一人で考えこんでいると、あいつがあらわれた。
月のない晩のこと。庭先に座り込み、一で考えこんでいると、ソレはあらわれた。仄暗い水に満たされた池の中に、泡のように、いつの間にやら。
ソレは一個の魚影。生まれては凪いでいく刹那の波紋を描きながら、泳ぎ回る黒い鯉だ。お世辞にも広いとはいえない池の中を、それしかできないとばかりに、伸び伸びと泳ぐ様は優雅に見えた。
おそるおそる池のふちに近付く。私に気付くと、そいつはなんの警戒もなく近寄ってきて、しきりに口を開閉させた。餌をせがまれている。だがあいにく、私は何も持っていない。
けれどこちらの事情など、鯉の方には関係のない話なんだろう。パシャパシャ、パクパク、やかましく催促してくる。「腹が空いた」と言葉はなくとも、十二分にその心は伝わってきた。
「お前、虫は好き?」
なんとか折中案を絞り出す。鯉は飽きもせずに、口を開いたり閉じたりして、空虚な口の中を晒している。かといって、顔の横に着いた眼球は暗い水面を映すばかりで、なにを考えているのかわからない。
けれどなんとなく、不満はなさそうに思えた。どうやらこいつも私に似た質らしい。
「『祇園精舎の鐘の声』」
記憶をあさって出てきた物語の一節を語ると、発した言葉はたちまち虫へと変化する。みかけはムカデやミミズに似ているだろうか。まったく奇妙な現象だけど、私はちっとも驚かなかった。
踊る波の隙間にポチャポチャとおちていく虫を見て、上機嫌に尾びれをふるった鯉は、嬉々として彼らを貪る。
「『ただ春の夜の夢のごとし』」
虫を与えれば与えるほど、鯉の体は少しずつ大きく鮮やかになっていく。私の声もだんだんと大きくはずんでいった。
たらふく虫を食らい満足したらしい鯉は、ひとつバシャリと波をたてて、浅い池の底へ潜っていった。
慌てて水面を覗きこむ。真っ暗で底が見えない。一体あいつはどこに消えたのだろう?
考えても埒があかないことはわかっていた。早々に捜索を打ち切って、私は家に引きあげていった。
◆
鯉があらわれてからしばらく経った。やつは気まぐれにあらわれては、自分勝手に餌をせがんでくる。
はじめこそ面倒に感じたものの、近頃は相手をするのが楽しくなってきた。鯉は順調に大きくなっている。それがうれしくて仕方がない。
上機嫌で口が軽くなった私は、ふと、誰かに鯉のことを話したくなってしまった。けれどあいつは変わった存在だ。話す相手は選ばなければ。
白羽の矢が立ったのは、親しくしている人間の中でも、自他ともに「チャランポラン」といわれる友人だった。
わかっているのかわかっていないのか、判断のつかない間抜けな顔で話を聞き終えた友人は、「なにそれ」と楽しげに口を開いた。
「てかなんで鯉? 渋いねぇ。俺はおっぱいの大きな人魚ちゃんがいいな」
「いいなと言われてやれるもんじゃないよ」
「残念。人魚ちゃんがいたら絶対楽しいのに」
「もういるじゃない」
お前の頭の中にな。
煩悩まみれの阿呆を半目で睨む。まったく効いていないようだけど。
「鯉ねぇ、コイかぁ。恋っていいよねぇ」
脳みそを煩悩に侵された阿呆は、夢見心地でため息を吐く。こいつに相談した私こそが、本物の阿呆かもしれない。
「今日も明日もあいつの世話だよ」
「なんかアレだね。育成ゲームしてる感じ?」
言い得て妙だ。言葉を食せれば食わせるほど、鯉は雄々しく美しく成長していくのだから。成長した末には、一体どうなってしまうのだろうか……。
「名前つけた?」
思考に沈む私の意識を、空気をよまない友人が引きあげた。
「いや」
「えー、つけなよ」
「そう言われてもなぁ……」
「チャッピーとかどう?」
それは遠慮したい。
◆
今日は満月だった。物言わぬそれに見下ろされながら、今日も今日とて餌をやる。
「自分を納得させることは、この世で一番難しいことだと思わない?」
問いかけても答えはない。鯉はただ虫を貪っている。なにを考えているのかわからない。けれどこれぐらいが丁度良いのだと思った。
いつしか与える餌は、感動した物語や聞きかじった誰かの思想から、私個人のとりとめのない独り言へと変わっていた。組み合わせる前のパズルのピースのような、まるでまとまりのないそれらを、鯉は満足げに口へ入れる。
「でもね、最近少し気付いたのよ。理路整然と並べ立てるだけじゃ、それじゃあおいしくないんだって。受けとる相手があってこそなんだって」
はじめは片手で持ち上げられそうだった鯉も、今では池を半分埋めるほどの巨体に成長した。私一人が寝そべれば、橋をかけられそうなほど狭い池だ。そろそろ窮屈になってきた頃だろう。
「それでもさ、ちょっとしたワガママ……おさえられない感情、自我がスパイスにもなるんだ。隠し味にさ、ちょっとドス黒いのも入れちゃったりして」
穏やかな水面に波をたてながら、旺盛な食欲を満たそうする、こいつは間違いなく私だ。
「おいしい?」
あぐらの上に頬杖をつき私はたずねた。
そのときだった。ソレは起こった。
紅葉、花片、色とりどりの絵の具──混沌としていて秀麗な、錦に染まった私の鯉。餌をせがんでいたそいつが唐突に口を閉じて、なにを思ったか天を仰いだ。
目線の先には月がある。ギョロリとした眼球に、初めて食欲以外の感情が宿った。まるで挑むかのような、気高い瞳だった。それがみるみるうちに金色へと染まっていく。
ただ呆気にとられ、馬鹿面を晒して魅入っている内に、そいつは力強く跳ね上がった。
真珠のごとき水飛沫が次々と池へ戻っていく中、巨体は宙を舞い、次の瞬間にはもう、餌をねだるだけの鯉はいなかった。
目の前にいるのは一頭の龍。
真っ白な鱗に覆われた幻想の中の生き物。
凛々しい面差しを私に向けたそいつは、何をいうでもなく、すぐさま顔をそむけた。
金色の瞳が天を見据える。あっと声を上げる間もなく、長大な体がくねり、風を巻き起こした。
龍が昇っていく。月光をはね返し、煌びやかに輝く姿はまるで、重力に逆らって天へかえろうとする流れ星だった。
だけどきっと、目指しているのは高みではない。
あいつはこの世界のどこかに、住処を見つけだすに違いない。そこでもしかしたら、川になるかもしれない。川はいつか海へ流れ着く。それがどこの海なのか、見送る側の私にはちっともわからないけれど。
かえってくるなと思った。この狭い池の中には。
◆
「鯉いなくなったの?」
友人は悲しげな顔をした。
鯉が龍になり空に昇った翌日のことだ。顔を合わせれば必ずといっていいほど、鯉の様子を聞いてきたので、伝えるべきだと思ったのだ。
「元気にやってるといいね」
「お前もなにか飼ってみたら?」
しんみりする友人に、ふと返していた。何か考えてというよりは、自然と言葉になっていた感じだ。
「そいじゃあ人魚ちゃんで」
友人はしょうこりもなく言った。けれど直後に表情が曇る。
「でも俺の家には池がないからなぁ」
「家の庭で飼えばいいよ」
またもや思いつきでそう言えば「え?」と返された。チャランポランの驚く顔に、私はにやりと笑う。
「名前は良いのを用意してあげる。ラッキーとかどう?」
いつかのことを思い返しながら提案する。チャッピーよりはマシだろう。
すると友人はふきだした。あははと笑いながら、いつもの調子で話に乗ってくる。
「えー? それださくない?」
「じゃあもっといい案考えてよ」
「そらもう、最高に最強なの考えてあげるよ」
それから二人でああでもないこうでもないと、まだ見ぬ人魚の話をした。
最近心境に大きな変化がありまして、自分のため、と、きっかけをくれたとある方に向けて書きました。ひとりよがりですが、一種の手紙のつもりです。
見てくれなくてもいいので、届けばいいなと思います。