。
「一人でも充分だぜ?」
「エトワス君には、後でディー君が謝れよ」
そう言いながら翠はディートハルトに並んで立った。既に彼の腕時計は午前2時を過ぎていた。きっと、仲間達は、それぞれの目的のものを回収するため既に動いているはずだ。
『そうだった』
”絶対に騒ぎをおこさず”、”大人しくしていろ”とエトワスに言われていた事をディートハルトは今になって思い出した。
「……」
でもまあ、素直に謝れば、エトワスなら”しょうがないな”と苦笑するだけで許してくれるだろう。そう考えながら、ディートハルトは両腕を扉の方へ突き出した。一人で充分だと豪語したものの、ファセリア帝国学院騎士科の必修科目である精神力を使う術の科目は、実はあまり得意分野ではない。前回ディートハルトがルシフェルに使ったものと今回翠が机に使ったものは同じエネルギーの塊を直接目標物に衝突させ攻撃するというものだが、今から使おうとしているものはそれより一つレベルが上で、エネルギーの球を目標物に衝突させるだけではなく、光球自体を爆発させる事によってダメージを与える、というものだった。
『大丈夫、出来る』
両掌付近の宙にブンッという音とともに、ぼんやりと輝くオレンジ色の光の球が発生する。それはバチバチと音を立てながら瞬く間に膨れあがった。
『いいか?』
ディートハルトは翠の方に視線を向け、彼の合図を待った。
「行けっ!!」
ディートハルトの放った光球と、それを追うように僅かに遅れて放たれた翠の光球は扉にぶつかる寸前で一つになり強く輝いたかと思うと、耳をつんざくような爆発音と共に金属の扉を吹き飛ばした。
「!?」
「!」
組み合って相手を殴りつけるという地味な闘いを続けていたルシフェルとシヨウも、爆音に一瞬動きを止める。その瞬間、けたたましい音で非常事態を告げるサイレンが鳴り出した。