22記憶の欠片 ~混沌1~
終業後、エトワスはファセリア帝国では見掛けない野菜をジューサーに入れてジュースを作っていた。最近のラビシュではフルーツが野菜より値上がりしているらしく、ジュース用に用意された材料は野菜中心になっていた。ジューサーからドロドロになった液体をカップに移し、最後に白い粉を入れた。今のところ毎日エトワスがランクXに薬を持って行って飲ませる事になっているが、他の者が行くことになる可能性もあるため、薬草の砂炎花の粉末が入っていた袋の中身をすり替え、食堂スタッフとして潜り込んでいるE・Kのジルに調達してきて貰った体に害のない粉を代わりに入れていた。ジルの話によると砂糖として使われている植物の粉末だという事だったが、粒子が細かく砂炎花の粉末とよく似ているお陰で、見ただけでは違いは分からなかった。仄かに甘い香りがするのだが、幸い今のところ誰にも気付かれていない。
「ああ、ジェイド、薬は遠慮なくたっぷり入れていいからな」
と、ノンビリお茶を飲んでいたグラウカがエトワスに声を掛ける。レイシも含めて他のスタッフは既に帰宅していた。
「分かりました」
そう答え、ただの砂糖をスプーンでもう1匙すくって入れる。I・K達の報告により、砂炎花には心配していたような中毒性はなく禁断症状もないという事が分かったため、エトワスが研究員となってからのこの二週間、ラファエルは全く薬を飲んでいない状態だった。しかし、エトワス達の期待は裏切られ、未だラファエルは記憶を取り戻す様子はなく“ラファエル”のままだった。もう完全に過去の記憶は消えてしまったのだろうか……ふとそう考えてしまい、落ち込んでしまう事もある。もし、このままずっと記憶が戻らなければ、ヴィドールから脱出した後は、本人が望んでくれるならウルセオリナに連れて帰ろう。エトワスはそう思っていたりもする。
「ラファエルは、この薬を飲まないと本当に暴れるんですか?」
以前はどのようなタイミングで記憶が戻ったのだろうか?そう考え、尋ねていた。
「信じられないかもしれないが、本当だ」
そう言ってグラウカが笑う。
「こうやって継続して飲ませているから、薬の成分が体に蓄積されていて最近は安定してるのかもしれないな」
「!」
グラウカの言葉にエトワスはハッとした。
『じゃあ、それが完全に抜ければいいって事か!』
「それなら、やっぱりこのまま続けて飲ませた方がいいですね」
エトワスは思わず笑みを浮かべてしまいそうになるのを堪え、思ってもいない真逆の事を口にする。
「行ってきます」
エトワスは無害な粉末を混ぜ込んだジュースのカップを手にして、スタッフルームを出ようとする。
「ああ、私も行く」
と、背後でグラウカの声がして、思わずため息を吐きそうになる。エトワスに薬を運ぶ役目を与えてくれたのは幸運な事だったが、グラウカが同行する事も増えていた。もしかしたら、自分が怪しいと疑われているのかもしれないと少し焦ったのだが、全くそういった事はないようで、単にグラウカがラファエルに一人で近付きたくないからのようだった。グラウカは、他の研究員は嫌がってランクXに近付きたがらないため、ランクXの事を何も分かっていない(と、グラウカが思っている)エトワスが彼へ臆することなく近付くのを利用していた。
「!」
ノックの音がすると、ぼんやりベッドに座っていたラファエルは、ゆっくりと顔を上げた。
「ジェイドさん……」
部屋に入って来たのは新入り研究員のジェイドだった。初めて会った日以来、彼は毎日やって来る。
「具合はどう?」
いつも通りの笑顔を向けられ、ラファエルもふんわりと嬉しそうに笑みを浮かべた。しかし、エトワスの背後にグラウカの姿を見付け明るい表情はすぐに消える。
「何ともないよ」
「嘘じゃないな?」
そう言って、エトワスは瑠璃色の瞳を覗き込む。その瞳は逸らされる事なくエトワスを見上げていて、エトワスは小さく息を吐いた。嘘は吐いていないようだが、やはり元気はない。こちらを見てはいるが、ぼんやりとしていた。
「……それなら良かった」
そう言って、いつもの様にカップを差し出した。グラウカが同行していない時に、ラファエルには、エトワスが持って来るジュースには薬は入っていないから飲んでも良いという事を説明してある。
「ごめん。今日は野菜しかなかったんだ」
「え……」
ラファエルは、受け取ろうと伸ばし掛けた手を引っ込めてスッと身を引く。
「ダメだよ。飲んで」
苦笑するエトワスを、ラファエルは何か言いたげに見上げている。彼の言いたい事は分かる。
「野菜は体のためにいいから、飲んで」
「でも、僕、野菜は……」
「知ってるよ」
エトワスは笑う。好きな物も嫌いな物もよく知っていた。背後でグラウカが苛々している雰囲気が伝わって来る。
「飲めないなら、無理にとは言わないけど?」
ディートハルトなら、“飲めない”とは言わない。負けず嫌いだからだ。“飲みたくないなら”と言わないところが重要だ。ラファエルは窺う様に下からエトワスの顔を見上げている。
「……飲むよ」
ラファエルはそう言ってエトワスが持ってきたカップに手を伸ばすと一気に飲んだ。飲まなければ怒られると思って飲んだのではなく、エトワスに飲めないと思われるのは嫌だったからだ。
「不味い……」
本当に不味いのだろう。顔を顰めている。
「よし、飲んだな」
と、エトワスではなく背後にいたグラウカがそう言った。
「今日はラズライトを持ってきた。貴重な石なんだ。もう砕くなよ」
そう言って、グラウカがポケットに手を入れた。すると、ラファエルが怯えた様に後退る。
「嫌だ……」
「グラウカさん、“天使の涙”は本当に貴重ですから勿体ないんじゃ?」
エトワスは、やんわり言ってラファエルを背に立った。もちろん、石が勿体ないとは思ってはいない。この石をラファエルに近付けると、彼の気分が悪くなり苦しむという事が分かっているから止めていた。
「苦労して集めてるのに大分減ってしまった。高価な物なのに……って、ロサさんが言ってましたし。砕けてしまう原因が分かってから、改めて試した方がいいんじゃありませんか?」
穏やかな口調で話すエトワスの言葉に、グラウカが「フム」と考え込む。ラファエルは怯えた表情のままエトワスとグラウカを窺う様に見ていた。
「確かに、ロサがブツブツ言っていたな」
面倒臭そうにグラウカが言う。そして、ラファエルの方へ冷たい視線を向けた。
「仕方ない。今日はやめておこう。このタイミングで体調を崩されても困るしな」
グラウカが小さく頷くと、ラファエルはホッとした様子だった。
「次は、我儘は許さないぞ」
グラウカはラファエルに向かいそう言って背を向けた。他に用はなかったのか、そのまま部屋を出る。
「大丈夫か?」
グラウカが部屋を出て行きその足音が遠ざかると、エトワスは瑠璃色の瞳を心配そうに覗き込んだ。
「気分は?」
「平気」
ラファエルはフルフルと首を振る。
「ごめん、ラファエル……」
「え?」
本当は、今すぐ此処から連れ出したかった。しかし、アクアもいるし皇帝家の宝剣も回収しなければならない。仲間達も、それぞれビル内を探り情報を集めている最中だ。やむを得ない状況なら仕方ないが、作戦をぶち壊す訳にはいかなかった。
『もう少し、頑張ってくれ……』
そう思いながら、もう一度謝る。
「辛い思いばかりさせてしまって、本当にすまない」
エトワスの言葉に、ラファエルは目を丸くした。
「えっと、別に、そんなに不味く無かったよ」
ジュースの事だと思っているようで、ラファエルはそう言った。
「それに、ジェイドさんがいるから平気。来てくれると嬉しいし」
「……そうか」
エトワスは、小さく笑う。
「それなら、俺と一緒に此処を出ようか?」
「え」
ラファエルはキョトンとして瑠璃色の目を瞬かせた。
「ヴィドールを出よう」
「何処に行くの?」
「そうだな……。星の砂の砂浜がある海はどうだ?」
自分でも、冗談で言っているのか本気なのか分からなかった。
「流れ星の欠片の砂浜?」
フフッと、思わず笑ってしまう。翠が話していた通りだ。
「ああ、そうだよ」
エトワスが頷くと、ラファエルは嬉しそうな明るい表情になった。しかし、その顔が不意に曇る。
「……でも、兄さんが怒るよ。僕は実験体だし」
と、困った様に言う。
「ちゃんと兄さん達に協力しなきゃ。ジェイドさんも仕事があるんでしょ?」
「……そうだな」
エトワスは再び小さく笑った。それからしばらくの間、何気ない会話を続けていたが、翠と会う約束をしている時間になったため、ラファエルに「また明日ね」と告げて部屋を後にした。
「お疲れ。ラファエル君、どうだった?」
待ち合わせの非常階段には、今日は翠が一人で待っていた。フレッドは休みでビルを出ているからだ。ファイター達はビル内に部屋がありほとんど全員がそこで生活しているが、外出や外泊に制限は無い。
「いつもと変わらない」
エトワスが首を振る。
「ちゃんと、薬の中身は入れ替えたんだよな?」
「ああ。俺の知る限りこの二週間、砂炎花は摂取してない。ただ、それ迄の間にずっと飲み続けていたから薬の成分が体に蓄積してるのかもしれないって、さっきグラウカが言ってた」
「おお!そりゃ朗報じゃん。その溜まってる分が抜ければいいってことだろ?」
翠が表情を明るくすると、エトワスもニヤリと笑みを返す。
「俺もそう思った。昼間はどんな様子だった?」
「同じだよ。相変わらずぼんやりしてた。オレらの事思い出すんじゃないかと思って、隙を見て色々試してみたんだけど無理だったよ」
そう言いながら、翠はまだ長い煙草を2、3回口にしただけで、すぐに手すりに押しつけて火を消した。
「色々って?」
「ファセリアに関係ある言葉をさりげなく仕込んでお喋りしたんだけど、全然効果なかったわ。ついでに、シヨウに前より警戒されるようになっただけだったね」
「まだ警戒されてるのか」
と、エトワスが笑う。
「此処を出る気もないみたいでさ。『此処にいても、ツマンナイでしょ?ビルの外に出てみない?遊びに行こうよ』って誘ってみたんだけど、即答でお断りされた」
「俺も同じだよ。ついさっき、“此処を出よう”って言ってみたんだ。でも、断られた」
エトワスの言葉に翠が苦笑する。
「お前がストレートに誘って断られんじゃ、オレらが誘っても乗る訳ないか。いっそのこと、寝てる間に拉致るってのは?」
翠は半分は冗談で言ったつもりだったのだが、意外にもエトワスは表情も変えずにすぐに頷いた。
「そうだな。最終手段はそれでいこう。I・K達も手伝ってくれてるけど、地下の書庫でも役に立ちそうな情報は集まらないし、そろそろ撤収してもいいかもしれないな……」
エトワスは、レイシや他の研究員たちに話を聞くだけではなく、空いた時間さえあれば地下にある書庫で膨大な量の資料や文献を調べていた。また、彼だけでなく、潜入しているI・K達にも手伝って貰っていた。しかし、彼らの求めている“ラズライトが空の種族の身体に及ぼす影響”や、“空の種族特有の疾病”等といった類の情報は何も得られていなかった。
* * * * * * *
同日の朝――。
フレッドは一人ラビシュの町を歩いていた。センタービルを中心に複雑に広がるこの町は、大まかに二つのエリアに分かれている。 一つは町のほぼ9割以上を占める旧市街区と呼ばれる区域で、それに対し残り1割未満は新市街区と呼ばれている。アクセサリー屋兼情報屋のサラの話によれば、新市街区はヴィドールの王やその周囲の者たちの居住エリアだということだった。旧市街区とは違い古い時代の建物は跡形もなく取り壊され、代わりにに異国風の建物が建ち並んでいるらしいのだが、エリア全体が高い壁で囲まれているため、同じラビシュ内の住人たちにとってもそこは未知の別世界だった。
地図を片手に、通行人に何度も道を聞きながら雑然とした旧市街区の迷路のような町中を西のはずれへと向かって歩き続けたフレッドは、ようやく古い教会に辿り着いた。
キィ
軋んだ音と共に古びた木の扉を押し中へ入ると、まず正面奥の台座に据え付けられた白い石像の姿が視界に飛び込んで来る。端正な顔立ちに髪の長い女性の姿をしたその女神像は祈る様に両手を組み、背には鳥のような翼が生えていた。 計算されて造られているのだろう。数カ所ある明かり取りのための天井の小窓から差し込む陽光はちょうど女神像の立つ位置を照らし、像自体がぼんやりと輝いて見えるようになっていた。また、色ガラスの嵌め込まれた窓からは、赤や青や黄色の光が、女神像の足下付近の冷たい石畳にうっすらと幻想的な光の模様を描き出し、まさしく光の神の名にふさわしい神秘的な雰囲気を醸し出している。
「フレッド」
入り口に立ったまま女神像に見とれていた彼を、突如男の声が現実に引き戻した。
「あぁ、ロイか。分からなかった」
名前を呼んだ見知った元同級生を一瞬誰か判別できなかったのは、彼がヴィドールで一般的に見られる服装をしていたせいだ。彼だけでなく、同じような服を着たウルセオリナのE・Kライザと黒の海賊のブルネット、そしてアクセサリー屋でこの教会の祭司の娘であるサラの姿もあった。
「お前も潜入してるんだよな?全然見掛けないな」
エトワスに聞いた話では、ロイは警備兵として潜り込んでいるらしかったが、まだ一度もその姿を見掛けた事は無い。E・Kのマリウスはファイター専用の食堂にスタッフとして潜り込んでいるため、毎日その姿を見掛け、時折何気ない言葉も交わしていた。
「そっちとは生活するエリアが全く違うからな。でも、夜は見回りでお前らのいる棟まで行ってるぞ」
ロイとリカルド、そして先輩I・K一人は警備兵としてセンタービルに潜り込んでいたが、フレッド達のいる研究施設エリアよりも上の階にいるため、そして、棟自体が別になっているので会う事は無かった。
「そっちの上の階には、今ヴィドールの君主がいるんだよな。ガルガつったっけ?ってか、ほんとにいるのか?何か影が薄いけど」
ヴィドールは、小さな国がまとまって一つになった国であり、その代表が国王となり代々世襲で後を継いでいるが、権力は無く実際に国を動かしているのは宰相らしい。
「ああ。最上階で、12人の妻と一緒に優雅に過ごしてる」
ロイの言葉に、ライザとブルネットは露骨に顔を顰めている。
「実際は、バーリって宰相が国を動かしてる上に、今はその宰相より研究施設のトップ2人の方が力が強いみたいだからな。確かに影は薄い。威張ってるけどな」
それは実際に潜入してみて分かった事実だった。
「え、研究施設のトップって、あの冴えない二人か?グラウカとドグーって事だよな?」
「どっちかって言うと、今はドグーの方が上みたいだ。新しいタイプのドールをどんどん作り出してるからな」
なるほど、と、フレッドは納得する。
「あぁ、皆さんも、お久し振りです」
女性陣3名に視線を向け、フレッドが遅ればせながら挨拶すると、サラは眩しいくらいの笑顔を返し、他の二人はニコリともせず軽く頷いた。
「ブルネットさん、アクアちゃんは変わらず元気いっぱいみたいですよ」
何か言いたそうなブルネットに気付き、フレッドがそう教える。一週間前にも翠が連絡のためこの教会へは来ている。その際に、アクアの居場所が確認できた事も元気だという事も伝えてあった。
「エトワスと一緒にやったお姫様ごっこが気に入ったみたいで、またお願いされたって言ってました」
つい先日、エトワスは再びアクアの元を訪れる機会があったのだが、その際にまたせがまれたと笑っていた。
「そうか、ありがとう。元気そうなら良かった。親を恋しがってはいないんだな」
ブルネットが笑う。
「とりあえず、エトワスが会った時は元気よく遊んでたって言ってましたよ」
「すまない。遅くなった」
と、声と共に教会の扉が開き、ラフな格好をした男が入って来た。清掃員としてビルに潜入している先輩I・Kのブランドンだった。
「あ、先輩。お疲れッス」
「お疲れ様ッス」
フレッドとロイが敬礼をすると、ブランドンも簡単に返した。そして、折って小脇に抱えていたヴィドールの新聞を取り出す。
「脱出ルートが出来たぞ」
ヴィドールの新聞の間には、ビル内の見取り図と共に脱出するルートが記された紙が挟まれていた。その紙を取り出し、ライザとブルネットに差し出す。
「後は、指示待ちだな」
指示というのは、ディートハルトとアクア、そしてファセリア皇帝家の宝剣のそれぞれを回収し脱出するため三班に分かれるのに、誰がどの班になるかについてのエトワスの指示の事だ。
広げられた地図を、それぞれが覗き込む。
「じゃあ、私はいつでも出られる様にマルコロを押さえとくわ」
サラの言葉に、フレッドが微妙な表情をする。
「船はジャスパに待機しているから、こっちも問題ないぞ」
ブルネットの故郷の島ラリマーへと向かう船は、来た時と同じ物がジャスパの港で待ってくれているらしい。
「武器はどうしますか?」
ライザが尋ねた。警備兵として潜入したロイ達3人のI・Kは支給された銃を持っているが、他の潜入メンバーは全員丸腰の身一つで潜入しているからだ。
「あそこにはファイターも警備兵もドールもいるし、ヤバイ魔物までいっぱいいるからな」
フレッドが眉を顰めると、ロイも頷いた。
「誰にも気付かれないよう脱出するというのは、難しいだろうな」
二人の言葉通り、昼間は研究施設内のあちこちにファイターがいて、夜には警備兵が巡回していた。
「そうだな。武器は、脱出決行の直前に持ち込んだ方が良いだろうな。ただ、長剣は不向きかもしれない」
ブランドンが言う。脱出ルートには狭い非常階段を選んでいるため、I・KやE・Kが普段使用している長剣は使う事が難しく邪魔になる恐れもあった。
「分かりました。それでは、中剣か銃を用意しなければなりませんね」
ライザが思案する。
「それなら私が協力するわ」
と、サラが「任せて」と、ウィンクした。
「何から何まで、すみません。助かります」
ライザが申し訳なさそうに礼を言う。
「それで、フレイクさんの方は、記憶が戻ったのですか?」
「ああ……いや、それが」
ライザの問いに、フレッドが首を振る。
「じゃあ、フレイクが記憶を取り戻すまでここに滞在しなきゃならないって事か?」
うんざりしたようなロイの言葉に、密かにライザもそっと溜息を吐いた。
「記憶より、エトワスはフレイクの体調が悪い原因がここでなら分かるんじゃないかって、躍起になって調べてるんだ。でも、収穫は無いって言ってたから脱出の方を優先すると思うぞ」
「それならいいが」
ロイがフンと鼻を鳴らす。
「それで、待機組の方は?何か変わった事は?」
ブランドンがライザに視線を向けると、ライザはチラリとブルネットに視線を向けた。
「昨日、また港にロベリア王国からの船が着いたらしいです」
「ああ。実際に港に見に行ってみたが、商船や客船ではなくヘーゼルの船だった」
黙って座っていたブルネットが、ライザの言葉にそう付け加えた。
「ヘーゼルがこの町にいるって事か?」
「港の者達の話では、聖域の学者が一人下船したらしいが、そいつと一緒にヘーゼルもセンタービルに向かったらしい」
「タイミング悪いな。じゃあ、ヘーゼルと顔を合わせた事のある奴は、気を付けなきゃって事だな」
フレッドの言葉にブランドンが頷いた。
「ウルセオリナの戦場に出ていたメンバーは一応気を付けていた方がいいな。エトワス様は特に」
こうして一通り情報を交換してそれぞれの様子を伝え終わると、この日はフレッド、ロイ、ブランドンの三人は教会に宿泊する事になった。
* * * * * * *
太く頑丈な鉄格子のはめられた窓越しに、眼下に広がる町並みをじっと眺めていた。
日が落ちてからかなりの時間が経ち完全に闇に沈んだ夜の帳の中で、 個々の建造物から漏れる淡いオレンジ色の灯火は、彼の立つ高いビルの窓から見るとさながら地上の星といったところだった。
少しだけ冷たい乾いた風が艶やかな黒髪を、鳥のような漆黒の翼を、 ゆっくりと撫で天上の星が瞬く空の闇へと溶かし込むかのように、ゆるやかになびかせていた。
「……」
ふいに風向きが変わり、鼻腔に流れ込んできた花の香にも似た仄かに甘い風に、彼――ルシフェルは視線を上げゆっくり空へと移した。 彼の立つ窓辺からは位置的に見ることはできないが、常人には感知することのできないその香りを辿って行けば、そこに鮮やかな瑠璃色の瞳を持つ人物が居ることを彼は知っていた。翼も無く、記憶も失くし、自分すら失くしかけながらも、風を恋い空を想い、しかしその理由すら分からず彼はそこに佇んでいるに違いない。
「どうかしたのかい?」
近くにいた赤茶色の髪の男がそう言いながら歩み寄り、彼に並んで立つと窓辺から外の景色を見渡した。しかし、髪と同じ明るい茶色の瞳に映るのは、ひっそりとした闇に包まれた夜の町並みだけだった。
「随分楽しそうな表情で外を眺めていると思ったけど、何も見えないじゃないか」
ルシフェルは、自分が風の微かな香気につられ気付かぬうちに笑みを漏らしていたことを知り、僅かに笑った。
「風の香気に、気が付きませんか?」
彼の問いに赤茶色の髪の男は肩を竦め、「いや」と短く答えた。訳の分からない能力を有する実験体の感覚には付き合っていられない。そう言いたげだ。
「ルシフェル、他人をからかうものじゃないよ。私たちは君ほど目も鼻も利かないんだからね」
扉を開け、部屋に入ってきた途端そう言いながら研究員のグラウカが苦笑したような笑みを浮かべて見せた。
「お待たせしました、ヘーゼルさん。さ、ルシフェル。君もこっちへおいで」
テーブルに持っていた書類を置きながら、グラウカは二人にそう声を掛けた。ヘーゼルは当然の如く席に着き、ルシフェルは腑に落ちないといった表情ながらも椅子に座る。
「どうした、ルシフェル?ああ、そうか。どうしてわざわざ、君の部屋でミーティングを開くか気になってるんだね?」
グラウカは楽しげに微笑みながらテーブルの上で手を組んだ。
「君も、次の調査に付き合って貰うつもりなんだよ」
「……」
ルシフェルは、一瞬言葉の意味が理解できなかった。
「君と、ラファエルの二人も次の遺跡へ一緒に来て貰うことになったんだ」
改めて、グラウカはそう言い直した。
「僕が……外に……?」
聞き間違いではないだろうか。そう思った。
今まで、少なくともセンタービルへやって来てから20年以上の年月、彼は一歩も外の世界へ出たことは無かった。膨大な数の書物や絵画、地図、その他世間で流行しているという娯楽品等が常に用意された彼の部屋は広く、その気になれば軽く運動することもできる程のバルコニーにもつながっていて、青空も星空も、風も雨も太陽の光も彼はちゃんと知っていた。ただし、頑丈な網越しにではあったが。
「嫌かな?」
そんなはずはないだろう?そういった表情で尋ねるグラウカにルシフェルはニッコリと笑みを返した。
「いいえ。まさか!」