序章~1赤の夢
ご覧いただき、ありがとうございます。
普段は絵ばかり描いていてお仕事なども頂いているのですが、
元々文章を書く事も(読む事ももちろん!)好きで、絵と同じようにずっと趣味で書き続けていました。
こちらのお話は、何年も前からホームページやSNS等にコッソリ投稿していたものですが、
ふと思い立って今回こちらにも投稿してみる事にしてみた次第です。
序章
気が付くと、真っ青な世界にいた。
水の中にいるのだろうか?そう思ったが、普通に呼吸している。
ああ そうか……
思い出した。
ここはおれの場所……
どこまでも透明な、深い、そして鮮やかな碧の世界。
この世で一番落ち着くことのできる心地の良い美しい場所。
永遠にここで眠っていられたら……
しかし、この世界にも時の流れはあった。
!
突然現れた招かれざる来訪者が、耳障りな騒音と共に静寂を破る。
何を言っているのかは分からない。姿すら見えない。
しかし、確かにそこに存在するその者は何かを訴えかけていた。
……またお前か
その者は、彼がこの青い世界に来る度――青空の夢を見る度に必ずやってくる。
そして、言いようのない不快感と不安を与える。
消えろ!!
強い嫌悪からの言葉も、全く効果をなさない。
それどころか、見えない来訪者は数を増し、騒音も絶えがたいまでになってくる。
……やめて……くれ!!
「ディートハルト」
「……う」
名前を呼ばれて目を開けると、こちらを覗き込んでいるダークブラウンの瞳が視界に入った。瞳と同じダークブラウン色の髪の凛とした整った顔立ちの青年が、心配そうに表情を曇らせている。
「エトワス……」
その瞳の主の名を呟くと、すぐに彼は何か言おうと口を開きかけたのだが、そんなエトワスを押しのけて、黒髪をしたロイという名の青年が、腰に手を当てた高圧的な態度で上から見下ろしてきた。
「おい、お前状況が分かってるのか?歩いてたら、いきなりぶっ倒れたんだぜ?」
ゆっくりと砂上から体を起こし、不思議そうに自分を取り囲む者達を見上げるディートハルトに、ロイがそう説明する。きつい声音で責めているような口ぶりだった。
「飲んで」
と、エトワスが水筒を差し出した。ロイとは対照的に彼の声は穏やかで、その見た目によく合った爽やかで涼し気なものだった。
「いい。喉乾いてない」
悪夢から現実に引き戻してくれた安心できる彼の声を、心地よいと感じながらも態度には出さず、ディートハルトは素っ気なく顔を背けて視線も逸らす。
「乾いてなくても飲め」
断った直後に改めてそう言われ、ディートハルトは水筒を受け取ると少し水を飲んだ。自分でも、水分補給が必要なのかもしれないと思ったからだ。
「熱中症ってやつ?この季節に、この暑さだからな~」
少し離れたところでしゃがんで一服していた別の黒髪の青年――翠が、眩しそうに空を見上げながらそう言った。
「違う」
そう言って首を振ったディートハルトは、やっと自分たち5人が荒れ地を北上中だということを思い出した。そういえば、体を支えるため地面についていた手が、やけに熱い。
ファセリア帝国の帝国学院騎士科の学生達は、卒業前の最後の試験―と言うより儀式と、言った方がふさわしいかもしれないが……に、帝都ファセリアの北東に広がる砂と岩だらけの荒れ地に棲む通称”蟻地獄”と呼ばれる巨大な虫型の怪物を駆除しに行くのが恒例となっている。毎年ちょうどこの時期、荒れ地の中心に広がる砂漠の蟻地獄たちの補食活動は通常の倍ほどに増し、運悪く蟻地獄の巣が集中している場所にある町の住民たちはその被害を多大に被っていた。もっとも、人間たちがたまたま怪物の巣穴付近に町を作ってしまったのか、逆に餌の多い町周辺に蟻地獄たちが寄り集まってきたのか、その事実は定かではない。そしてまた、帝国北東部の半島ルピナス地方さらにその半島の南部にあるレーヌ地方と、帝都を結ぶ主要な行路を利用する行商人や旅人たちにとっては、荒れ地にある町は重要な中継地点となるため、活発に捕食に励む蟻地獄に悩まされていた。そのため、学生であるファセリア帝国兵の卵たちが、実戦訓練と卒業試験の単位取得を兼ねて魔物討伐―害虫駆除の名目で帝都から派遣されているのだが、ディートハルトら5人もその様な騎士科の学生だった。
「じゃあ、貧血か?」
ディートハルトの答えにロイはあからさまに馬鹿にしたような目を向けた。そしてその言葉に、やはり冷たい目でディートハルトを見ていたリカルドという名の同級生も、砂を含んだ埃っぽい風で乱れてしまった淡い金髪をなでつけながら冷ややかに言った。
「女子なのは、顔だけにしてもらいたいものだな」
二人の言葉にディートハルトの頬は紅潮し、その鮮やかな瑠璃色の瞳が二人を睨み付けた。
「あ~、リカルド君、それ女子が聞いたら殺されるよ?」
しゃがんだままの翠が、のんびりした口調でそう言うが、リカルドは無視してディートハルトに言葉を続ける。
「何だその目は?お前、自分の立場が分かってるんだろうな?」
答えに詰まるディートハルトに、さらにロイが追い打ちをかけた。
「“時計持ってないから、今何時か分かりません”なんて言うなよ」
教師の指示によってチームを組まされた学生達が校門を一歩出た瞬間から、試験はもう始まっている。第一段階の試験は決められた時間内に目的地である砂漠の町トゥーズへ辿り着くことだった。帝都からトゥーズ間、そしてトゥーズから東のルピナス地方の主要都市までは商人や旅人達が利用する石のブロックが敷き詰められた”荒れ地の道”が通っているのだが、蟻地獄以外の凶暴な魔物達が行く手を阻むことも少なくなく、道があるとはいえ風に飛ばされた砂に埋もれてしまい方角を見失って命を落としてしまうこともある。太陽の位置を利用すれば時刻だけでなく方角を知る事も出来る腕時計は必ず身につけて行くよう試験前学院の教師にきつく言われたのだったが、少なくとも彼らのグループ内ではただ一人、ディートハルトは腕時計を所持していなかった。学生寮の部屋のベッドの上に置きっぱなしにして出てきてしまっていたからだ。
「……」
返す言葉がなく悔しげに、しかし怒った様子でロイを見上げているディートハルトに、ロイは大げさに溜息を吐いてみせた。
「情けねぇな。I.Kが貧血で倒れたなんて、笑い話にもならないぜ」
I.Kというのは、ファセリア帝国の皇帝直属の兵士「Impelrial・Knight」の略称で、毎年、騎士科の卒業生達の中から数名ずつ選ばれる。その対象は成績優秀者だったが、それだけではなく密かに学生達の中に自分の配下の者を紛れ込ませている皇帝が、個人的に学生達を調査して選んでいるという噂もあった。現在行動を共にしている5人のうち、ロイ、リカルド、翠、そしてディートハルトも卒業後I・Kとなることが決まっている。残りの一人エトワスだけは、帝国南部のウルセオリナ地方を治める領主である公爵家の跡継ぎなので、彼らとは違う別の将来が決まっていた。
「待っててくれなんて、頼んだ覚えはねーぞ!」
とうとう開き直ったのか、半分逆ギレ状態のディートハルトが悪態をついた。
「何だその態度は!?」
ロイも腹を立てて声を荒げる。
「文句あんのかよ!?」
二人の間に緊張が走り、途端に周囲の空気が険悪なものに変わる。
「そろそろ行かないと、夕方までにトゥーズに着かないぞ」
場にそぐわない穏やかな調子でそう言いながら、さりげなくディートハルトの視線を遮るように二人の間に立ったのは、今まで黙って彼らの様子を見ていたエトワスだった。
「夜の砂漠は危ないから、遠慮したいねえ」
続いて、煙草の吸い殻を靴の先で踏み消しながら翠が立ち上がる。
「キサラギ、煙草」
「はいはい。分かってますよー」
リカルドに指摘され、翠が吸殻を拾い上げ携帯用の灰皿の中に入れる。
「行くぞ」
ディートハルトは非常に何か言いたげだったが、先に立って歩き出したエトワスの後ろに大人しく付き従った。それを見たロイも、舌打ちをしたものの渋々歩き出す。エトワスの言う通り、急がなければ試験の制限時間に間に合わないからだ。微妙に険悪な雰囲気を残したまま、トゥーズまでの道のり残り数キロを5人は無言で歩き出した。
1赤の夢 ~砂漠の街トゥーズ~
5人が荒れ地の町トゥーズに着いたのは、試験の制限時間ギリギリの日が沈もうとしている頃だった。
「遅かったな。君達が最後だぞ」
街の入り口で待っていた疲れた顔の試験官の教師に学生証を提示し、指示された宿へ行ってみると、教官の言った通り他の学生達のグループは既に全員着いていて貸し切り状態の宿は帝都ファセリアの学生寮の様になっていた。
「おー、お前ら無事だったんだな。あんまり遅いから、もしかしたら魔物に殺られたんじゃないかって噂になってたんだぞ。ちなみにだけど、俺達は一番だったぞ」
宿の一階にある食堂に向かおうとしていた同級生が、そう声を掛けて来た。彩度も明度も高い淡い金髪にブルーグレーの目をした人懐っこそうな学生だ。
「え、マジで?フレッド君達が一番って、何時頃着いたの?」
翠がそう尋ねる傍ら、リカルドとロイは立ち止る事無く上の階へ続く階段へと足を向けた。
「フフン。褒めていいぞ。昼過ぎには着いてた」
得意げにフレッドがニッと白い歯を見せる。
「へえ、凄いな」
「凄いけど、マジで?ちょっと早すぎない?」
エトワスは素直に褒めたが、翠は訝し気に言った。
「めっちゃ走ったんだよ。歩くより走った方が早く着くし、魔物に出会う確率も減るんじゃないかって話になってさ。そしたらマジで魔物がほとんど出なくてさ。ラッキーだった。疲れたけどな」
フレッドが笑顔で答えると、翠は半ば呆れた様に笑った。
「何それマジで?走って疲れてヘロヘロになってるとこを魔物に襲われたらヤバそうだけど」
「だからさ、魔物が俺達の前に現れるタイミングを逃してしまうくらいの勢いで、走ったんだよ。あれ、今人間通った?くらいに」
「……」
同級生達の会話を無言で聞いていたディートハルトは、少し眩暈を感じていた。昼間の暑さのせいかもしれない。そう思っていると、不意に横から体に腕をまわされた。ふら付いてしまったところを、傍らに立っていたエトワスが支えてくれた様だ。
「フレイク、大丈夫か?具合が悪いのか?」
気付いたフレッドが、心配そうに表情を曇らせる。
「別に、何ともねえよ」
「でも、顔色が……」
「ずっと歩きっぱなしで、やっと到着したばかりだからな。俺も疲れたよ」
フレッドの言葉を遮る様にエトワスが言う。
「そっか。じゃ、早く部屋で休まなきゃだな。5人じゃちょっと狭いけど、結構快適な部屋だったぞ」
ディートハルトが“ほっといてくれ”といった反応を示す事は分かっていたため、エトワスはわざとそう言い、すぐにそれを察したフレッドもニコリと笑顔を見せてそう答え引き下がった。
グループのメンバーは全員同じ2階の部屋だったのだが、ディートハルトとエトワス、翠の3人が部屋に入ると、リカルドとロイの二人組は入れ替わりに部屋を出て行き、エトワスまでもが荷物を置くとすぐに何処かへ出掛けてしまった。
「うーん。皆出てっちゃうなんて、オレら嫌われちゃってるねぇ、ディー君」
翠はベッドに寝そべった状態で煙草を一服しながら、隣のベッドで蹲っていたディートハルトにニヤリと笑いかけた。
「お前さ、寝ながら煙草吸うのやめろよ」
体の向きを変えて、ディートハルトが翠を一瞥する。
「嫌われてるのは今に始まったことじゃねえだろ。それに、お前みたいなユルイ奴、あいつらには我慢できないんだろ」
とは言ったものの、リカルドとロイの二人が嫌っているのはグループ内の自分一人だけだという自覚はあった。リカルドもロイも、普段、翠には普通に接していて互いに絡む事もないし喧嘩をしたこともなく、つまり、何とも思っていない。そして、翠もその事を分かっているはずだ。
「酷いこと言うねえ。オレって、すっごい真面目な好青年だと思うけどな~」
翠は、そうぼやく。ディートハルトの毒舌には馴れていて、返ってきた言葉は予想していた通りの物だったので全く怒る気にはならない。
「まあ、オレら以外はイイとこのお坊ちゃんが多いもんな。ロイは、ファセリア地方の貴族で、リカルドは、ディー君の出身地ルピナス地方の領主、伯爵家の末弟だし、エトワスなんて国で一番力のあるウルセオリナ地方の次期領主、公爵家の跡継ぎだもんな。しかも婆ちゃんが先々代の皇帝の妹で、エトワスは今の皇帝陛下の再従兄弟様っつーね。皇帝の親戚なんて笑えるっつーか。そんな上級お貴族様パーティーの中にオレら庶民が混ざってんのが気に入らないんでしょ」
話していて可笑しくなり、翠は笑う。
「……」
「ん?何?また気分でも……」
言葉を返すことなく固く目を閉じているディートハルトを翠が覗き込もうと体を起こした時だった。今まで部屋にいなかった”皇帝陛下の再従兄弟様”エトワスが、急に現れてディートハルトのベッドの傍に立ち屈み込んだ。
「どうした、大丈夫か?何処か具合が悪いのか?」
「……え?エトワス?あ、何でもない。ちょっと寝てただけで」
すぐ嘘と分かる事を言うディートハルトに、エトワスは小さく溜息を吐くと手にしていた焼き物のマグカップを差し出した。
「そうか。じゃあほら、これを飲め。薬湯だ」
「お前、他の部屋に行くって言ってなかったっけ?どこ行ってたんだ?」
翠が、エトワスに尋ねる。部屋を出る際に、エトワスは『ちょっと出て来る』と告げていたため、他の学生の部屋にでも行ったのだと思っていた。
「いや?“出て来る”とは言ったけど。どうせディートハルトは病院なんか行かないだろうから、代わりに薬をもらいに行ってたんだ」
エトワスは、同じ宿に滞在している教官の元へ行って事情を話し、町の医者か薬屋を訪ねるつもりだったのだが、たまたまその教官が一階の食堂に居たため、その場に居合わせた宿の経営者の妻が話を聞いていて、「それなら」と、この薬湯を用意してくれたのだった。
「本当は、診療所か薬屋に行こうと思ってたんだけど……」
と、事情を説明する。
「……薬って、これ何の薬だ?変な臭いがするし、ドロドロしてる」
上体を起こし、ツンとした異臭を放つカップを受け取りながら、ディートハルトは不安そうな顔でエトワスを見上げた。
『つか、本当に効くのか?診察もしてもわらわずに、怪しすぎる……』
と、考えながら翠も苦笑いしている。
「万病に効く薬らしいよ。熱中症にも効果があって、栄養もあるし疲れをとるのにもいいらしい。多分、大丈夫。この近くで採れる植物が原料って言ってたから」
エトワスはそう言ってにこりと笑った。端から見れば友人を気遣う優しい笑顔に見えるが、実はその笑顔が有無を言わさず『さっさと飲め』ということを意味していることをディートハルトは知っていた。だから、“多分”という言葉に引っかかったが、何も言わずに素直に飲む。
「うぅっ!」
酸っぱい上に何だかしょっぱくて、さらに苦みも強く、形容し難いきつい匂いもして、飲み込もうとしても勝手に戻ってくる程不味かった。
「……おれ、別に健康だから薬なんて飲まなくても……」
「明日また、ぶっ倒れたくないだろ?子供みたいなこと言ってないで全部飲めよ」
耳に心地よい爽やかな声で反論できない事を言われ、ディートハルトは口を尖らせる。
「じゃ、エトワスも味見してみろよ。エトワスが飲めるんなら、おれも全部飲むよ」
挑む様にそう言うと、エトワスはカップを受け取り一口飲んだ。
「あ」
エトワスは絶対飲まないだろうと予想していたが、予想は外れた。
「……酷い味と匂いだな」
そう言って、エトワスは少し眉を顰める。
「まあでも、いかにも効きそうな感じではあるな」
カップを返され、ディートハルトは迷っていたが、エトワスはちゃんと飲んでいたため、仕方なく息を止めると、たっぷり残っていた薬を一気に飲み干した。
「~~~~~」
吐きそうになるのを何とか堪えたものの、あまりの不味さに目を潤ませているディートハルトを見て、翠が気の毒そうに苦笑いしている。
「ディートハルト、お前が偏食なのは知ってるけど今まで倒れたことなんて一度もなかったよな?ほんとにどこか体の具合が悪いんじゃないのか?」
ダークブラウンの瞳が、いつになく真剣にディートハルトの瑠璃色の瞳を覗き込む。
「なんともねえよ」
ディートハルトは眉を顰め、そっぽを向いた。
「ちょっと風邪気味なのと、疲れてるだけだ」
昼間、荒れ地を歩いているとき急に体が重くなったのを覚えている。その後誰かが自分を呼んでいるような声が聞こえたと思ったら世界が回って……それから先はエトワスに名前を呼ばれて気が付くまで覚えていない。何か忘れてはならない夢を見たような気がするが、全く思い出せなかった。
「そうか……」
エトワスは、小さく溜息を吐く。まだ何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
「な、ディー君も大丈夫そうだしさ、メシ食いに行かね?」
翠が煙草の火を消しながら、のそりとベッドから身を起こす。
「その“ディー君”ってのやめろよ」
いつまでも自分の体調の事を話題にされているのは嫌だったので、ディートハルトは翠の言葉に反応した。話題を変えるためだが、半分八つ当たりしていた。
「何を今更?呼びやすいからいいじゃん。なあ?」
同意を求められ、「別に、いいんじゃないか」と答えるエトワスにディートハルトは不機嫌そうな声で抗議する。
「よくねえよ。もうすぐ社会人なのに」
話しながらベッドから身を起こすと、またクラりと眩暈がした。それを誤魔化す様に少し長めの前髪をかき上げる。
「でもさ、オレら仲良しじゃん?」
「エトワス、行こーぜ」
ディートハルトは翠の言葉を無視して立ち上がると、エトワスの腕を掴んで引っ張った。
* * * * * * *
夜明け近く、ディートハルトは悪夢にうなされ目を覚ました。
「……」
薄暗がりの中、冷たい汗に塗れた額をTシャツの肩口でゆっくりと拭った。すぐ近くの、ディートハルトの足側に置かれたベッドに目をやると、いつの間に戻ってきたのかロイが憎らしいほど心地よさそうにスヤスヤと寝息をたてて眠っていた。その隣の一番端のベッドでは、やけに寝相の良いリカルドが胸の上で両手を組み仰向けに寝ている。彼もまた、快眠を貪っているようだった。そして、ディートハルトの左右それぞれ隣のベッドのエトワスと翠も、それぞれ壁の方を向いていて顔は見えないが、よく眠っているようだ。
ディートハルトは他の者を起こさぬようにそっとベッドを抜け出し、枕元に畳んで置いていた制服のズボンをはくと部屋を出た。そして、そのまま廊下の端にある屋上へと続く階段を上る。
外へ出ると、汗をかいたせいもあり砂漠の夜の乾燥した空気が冷たくて寒かった。
スー……ハー
深呼吸をする。
やはり何の夢を見たのか思い出せなかった。ただ、今度はひどく嫌な夢だったという気がする。恐ろしくて悲しいものだったような気がする。理由の分からない不安にかられて、ディートハルトは気付かないうちに自分の腕を抱くような仕草をしていた。
「夜は、結構寒いな」
突然背後から声がして振り向くと、そこにはエトワスの姿があった。
「エトワス……」
エトワスの姿を見てその名前を呟いた途端、ディートハルトはついさっき見た夢を一気に思い出した。
「おれ、I.Kになるのやめる!」
「え……?」
あまりにも唐突で、しかも突拍子なディートハルトの言葉にエトワスは一瞬言葉を失ってしまった。
「……辞退、するって……?」
「エトワスは、卒業したらウルセオリナに帰るだろ?おれも一緒に行く!護衛の兵士が無理なら門番でもいいから、給料とか安くていいから、おれを雇ってくれよ!」
「ちょ、ちょっと待てよ。お前、自分が言ってることの意味が分かってるのか?」
切羽詰まった様子で告げるディートハルトの言葉に、エトワスは驚きの表情を隠せない。
「皇帝直属の精鋭部隊なんて、入りたくても入れない人達だって大勢いるんだぞ?それに、I・kになりたかったんじゃないのか?子供の頃から憧れてたって……正直言ってディートハルトが一緒にウルセオリナに来てくれれば、俺は嬉しいよ。お前の事を気に入ってるから、祖母と母だって喜ぶだろうし。だけど、どうして急に?」
ディートハルトの訴えは、職種や給料等はどうでもよく、とにかくウルセオリナに滞在するための理由が欲しいといった物だったため、エトワスは余計に訳が分からなかった。ディートハルトと自分は同級生達の仲で一番仲が良いという自覚はあるが、その事が理由で離れ離れになるのは寂しいと訴えているという事でもなさそうだ。
「……夢を、見たんだ」
俯いたディートハルトがぽつりぽつりと話し出す。
「お前が……死ぬ夢……」
ディートハルトの脳裏に、血を流し凄惨な姿で横たわる親友の姿が鮮やかに蘇る。生温かいヌルヌルとした血の感触までしっかりと覚えていた。そして頭上に広がる星一つない真っ暗な空を……。
「夢?」
エトワスは苦笑した。
「……」
ディートハルトは唇を噛んだ。自分でもくだらないと分かっていた。単なる夢だということも。しかし、何故かその夢が現実になるという確信がどこかにあった。夢の中で見たあの黒い空がそれを証明している。あの空の色が何よりの証拠だと思った。そして、誰かが……自分が知ってる夢の中の誰かがそう教えてくれたような気がしていた。
「つまり、俺の身が心配で、俺のためにI・Kを辞退するって事だよな?……気持ちは凄く嬉しいけど……。でも、大丈夫だよ、ディートハルト。俺は一応ウルセオリナの次期領主って身だし、向こうに帰れば護衛も沢山いるから」
エトワスは深刻な表情のディートハルトに困ってしまって、どうしたものかと途方に暮れていた。
「……」
気まずい沈黙が流れる。
しかし、やがてかなりの時間考え込んでいたディートハルトは、やはりただの夢だったのだと無理に思い込むことに決めた。もし、万が一正夢になりかねない危険な事があったとしても、エトワスは剣術も得意で高度な魔術も扱えて強いし、本人が言う通りたくさんの護衛もいるだろう。自分なんかがいなくても大した問題では無い、と。
「悪ィ。やっぱ今の無し。取り消す!」
ディートハルトはそう言いながら、エトワスに背を向けて石造りの柵に腕を乗せて寄りかかった。
「何だよそれ?後味悪いな。俺の方が変な夢見そうだよ」
やけにあっさり前言撤回されたエトワスは、わざとブツブツ言いながら自分もその隣に並んで立った。と、急に真剣な表情になったディートハルトが、不意にエトワスをジッと見て言った。
「もし、何かヤバイと思ったら、赤い奴には近づくんじゃねーぞ。そいつが……」
「赤い奴?」
「………」
急に口を閉ざし、しばらくの間考え込んでいたディートハルトが不思議そうに首を傾げる。
「赤い奴って何だ?」
「……お前が言ったんだろ」
「おれ、何でそんなこと言ったんだ?」
「知るか……」
初めてディートハルトに会った時、エトワスは、軽く衝撃を受けたのを覚えている。これまでに会った事のないタイプの相手で、同時に、人とは違う何か不思議な雰囲気を持った人物だと思ったのだ。
艶やかな金色の髪に珍しい鮮やかな瑠璃色の瞳を持ったディートハルトは、リカルドたちの言う通りとても帝国の兵士を目指している者には見えなかった。何かの手違いで入る科を間違ってやむなく来てしまったのではないかとさえ思った。小柄な事もあり、自分や同級生達よりも随分と幼く見え、また、非常に可愛らしい顔立ちで眉目秀麗という言葉を使っても誰も異議を唱える者はいないであろう存在に、同級生ばかりでなく上級生達も初めは好奇の目を向けたりちょっかいを出したり、あるいは単純に好意を持って友好的な態度で近付く者も多かったのだが、ディートハルトの方は周りの人間に誰一人として興味を示す様子は全く無かった。どんなに親切に、また好意的な態度で接しても大抵は無視か、冷たい視線で一瞥するだけ。たまに口を開いたと思えば可愛げのない言葉を返し、辛辣な毒舌を吐く事もある。非友好的で不愛想という彼の態度に、懲らしめてやるつもりで嫌がらせをしたり殴りかかったりする者達も少なくなかったのだが、ディートハルトの方は意外にも馴れたものでしっかりと反撃や応戦をしていた。
とはいったものの、殴り合いで人数負けして満身創痍となり、放っておけばそのうち死んでしまうのではないかと、寮で同室のエトワスや翠が本気で心配した事も幾度かあったのだが、見かけよりも丈夫らしく生傷が絶えない生活を送ってはいるものの、最上級生となった今では彼に喧嘩を売る者はリカルドやロイなどごく限られた者達のみ、という割と快適と言えなくもない生活を送っていた。
そんなディートハルトの他人を拒絶する厚い壁を崩すことが出来た人物が、唯一エトワスだけなのだが、ディートハルトがエトワスになついてからは多少は他人に対する態度も柔らかくなりつつあった。最近では翠にもうち解けた表情を見せる様になってきている。
そして、ディートハルトが、拒絶や警戒、敵意―そういったもの以外の表情を瑠璃色の瞳に映すようになってから、彼がその見かけに見合う不思議な何かを持っていることにエトワスはだんだんと気が付いてきていた。正確には、初対面で持った印象を改めて再認識し始めていた。
よく、学校の屋上に一人でいるところを見掛ける。
『高いところが、風が吹くところが好きなんだ』
以前そう言っていた。屋上で居眠りをすることもしばしばあるらしく、『覚えてないけど、何か嫌な夢を見た』、そう言って本気で怯えたような表情を見せたことも幾度となくあった。ただ、居眠りして変な夢を見ただけだと言ってしまえばそれだけなのだが、何故かそういった気にエトワスはならなかった。自分たちには分からない、何か別の……不思議な何かを彼は感じているのではないだろうか?そう考えてしまうからだ。だから、今また複雑な顔をして考え込んでいる彼の様子を、ただの夢だと軽く笑い飛ばしてしまうことが出来ない。
「大丈夫。少なくとも、お前より先に死にはしないからさ」
親友の背中を安心させるように優しくポンポンと軽くたたいて、悪戯っぽくにっこりと笑って見せる。
「?」
「だって見物だろ?今、美少女顔なんて言われてるお前が、これから数十年後どんなになるか。その綺麗な金色の髪がすっかり失くなってたりしてさ」
「悪趣味だな……」
そう言って眉根を寄せるディートハルトの顔を、楽しそうにエトワスは横から観察していた。東の空が白み始め、淡い朝の光を受けたディートハルトの長い睫が鮮やかな瑠璃色の瞳に深い影を落としている。
「何だよ?」
遠慮なしにジロジロ見られ、きまり悪くなったのかディートハルトが少し身を引いた。
「ん?観察してる」
悪びれずに、エトワスが答える。
「ウルセオリナに戻ったら、会う機会はほとんど皆無だから、忘れない様にね」
その言葉にディートハルトは目に見えてションボリとした表情になった。
「あ、そうだ。帝都に帰ったらみんなで写真でも撮ろうか?」
気付かないふりを装ってエトワスが笑う。その提案は、ディートハルトが写真を撮られるのが好きではない事を知っていてわざと言っているものだった。
「俺は、新I.Kの任命式があるまでウルセオリナには戻らないつもりだけど、お前は一度ランタナの方には帰らないのか?」
「帰るわけねえだろ。もともと実家じゃねえし」
話題を変えるエトワスに、思い出したくもない、といった調子でディートハルトは首を振った。生まれ育った家に良い思い出がない話はエトワスも聞いている。
「でも、生まれ育った場所は訪ねないにしても、ランタナに会いたい相手はいるんだろ?」
これも以前聞いた話だが、世話になり恩があるという相手が二人いたはずだ。
「うん。……でも、まだいいんだ。I・Kに慣れてからで。それよりさ、エトワスはすぐウルセオリナに帰るんじゃねーんだ?」
少し元気を取り戻した様子のディートハルトを見ながら、エトワスがウインクでもしそうな雰囲気で悪戯っぽく笑う。
「俺もさ、窮屈な家があんまり好きじゃないからね」
それからしばらくの間、雑談を続けているうちにすっかり夜も明けて他の学生達も目を覚ます時刻となった。
トゥーズの町の周りに、今から学生達の駆除すべき魔物の巣が複数点在していたが、ディートハルト達5人のグループは北の巣を割り当てられていた。
「あれ?ディー君、珍しく早起きじゃん」
いつの間にか制服に着替え準備を終えていたディートハルトに、欠伸のせいで涙目の翠が驚いた様子で言う。そう言う翠はまだ寝起き姿のままだ。すぐにディートハルトが、自分はそんなにいつも寝坊してないと不機嫌そうに抗議し、それを聞いたエトワスが『そうだっけ?』と首を傾げる。呑気なやり取りをしている3人をよそに、すっかり身支度を整えたロイとリカルドは愛用の長剣をもくもくと磨いていた。
一階の食堂で朝食を取った後、他の学生達と同じようにトゥーズを出た5人は、30分もしないうちに蟻地獄の巣へ着いていた。
「でかっ」
翠が驚くのも無理はない。直径5メートルはあろうかと思われる巨大なすり鉢状の巣が5人の前の地面にぽっかりと口を開けていた。その巣を中心に周辺にも2~3メートル程の巣がいくつか点在している。
「で、どうやって倒すんだ?」
円形の巣の中心に向かってサラサラと流れ落ちる砂を見下ろしながら、ディートハルトが誰とはなしに尋ねた。
「はい。いい質問だねぇ、ディー君」
早くも一服しながら翠が誉める。
「貴様ら、真面目にやれ!」
何故この様なやる気のない不真面目な二人が自分と同じグループなのだろう。そう苛つきながらリカルドはディートハルトと翠を睨みつけた。
「じゃ、テメエが餌になっておびきだせよ。あんまり美味そうじゃねーけどな」
冷めた調子で返すディートハルトとリカルドの間に険悪な空気が流れる。
「貴様、俺に命令する気か?」
伯爵家の子息であるリカルドは、ギロリとディートハルトを睨みつけた。
「何だ、分かってんじゃねーか」
「貴様っ!!庶民の分際で……!」
全く怯む様子もなく冷たく笑うディートハルトに青筋をたてて怒るリカルドの側で、ロイも鋭い目つきでディートハルトを睨んでいた。そのすぐ横では翠が“また始まった”と、面白そうに二人を観察し、エトワスの方はげんなりと溜息を吐いている。
パンッ!
乾いた音が響く。
エトワスが巣の中心を狙って銃を発砲したからだ。すぐに低い地響きの様な不気味な音と共に巣の主が姿を現し、ディートハルトとリカルドの内輪もめも中断された。
「わりと簡単に出てきたな」
威嚇するように巨大なハサミを鳴らす敵を見下ろし、エトワスが呑気に笑う。現れたのは、全体的な形は小さな虫の蟻地獄と似通っていたが、大きく長い腹が、針のような太い毛だけではなく沢山の赤い目でビッシリと覆われた、頑丈で巨大なハサミと多くの足を持つグロテスクな魔物だった。
「うわあ。死角ゼロって感じだねぇ」
「うおおおっ!!」
相変わらず煙草をくわえている翠の傍らで、抜き放った長剣を掲げたリカルドが流砂の中に飛び降りた。ロイもすぐに続く。
「思い切りが良いのはいいけど……。あいつら、どうやって上に戻ってくる気だ?」
流砂をものともせず、猛然と蟻地獄に襲いかかる二人に翠が呆れる。しかし、戻ってくるという問題以前に、下の二人は砂に足を取られて早くもかなり不利な戦況に陥っていた。このままでは砂の中に引きずり込まれるのも時間の問題だ。
「!」
と、拳銃から剣に持ち替えたエトワスが、巣の中に身を躍らせた。劣勢の仲間を放っておけないからだ。
「援護を頼む!」
「あぁ?援護?どうしろって……」
なあ、と翠が同意を求めディートハルトを見ると、早くも彼は両手でハンドガンを持ち、エトワスら三人をその巨大なハサミで切断しようと暴れ狂う魔物に狙いを定めようとしていた。魔物も動いているが、下に下りた三人も動いているため、魔物だけを狙うのは難しい。
「いくらなんでも、そりゃ無理……」
乾いた音が響き、薬夾が飛んで地面に落ちた。
「お、おい……」
一瞬、エトワスに当たったのではないかと思った。しかし、彼からわずか十数センチ程それた位置で虫のドロドロとした体液が飛び散る。呆気にとられる翠をよそに、ディートハルトは弾倉が空になるまで撃ちまくった。弾はエトワスら三人に当たることはなく、全て蟻地獄に命中しているようだ。その中のいくつかが敵の腹部を覆う目を撃ち抜き、蟻地獄は攻撃を止め今度は砂の中へ後退し始めた。
「!」
その時、手に持った剣の鍔を銃弾が掠り、初めて状況を把握したリカルドが、下からディートハルトを見上げて怒鳴りつけた。
「おい、危ないだろ!貴様何を考えて……!?」
「悪い。わざとじゃない」
下には聞こえない程の声量でディートハルトが呟く。同時に、蟻地獄が砂に潜り込もうとしたため激しく足場の砂がうねり、リカルドは体勢を崩してしまった。すかさず、退散しかけていた蟻地獄が身を翻し、尻もちをついてしまっていたリカルドを巨大なハサミで襲う―その一瞬前に、エトワスの長剣が蟻地獄の頭部と胸部の間を深々と貫いた。
「!!!!!!!」
表現し難い耳を割くような奇声を上げて怪物が暴れ狂い砂が舞い上がった。
「!」
上の二人も、思わず目を閉じ腕で顔を覆う。
そして数十秒後、静寂が訪れた。
「お~い、生きてるか~?」
翠が、砂煙のせいでまだ少し霞んでいる穴の中に身を乗り出して呼びかけた。
「エトワス!」
ディートハルトも翠の隣に並んで覗き込むと、友人の名を呼ぶ。
「生きてるよ。酷い事になってるけど……」
げんなりとした様子で、下からエトワスがそう言った。その言葉通り、エトワスを含め下に降りた三人は非道い有様だった。怪我と言えばかすり傷程度だったが、服は蟻地獄の流した濁った緑色の粘ついた体液でベチョベチョになり、さらにそれに砂が混ざってドロドロになっている。手足はもちろん、顔も髪も同じ状態だった。
「うわー、悲惨」
翠が大げさに顔をしかめてみせる。
流砂で出来た巨大な巣から三人が脱出するのにはかなり時間の時間を要した。砂に足を取られながら苦労して穴を這い上がったため、悲惨な状態にさらに輪がかかる。
「ひでえな……」
苦笑いしながら、最後の数歩は翠が手を伸ばして三人をそれぞれ地上に引き上げた。
「乾けば少しマシに……ならねえな」
流石のディートハルトも少し気の毒そうに眉を寄せた。この状態で戻り街に入るのは気の毒としか言いようがない。
まだ残っていた周りの小さな巣の蟻地獄は、楽をしたという理由で翠とディートハルトが一掃する事になったのだが、最初の戦闘を教訓にして二人は巣穴の底には飛び降りずに銃と魔術を使った地上からの遠距離攻撃で片付けた。
「楽をしようとするな!」
不機嫌そうに言い放つリカルドに、ディートハルトが眉を顰めて返す。
「だって、そんな風に汚れたくねえし」
「つかさ、無駄じゃん?遠距離でもいけたし?こっちの方が効率的でしょ」
翠がそう付け加えると、エトワスが苦笑いしながら頷いた。
「判断としては妥当だな」
エトワスにそう言われてはリカルドとロイにも返す言葉はなかったが、それでも気に入らない様でブツブツ言っている。『こんなやる気のない奴らが同じI・Kだとはな。これから先が思いやられる……』と、露骨な溜息を吐き、再びディートハルトと険悪な雰囲気になりかけたが、いつも通りエトワスが仲裁に入り、何とか比較的短時間の内に課題をクリアする事が出来た。
「ハイ、証拠品ゲット~!」
翠は、短剣の柄で蟻地獄の牙の先を叩き折った。鈍い音がして、細かい棘が並ぶ黒っぽい牙が砂の上に落ちる。これが魔物を倒したという証になる。
こうして、太陽がちょうど真上に来る頃には無事に駆除が終わっていた。提出するための証拠品の蟻地獄の牙を持ち、後は報告しにトゥーズに戻ればいい。これで彼らの学生生活も事実上終わりを迎えたことになる。帝都ファセリアに戻り卒業式を待つのみとなった。
* * * * * * *
「どうした?」
呼び掛けにハッとして顔を上げると、ダークブラウンの瞳が覗き込んでいた。
「あ……何でもない」
ディートハルトは、フルフルと首を横に振る。いつもと変わらない朝、学生寮の敷地内にある食堂でルームメイト達とテーブルを囲んでいる朝食の席だった。目の前には自分で注文した朝食セットのトレーが置かれたままで、全く手が付けられていない。朝は苦手であまり食欲がないため、1個に減らして貰ったパンと、目玉焼きにベーコン、少量のサラダ、そしてオレンジジュースというセットを選んでいたのだが、どれも口に入れたくなかった。体が怠いからだ。少し熱っぽいような気もする。そして、体以上に気持ちも何だか重かった。これは昨夜見た夢のせいだと思うが、その内容は覚えていない。ただ、昨日と同じように胸がざわついているため、また友人の夢……エトワスの夢だったのかもしれない。
「ちょっと、まだ眠くて」
と、嘘を吐くと、ルームメイトの二人は顔を見合わせ小さく苦笑いした。それが嘘だと見抜いているからだ。
「オレさ、ちょっと今日は用事があって出掛けてくるから、二人はデートしてきなよ」
そう言って、翠が二人を笑顔で交互に見る。入学した時からずっとエトワスは何かとディートハルトを気に掛けていて、ディートハルトの方は、始めこそエトワスを含め全ての人間を拒絶するような態度を取っていたものの、現在ではエトワスにだけは心を開いて懐いているという状態であるため、要するに二人は端から見ると仲が良い。ディートハルトがエトワス以外の相手にはあからさまに素っ気ない態度を取るせいで余計にそう見える事もあって、翠はよくこうやって二人をからかっていた。
「……」
ディートハルトの方は、冗談に付き合うつもりはないため毎回無反応で無視していたが、エトワスの方も慣れているため相手にしていなかった。しかし、今日は違った。
「ああ、それはいいな。ディートハルト、今日は俺とデートしよう。ドルチェに行かないか?俺が奢るから」
エトワスが、ディートハルトに笑顔を向ける。ドルチェというのは、帝都にある高級チョコレート専門店でカフェも併設されている店だった。
「え、ホントに?」
ディートハルトが、薄っすら頬を染めてエトワスを見る。“デートしよう”に反応した訳ではなく、“ドルチェ”と“奢る”という単語に惹かれてのものだった。ディートハルトはスイーツ好きだったが、特にチョコレートが大好きだった。ドルチェのショーウィンドウに並ぶチョコレート菓子はどれも魅力的で、店の前を通るたびに心が惹かれチラ見していたのだが、とてもではないがディートハルトが気軽に入れる店ではない。金銭的な理由でもそうだし、経済的に余裕のありそうな大人やカップルが多く訪れているその店に男子学生が一人で入るには敷居が高すぎるからだ。しかし、エトワスが一緒というなら話は別だ。彼は貴族で、しかもファセリア帝国の領主家で一番権力も財力もあるウルセオリナ公爵家の跡継ぎだからだ。その様な店に一人で入ってもおかしくないし、友人を連れていても違和感はないはずだ。以前も一度、エトワスに連れられて行った事があるのだが、その時食べさせて貰ったチョコレートパフェは最高に美味しかった。ただ、一つ問題がある。
「でも、エトワスは甘いものが苦手じゃん」
デートというものの正解がどんなものなのかは知らないが、どちらか一人だけが楽しいというのは違う気がした。しかも、エトワスは、奢ってくれると言っているのだから、それではエトワスにとっては何一つメリットはないはずだ。
「大丈夫。俺は、ビターチョコなら好きだよ」
エトワスは笑顔で答えるが、翠は薄く笑っていた。エトワスが、ビターチョコをそれ程好きでもないという事を知っているからだ。そして、エトワスが、ディートハルトに気を遣っている訳ではなく、二人きりで出掛ける事を純粋に望み喜んでいるのも知っている。実は、翠の用事というのは思いついたばかりのもので、本当は別に何も予定はなかった。卒業後、翠とディートハルトは同じI・Kなのでこの先もずっと顔を合わせて過ごす事になるが、エトワスはウルセオリナに戻る事になる。だから、エトワスとディートハルトが、最後に楽しい思い出を作る事が出来るよう気を利かせたつもりだった。
「行き先がドルチェなら、ガチデートじゃん」
翠は再びそう言ってからかうように笑うが、エトワスはご機嫌な笑顔を浮かべていた。
「そうだな。じゃあ、ディートハルト、それを食い終わったら出掛けよう」
「あ、うん……」
ディートハルトは、視線を朝食に戻した。体調は悪く、まだ胸のザワザワも残っていたが、エトワスとドルチェに行けるという事が嬉しかったため、気持ちを切り替えるためオレンジジュースのグラスに手を伸ばした。
** * * * * *
「ちょっと、待っててくれるか?」
ドルチェに着くと、エトワスはすぐにカフェの中には入らず先に店の方へ向かった。
「あ、うん」
ディートハルトの人生で二度目となるドルチェは、洒落た装いをした客で賑わっていた。若い女性客やカップル、品の良い大人の女性達のグループ、年配の夫婦らしき二人連れ、ディートハルトの様にスイーツ好きらしい若い男性客のグループ等もいた。
「……」
何やらスタッフに話をしているエトワスを待ち、ディートハルトは店の隅で邪魔にならないよう待っていたのだが、他の客やスタッフからのチラチラとした視線を感じ少し居心地が悪く感じていた。
『部屋着用のボロイTシャツとかじゃなくて、お出掛け用のヨレヨレじゃない奴を着て来たけど、やっぱ安物だと場違いなのかな。制服の方が良かったか……』
経済的な事情があり私服は3着しか持っておらず、そのうち2着を普段着にしていて、1着は出掛ける時に着る様にしているのだが、シンプルなシャツとズボンではこの高級チョコレート専門店にはそぐわないのかもしれない。エトワスは『大丈夫だよ』と言っていたのだが……。
『まあでも、仕方ねえし、いいか。もし、エトワスに迷惑かけそうだったら店を出よう』
どうしようもないので、すぐに開き直っていた。
「めっちゃ綺麗~」
「ほんと、天使みたい」
近くでヒソヒソと話している女性客の言葉が耳に入る。まさかそれが自分に向けられた言葉だとは考えもせず、チョコレートの感想にしては妙だなとディートハルトはぼんやり思っていた。
「お待たせ。二階の席が空いてるらしいよ」
戻って来たエトワスが、そう笑顔を向けた。
「すごいイケメン!」
「ちょっと待って!ヤバくない?」
さらに耳に飛び込んで来たヒソヒソ声に、今度はそれがエトワスに向けられた物だと理解出来た。
「行こう」
エスコートする様に、エトワスがディートハルトの背中にそっと手を当て促す。
「こちらです」
二人を待っていた女性スタッフの後に続き、カフェと販売店の間にある階段を上る。
「どうぞ」
二人が案内されたのは二階の一番奥の方にある席だったのだが、そこはどう見ても一般の席とは違っていた。広いテラスを貸し切り状態で使ったその席は、見晴らしの良い場所で他の客の姿はない。
「何でも、好きな物を選んで」
席に着くと、ニコニコしながらエトワスが言う。
「よろしければ、こちらのセットもご用意できますが」
と、スタッフからもう一つ別にメニューが差し出された。それは、さまざまな種類のスイーツを楽しめる物となっていた。
「でも、予約をしてませんし、ご迷惑なんじゃ?」
エトワスが店側を気遣いそう言うと、「いいえ、問題ございません!」という答えが返って来た。目の前の女性スタッフが口を開く前にそう言ったのは、店の奥から現れた正装した男だった。髪をピシリと整髪料で整えてオールバックにした、50代くらいの人物だ。
「支配人のアーヒェンと申します。ようこそお越しくださいました、ウルセオリナ卿」
そう言ってアーヒェンは胸に手を当て、丁寧に頭を下げる。もちろん“ウルセオリナ卿”に対してのものだったが、続けて連れのディートハルトにも頭を下げた。
「メニューの方は、どれも問題なくご用意できますので、何なりとお申し付けください」
「ご厚意に感謝します。ありがとうございます」
エトワスが笑顔で礼を言う。
「それでは、失礼いたします。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
再び優雅にお辞儀をすると、アーヒェンは静かに姿を消した。
「それじゃ、せっかくだからこれにするか?」
それは、本来なら予約しないと注文できないものだった。嬉しい提案に、ディートハルトは少しドキドキしながら頷いた。
「うん、いいのかな?」
ディートハルトが頷き、エトワスが控えていた女性スタッフの方を見ると、笑顔を浮かべすぐにスタッフが近付いて来た。
「お飲み物は、どれになさいますか?」
「そうだな……」
エトワスはメニューを見ながら、恐らく紅茶とコーヒーの種類なのだろうが、ディートハルトには分からない物を注文している。ディートハルトの代わりに選んでくれているようだった。
「かしこまりました」
スタッフが去ると、ディートハルトは少しホッとしてエトワスに目を向けた。
「いつもは忘れてるけど、エトワスってやっぱ“ウルセオリナ卿”なんだな」
同じ学生で同級生をやっていると全く意識する事はないのだが、エトワスは公爵家の跡継ぎなんだと実感していた。つまり、今はまだギリギリ同級生だが、卒業したら気軽に会う事は出来無い存在になってしまうという事だ。名前を呼び捨てする事などもっての外で、敬語無しで話す事は許されないだろう。本当は、アーヒェンの様に敬礼しなければならない相手で、急に遠い存在になってしまうようで少し寂しかった。
「俺も忘れてるんだけどね。名乗っていないのに、流石だな」
エトワスが笑う。高級チョコレート専門店ドルチェは、貴族や王族の者達も利用する店だ。ウルセオリナ地方の次期公爵のエトワス・J・ラグルスの容姿や年齢はもちろん、彼が帝都のファセリア帝国学院騎士科に在籍している事は把握しているはずだ。前にも一度店を訪れた事があったのだが、その時は他の客と同じ対応をされているので、帰った後になって店側が気付きその事を覚えていたのかもしれない。それで、今回は慌てて支配人が飛んで来たといったところだろう。
「だけど、俺の肩書が何であっても、ディートハルト達との関係は変わらないよ」
ディートハルトが寂しそうな表情をしている事に気付き、エトワスがそう言って笑う。
「でもさ、今みたいに気軽に遊びに出掛けたりは出来ないだろ?」
「俺よりも、I・Kのお前らの方が忙しくなると思うぞ?そうだとしても、休みの日を教えてくれれば、俺はこっちに来るつもりだし、逆にウルセオリナにも遊びに来たらいい。いつでも歓迎するから」
「マジで?」
ディートハルトは少し嬉しくなったが、現実には無理だろうなと思っていた。
しばらくすると、注文したスイーツが運ばれて来た。ケーキスタンドに並べられた沢山のスイーツは、どれもカラフルで見た目が華やかで可愛らしく美味しそうだった。
「わ……」
チョコレートを使った豪華なスイーツに、ディートハルトの目が丸くなる。エトワスと会えなくなるのが寂しいという気持ちも、悪夢の嫌な胸のざわつきも、理由の分からない身体の不調も、全部吹き飛んでしまっていた。
「可愛いな」
「うん。ってか、美味そうだけど食うのが勿体ない」
エトワスの視線は、ディートハルトに向けられていて、その言葉はスイーツを前に表情を明るくしたディートハルトに対しての感想だったのだが、ディートハルトは当然スイーツの事を言っているのだと思っていた。
「えっと……食べても?」
「もちろん」
エトワスはニコニコとしている。
「じゃあ、頂きます」
ディートハルトは、一番下の段のスイーツに手を伸ばした。最初は、もちろんチョコレートだ。
「……幸せ」
チョコレートだけではなくフルーツの甘酸っぱいフィリングの香りが広がり、素直な感想が零れる。
「ああ、俺も」
一口も食べていないエトワスが、しみじみとそう言った。
「何で?食ってないのに」
ディートハルトは、思わず笑ってしまう。
「見てるだけで、幸せなんだ」
そう言って笑い、エトワスはコーヒーを飲んだ。幸せそうなディートハルトを見ているだけで幸せだった。しかし、そこには切ない思いもある。
「何だよそれ、勿体ない。これなら、フルーツメインっぽいから、好みかも?」
と、ディートハルトに勧められ、エトワスも小さなケーキに手を伸ばす。ディートハルトに気を遣わせたくはないからだ。
「どう?」
「ああ、美味しい」
「良かった」
エトワスの答えに、ディートハルトはホッとした様に頷いた。
それから二時間程、雑談を交わしながらスイーツとお茶を楽しむ穏やかな時間を過ごし、二人は店を後にした。
「これって何?」
帰り際に店のスタッフに手渡された紙袋に入った箱を見て、ディートハルトは不思議そうにエトワスに尋ねた。
「店に入った時に頼んどいたんだ。季節限定のスイーツと、あと、おススメの品を選んで貰ったんだよ。せっかく来たから、お土産にって思って」
そう言えば、入店直後にエトワスがスタッフに話し掛けていた事をディートハルトは思い出していた。
「あ、そっか。翠が喜ぶな」
流石エトワス。そう思いながらディートハルトが言うと、エトワスが小さく笑う。
「翠にも同じ物を買ってあるよ。それは、ディートハルトの分で、俺からのプレゼント」
そう言ってエトワスは、持っていた同じ紙袋を見せる。
「えっ!?」
ディートハルトは目を丸くした。どちらの紙袋も翠へのお土産だと思っていたからだ。その上、カフェの食事代もディートハルトからすれば笑うしかない程に高額だが、それに加えて二人分のお土産とは、次期公爵様の金銭感覚はよく分からず、もちろんサプライズのスイーツのプレゼントはとても嬉しかったが、今日一日で、しかもたった二時間程で使った額を考えると少し引いてしまう。
「でも……。おれだけ良い思いして、エトワスは?」
ディートハルト好みの店に連れて来てくれて、奢ってくれて、プレゼントもしてくれて。一体彼に何の得があるのだろう?ディートハルトは、そう思っていた。そして、ディートハルトの考えている事を理解しているエトワスは、フフと小さく笑った。
「俺だって、良い思いしてるよ。こうやって、ディートハルトと一緒に過ごせてるから」
「いや、今までずっとそうだったじゃん」
入学して以来4年間、寮で同室だったし、同級生で学校でも同じ授業を受けているのだから、朝も昼も夜も一緒に過ごしている事になる。休みの日には一緒に出掛ける事も日常的な事だったので、何も今日が特別という事はない。
「でも、今日はいつもとは違う“デート”だろ?次は、何処に行こうか?」
そうエトワスは楽しそうに尋ねた。きっと、エトワスは、次期公爵としてもうすぐウルセオリナに帰らなければならないため、学生として残された帝都での自由な時間を楽しみたいのだろう。ディートハルトはそう思った。ウルセオリナに戻れば、ドルチェで出会った支配人がそうした様に、“ウルセオリナ卿”とかしずかれ、責任のある立場で自由の制限された生活を送る事になるはずだ。
「じゃあ、エトワスの行きたいとこにしよう」
* * * * * * *
「何それ。詰め込みすぎっつーか、めっちゃ充実してんじゃん」
アハハハと、声を上げて翠が笑う。遅い時間に寮に戻って来たエトワスとディートハルトに聞いた話によると、この日、二人は帝都内のいわゆる“デートスポット”と呼ばれる場所を時間の許す限り訪れていた。季節の花の咲き乱れた庭園に、その隣の珍しい植物を集めた植物園、展望台、その近くにある自然を利用して作られたアスレチック、夕食は話題のレストランで食事をし、夕焼けと星空を眺めて戻って来たらしい。
「ってかさー、アスレチックって、騎士科の学生がわざわざ行かなくても、毎日もっとハードな訓練やってんじゃん」
余程おかしかったのか、涙を滲ませて笑っている。
「でも、ジップラインとかあって、面白かったけど」
ディートハルトが言う。
「ああ、そう。それなら良かった」
「本当は、海とか水族館とか温泉も行きたかったんだけど。ちょっと遠かったから」
「それは、また次に二人で行こうねって、エトワス君と約束しときなよ。一個ずつ約束してたら、何度も出掛けられるよ」
珈琲を飲みながらエトワスからのお土産のチョコを摘まみ、翠が笑う。
「そうだな。約束しよう」
エトワスがディートハルトに笑顔を向けると、ディートハルトは頷いた。
「うん、行きたい。次は、翠も行くだろ?」
ディートハルトが当然の様に翠に視線を向ける。
「いやいや、デートに三人はないでしょ。オレは遠慮するよ。行くなら彼女と行くし」
「え?彼女がいんの?」
初耳だ。ディートハルトが目を丸くする。
「いや、予定の話。ただ今絶賛募集中だから」
「なんだ。っつーか、ずっと前から常時募集中のままじゃん」
ディートハルトは冷めた様子で言い、マグカップのココアを飲んだ。
「ディー君の元気が出たみたいで、良かったな」
お茶の時間を終え、ディートハルトが風呂に入るために浴室に姿を消すと、翠はエトワスにそう話し掛けた。
「ああ。体調が悪いのか、気分的な物なのか分からないんだけど、とりあえず今日一日は元気だったよ」
「じゃ、気分の問題だったのかな」
翠が笑う。
「卒業後は、ディートハルトの事をよろしく頼む。ディートハルトは、具合が悪くても病院には行かないし、何か困っていても誰にも頼らず隠そうとするから」
「すぐバレる嘘吐くんだよね。っつーかさ、オレよりお前が傍にいた方がディー君は嬉しいんだと思うけど。まあ、こんな事言ってもどうしようもないか」
翠の言葉に、エトワスが小さく笑う。出来るものなら自分もI・Kになってこれ迄の様に二人の傍にいたい。同じ職業に就かなくても、せめてすぐ会いに行ける帝都にいたい。そう思っていた。
読んでくださった方も、まだ読むかどうか分からない、何となく見てみただけという方も、目を留めてくださいましてありがとうございます。
こちらのお話は最後まで書いて完結しておりますので、読んでくださる方がいらっしゃれば、これから少しずつ続きを掲載していこうと思います。