2帝都ファセリア ~茜色の空~
帝都にあるファセリア帝国学院は、卒業式を終えたばかりの学生達で賑わっていた。いたるところから在学生の祝いの声や、別れを惜しむ言葉が聞こえてくる。ディートハルトたち騎士科の卒業生のほとんどは、そのまま帝国の騎士団に加わることになっているが、任命式まで2週間ほど間がある。そのため、今まで寮生活を送っていた学生達は束の間の休日を利用して一斉に帰郷する。校内はあと一時間もすれば嘘のように静かになるはずだった。
「お前らは、家に帰んないの?」
校内の中庭にある噴水の側で立ち話をしていたディートハルトとエトワスを見付けた翠が、卒業証明書を入れた筒をくるくる回しながらやって来ると、二人に声を掛けた。
「俺は、これからは地元で生活する事になるからな。休みが終わるギリギリまでこっちにいるつもりなんだ」
「そっか。エトワス君はウルセオリナに戻っちゃうもんな。で、ディー君は?」
「おれ?おれは身内いねーし。家もねえから」
関係ないね、と言った調子でディートハルトが言う。
「あれ?前にランタナに家族がいるって、両親と弟が一人とさらにその下に双子の妹と弟がいるって言ってなかった?」
「あれは、他人だから」
翠が首を傾げると、無表情のままどうでも良い事の様にディートハルトが答えた。
「?」
ディートハルトの答えを聞き、さらに質問しようと口を開きかけた翠を邪魔する様にエトワスが尋ねた。
「翠は帰らないのか?シオンの家族とは、もう何年も会ってないだろ?」
「あー、オレも帰らねえ。シオンは遠いから移動だけで休みが終わっちゃうし。それに、どうせ戻ってもやることないし、船賃もったいねえし?」
翠の実家がある出身地のシオン国は、ファセリア大陸の南東に位置する島国で、ファセリア大陸からは大きな船でも数週間掛かる距離にある。しかし、翠の母親はファセリア帝国出身のため、母方の祖父母は帝都の北西に位置する北ファセリアという港町に住んでいて、これまで帰省する時はその祖父母の家に帰っていた。翠の生まれは両親の住むシオン国なのだが、子供の頃何度かファセリア帝国の祖父母の家を訪れた事があり、その際にシオン国とは全く文化の異なるファセリア帝国が非常に気に入り、10歳で一人ファセリア帝国に移住して祖父母の元で生活する事に決めると北ファセリアの学校に通い、12歳からはファセリア帝国学院初・中等部の中等部に入学して寮に入りそのままファセリア帝国学院の騎士科に進んだ。エトワスも、同じ12歳で帝国南部のウルセオリナの家族の元を離れファセリア帝国学院の中等部に寮から通っていたため、二人はその時以来の付き合いだ。そして、中等部でも二人は寮で同室だった。
「そうか」
「あ、でも、その代わり、ちょっと北ファセリアには帰ろうとは思ってんだけどね。婆ちゃんが、たまには帰って来いって言うから」
翠の両親や姉弟達は故郷のシオンで暮らしているのだが、祖父母と同様に母方の叔母二人と叔父等の親戚達もファセリア国内に住んでいる。帝都にも、叔母夫婦と従兄妹達がいた。
「……」
と、エトワスの向かい側で興味なさげに友人達のやり取りを聞いていたディートハルトの表情が、何かに気付いた様に微かに変わった。同時に、エトワスの背後から耳慣れた声が響く。
「お兄ちゃん!」
振り向かないでも分かる。自分と同じ騎士科の一つ下の学年に在籍している妹、フェリシアだ。濃紺の制服を纏ったフェリシアは、エトワスと同じダークブラウンの髪を軽やかに風になびかせながら足早に三人の傍までやってきた。
「お、フュリーちゃん。久し振り~!」
翠が手を上げ愛想のよい顔でにっこりと笑うと、立ち止まったフェリシアも微笑んで翠とディートハルトに挨拶した。
「ご卒業、おめでとうございます」
「うちの科の制服ってボタンないんだよなー。残念。フュリーちゃんにあげたかったのになぁ。シャツのボタンで良ければ要る?」
翠の言葉を聞きフェリシアが笑う。翠が女の子を見れば笑顔を作り、さらにこういった台詞を吐くのがいつもの事だと知っているからだ。彼が本気であろうとなかろうと、その言葉は全て冗談にしか思っていない様だった。
「どうかしたのか?」
祖母譲りの深い紫色の目をした妹を見下ろしながら、エトワスが尋ねた。卒業を祝いに来ただけにしては、何処か様子がおかしい気がする。
「ウルセオリナから、迎えが来てるの」
案の定、フェリシアの顔から笑顔が消えた。
「家で、何かあったのか?」
エトワスは僅かに表情を曇らせた。今日の卒業式に家族の参加予定はなく、まだしばらく帝都に滞在する事も伝えて了承を得ている。それなのに迎えが来ているという事は、まさか祖父の身に何かあったのだろうか?そう思った。現ウルセオリナ領主である祖父は、滅多に風邪も引かない健康な体の持ち主だが、年齢は70代半ばだ。急に体調を崩してしまったり、ひょんな事から怪我をしてしまったり等といった事が起こる可能性も無くはない。
「家と言うより、ウルセオリナが大変なことになってるらしくて」
そう言って少し声を潜め話し出したフェリシアによると、ウルセオリナ地方の南側に位置するロベリア王国方面から、武装した兵らしき一団が国境を越え帝国領へ侵入してきたという事だった。
「まさか、ロベリア兵って事か?」
ファセリア帝国と山脈を国境に隣接しているロベリア王国は、敵対国ではない。知る限り二国間の間に特に大きな問題はなく、戦争を仕掛けられる理由は無いはずだ。そして、元々数百年前は独立した一つの王国だった過去のウルセオリナ王国も、それまでの長い歴史の中でロベリア王国と戦をした事はない。地形的に行き来する事が困難であるため、そもそも交流自体ほとんどないからだ。
「いや、でも。侵攻する理由がないか」
兄の言葉にフェリシアはゆるく首を振る。
「私もよく分からないから、詳しい事は迎えに来たジルに聞いてみて。寮の前で待ってるって言ってたから」
エトワス、ディートハルト、翠の三人は学生寮で同室のため揃って寮に戻ったのだが、フェリシアの話した通り、ウルセオリナからの使者が建物の前に立ち待っていた。目立たない地味でカジュアルな服装をして薄い鞄を持っているというどこにでもいそうな姿で、普通にその辺を歩いている一般人の様に見えるが、彼はウルセオリナの領主に仕える通称E・K(Element・Knight)と呼ばれる騎士の一人だった。剣術に魔術を組み合わせた属性の力を上乗せした剣技を扱うため、そう呼ばれている。
「あ、エトワス様。と、ご友人のお二人さん、お久し振りです。それと、ご卒業おめでとうございます」
黒髪に明るい茶色の瞳をした20代半ばのE・Kが、親し気に笑いかけた。エトワスの実家には夏休みなどの長期休暇中に遊びに行った事があるため、ディートハルトと翠もジルとは面識があった。
「あれ?フレイク君、ちょっと背が伸びたかい?」
「……伸びてない」
ディートハルトが憮然として答える。エトワスと翠、そしてE・Kのジルは同じくらいの背丈だが、彼らはディートハルトの頭一つ分近くは背が高かった。
「ああ、そう」
「フェリシアに聞いたけど、何があったんだ?」
エトワスに尋ねられ、ジルの表情から笑顔が消えた。
「国境警備隊の報告が届いたのが昨日の事なのですが、オリナの南西に、ロベリア王国の物に似た甲冑を身に着けた正体不明の武装集団が現れたそうです。ロベリア王国の者にしては違和感があり、しかし、魔物を警戒して武装した一般人……例えば商人等の一団にしては武装した者の数が多く、何より、確かではないのですが、魔物の様な妙な生物も複数連れているらしく」
「魔物を連れている?」
エトワスが眉を顰める。
「町に放つ気とかだったら、迷惑だね」
翠が言う。
「可能性は低いけど、ただのペットだったらいいんだけどね」
と、ジルが翠に答えて薄く笑う。
「そのため、現在、公爵閣下がE・Kと使者を派遣されてその一団の目的を探るため接触を試みているところです。そこで、ウルセオリナ卿にもすぐに帰郷するようにとの事です。もし、その一団と戦闘になった場合、ウルセオリナ卿が我々E・Kを率いて出陣される事になりますので」
「分かった」
エトワスは小さく溜息を吐いた。エトワスもまたE・Kの剣術を学び身に付けたE・Kでもあるのだが、次期ウルセオリナ領主として他のE・K達の指揮官となる身だった。
「陛下は、この話をご存知なのか?」
「はい。陛下の元へはマリウスが報告に向かいましたので、もうお耳に入っている頃かと」
ジルは、仲の良い同僚の名を挙げた。
エトワスはジルの話を聞き終えると、寮の部屋には戻らずその足で一人城へと向かった。帝都の南東にある学生寮からは少し距離があるため、学院の馬を使った。
帝都の北門を抜け、緩やかに傾斜した石畳の道を上っていくと、深い水を湛えた堀と高い壁に囲まれた荘厳な皇帝の居城がそびえ立っている。城内に入り皇帝への謁見を求めると、次期ウルセオリナ領主であり皇帝の血縁者でもある彼は待たされる事もなく、すぐに皇帝の前に通された。
「同じ帝都にいながらこうして顔を合わせるのは久しぶりだな、エトワス」
20代後半の若い皇帝ヴィクトールは、騎士科の制服姿の再従兄弟を目にすると親しげに笑いかけた。エトワスの祖母は、二代前のファセリア皇帝であるヴィクトールの祖父の妹で、現ウルセオリナ領主シュヴァルツの元へ嫁いだ身だった。エトワスの母はヴィクトールの父である前皇帝マクシミリアンとは従兄妹同士になる。そのため、ヴィクトールにとっては、皇帝家の血も引き幼い頃からよく知っているエトワスは、家臣というより弟のようなものだった。
「卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
エトワスを謁見の間ではなく執務室に通した皇帝は来訪が嬉しい様子で、畏まって礼を言うエトワスに『美味い茶があるんだ。淹れようか?』と笑顔を向けた。
「いえ、私が参りましたのは……」
「まあ、いいから座れ」
やんわり断りつつも拒否しきれず、エトワスはヴィクトールに促されるまま執務用のデスク前に設置されているテーブルの席に着いた。
「報告は聞いた」
予め用意されていた白い陶磁器のティーポットを手に取ると、そう言いながらヴィクトールは自ら二つのカップに紅茶を注ぎ、自分とエトワスの前に置いた。
「ロベリア方面から武装集団が国境を越え、ウルセオリナに向かっているらしいな」
エトワスの向かいの席に着いたヴィクトールは、皇帝家の血筋に多い深い紫色の瞳をエトワスに向け、テーブルの上で両手を組んだ。
「私が聞いた話では、ロベリアの兵にしては違和感があるとの事でしたが……」
「ああ。私も聞いている」
エトワスの言葉に、ヴィクトールは頷いた。
「身に着けている鎧がロベリア兵の物と同じデザインで紋章が入っていたというが、ロベリア王国からは事前に何の通達もないし、わざわざロベリアを示す格好をしておきながら、こっそり侵入するというのもおかしな話だな」
これでは、身元を知られたくないのか知らせたいのか分からない。
「何かをしでかす気ではいるけれど、それをロベリア王国のせいにしたいという事でしょうか……。せこい真似をしますね」
エトワスが呆れた様に言う。
「そうだな。正体がロベリア王国という線は薄いな。それと、本気でファセリア帝国に挑む気なら、大軍を送り込まなければ不可能だ。だから、その一団は、帝国に喧嘩を売るつもりはないのかもしれないな」
「そうですね。ただ、例えば、まずはウルセオリナだけを陥落させて掌握したいと狙っているという事も考えられますが」
エトワスが言うと、ヴィクトールは小さく笑った。
「狙いがウルセオリナ地方一つだとしても、落とすには帝都を襲うのに匹敵するくらいのかなりの数の兵が必要だと思うが?報告にあった規模の一団では、いくらなんでもナメすぎだろう。公爵が聞いたら怒るぞ」
ヴィクトールの言葉通り祖父なら怒りそうだと思い、エトワスは思わず笑ってしまった。
「確かに。怒るでしょうね」
「もしかしたら、外国からの侵入者ではなくこの国の人間達という可能性もあるかもしれないな……。聞いたと思うが、お前の祖父がその一団の元へ使者を出したようだから、すぐにその正体と侵入してきた目的も分かるだろう」
ヴィクトールの口振りからして、大して問題視している様子はなかったので、エトワスは少し気が抜けた。妹やウルセオリナの使者は、大変な事が起きていると言っていたからだ。
「その一団が、魔物を連れているという話もお聞きになりましたか?」
「そう言っていたな。町に放つ等してファセリア帝国内で混乱を起こそうというのか、それとも、飼いならされた魔物で、誰か……そうだな、例えば私やウルセオリナ公爵を襲わせ亡き者にしようというのか、まさか、見世物の魔物を連れたサーカスの一団だったというオチではないだろうが」
考えられる可能性を挙げてヴィクトールが笑う。
「サーカス団であれば、一安心なのですが」
エトワスも小さく笑う。本当にそうであって欲しいと思っていた。
「ですが、仮に悪意を持つ集団でなかった場合でも、集団で特定の国の兵の姿をして魔物を連れて来る等という目立つ事をしている訳ですから、見過ごす訳にはいきませんね」
「ああ、それはもちろんだ。悪意が無かったとしても悪ふざけが過ぎるからな」
ヴィクトールが頷いた。
「まあ、実際によからぬ事を企んだ集団で、その魔物を使って何かするつもりだとしても、ファセリア帝国にはI・KもE・Kもいるのだから、失敗に終わるだろうがな」
そう不敵に笑うと、悠然とした態度でヴィクトールはお茶を一口飲んだ。
「はい」
皇帝が直々に淹れたお茶であるため、エトワスもカップに口を付けた。爽やかな花の様な良い香りが鼻をくすぐる。
「それで、エトワス。お前が久し振りに私を訪ねて来たのは、卒業の挨拶ついでに私の顔を見に来た訳ではなく、卒業早々に故郷に呼び戻されたので暇乞いに来たという事だな?」
ヴィクトールは、つまらないとでも言いたげな口ぶりだ。
「はい。すぐに戻る様に言われておりますので」
「今から、この件について会議を開く事になっている。帰る前に、ウルセオリナ公爵の代理としてお前も参加しろ」
「はい、承知しました」
それからすぐ、ヴィクトールの話した通り会議室に大臣達が集まり会議が開かれた。その内容は、今回の件を大臣達にも伝えて今後の対応を確認するものだ。ただ、まだその不審者達の一団の正体や目的が判明しないため、ひとまずウルセオリナ公爵の報せを待つ事となり、同時に他の地方の領主達にも同じ事を報せ、兵達が戦いに出られる様備えながら、住民たちの安全を確保できる様に準備しておく事となった。
「それでは陛下、失礼いたします」
短い会議が終わると、エトワスは改めてヴィクトールに暇乞いをした。
「ああ。お前も次期領主の身だ。何があるか分からないから、くれぐれも気をつけろよ」
弟を心配する様に、ヴィクトールはエトワスの肩に手を置いてそう言った。
「はい。陛下も」
エトワスは皇帝に敬礼をすると、そのまますぐに退室した。久々に会った皇帝ともう少し話をしていたいところではあるが、E・Kを待たせたままでいるためそうもいかない。
『ああ、参ったな』
城内の廊下を足早に歩きながら、心の中で舌打ちをする。もし、不審者の集団が敵であれば、卒業したてでいきなり実戦、しかも相手は町周辺に出る様な魔物ではなく人間という事になる。
『それに……』
まだ新I・Kの任命式は終わっていない。
『がっかりしてるだろうな』
エトワスがすぐには帰郷しないと知り嬉しそうな表情を見せたディートハルトの姿が脳裏に浮かぶ。
『いや、がっかりしてるのは俺の方か』
苦笑して、少し憂鬱になりながら長い石造りの廊下を曲がったところで、エトワスは皇女アンジェラに会った。というより、待ち伏せされていたようだ。
「まあ、エトワス!ひどいですわ。お兄様にだけお会いして、すぐ帰ってしまうつもりでしたのね!?」
肩を出した裾の長い若葉色の絹のドレスに身を包んだ、ライトブラウンの瞳と髪をした皇女がエトワスにつめよる。ふんわりと濃厚な甘い香りがした。彼女が付けている香水の物だ。“ひどいですわ”と言いつつ、その目はキラキラと輝き嬉しそうだ。
「アンジェラ殿下」
「わたくし、これからお茶を頂きますの。お付き合いしてもらいますわよ」
アンジェラがそう宣言すると、お付きのメイドたちが、エトワスに向かい『こちらへ』と促す。
「申し訳ございませんがアンジェラ様、私はすぐにウルセオリナへ戻らなければなりません」
危うく連れ去られそうになったエトワスがそう断ると、エトワスと同い年の皇女はキッとした表情で不満げにエトワスを見上げた。
「まあ!あんまりですわ。わたくしは、エトワスの事をずっと待っていましたのに。今日だけじゃありませんのよ。同じ帝都にいるのですから、会わせて欲しいと何度も何度もお兄様にお願いしましたのに、いつも『学生とはいえ、そう暇じゃないからな』なんてはぐらかされて、やっと今日、こうして直接会えましたのよ!」
一気にそう話され、どう答えたものかと思案するエトワスに、さらにアンジェラは続けた。
「もしかして、紅茶はお嫌いですの?そうね。エトワスには珈琲がいいのかしら?そうでなければ別のものを……」
「いえ、そういう訳では。実は……」
エトワスは、やんわりとそう答え、ウルセオリナに正体不明の武装集団が現れた事を手短に説明した。すると、皇女は渋々といった様子で頷く。
「まあ……。分かりましたわ。そういう事でしたら仕方ありませんわね。それでは今度お付き合いして頂きます。約束ですわよ?」
不満げではあったが、アンジェラは渋々といった様子で頷いた。エトワスは、とりあえずその場を逃げ出せることにほっとしながら、そそくさと城を後にした。
寮に戻ってみると、部屋のエトワスの個人スペースはすっかり片付けられ、E・Kのジルと、合流したマリウスが待っていた。
「お久し振りです、エトワス様。ご卒業おめでとうございます」
マリウスは、鳶色の目に緩くウェーブの掛かったオレンジに近い茶色の髪をした20代後半のE・Kだった。マリウスはエトワスと入れ違いに皇帝に謁見した後だったため、きちんとした服装をして今は剣も持っていた。
「ああ、ありがとう」
寮のルームメイトの翠だけではなくフェリシアもまだ女子寮に帰らずそこにいて、四人でお茶を飲みながらずっと雑談していたようだった。
「ディートハルトは?」
もう一人の住人の姿が無いためエトワスが尋ねると、翠とフェリシアは首を横に振った。
「何処に行ったか分かんない」
エトワスが城に向かった直後、ふらりと姿を消してしまったきりらしい。
「そうか……」
エトワスは、E・K達にもうしばらく待ってもらうよう頼むと、まっすぐ学校へ向かった。行くべきところは分かっていた。校舎に入ると階段を上り最上階を目指す。登り切ったところで重い錆びた鉄の扉を開け屋上へ出ると、思った通りディートハルトはそこにいた。石造りの柵に頬杖をつき、眼下に広がる街ではなく、茜色に染まる空をぼんやりと眺めている。
「やっぱり、ここだったな」
エトワスが静かに言う。しかし、ディートハルトは振り向かない。近い距離にいるため聞こえていないわけではない。茜色の光がディートハルトの姿を縁取り、まるで彼が光を纏っているかの様にも見える。
「俺は、もう帰らないと」
エトワスは待った。しかし、やはりディートハルトは何の反応も示さない。ハグを、とまでは言わないが、せめて握手をして笑顔でサヨナラを言うつもりだったのだが……。
「……新I・Kの任命式まで帝都にいるっていう約束を守れなくて、ごめん」
仕方がないとはいえ、約束を守らない事を怒っているのかもしれない。エトワスはそう思った。言葉を交わせなくても、せめて顔を見たかったのだが……。
「元気でな……」
期待した応えは無く、とうとう諦めたエトワスは別れを告げるとディートハルトに背を向けた。
「エトワス……」
ドアノブに手を掛けたところで、エトワスは呼び止められた。
「ありがとな」
ハッとして振り返ったエトワスだったが、あまりにも予想外の言葉に目を丸くする。ディートハルトは照れているのか、プイと横を向いた。
「おれさ……」
今エトワスはウルセオリナに帰ろうとしている。今度会うのは、ずっとずっと先のことになるのかもしれない。それどころか、次期公爵のエトワスに、I・Kとはいえただの兵士の自分が正式な理由もなしに気軽に会う事自体もう出来なくなる可能性は高い。そう思うと、言いたいことは山程あったが、何と言ったらいいのか分からなかった。人と別れるのがこんなに淋しくて悲しいと思ったのは生まれて初めてだった。そのため、何かを話す前に涙が出てきそうで、エトワスに話し掛けられている事はもちろん分かっていたのだが、応えて話す事も振り返る事も出来なかった。
「……」
咄嗟に呼び止めてしまったが、やはり言葉が出てこないため話す事が出来ず黙りこくってしまったディートハルトを見て、エトワスが柔らかく笑う。
「4年間、楽しかったよ。お前がルームメイトだったおかげでね」
軽口を叩いているが、夕日を受けたエトワスのダークブラウンの瞳は僅かに潤んだように見えた。
「……」
ディートハルトは一度目を伏せて小さく息を吐くと、エトワスに視線を戻した。そして、珍しく素直な笑顔を見せた。嘲笑でも冷笑でも卑屈な笑いでもない、こんな極上の笑顔を見ることが出来るのも、今のところエトワスだけだろう。夕日の光でオレンジ色に染まったブロンドが風で揺れ、さらさらとディートハルトの頬を撫でている。光を纏ったその姿に、エトワスは思わず見惚れてしまった。
「お前さ、言ったよな。おれがジジイになったのが見たいって。約束、守れよ」
「……ああ」
ディートハルトの少し甘い声質で話される乱暴で強気な言葉が、エトワスを現実に引き戻した。
「分かってる」
エトワスは頷いてフッと笑って見せた。
この季節、日が沈むのは速い。薄紫色になった東の空には、はやくも小さな星が瞬き始めていた。