第7話 契約のこと
「外の世界……、ですか? ルアン様」
「そう、外の世界。サラは行ってみたいとは思わないか」
サラの質問にルアンはそれだけを言って、再び布団に横たわる。そのうえでサラの華奢な身体を自分の方へと引き寄せて話を続けた。
「俺がさっき言ったように、十五日も旅をしたらこの国の外に出られるよ。その間のサラの身の安全は俺が守る。まあ、なんて言ったらいいのかな、これは十五日間の契約だと思ってもらったらいいんだ。俺が十五日間サラを身を買って、そしてサラに外の世界を見せる契約。外の世界が気に入らなくて、やっぱりこの街に戻りたいと思ったら……、その時は俺が送り届けるからさ」
ルアンはもっともらしく自分でそう言いながらも、一方でこんな契約はまったく理にもかなっていないという自覚はしていた。十五日の間、サラの身を守り、食事を摂らせ、その目的はと言えばこの国の外をサラに見せること。そのために金貨三十枚を身請け金に支払うなどとは、たとえ夜ごとにサラを抱いたとしても割に合わない。
それに毎夜毎夜十五日間もサラに自分の相手をさせるほどに、ルアンは気持ち悪い色欲魔という訳でもない。つまりは結局、サラをここから救い出すために三十枚の金貨を使うという理由を、『契約』などという言葉で自分は偽っているのだとルアンは天井を見ながら思っていた。
そんな面倒くさい方便を使わなければ自分の偽善を隠すこともできないルアンは、小さく息を吐き出して自分の腕枕に載っているサラの顔を見る。そのサラの鳶色の目は明らかに戸惑いの感情を浮かべながらも、しっかりとルアンを見返していた。
「あの、ルアン様。その、契約って……」
小さな声でサラが訊ねる。
「ああ、わかってるよ。おかしいだろ」
その先にサラから聞かれることがわかっているとでも言うように、ルアンはサラの言葉を少々乱暴に遮った。
「いえ、おかしいのは、おかしいのですけど」
そこで一旦言葉を選び、サラは続けた。
「その契約でルアン様は私を助けてくださるのですよね?」
「ああ……、そうだよ」
ルアンは自分の偽善をサラに見抜かれたような気がして腕枕を外し、ゴロリと寝返りをうってサラに背中を向けた。
「そして私は金貨三十枚の替わりにルアン様の身の回りのお世話をしたり、夜のお相手をして十五日を一緒に旅すると」
「だからさっき言っただろ、俺は商人だから何でもお金の価値に代えちまうってさ」
自分で言い出したことながらサラに契約内容の再確認を迫られて、ルアンは自分が不機嫌になっていくことを抑えられなかった。なぜなら本心では純粋な気持ちとしてサラという少女を助けたかったから。――そして、それを自分では偽善だと思っていたから。
そんなルアンの気持ちを見透かしたかのように、サラはルアンの背中に後ろから抱きついて優しく言った。
「ルアン様、なぜルアン様はそんなにご自分で露悪的なことを言われるのですか? 私を助けてくださることに、どこか引け目を感じているようなことを……」
背中にサラの体温を感じながら、耐えきれなくなったルアンはついに自分の心情を吐露する。
「……あたりまえだろ。俺のやろうとしてることは偽善だからさ」
「偽善?」
「ああ、偽善だよ」
「そんなこと、ないと思いますけど……」
サラはルアンの肩甲骨あたりにそっと頬をつけて、小さくつぶやく。
「私は、もしも本当にルアン様に助けて頂けたら嬉しいです。ですから、どうか偽善とか自分を悪く言わないでください」
「でもそれは!」
語気を強めてそう言いながら、ルアンは再び逆向きに寝返りをうった。その目の前には驚いたようなサラの顔がある。
「サラ、でもそれはサラを可哀想だと俺が思ったからで、サラが今夜からまた無表情で店先に座るのかと思うとそれがイヤなだけで、それからサラのこの細い身体に俺の見知らぬ誰かがまた痣をつけるのかと思ったら……、それが許せなくて。とにかくサラを救いたいと思う俺の気持ちは本当だよ。ただそれは、昨日サラを抱いたからというだけで、たとえサラを助けたとしてもサラと同じ境遇の女の子すべてを救った訳でもない。つまりは目の前の可哀想な少女だけを、つまりはサラだけをお金の力で救って、さも自分が満足したような気持ちになるのは――、やっぱり、偽善だよ」
一気にそこまで言い終えたルアンは、自分のなかにあった後ろめたい気持ちを出し終えたかのように、フウッと大きめの息をついた。
ベッドの中で向かい合った二人の間に、気まずい沈黙がしばし流れる。その気まずい沈黙を破ったのは、小さくともしっかりとしたサラの声だった。サラはルアンの胸にそっと頬を埋めて話を始める。
「ルアン様は優しいお方です。昨日も思いましたけれど、いまのお話を聞いてやっぱりルアン様のことを好きになって良かったと思いました。本当に、人の痛みがわかる優しいお方です。初めて好きになった男の人が、こんなに優しい人で本当によかった」
「人の痛みをわかる? 俺が?」
「ええ。ルアン様は人一倍他人の痛みがわかるお方です。私の信じる神様も、人の痛みをわかるようにと仰っています。私がルアン様に惹かれたのは必然なのかもしれません」
サラはそこまで口すると、ルアンの漆黒の瞳をまっすぐに見ながらニコリと微笑んだ。そんなサラに見つめられることで、ルアンの中にあった罪悪感にも似た感情が少しずつ薄らいでいく。
「ルアン様……。ルアン様は神様ではありません、ですからすべての人を救おうなどと考えるのは重荷だと思いますよ。私を……、私だけでも助けて頂けるのでしたらそれはそれで私は素直に嬉しいのです。けれど、もしそれをルアン様が後ろめたいと思われるのでしたら……」
一旦そこで口を閉じたサラは、ゆっくりと目を伏せて間を空けた。その沈黙の間、ルアンはまさか自分の話が断られるのではないかと一瞬身を硬くする。やがて何かを決心したように再び口を開くサラ。
「それでも目の前のことだけを、つまり私だけ身請けすることをルアン様が後ろめたいと思われるのでしたら、私がルアン様から金貨三十枚を借りていることにして頂けないでしょうか? お金はいつか必ずルアン様にお返し致します。それでしたらルアン様は金貨を貸しただけで、偽善でも何でもありません」
続けて「いかがです?」と小首を傾げ、微笑みながらそんな提案をするサラに、ルアンは咄嗟には何も言い返せなかった。
サラに金貨三十枚を貸す、そしていつかサラは金貨をルアンに返す約束、つまり契約をする。それならば確かに後ろめたい気持ちも薄れるような気がする。そんな考えを巡らせたルアンがもう一度サラの方を見ると、サラはやはりニコリと微笑んでいる。
「私だって毎日ここで嫌だとか、怖いだとか思いながら身を売って過ごすよりも、ルアン様と一緒に旅ができるのならその方が嬉しいに決まっています。ですから助けて頂けるのは本当に嬉しいのです。ルアン様、金貨を三十枚、私に貸して頂けますか?」
微笑みをたたえた鳶色の大きな瞳で、サラは形式上の借金をルアンに申し込んだ。それがルアンにとってもサラ自身にとっても、一番の良い落とし所だと確信した様子で。
ルアンはそんなサラの十八歳とは思えない頭の良さと知恵に驚き、この少女と旅をすればさぞ楽しいだろうな、とその先に思いをはせた。
「サラ……、君は俺が思っているよりもずっと賢くて、それから強い女の子なんだな。ごめんな、昨日は最初人形みたいに面白みのない子だと思ってしまって。こんなに活き活きとした女の子だったなんて思わなかったよ」
「いえ、ルアン様に心を開くまでの私は魂の抜けた人形でしたから。いま私が活き活きとして見えるのなら、それはルアン様のお陰です」
サラは言い終えると目を閉じて再びルアンの胸に顔を埋める。ルアンはそんなサラの身体を愛おしそうに抱きしめ、赤みがかった髪を優しく撫でたのだった。
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「じゃあサラ、金貨三十枚をキミに貸すから、これは君に貸すだけだから。だから……その……、さっき言った契約のことは……」
その先をルアンが言いにくそうにしているのを感じたサラは、抱きしめられていた胸から顔をあげて上を見あげる。すると金貨三十枚を貸す、と言っているルアンの顔は心なしか恥ずかしげに赤く染まっていた。
「契約のこと、ですか?」
「そう契約のこと。つまり、その、これはお金を君に貸すだけだから、だから旅の途中で望まない俺の夜の相手なんて……、嫌なら嫌だとハッキリ言ってくれたらいいから……、だからその、無理に俺と」
ルアンがいま言おうとしているのは、お金でサラを買ったのではないのだからこの先は無理に自分の夜の相手をしなくてもいい、ということだろうとサラはすんなりと頭の中で理解した。そしてそれを理解した途端、おかしくなって思わず吹き出してしまう。
「フッ、フフフフッ」
「なんだよ、なんで笑うんだよ」
「だって、ルアン様は本当にお優しい方だなと思って。大丈夫です、ルアン様が人が変わったように乱暴になさらなければ、私はルアン様のことを嫌がったりなんかしません。今だって、ほら……」
そう言ったサラが二人の身体を覆っている布団の中を確認し、少し覗き込むような仕草をするとルアンの顔がますます赤くなる。
「それじゃあサラ、今からでもいい? もう部屋もずいぶん明るいけど恥ずかしくないか?」
「はい、ルアン様。でも、ずっと昨日みたいに優しくしてくださいね」
甘く微笑んだサラはゆっくりと目を閉じて、ルアンに口づけを求めたのだった。
<第一章 ――妓館―― 終わり>