前夜
読もうと思ってくださりありがとうございます。
その本は異世界の勇者がこの世界に召喚された際に持ってきたものだった。魔王を倒し終わった勇者はそのまま元いた世界に帰ったが、その本は偶然家具の隙間に挟まったまま置き忘れられてしまい、掃除の際に侍女に見つけられた。
それを読んで大層気に入った侍女は仕事仲間に話し、その仕事仲間も家族や恋人にも話し、いつの間にか城下町で大人気の話となった。そして、それに目をつけた商人が本として出版しこれまた国中で飛ぶように売れた。
勇者が置いていった本、所謂『ざまぁ』、『婚約破棄』等々の文句を吐くのに王道とも言える本。そんな本が貴族や王族にも伝わったらそうなるのか……
<ルイト=ユースヘント=カイルスの場合>
短く整えられた神々しい金髪に、南の地域の海のようなような深いエメラルドグリーンの瞳を持った一人の青年が本を読んでいる。読み終わり最後のページを閉じると同時に自然とため息が漏れた。まるで、読んでいた間にはまったく息をしていなかったかのように深く、長く。本を置いて冷めてしまった紅茶を一口飲んだ後、しばらくはじっと動かなかった……否、動けなかった。感動の余韻などではない。
今日偶然お忍びで城下町に出かけた時に見つけた本。店主曰く平民の間で大人気を誇り、10年前にこの世界に召喚され魔王を討伐した異界の勇者が伝えた物語だという。平民で流行しても貴族には伝わる訳では無いので、その本「私の為のざまぁ」は読んだことが無く、試しに買ってみた。
「……そばから見ると、酷いものだな」
その小説の登場人物、ベンジス=デリン=ハイトは自分にそっくりだと思った。公爵家の婚約者を持ちながら学園で会った男爵家の女と恋仲になり、そして卒業式の日に婚約破棄をする。違うところは彼はその卒業式で『ざまぁ』され返り討ちにあうのに対し、自分は明日が卒業式であること。
「あんな証拠を信じてしまった自分が情けない」
自分も彼と同じようにスカーレット、ユリシア=スカーレット男爵家令嬢から明日の卒業式で婚約破棄するように言われた。そして愚かにも彼女に出された証拠を鵜呑みに信じてしまい、危うく取り返しのつかない罪を犯してしまうところだった。
「手紙を書く。紙とペンを」
「はっ」
侍女に手紙の準備をさせる。
「本当にすまなかった。」
婚約者への贖罪と自分への怒りを抱きペンを走らす。
<ベージスト=デルハイムの場合>
「これをもう少し早く殿下にお届けすることができれば良かったのですが」
何もかも見通していそうな漆黒の瞳で虚空を見つめながら先ほど侍女にもらったばかりの本を脇に抱え、心底残念そうに呟く。カイルスの親友である自分はカイルスの賢さを知っていた。だから、あの令嬢に興味を持ち出した時も直ぐに見限ると思っていたがまったくその気配を見せず、ついに婚約破棄とまで言い出した。勿論止めたが、口論の末に絶交となり、以来顔を合わせたくなくて辺境の自分の領地にこもっていた。
この本を読めば賢い彼なら気づいてくれるのだろうが、時既に遅し。今からこのことを伝えようとしても、この地からは王都まで最速で二日かかる。どうしたら明日の卒業式に間に合うというのだろうか。
諦めと申し訳なさを拭うため、風をあたりに外へ出た。
<ユリシア=スカーレットの場合>
「ふふふ、明日が楽しみで眠れないわ」
自分が貰ったアクセサリーを見ながらベットに潜り込む。豊満な胸にぱっちり大きくて丸い目。淡い緑色の髪もふんわりしており、男ならば守ってやりたいと思う容姿。そして彼女にはそれが分かっていたので成し遂げたまで。
「何よりもあの女の絶望する顔が本当に楽しみ!」
その顔は恋する乙女そのものであるのに、内容が怖い。あの澄ました顔を何がなんでも崩してやろうと決心し、自分の容姿を武器に婚約者である第一王子に取り入って虐められたように見せかけ婚約破棄まで漕ぎ着けた。
「いけない、いけない。早く寝なきゃ。美容の基本は睡眠から。」
遠足前の子供のように、期待と嬉しさを胸に瞼を閉じた。
<ルースミント=ウェルリンテの場合>
「……ふん」
まだ若いというのに全身から威厳が見えるこの少女。しかしよく見ると、その華奢な体や心地よい夜のような緑がかった黒髪は小刻みに揺れている。長年働いていなかった涙腺が待ってましたとばかりに動いて目には涙が浮かんでいる。
(大丈夫、大丈夫よ……)
声に出すと涙がこぼれ落ちそうだったので心の中でそう呟く。貴族制度などない世界で書かれた代物であるのだから、あんなことはない筈だと自分に言い聞かせて奮い立たせる。
「信じてますから」
不安を直視しないように、そっと部屋から去った。
<ガイルナ=ヘルマイドの場合>
この本を読み終わった後、すぐさま手紙を書き出したがふとあることに気づく。
「……ふむ、そうした方が良いですね」
書いている途中であった手紙をビリビリに破り、火に焚べて完全に消滅させる。自分の計画は早ければ早い方が良い。卒業式が前日である今日にこの本を手に入れることができて良かった。
「……お前たち、『あれ』を全部燃やしておけ」
「……」
肯定の代わりに気配が消えてゆくのを感じて大きく頷く。
「唯一の不安要素は彼がこれを手に入れているかだが……王族だからまさかないでしょうね」
今回の計画の変更が将来どのような影響を及ぼすか、再び考え始めた。
<スクルビア=ルイラインの場合>
「ふふっ、中々面白いじゃないの。」
うっとりとした様子で頬を赤く染める。もし、このまま何事もなく明日になれば自分の手で彼女を助けることができるだろう。
「でも、流石にそれは無いわよね。」
人生は絶対に思った通りに進まない。自分が常日頃からそう感じているので明日もそうであるだろう。自分はただ、その場に応じて最も彼女の手助けになることをすればいい。
久しぶりとも言える高揚感を感じながらもう一度本を開いた。
<刈谷勇の場合>
「別に単行本の一つや二ついいじゃないか。」
「いいやダメだね。異世界に置きわすれたとかじゃない限り絶対にだめ。」
「……」
突き当たりで別れた。俺は右であいつは左。手を振って「絶対に持ってこいよー」と念を押されながら。
あいつに借りた単行本、「私の為のざまぁ」を俺はなくした。いや、なくしてはない。どこにあるかも知っている。だったら取りに行けっていう話だが、そうもいかない。異世界に忘れてしまったのだから。
「はー、やっぱり買いに行くしかないかぁ。」
多くの命を救ったというのに、自分の貴重なお小遣いを使わされて陰鬱な気分になりながら重い足取りで本屋へ向かった。