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第五話

 一刻ほどそうしたのちに、雪琳と秀峰は庭園をあとにした。太監長の元へ向かうついでに雪琳を桂花宮まで送って行く、という秀峰と共に小道を歩く。春も終わりを迎え、風に揺れる新緑が青々と茂り始める。こうやって歩くには心地のいい季節だ。そんなことを思いながら、雪琳は数歩後ろを歩く秀峰のことを気付かれないように振り返った。


 共に、と言っても太監である秀峰が雪琳の隣を歩くことはない。率いて歩くか、もしくは後ろをついて歩くかのどちらかだ。今は、雪琳の数歩後ろをお付きの人間のようについて歩いていた。


 隣を歩かなければ話をすることも難しい。気付かれないように振り返ったところで、気付かれないのであれば振り返っていないのと変わらない。「ねえ」と立ち止まって振り返れば話はできるけれど、それもそう何度もしていれば秀峰にも、そして他の妃や太監たちにも不審に思われるだろう。


 雪琳にとって秀峰は友人ともいえる存在だと思っている。けれど、こと後宮の中ではそんな認識が通用しないことはわかっている。もしも雪琳と秀峰の間に何かあらぬ噂が立ったときには、宦官である秀峰の命が驢馬よりも軽く扱われてしまうことを、さすがの雪琳でもよく知っていた。


「雪琳様?」

「え?」


 ため息を吐きながら歩いていた雪琳に後ろから秀峰が声をかける。こうやって歩いている時に、秀峰から声をかけてくれるのは珍しい。パッと顔を輝かせて、けれどそのまま振り返ったのではあまりにも喜んでいることが伝わってしまうのでは、と少しだけ表情を整えて、それから秀峰を振り返った。


「どうしました?」

「いえ、その……ふっ」

「秀峰?」


 袖口で口元を覆うと、秀峰は何度か咳き込んだ。どうしたのだろうか、苦しいのだろうか。慌てて駆け寄ろうとする雪琳を、秀峰は口元を押さえているのと反対の手で差し止めた。


「大丈夫、です」

「ですが」

「少し……ふっ……咽せた、だけ……です……くっ」

「秀峰、あなたもしかして」


 苦しんでいる、というよりは――。


「笑ってます?」

「……いいえ? そのようなことは。……くくっ」

「嘘ですね? 笑ってますね? もう、心配したのに!」

「申し訳、ございません」


 まだ少し笑いを堪えているようで、小さく肩が震えているのが見えた。いったいそんなに笑うほどどんな面白いことがあったのか。聞いても教えてくれないだろう、ということはここ数週間の付き合いでよくわかっていた。


「それで? どうして私を呼んだのですか?」


 それなら教えてくれない理由を聞くよりも、確実に雪琳に関わることを聞く方がいい。そう思い尋ねると「ああ」と思い出したように秀峰は口を開いた。


「どこに行く気なのですか?」

「どこって、桂花宮に――」

「桂花宮はもう随分前に通り過ぎましたよ」

「え?」


 言われて辺りを見回せば、確かに桂花宮はとっくの昔に通り過ぎていて、今は後宮の真ん中にある大きな池、夏液池のすぐ近くまで来てしまっていた。


 普段は来ない辺りにそわそわするものの、それよりも――。


「どうして教えてくれなかったのです!」

「迷いなく歩いていらっしゃったのでこちらに用があるのかと思いまして。あとは自分の宮に戻るのに迷子になられることもないだろうと」

「迷子になどなっておりません!」

「では、なぜこちらに?」

「それ、は」


 雪琳は言葉に詰まる。秀峰のことを考えていたら、周りが見えなくなっていました。なんてことは口が裂けても言えない。そんなことを言ってしまえば、きっと秀峰は今のように気軽に庭園に来てはくれなくなるかもしれない。それだけは避けたかった。


「え、えっとあの、その」


 辺りを見回し、そういえば今夏液池のすぐ近くにいることを思い出した。雪琳は慌てて、けれどまるで最初からそうだったと言わんばかりの態度で言う。


「か、夏液池に来たかったのです」

「夏液池に?」

「はい。今日は天気がいいですし風も心地がいいので、夏液池の畔で少しゆっくりしたいなと思いまして」


 苦しい言い訳だろうか。秀峰はおかしいと思うだろうか。不安に思いながら雪琳は秀峰を窺い見る。けれど秀峰は表情を崩すことなく「そうですか」と言うだけで何を思っているのかはわからなかった。


 夏液池の畔に行きたい、と言う雪琳のために秀峰は道を外れると、畔から少し離れたところにどこからか取り出した敷物を敷く。その上に座るように雪琳を促した。


「しばらく涼まれますか? 過ごしやすい気候となってきましたが、まだ時折風は冷たいのでお気をつけ下さい。では、私は仕事がありますので、これで」

「はい」


 秀峰も一緒に、とは言えない。雪琳がもっと上位の妃であれば秀峰もついていただろうけれど、現実は女官ではないといえ妃嬪の中では一番下の位階の才人である。それでもいてほしいと言えば妃嬪の我が侭を聞いたということで許されるかもしれないけれど……。


 雪琳は大人しく敷物の上に腰を下ろした。「では」と立ち去る秀峰の背中を見送り、一人夏液池の畔で佇む。水面に日の光が反射し、キラキラと輝いている。


「綺麗……」


 好奇心、というのは怖いもので、あの水を掬えば手の中できらめくのだろうか、そんな疑問が湧き上がればそれを止めることはできなかった。


 雪琳は敷物からそっと立ち上がると、夏液池の畔に近づく。水面を覗き込めば自分の顔が映って見える。キラキラと輝く水面にそっと手を伸ばした――その瞬間、ぽちゃんと何かが落ちた音がした。


「え?」


 何が落ちたのか、一瞬理解できなかった。けれど、少しだけ違和感を覚え頭に触れる。そこにはあるはずの梳がなかった。


「嘘っ」


 水面を覗き込むけれど、落ちたそれが見えることはない。もう一度頭に触れる。何度触って確かめても、梳が、実家を出るときに母から貰った大切な梳が見当たらなかった。


「嘘でしょ……」


 理解しがたい事実に呆然として、でも咄嗟に一歩、また一歩と夏液池へと足を踏み出した。

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