11空には届かないビル ~呼び声~
少しだけ冷たい、微かに花の香りを含んだ風が頬を撫でる。木漏れ日の中をその甘い風に導かれるように歩いていくと、やがて薄い青色の花が咲き乱れる崖へと出た。
ここは……。
崖の縁まで登り切ると続いていた木立は途切れ、その代わりに真っ青な空が視界いっぱいに飛び込んで来た。そして、よく目を凝らすと、その晴れ渡った遠くの空に”島”のようなものが浮かんでいるのも見えた。浮游大陸――とでも言うのだろうか、そこに立ち並ぶ大きな白い建造物らしきものが、太陽の光を受けて蒼空にぼんやりと輝いている。光の加減やちょっとした大気の流れに左右されるのか、それは幻のように時折宙に溶けるようにかき消え、しばらくするとまたその不安定な姿を青空に浮かび上がらせていた。
……。
羽音とともに白い鳥の群が頭上を飛んで行く。
『?』
と、フワフワと一枚、真っ白な小さい羽が空から舞い落ちて来た。思わず、受け止めようと掌を差し出したが、それが伸ばされた手に触れることはなく風に煽られ届かぬ場所へと運ばれてしまった。やがて、視界からも届かぬ場所へ消えていった。
受け止めるべきものを失い空を掴んだ指先の向こうに、蜃気楼のように揺らめきながら今までほとんど見えないほどに薄くなっていた浮游大陸が、再びぼんやりとその姿を現す。
胸が痛くなるような懐かしさと同時に淋しさを感じながら、天を仰ぎ瞳を閉じた。
花の香りのする風が髪を揺らす。
イツ……?
『え……?』
不意に、何者かの微かな気配がした。
「やっぱり、ここにいたのか。おいっ!」
突如掛けられた、はっきりと言葉になったキツイ声が、彼を夢の世界から現実の世界へと誘う。
……ああ、そうか。……起きないと。
そのため、恨めしげに呟くもう一つの声は全く彼の耳に届いてはいなかった。
……キコエテイル ハズナノニ……。
* * * * * * *
「…………?」
「さっきから通信機鳴らしてんの気付いてただろ?返事ぐらいしろよ」
シヨウは不機嫌そうに、ぼんやりと座ったまま彼を見上げている瑠璃色の瞳の青年に言った。
「鳴らしてたんだ。気付かなかった……」
通信機のスイッチが入っていることを触って確かめながら、彼はそう呟くように言う。
「居眠りしてたから……」
「……」
言い訳するように口ごもるのを聞き、シヨウは薄く笑った。今二人がいるところはここヴィドールで一番高い建物の屋上だった。もともと立入禁止の場所なので人の落下を防ぐための安全対策のものは何もない。もちろん柵などといったものも無いのだが、足場がなくなるギリギリの位置に座って居眠りをするなんて、度胸があるのか単なる馬鹿なのか。居眠り中少しでも外側にバランスを崩そうものなら一巻の終わりだ。
「ラファエル、お前……」
シヨウは言いかけた言葉を呑み込んだ。この馬鹿が落ちて死んでも自業自得なので仕方がない。注意するだけ無駄だ。
「……よっぽどこの場所が好きなんだな。いないと思えば絶対ここにいる」
代わりにそう言いながらシヨウは視線を遠くへ、既に沈んだ太陽の残光の中ぼんやりとした紫色から闇へと変わりゆく街並みへと移した。そこには、ほとんど崩れかけていると言ってもいいような、古びた大昔の建築物を無理矢理修復し、継ぎはぎだらけになった不格好な建物が密集している。その一角に、グルリと四方を壁で囲まれ隔離された扇形になった場所があり、その区域だけ異国風の造りをした小綺麗な建物が整然と並んでいるのだが、今の彼らの位置からはちょうど反対側にあたるので見えていない。彼らが今いるセンタービルと呼ばれる建物は、その様な町のほぼ中央に位置していた。
「……ここが好きって訳じゃないよ。風の吹く高いところが好きなんだ」
ラファエルは立ち上がりながら言った。
「そうだとしても、怖くねえのかよ」
「それで、僕に何か用?」
シヨウの言葉には答えず、ラファエルは瑠璃色の瞳を彼に向けた。
「はぁ?仕事に決まってんだろ。新種が出来たから、今すぐデータが欲しいらしい」
「……新種?」
「今までみたいな、鈍い人形じゃないらしい」
シヨウはそう言うと楽しげに笑った。彼、シヨウとラファエルは、ここヴィドール国で通称”ファイター”と呼ばれている戦闘員だった。センタービル内にある聖域と呼ばれている関係者以外立入禁止の研究所で、研究員達が生み出したモノと戦い、その戦闘のデータを提供するのが主な仕事だ。他にも、逃げ出した研究対象である“実験体”を捕まえたり、失敗作を始末するのも彼らの役目だった。そのファイターの新入りとしてラファエルが研究員に連れて来られたのは二週間程前の事になる。
『今日から君らの仲間になる、ラファエルだ』
研究員のリーダー、グラウカという名の男が連れてきた新しいファイターは謎だらけの人物だった。グラウカの説明によれば、ラファエルは彼の弟で、ファイターへの適性があるため採用したのだという。しかし、シヨウたちファイターは誰一人としてそれらの話を信じてはいない。その理由は彼の左耳にあった。ラファエルの左耳には趣味でつけているらしい数個のピアスに並んで、実験体の識別のための目印が取り付けられているからだ。研究員達が研究対象のため連れ帰る生き物はその多くが魔物だったが、中には人に近い姿をしたものや“人”である事もあり、研究員たち曰く”優れている”方から順にA、B、C……とランク分けされている。そして、その実験体たちには自身のランクを示す目印が体のどこか目に付きやすい位置に取り付けられているのだが、その目印がラファエルの左耳にあり、イヤーカフのような金属に“RANK-X”と記されていた。実験体のランクがC以下になると見た目も含め魔物との差はないものばかりで、ランクそのものはEまでしかない。彼一人だけが”X”だった。
ラファエルは週に1度身体検査のようなものを受けていて、毎日”栄養補給飲料”と称した飲み物を与えられてはいるようだが、それ以外は他のファイター達と同じように過ごしていて、実験体としての扱いを受けている様子は特に見られなかった。しかし、そもそも彼が研究員であるグラウカによって連れてこられたということ自体が胡散臭かった。
通常、ファイターはヴィドール国内から募集して、戦闘の試験をクリアした者が採用される。ファイターを希望する者と言えば、シヨウのように体力と腕に自信のある強者ばかりだ。しかし、ラファエルはといえば、背は特別低い方では無いのだが、シヨウや他のファイターに比べると、身長だけでなく幅の方で到底及ばない。体の線が細くて痩せていて、とても戦うことを職業に出来るような人物には見えなかった。さらに、本人がこの職を希望したという事でもなさそうなところからしても、彼は他の実験体たちと同じように、グラウカ達が研究対象のために、どこからか連れてきた赤の他人に違いなかった。弟なんかであるはずがない。何故かは分からないが、無理矢理居場所を作るために“弟”と言う立場の“ファイター”にしたのだろう。誰もがそう感じていたのだが、それでも、ラファエル本人がグラウカのことを”兄さん”と呼び、ごく当たり前のように肉親として接している様子を目にすると、本人に尋ねるわけにもいかず皆そのことについては触れないようにしていた。
ピピッ
発信音と共にイヤホンから苛ついた声が響いた。
「シヨウ、ラファエルはまだ見付からないのか?」
同じ声がラファエルのイヤホンからも響く。グラウカの声だった。
「見付けましたよ」
シヨウは平然と答えた。
「じゃあ、さっさと闘技場へ来い!」
それだけ言うと、通信機の声はぷつりと切れた。
「聞こえただろ。行くぞ」
シヨウはすぐにそう声を掛けたのだが、彼にはグラウカの声もシヨウの声も聞こえていないのか、ぼんやりとした表情でどこか遠くを眺めていた。しかし、特に何か物思いに耽っているという訳でもなさそうだ。時折、彼はこうした表情を見せる。その様な時は生気が感じられず、まるで人形のように見えた。
「今回は、俺たちはただ付いているだけで、直接戦うのはお前一人らしい。ぼーっとしてると殺られるぞ」
シヨウは、金色の髪を風に靡かせながら無表情に立っているラファエルに背を向け、下に続く階段へ向かって歩き出した。
* * * * * * *
「黙っていては分からないだろう?兄さんに話してごらん」
ヴィドールの研究員グラウカはそう言って微笑みながら、俯いてベッドに座っているラファエルの隣に腰を下ろした。
『“兄さん”ね……』
近くの壁に寄りかかって立ちその様子を見ていたシヨウはそう思ったのだが、口には出さない。
グラウカは先程から何度もラファエルに口を開かせようと、根気強く優しく話しかけていたのだが、無視しているのか聞こえていないのか、彼の方は全く反応を示さなかった。
彼らは新種のドールとのテストバトルが終わると、そのままラファエルの個室に来ていた。個室と言っても、そこはセンタービル内の研究室がズラリと並ぶフロアの端にある、独房と呼んでも差し支えないような簡素なベッドと小さなテーブルしかない狭く薄暗い部屋だった。その寂しい部屋に、ほとんどグラウカの独り言ともいえる言葉だけがボソボソと響いている。しばらくすると、無視され続けて腹が立ってきたのか、グラウカは苛ついた様子で言った。
「返事くらいしたらどうだ?アクアは君よりずっと幼い子供だが、素直で協力的で、何より勇気がある。君はどうだ?怯えてだんまりなんて子供じみていて恥ずかしいとは思わないのか?」
「……」
一瞬、ピクリとラファエルの体が動いたが、やはり何も答えなかった。グラウカはラファエルの顎を掴み、強引に自分の方を向かせた。
「私も暇じゃないんだ。いい加減にしろ!」
無理矢理顔を上げさせられ、瑠璃色の瞳が酷く怯えた様子でグラウカを見る。すると、グラウカは勝ち誇ったように唇を歪ませた。
「私の質問に答えるんだ」
「……」
ラファエルは眉を顰めていたが無言のまま視線を逸らした。すると、グラウカは何も言わずに突然手を上げた。
「!」
左頬を殴られた勢いで、ラファエルがベッドから床に投げ出される。
「おい!何でいきなり殴るんだ!?」
ラファエルに駆け寄ったシヨウが、ラファエルを起こしてやりながらグラウカを非難する。
「言葉で分からないのなら、仕方ないだろう?躾だよ」
グラウカは小さく笑って言った。
「ラファエル。また殴られたくないなら、さっさと話すんだ」
ラファエルは、床に両手を着いた状態で俯いたままでやはり答えない。
「グラウカさん、俺はもう部屋に帰っていいだろ?」
シヨウは溜息を吐き、呆れたようにそう言った。
「俺がいるから話さないのかもしれない。兄弟二人きりの方がいいだろ」
立ち上がる前にシヨウはラファエルの表情を窺ったが、俯いているためどのような顔をしているのか分からなかった。
「仕方ないな。じゃあ、今日は私も諦めよう」
『何なんだ?』
シヨウは、あっさりそう言ったグラウカの事を内心訝しんでいた。前々から不審に思っていたのだが、どうもこのグラウカという研究員の男は”弟”のラファエルのことを実は怖がっているのではないかという気がする。二人きりになるのを極力避けているようだからだ。必ずファイター最低一人を伴ってでなければ、ラファエルに近付こうとしない。そして、それは他の研究員にも同じ事が言えた。
『何で二人きりになる事を避けるんだ?こんな大人しいガキが恐いってのか?』
シヨウの視線の先には、”大人しいガキ”が相変わらず俯いて床の上に座っている。
「また明日来るよ」
グラウカはそう言いながらラファエルの肩にそっと手を置いた。それは、本人も意識していないほど何気なくなされた行為だった。しかし、その瞬間、ラファエルは徐に顔を上げてグラウカの顔をギロリと睨み付けた。
「……おれに、触るな……!」
吐き捨てられた台詞とその表情からは強い嫌悪感が感じられる。手を引いたグラウカは、思わず数歩後ずさりした。
『何……?』
先に部屋を出ようとしていたシヨウも聞き違いかと思い、思わず大きく振り返った。床の上にはやはり今も同じ位置に座っているラファエルが、先程とは違いグラウカを鋭い視線で見上げていた。薄暗い部屋であるにも関わらず、その瑠璃色の瞳はやけに鮮やかで煌めいているようにも見える。
「テメェよくも殴りやがったな……」
そう言って、ラファエルはゆっくりと立ち上がった。
「……どうしたんだ?ラファエル。……君らしくないな」
一瞬表情を強ばらせはしたが、グラウカはすぐに口元に微笑みを浮かべて穏やかにそう言った。その、場にそぐわないわざとらしいまでの穏やかさは、ラファエルを宥めるためであるのと同時に自分自信を落ち着かせるためのものでもある。
「……!」
その様なグラウカの言動は、効果があったらしい。
”君らしくない”その一言が、ラファエルの脳に稲妻のように突き刺さる。
……おれらしくない……おれ……らしく……?
『ラファエルは昔から優しい子だったね』
グラウカがよく口にする台詞までもが、混濁した脳裏に幻聴となって響き始めた。
「いけないな。仲間のファイターたちの言葉がうつったのかい?」
「……」
グラウカが冗談っぽく笑いながらシヨウの方へチラリと視線を向けると、ラファエルは困ったように眉を顰め、やがて頭を抱え込んでしまった。
「……分かんねぇ……俺……おれは……違う!……”僕”は……どうしたんだろう?……ごめんなさい」
突然の豹変ぶりに自分自身で驚いてしまい、ラファエルはシュンとしてグラウカに謝った。
「いや。それより、ラファエル」
今なら話を聞き出せるかもしれない。そう考えたグラウカは、改めてラファエルの方に向き直った。しかし、話をするには少し距離がありすぎると言っていい程の位置に立っている。シヨウの目には、グラウカがわざとそうしているように見えた。
「さっきは殴って悪かったね。君が無視し続けるからつい腹が立ってしまったんだ。それで、あのドールと対面してから様子がおかしいようだったね?一体どうしたんだい?」
グラウカは1時間前から繰り返している質問を、再度ラファエルに投げかけた。すると彼は、それが不快だとでも言いたげに表情を曇らせたまま頭を上げ、幼い子供のように首を横に振った。
「僕は、もう……あいつとは会いたくない」
「どうして?」
「……」
再び押し黙ってしまいそうな雰囲気のラファエルに、グラウカはそうさせまいと少し強い口調で尋ねた。
「怪我をさせられたからかい?」
グラウカがそう尋ねると、ラファエルは負傷した腕を隠すように血の滲む巻かれた包帯をギュッと握り、かぶりを振った。そして、グラウカの視線から逃れるため再び下を向いた。腕だけではなく、殴られたばかりの顔も含めて体中あちこちに傷を負っている。
「あの新しいドールは、今までのものとは姿も形も全く違っただろう?あれのベースは、これ迄の物より”地底の種族”の割合が大きいんだ。本当は”地底の種族”と言ってしまう程高等な生物ではないんだが。簡単に言えば、仲間みたいなものが土台になっている。ラファエル、君はどう感じた?あれと”仲間”だという気がしたんじゃないかい?」
「え……?」
”仲間”という言葉にラファエルははっとして顔を上げた。
しかし、グラウカのどこか異様な印象を受ける眼差しに気付き、すぐに怯えたように瑠璃色の瞳を彼から逸した。
「そう感じただろう?」
肯定以外の言葉は許さない。ラファエルは、グラウカの微笑がそう言っているように思えた。
「……だって兄さんは、僕はずっと昔の人の血がほんの少し混ざってるかもしれないだけだって……。研究用の他の実験体とは全然違うから、嫌なことは何もしないから、心配しなくていいって。……僕は、あいつと同じなの?」
グラウカの問いには答えず恐る恐る顔を上げそう言うラファエルを、グラウカは小馬鹿にしたように笑った。
「アレとは同じじゃない。鏡を見れば分かるだろう?姿形が全然違う。それに、アレは私たちが作ったものだが君は違う。私が以前言った、そして君が今言った通りだよ。 ラファエル、君にはずっと昔に存在していたけど絶滅してしまったとされている種族の血が、ほんの少し混ざっているかもしれない。我々地上に暮らす人間たちとは別の種族の血だ。それが、”地底の種族”かその他の種族のものかはまだ分からない。だけど、我々の間では”地底の種族”説が一番有力でね。今回はそれを確かめるために、君一人だけドールと戦ってもらったんだ。”地底の種族”は闘争本能が強い。同種族で同性のものが出会えばかなりの高確率で戦いが始まる。そもそも”地底の種族”というのは……」
そのままにしておけば長く続きそうなグラウカの言葉を遮り、ラファエルは怖々口を挟んだ。
「でも僕は……あいつと戦いたいとは思わなかったよ。仲間とも思わなかった。少し気持ちが悪くなっただけで」
すると、グラウカは、ラファエルの言葉が意外だとでも言いたげに少しだけ目を見張って彼を見下ろした。
「思わなかった?全く?嘘じゃないだろうな?……そうなのか?では、別の種族の可能性があることも否定できないな。しかしまあ、元にしたのが”地底の種族”のなれの果て、ほとんど魔物みたいなものだからな。次は、元にした方と戦わせてみるか」
グラウカの独り言にラファエルは哀しげに表情を曇らせた。それを目にしていながら全く気にした様子もなく、グラウカは笑いながら続けた。その笑顔はどこか勝ち誇っているようにも見える。
「本当は、他に会わせたい人物がいるんだが、君にも彼にも悪い影響を与えるかもしれないと思ってね。彼は凄いぞ。ランクAの古の種族だ。上手くいけば、君ともいい友達になれると思うよ。まあ、そのうち会うことになると思うから、楽しみにしておくといい」
グラウカの言葉に、ラファエルの大きな瑠璃色の瞳は泣いてしまうのではないかと思うくらい怯えた表情を浮かべていた。
「それじゃ、あんたも絶滅種の生きた化石なのか?グラウカさん。ラファエルは、あんたの弟なんだろ?」
端からそれを見ていたシヨウが、グラウカとは対照的に冷めた表情で口を挟む。グラウカが”地底の種族”の血を引いているかどうかを疑問に思って尋ねたわけではない。誰が何の血を引いていようが彼にははっきり言って全く興味なかった。ただ、どうやってラファエルに彼を”兄”だと信じ込ませたかは分からないが、グラウカや他の研究員たちのやり方は気にくわなかった。どこから連れてきたのか、こんな無害そうな気弱なガキを騙してオモチャにしている。絶滅種の人間の生き残りかそうでないか調べて一体どうするつもりか知らないが、そっとしておいてやればいいのにとも思う。シヨウのグラウカに対する言葉は、そう言った気持ちを含んだささやかな嫌味だった。しかし、グラウカの方は何処吹く風と微笑を返した。
「残念ながら私は違う。ラファエルと私の母親は違ってね。彼女が”地底の種族”の血を引いていたらしい。死んでしまったのが残念だよ」
『胡散臭い野郎だ』
シヨウは、ぬけぬけと語るグラウカの言葉をそう思いながら聞き流し、適当に相槌を打ってからラファエルの部屋を出た。もちろん、グラウカもすぐに後に続く。今回はラファエルに触れようとも声を掛けようともしなかった。
「……」
未だ怯えの色を浮かべながら、グラウカの姿を視線で追う瑠璃色の瞳の前で、冷たい金属製の灰色の扉は高い音と共に閉ざされた。
ラファエルは扉の前に立ち二人分の足音が次第に遠ざかりほとんど聞こえくなるまでずっと耳を澄ましていたが、やがて辺りが静けさに包まれると、部屋の明かりを消して疲れ切ったようにドサリとベッドに体を投げ出した。
「!」
固いベッドに考え無しに倒れたため、腕の傷に予期せぬ衝撃が走り思わず顔をしかめる。その傷は、新しいドールに付けられたものだった。グラウカの話によると、それは”地底の種族の成れの果て”をベースにして造られたものだった。人の形をしていて目鼻口はあるが、目のある部分には真ん中に一つだけ眼球のような物がある。まつ毛も眉も髪も無く、その表面は筋肉が剥き出しになっているような不気味な姿をしていた。
1時間程前、テストバトル専用のファイターたちの間で闘技場と呼ばれている高い壁に囲まれた広い部屋の中央で、檻の中に入ったドール1体とラファエルは一人で対峙した。その時、感情などあるはずのない人形の不気味な暗い赤い目が、笑っているかのように歪められた。少なくともラファエルにはそのように見えた。
「……」
思い出してしまったドールの姿を頭から追い出すように、ラファエルはうつ伏せに倒れていた状態から、大きく体の向きを変えて壁の方を向いた。
「……」
続けて何度か寝返りをうつ。しかし、その姿を忘れようとすればするほど、いっそう鮮明に思い出された。
「……」
15分後。
ラファエルは上半身を起こし、すぐ近くのテーブルの上に置いてある大きめの透明なガラスの瓶に手を伸ばした。それは、グラウカが以前持ってきてくれた睡眠薬だった。白い錠剤は瓶の半分ほど残っている。蓋を開け、ラベルに書いてある通りの決まった数だけ取り出すとそのまま口に放り込み、無理に呑み込むと再び横になって薄っぺらの毛布にくるまった。寒かったが、しばらく我慢していればそのうち眠りに落ち、夢も見ることなくぐっすり眠れるはずだ。ラファエルはそう考えるとやっと安心し、疲れた体を休めるために瞼を閉じた。
* * * * * * *
一言も言葉を交わさぬまま、部屋を出るとすぐにグラウカと別れ、似たような造りの部屋がズラリと並ぶ研究所フロアからファイターたちの生活の場であるフロアへ階段を使って移動したシヨウだったが、目的地のフロアへ残り数段というところで足を止めていた。
「……」
片足だけは次の段に降ろしたままという中途半端な姿勢のまま、考え込む。
『ラファエルと新しいドールの戦闘データを取る』
そうグラウカら研究員が言ったため、シヨウも含めファイター3人がラファエルと共にその戦闘に参加した。参加した、と言ってもあくまでラファエルが生命の危機に陥った状況以外で手出しをすることは禁じられていたため、3人とも同じ室内の距離を置いた位置で待機していた。硝子越しの安全な部屋から研究員らに見下ろされる中、運び込まれたドールの檻が、ラファエルの正面で開かれた。途端に室内の空気が一変し、緊張した殺気だったものになる……はずだった。しかし、ドールの方は誰もが予想した通りラファエルに向かって飛び掛かったのだが、肝心のラファエルの方はぼんやりとしたままで動こうとしなかった。僅かの間にその無防備な体は傷だらけになっていく。それでも、反撃も防御もしようとせずに彼は床に蹲り『嫌だ』、『帰る』等と言い出した。今更ドールと戦うのが恐くなったというのだろうか?そう思い、シヨウたちは予期せぬ出来事に唖然としたが、そのまま見ていれば確実に殺されてしまうと判断し、研究員たちの指示は待たずにドールを倒した。
『あれで、どこがファイターの適性があるって言うんだ?そのうち、ドールかグラウカたちに殺されるかもしれねえな……』
階段に立ち止まったまましばらくの間考えて、シヨウが出した結論はこうだった。”ドールとは会いたくない”と半べそをかいているようなガキが、ファイターなんかやっていけるわけがない。毎回あれではこちらが迷惑してしまう。ランクXの実験体だか何だか知らないが、さっさと元居た場所に帰すべきだ。グラウカ達には気付かれないように自分が手伝ってやってもいい。そのためには、まず彼について色々話を聞き出す必要がある。
バンッ
「おいっ、ラファエルっ!入るぞ!」
思いついたら即実行。それが彼、シヨウのモットーだった。しかし、裏を返せば実は深く考えるのが苦手なだけともいえる。常日頃、仲間のファイター達の部屋へ入る感覚と同じようにノックもせず少々乱暴に扉を開き部屋の明かりをつけると、ラファエルはびっくりしたようにベッドから体を起こした。入ってきた時と同じようにシヨウはドアを勢いよく閉める。
シヨウとグラウカが共に彼の部屋を出てからまだ30分と経っていなかったのだが、ラファエルは既に寝入っていたらしい。ぼんやりとした眠そうな一対の瑠璃色の瞳がシヨウの方へ向けられた。
「また、仕事?」
目元をゴシゴシこすりながら、ラファエルは入ってきたシヨウにそう尋ねた。
「いや。暇だったら、ちょっと付き合わないか?ま、行き先はファイター専用の食堂だけどな。でも、行ったことないだろ?たまには、あいつらが用意するもの以外のもんを食ってみるのもいいんじゃないか?」
「……」
突然のシヨウの誘いに何かしらの返事をしようと、ラファエルが口を開きかけた時だった。
ピピッ
ファイター達が常に携帯している通信機が鳴った。続けてイヤホンから流れる男の声が、実験体が逃げ出したことを告げる。8年近くファイターをやっているシヨウにとっても、逃げ出した実験体を捕らえるのは久し振りの仕事だった。捕らえると言っても、逃げ出すのは大抵“実験体”と呼ばれているだけのランクの低い獰猛な魔物なので、殺しても構わない。というのが常だった。しかし、今回は違っていた。逃げ出した実験体のランクは”B”で、姿形も魔物のそれではなく人……少女だという。ランクB以上は研究室フロアの中でも限られた者しか立ち入る事の出来ないエリアにいて、そこから出る事はないため、シヨウ達ファイターも目にした事は無い。
「手荒な行為は慎み、必ず無傷で捕獲すること」
そう念を押し、通信機からの声は途切れた。
「ランクBか……」
ふと呟いたシヨウの視線が、ラファエルの瑠璃色の瞳とぶつかった。
『……こいつも実験体なんだよな。”X”だけど』
『神をも冒涜する所業』
彼のごく身近にいる人物が、口癖のように言っていた言葉がふと思い出される。表情の窺えない瞳で自分を見上げているラファエルを見ていると、シヨウは複雑な思いがしてきた。
「……誰だろう?」
その時、シヨウの背後にある扉の方へ視線を移したラファエルが、ふと首を傾げた。
「あ?」
「……誰か、扉の向こうにいる気がする」
「開けてみりゃいいだろ」
シヨウはそう言いながら既にドアノブに手を掛けていた。
「?」
しかし、扉を開いてみると、そこには誰の姿もなかった……と一瞬思ったのだが、相手はシヨウがかなり視線を落とした位置にしっかり立っていた。
「ラファエルさん?」
シヨウを思いっきり見上る姿勢でそう尋ねたのは、長い緩やかなウェーブを描く柔らかそうな水色の髪をした幼い少女だった。南国の海の様な青みがかった淡い緑色の瞳が好奇心いっぱいにシヨウを観察している。
『何でガキがこんなところに?』
子供などいるはずの無い環境に幼い子供がいる事に一瞬驚いたが、研究員の誰かの子供なのかもしれないとすぐに納得した。親の仕事が終わるのを待っているのだろう。
「いや、俺じゃなくてあっちが……」
そう言いかけたシヨウの視線は、少女の左手に釘付けになった。細い手首に銀色の輪が光っている。そして、そのブレスレットには”RANK-B”の文字が彫り込まれていた。
「実験体!?」