満月の夜、おっさんはあたしに会いに来る
8月。安アパートの2階。真ん中の部屋。
夜9時。上下スエット姿でベランダに出て空を見上げれば、そこには満月がぽっかりと浮かんでいる。
手すりに寄りかかって、あたしは道を見る。
街灯に照らされる黒いアスファルトの道。
光の中には色んな人が入っていく。
下を向いて歩く疲れた様子のスーツの女性。
楽しそうにおしゃべりしながら歩く大学生と思われる男性2人組。
どちらも片手にコンビニ袋を持っている。
そして──
1人のおっさんが光の中に入る。
くたびれたスーツ姿でネクタイを緩めただらしない格好。
今までと同じで片手にコンビニ袋を持っているけど、1つだけ違うことがある。
おっさんはこちらを向き、ニコニコ笑顔で大きく手を振る。
今までの人々と違って、おっさんにとってあたしは他人ではない。
でも、家族でもなければ、友達でも、恋人でもない。
おっさんは一体、あたしにとって何なんだろう。
満月の夜、おっさんはあたしに会いに来る。
コンビニ袋に冷えた缶ビールを2つだけ入れて。
「いや〜、満月ぶり」
玄関の扉を開けたあたしにそう言って、おっさんは家の中に入って来た。
「その言葉が通じるの、あたしだけだと思うよ」
「そうだよな。分かる分かる」
適当な相槌。なにも分かっちゃいない。
あたしの横を通り抜ける。
すれ違ったおっさんの身体からは煙草とお酒の匂いがした。
今回もどこかで飲んできたのだろう。
そして、締めはあたしの家。
出会ったのは去年のこと。
はっきりとした日付は覚えていない。
ただ、中秋の名月だったことは覚えている。
今日と同じ上下スエット姿で1人で満月を見上げていたら、街灯の光に酔っ払いが入った。
スーツ姿で頭にネクタイを巻いた典型的な酔っ払い。
誰もが見上げる満月と誰もが目を逸らす酔っ払い。
上と下の落差が面白くてジッと見ていると、酔っ払いがニコニコしながら話し掛けてきた。
「こんばんは、お嬢さん、月が綺麗ですね」
ふと夏目漱石が頭によぎった。あいらぶゆー。自分には無縁の言葉過ぎて英訳はひらがなになった。
これは告白か?
ふと思ったが、そんなことを言ったら、今日は告白大会になるだろう。
実際、今日は月が綺麗なのだから。
酔っ払いは片手に持ったコンビニ袋を掲げてあたしに言った。
「一緒に飲みませんか?」
それに何を思ったかあたしは応えてしまった。
「いいですよ」
たぶん、寂しかったのだろう。
そのまま家にあげて、おっさんが1人で飲もうと思っていた缶ビール2本を2人でちびちび飲んだ。
他の人に言えば、一人暮らしの女性が何て不用心なと言われるかもしれないが、実際のところ、おっさんはあたしに指一本触れなかった。
ただ一本づつコンビニで買った冷えた缶ビールを飲んで、ただお互いのどうでもよくて、どうでもよくない日常の話をした。
おっさんは「分け合える相手がいるっていいねえ」とあたしの喉に消えていく自分のものだっだ缶ビールをニコニコ笑って見てた。
そのままお互いの缶ビールが空っぽになったら、おっさんは帰っていった。
それから満月の夜になると、おっさんはあたしの家に来るようになった。
コンビニで缶ビールを2本だけ買って。
おっさんはテーブルにそれを置くと胡座をかいて座った。
あたしもその向かいに座って、同時に手に取り、プルタブを開ける。
『乾杯』
軽く缶をぶつけて一口飲む。
「いや〜、最近どう?」
おっさんのその言葉をきっかけにして、ポツリポツリと話をする。
初めて出会った時と同じ、どうでもよくて、どうでもよくない日常の話。
テレビからはバラエティ番組が流れていて、みんながケラケラ笑ってる。
そんな中であたしたちは別に面白くもない自分の話をケラケラ笑って話してる。
あたしはおっさんの名前を知らない。
年齢も結婚してるのかも、なんの仕事してるのかも知らない。
おっさんも同じだろう。
表札に書いてるから苗字は知ってるかもしれないけど、他はきっと知らない。
知らないことだらけだけど、あたしたちはお互いの姿と声と笑い顔を知ってる。
それだけで十分な気がした。
「そう言えば、来月は中秋の名月だね。今年も満月と同じ日だからよかったね」
「中秋の名月って毎年満月じゃないの?」
「いや、結構ずれることが多いんだよ。一昨年と去年と今年は満月。来年はずれるらしい」
「へー、初めて知った。おっさん、もの知りだね」
あたしは考えた。と言うことは、来年の中秋の名月はおっさんは来ないのか。
「じゃあ、来月はビール2本と言わず、酒盛りでもする?」
「いや、一人暮らしの女性の家にそんなに長居しちゃだめでしょ」
「今さらなに言ってんだか。おっさん、あたしに恋人とか出来たらどうするの?」
「その時は黙って去るのみよ。俺、ベランダで待っててくれるからここに来れるんだもん」
「ふーん、待ってなかったら帰るんだ」
「そりゃそうだよ。あのね、俺、いつも嬉しいんだよ」
そう言って、おっさんは顔いっぱいに笑った。
あたしは納得した。
あー、だからいつもあんなにニコニコしてるんだ。
あたしは想像した。
誰もいないベランダを見上げて、トボトボと2つの缶ビールを持って帰っていくおっさんの姿を。
なんかやだなと思った。
チビリチビリと飲んでいた缶ビールは空っぽになる。
「さてと、じゃあ、おっさん、帰るわ」
2つの空き缶を持とうとしたおっさんを止める。
「ああ、いいよ、そのままで」
「いつもそう言うけど、これぐらい捨てるよ」
「いいよ、気にしないで。じゃあ、また満月の日に」
「うん、また満月の日に」
そう言って、おっさんは帰って行った。
おっさんがいなくなった部屋。あたしは台所で空き缶を水ですすぐ。
満月の夜にだけ現れるおっさん。
あまりに現実味がなさ過ぎて、帰った後はあれは夢だったんじゃないかと思ってしまうことがある。
だから、居た名残が欲しくて、あたしは空き缶を置いて行って欲しいと思う。
こうやっていると、確かにそこに居たのだと実感できるから。
洗い終わった空き缶をシンクの淵に置いて、あたしは後ろの壁掛けカレンダーを見る。
ページを捲って9月のページを出す。
9月29日。
黄色い蛍光ペンで大きく丸が付いている。
歪な丸はやけに不細工な満月だ。
満月の周期は約29.5日。
大体一ヶ月に一回ほど。今年の8月は2回。
今の我が家のカレンダーにはポツリとポツリと歪な満月が浮かんでいる。
満月の夜、おっさんはあたしに会いに来る。
家族でもなければ、友達でも、恋人でもない。
名前も年齢も仕事もなにも知らない。
でも、今のあたしは満月が恋しい。
ただ、それだけ。
ただ、それだけで充分な気がした。