第30話『抱きしめて』
「……これは、なんの真似だい?」
襟首をつかむレンに、先輩は冷ややかな目を向ける。
だけどレンは、その問いには答えず先輩を睨んだ。
「日野原は、先輩の女癖の悪さに巻き込まれたんじゃないんですか!」
「……まぁ、そうなるかな」
「あっさり認めるんですね」
「まあね。状況は把握してるつもりだよ」
「くっ……! やっぱり、あんたには任せらんねぇ!!」
「……最初から譲る気もないくせに」
先輩はため息をつくと、レンの襟首をつかみ返した。
「君が何を怖がっているのかは知らないけれど、目の前の現実から逃げてるやつに言われたくないね!!」
「俺が……逃げてるだって?」
「ああ。自分の心と向き合うのを恐れてるように見えるね」
「……先輩に俺の何がわかる!」
顔と顔を近づけ睨み合う二人。
襟首をつかむ手に、くっきりと筋が浮かんだ。
「ちょ、ちょっとレン!」
「先輩も、やめてください!」
まさに一触即発。
私とアイリが慌てて間に割って入った。
「ふぅ……」
短いため息。
先にその手を離したのは、ショウ先輩だった。
「……悪かったね、これはただの八つ当たりだ」
「何を……!」
「こりゃー、不知火! 何しとるかー!」
レンの言葉を遮って、遠くから響く先生の声。
舌打ちをしたレンは、先輩を睨んだまま静かに手を離した。
「聞いとんのか、不知火ー!」
「はーい、今行きますってー!」
先輩は襟を正すと私に微笑む。
「ごめんね、ユイちゃん。驚かせちゃったかな」
「いえ……」
咄嗟にそう答えたものの、正直、かなり驚いた。
男の人の喧嘩を間近で見たのは初めてかもしれない。
それはアイリも同じのようで、なんとか無事に終わってくれたことに胸を撫で下ろしている。
「そうそう、ユイちゃん。今の気持ちに正直になっていいんだよ。きっと月島くんは受け止めてくれるから」
「え……」
「でも、俺も譲る気はないけどね」
そう言って、先輩は手を振りながら去っていく。
その隣にアイリが並んだ。
「先輩って、案外いい人なんですか?」
「案外って……それ褒めてる?」
「はい。真っ直ぐで、真っ直ぐすぎてキモいです」
「そ、それ……絶対に褒めてないよね?」
「あ、ごめんなさい。言い直します。キモいです」
「……えーと、言い直せてないことに気付くところから始めようか」
——不意に訪れた静けさ。
先程までの喧騒が嘘みたい。
この場に残されたのは、私とレンだけで。
風で木の葉が揺れる音とか、コイが池で跳ねる音とか、桟橋の賑わいとか、なぜかやけに大きく聞こえてくる。
それらの音に包まれた私たちは無言だった。
私は、うつむいたまま顔を上げることができなくて。
こんなとき、何て言えばいいんだろう?
先輩は、今の気持ちに素直になっていいって言っていたけれど。
肝心の言葉は、喉の奥に引っかかったままで出てこない。
昔からそう。
キーホルダーを拾ってもらったあのときだって、レンが私のために傷だらけになって頑張ってくれたのに。
私はただ泣くばかりで、お礼の言葉すらちゃんと言えなかった。
さっき、先輩に助けてもらったときもそう。
先輩と付き合って来た人の心に気付いたら、もう何も言えなくなって。
なんで私はいつも……。
「……ごめん、私も行くね」
沈黙が耐えられなくなって、私はそう切り出した。
このままここにいたら、泣いてしまいそうだったから。
レンの横を通り抜ける。
今から走れば、アイリたちに追いつくはず——。
——そのとき、不意に腕に伝わる感触。
私は、レンに手首を掴まれていた。
「ちょ、レン!?」
驚きの声を上げる私を無視して、レンは手首を引っ張る。
え……?
次の瞬間、私は温もりに包まれた。
そう、私は正面から抱き締められていたんだ!
「ちょ……レン! 何してるの!?」
驚きの言葉が口から出るけれど、レンの腕は逆に力が込められて。
少し離れた岸辺や桟橋の人たちの視線を感じて、私はますます焦りだす。
先を歩くアイリが、ちらりとこちらを振り返った気がした。
「れ、レン、離して!」
「……やだ。離さねぇ」
な……!?
子供か!
「日野原が無事で、本当に良かった……」
つぶやくようなレンの声。
そのとき私は気が付いた。
抱き締める腕が、小刻みに震えていることを。
「もう、誰かを失うのは嫌だ……」
「レン……」
私の体から力が抜けていく。
こわばっていた心がほぐれていく。
伝わる体温は心地よくて。
胸の鼓動は雷みたいに響いてきて。
私は、彼の背中にそっと手を当てた。
まだちょっと固いワイシャツと、洗剤の匂い。
少しだけ汗の匂いもするけれど、それは全然イヤじゃなくて。
私のために一生懸命走ってくれたんだと思うと、胸の中が熱くなった。
怖かったのは私だけじゃなかったんだ……。
「日野原……大丈夫だったか?」
ささやくような優しい声。
その問いに、私は首を小さく横に振った。
「大丈夫……じゃない」
「ごめんな、遅くなって」
「ほんと、遅いよ……ばか」
安心したせいなのか。
素直な言葉と共に、瞳から大粒の涙が溢れ出す。
さっき先輩から告白されたというのに、私はレンに抱き締められて泣いている。
先輩に対する想いはもうないけれど、でもそういうことじゃなくて。
そんな自分がズルくも感じて、涙が止まらない。
もう少し大人になれたら、こんな気持ちも乗り越えることができるのかな……。
レンは、私が泣き止むまでずっと抱き締めていてくれた。
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