4−19 母との思い出
乾いた紙とインクの匂い、貴族のご婦人が香水を嗜む中で、母はいつもその匂いを纏わせていた。
「お母様。この魔術語はなんて読むのですか?」
「その文字は音にすると、フィル。繋ぐ者と言う意味になります」
オネットの母シンシア・ラシラスは魔術師だ。夫が王宮魔術師長の席を拝命するまで、総会本部の魔術師として勤めていたが、就任後は辞任し公爵夫人としての責務を全うしながら、個人で研究を行っていた。
あくまで趣味の領域をでない範囲の時間だが、母はその己の真髄と言って良い魔術研究の合間にオネットに魔術を教え、全ての質問に優しく、丁寧に回答した。
「陣で描く際にこの文言は必ず二番以降に並びます」
母を手は手を動かして、空いている紙に魔術陣を描く。綺麗な字で紡がれるそれは、幾度もなく魔術語を描いて来たからだろう。
「中央に主体となる魔術語をそして背面に目的となる言葉を。この陣の場合は水とコップ、コップを表す文言はないので、こちらのコップの座標位置を描きます」
母が陣を書いた紙に手を触れて魔力を通すと、陣は淡く光り渦を巻きながら水を生成し、そして流れるように一つの塊となった水の球体は、母のすぐ近くのコップに注がれた。
「水と座標を繋ぐ事で、一定の位置まで運ぶのですね!攻撃魔術も同様ですか?」
「いいえ、攻撃魔術に繋ぐ文言を入れるのは不向きです。対象は一つ所に止まるとは限りません、この文言を利用した用途としては、火事の場合や畑に水を撒く場合に使用されます」
オネットは笑んで頷く。知りたい事が次々と浮かんでは解消される、この感覚が好きなのだ。
「魔術語は昔は音で使用されていたのですよね、文字で描くよりそちらの方が効率が良いと思うのですが、何故今の人々は陣を描き羅列を並べるのですか?」
「全ての者の言葉が、魔術を発動する事ができるとは限りません。実際、この王都には古代、魔術を使えた者が一人もいなかったようです。人々が等しく魔術を学び行使をするために、文字としての使用が主流になったのでしょう。それに言葉一つで魔術が発動するのは確かし効率が良いように見えますが、僅かな発音の違いで意味が変わってしまう魔術語もあります。習得に時間がかかるため、杖や剣に刻むか、一つの用途に特化した魔術具の開発に力を入れる方が建設的であると考えられます」
「確かに!お母様は本当に色々な知識を授けて下さいます!」
理解を与える言葉、納得のいく答え、モヤモヤと言葉に出来ない問いも、母は聞き取り知識を与える事を惜しまない。例え自身の研究の手が止まることになっても、その手はペンを置き、オネットの頭を優しく撫でた。
「オネット、貴方は賢く、飲み込みも早い、将来は素晴らしい魔術師になるでしょう」
その言葉はオネットに学習することの楽しさと成果を与える。
しかし次に来る言葉に、少しばかり否定してしまう気持ちがある。
「きっと、お父様の様に」
確かに父、フラムは魔術師としての地位も持つ実力のある魔術師だ。だがオネットは母のような魔術師になりたい。
「私は、お母様のような魔術師になりたいです」
だから必ず、オネットはそう言うのだ。母は必ず穏やかで、けれども少し寂しそうな笑みを浮かべた。
それが何故かわからないことが、当時のオネットの持つ最大の疑問だった。
コンコンの部屋にノックの音が響いた。
「どうぞ」
母が入室を促すと、扉を開けたのは父親だった。
母はすかさず席から立ち上がり、フラムに礼儀を取る。オネットもそれに倣う。
家族とはいえ、公爵家当主には礼を尽くして接する。
「どうかなさいましたか?」
「…シンシア……」
部屋に入ってきた父は、母の名を呼ぶとそこで言葉を切り、しばし沈黙した。
オネットはその様子に首を傾げるが、母は静かに次の言葉を待った。
「次の王宮魔術学会での発表は見送って、欲しい……」
「!」
「承知致しました」
母はすぐに、頷いて、父の言葉を受け入れるが、オネットは何故なのか納得いかなかった。
「どうしてです?お父様、お母様は学会発表のために長い時間準備して来たのですよ」
すぐに、父に問う、研究発表は魔術師にとって自身を魔術師たらしめるために最も重要な機会だ。
論文の作成と実演、その前に何通りもの魔術語の組み合わせや魔力循環の研究を行う、年単位の作業。母はそれら全てを、自身に課せられた役割の合間にこなして来た。
だから問うたのだ。その努力と時間の末に訪れるはずの達成を何故父は阻害するのか。
「オネット、これは大人の問題だ。お前は気にしなくて良い」
その返答には落胆だった。母とは違い父はオネットの疑問に対して答えを提示しない。
いつも、あしらうような言葉を使い、オネットの前からいなくなる。
今日も突然やって来て、一方的に事実だけを告げて、部屋を出ていく。
「お母様……」
きっとショックだろう母を見上げる。その表情は変わりなく、穏やかな顔でオネットの頭を撫でた。
「今回は見送るだけです、また次の機会に発表すれば良いのですから」
母の言葉にオネットは頷いた。
また来年……子供のオネットには長い時間に思えたが、その時はいずれ訪れるはずだと思っていた。
だが……そう願って過ぎた時間の途中で、母は長い眠りについてしまった。
………………………
カチカチと時計の針が進む音が響くだけの部屋で、オネットは佇んでいた。
部屋の主はもう何年も不在の部屋。
かつて母が研究室として使っていた部屋には、壁を埋め尽くす本棚と隙間もなく整列した本が埃も被らず鎮座している。
部屋に置かれたソファーや机にも塵一つなく、オネットが学園に入学し寮生活になった後でも人の手が加えられているのを知った。
それは父の指示の元か、それとも使用人の計らいかは、わからないが……
オネットは、静かにかつて母と共に安らいだソファーに腰を下ろし、あの日を思い出す。
母の死は事故だと聞いた。馬車同士の衝突事故。その報だけがオネットの元に届き、どこの馬車が、どの道で事故が起きたのか誰も教えてはくれなかった。
それは子供だから仕方がないことだとは理解していた、オネットも何度も尋ねることはしなかったが、最後の最後まで、母の姿を目にする事ができずに葬儀が終わり。
オネットには実感の無い喪失がその日から訪れた。
子と共に学ぶ存在がいなくなり、子の頭を撫でる存在がいなくなり、そして父と子を繋ぐ存在がいなくなった。
母はよく喋る人では無かったが、その日からラシラス邸は鎮まり返った。
オネットは、ソファーから立ち上がり、部屋を出る。
もうすぐ父に言った二十分後だ。




