第58話 回廊
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「なにもマヌスール殿が回り道をする必要もなかったのでは?」
舞踏会の会場を出て宮殿北側の回廊を進み始めた時のこと、マルセルムは立ち止まって後ろを振り返り、後方のマヌスール伯爵に声を掛けた。
「いや、今宵はサラ殿と出会えて楽しゅうござった。お見送りをせねば失礼かと思いましてな。なあ、サラ殿」
まるで他意などない様子で、マヌスールは斜め前方のサラへと同意を求める。サラはどう返答してよいものかも分からず、公太子の方を気にしながら「はい……」とだけ頷くにとどめた。
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迎賓館で行われた舞踏会も終わり、公太子夫妻は宮殿内の回廊を公太子宮へと歩みを進めていた。もちろんサラも随伴に加わっていて、慣れない夜会ドレスの足元を気にしながら回廊を歩いている。
今夜ここで公太子であるマルセルムにとってひとつの誤算が生じていた。従兄弟であるマヌスール伯爵一行が回廊内を同行して来たのである。伯爵の館は回廊を進んで逆方向ではないものの、こんなところまで来ては回り道であることに違いはない。なぜこのような時に……、と公太子が不審に思ったのも無理のないことであった。なにしろこの回廊の先の部分でサラを襲わせる手はずになっていて、その計画にはマヌスール伯爵が邪魔な存在になっていたからだ。
「殿下……、伯爵のこと、追い払われたらいかがです……」
公太子妃であるエメイラがマルセルムの耳元にそっと口を寄せ、後ろを気にしながらささやき声で問いかける。
「いや、伯爵を追い払った後であの娘を攫わせれば、いらぬ疑念を受けかねん。いざとなれば襲撃者を討ち払ってしまってもよい。なに、相手はこちらがあの娘を守って戦うとは思ってはおらんのだ。あの娘のことはその後でもう一度……」
「なるほど殿下、そこまで次善の策をお考えとは」
「どうせ死人に口なしじゃからな」
公太子夫妻はそうささやき合ってお互いの顔を見合わせ、片方はニヤリと、そしてもう片方は口角の上がった口元を扇子で隠した。
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回廊の行列は公太子夫妻、サラ、そしてマヌスール伯爵の順番で進んでいく。もちろん随伴の官吏や衛兵などがついていて、通路を照らす灯りはその者たちが手に持っている。
今夜の月は珍しく赤い月。サラは回廊から見上げた空に浮かんだ赤っぽい月を見て、エルテシアと名付けられた妓館のことを思い出した。結局あの薄汚い生活から救い出してくれたルアンとは離ればなれにされて、なぜか自分は貴族の人たちとこんなところを歩いている。舞踏会の場で貴族の若者に取り囲まれた切っ掛けを作ったのは後ろを歩いているマヌスール伯爵で、伯爵は公太子夫妻がいなくなる機会を見計らって知り合いの貴族をその場に呼んだに違いない。
それどころか舞踏会が終わってまでも自分を送るという。いったいこの伯爵が何を考え、どうしようとしているのか? 自分の味方なのかそれとも敵なのかさえ推し量ることもできず、サラはマヌスール伯爵と接している。
後ろを振り返ると伯爵とサラとの間には警備の兵が二人。その向こうに長身の伯爵が淡い月の光に照らされて見える。振り返ったサラと伯爵の目が合うと、伯爵はサラが何度か目にしたようなニヤリともニコリとも区別の付かない笑顔を見せた。
「サラ殿」
慌てて前を向き直したサラに伯爵が声を掛ける。
「は、はい……」
サラは後ろを振り返ることはせずに、失礼なことと感じつつも歩きながら返事を返した。
「サラ殿は、お腹が空いているのではないかな?」
「……えっ」
立ち止まり、思わず振り返ってしまったサラがマヌスールの顔を凝視する。
「なにしろ舞踏会の間、給仕係の皿を残念そうに見てましたからなあ。ハッハッハ」
そんなところまで見られていたと知ったサラが夜目にも分かるほど顔を赤くした時、前方の公太子の方からは大きな舌打ちの音が聞こえたのだった。
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その頃ルアンとマリクの二人は、今夜の襲撃場所に設定されている回廊の部分に近づいていた。幸いなことに今夜は月夜で庭園の通路が見え、マリクが予想してたよりも早くに襲撃場所に着くことができた。
回廊の所々にはランプの光が灯っているものの、それは柱に掛けられた無人のランプの光で、どうやらまだ公太子他一行は遠くにいる様子。それを確認したマリクとルアンは、庭園の茂みに隠れて待つことにした。
茂みに隠れること数分、沈黙を破ってマリクが呟く。
「おいルアン、お前あの嬢ちゃんに惚れてるんだろう?」
「なに!?」
サラを救うためにマリクを信用することにしたルアンではあるが、この男の不躾なところはやはり好きにはなれない。
「違うのか? 守りたいんだろ?」
「お前には関係ないだろ!」
月夜に声が響かないように気をつかいつつも、強めの言葉を吐いてルアンはプイッと横を向く。
「関係なくはない。守りたい人がまだ生きているってことは、それだけ救いがあるってもんだ。俺は……、いや俺たちは復讐をしたところで誰も帰ってこない。おい、飲むか?」
マリクが懐から取り出したのはガラスの小さな小瓶。中に入っているのは琥珀色をした液体で、一見したところ蒸留酒に見える。ルアンが横目で疑わしそうにジロッと見やると、マリクは「毒じゃねえよ」と、蓋を開けて口に含んだ。
「くうう、美味え。ほらよ」
ルアンはマリクに手渡された小瓶をしばらく眺め、二度三度と中身を揺らしてから同じように口に含む。ツンと鼻に抜けるような刺激臭とともに、口の中には蒸留酒の苦みと焼けるような味わいが広がっていく。ルアンの知る限りこの酒は大陸の北方で好んで飲まれている、度数の高いキツい酒だった。
「プハッ、イルタシアの酒だな」
口元を拭きつつ小瓶を返しながらルアンが聞くと、マリクが不適な笑みで受け取る。
「そうよ、よく知ってるな。俺は甘ったるい酒よりこっちのほうがいい」
「アデリーじゃあタダだと思って蜂蜜酒を飲んでたじゃないか、それも三杯も」
「お前よく覚えてるなあ。まあ、あの店にはイルタシアの酒なんて置いてなかったからな。あの店どころか、こっちの方じゃ飲めねえな、この酒は」
マリクはひとしきりイルタシアの酒の造り方をルアンに教え、その酒を厳冬の季節に飲んで寒さを紛らわすことを話す。
「ふん、俺たちの国は貧乏さ、鉱山もなけりゃ海もねえ。短い夏の間に食い物を作って、酒を仕込んで、飢饉になりそうだって時には出稼ぎにも行かなきゃならねえ。誰が好き好んで遠くの国に出稼ぎに行くかよ、それも若い女がよ……」
「マリク……、お前さっきから」
ルアンはマリクが何を言いたいのかを理解することが出来なかった、が、しかし今マリクが話していることと彼の復讐が繋がっていることだけは想像がついた。
「十八年前、俺の姉はこのセレスティアで死んだ」
「えっ……」
その告白はあまりにも唐突だった。ルアンはマリクが酔ったのかと勘違いし、隣に座る大男の顔を覗き込む。ところがマリクは酔ってなどいない様子で、真っ正面の暗闇を向いて目を爛々と光らせていた。
「セレスティアで死んだ、って」
「飢饉でな、家族の中から誰かが出稼ぎに行かなきゃならなかった。本当は俺が行きゃあよかった。十六の俺でもできる仕事を探して行くべきだった。大して採れねえ畑仕事なんて放っておいて俺が行きゃあよかったんだ。姉は出稼ぎでこのセレスティアに来て死んだ、いや――殺された」
「マリク、あんたの復讐って」
ルアンが掠れたような声を出すと、マリクがニヤリと返す。
「ハッ、不思議なもんじゃねえかルアン。俺はお前に復讐の中身まで言うつもりはなかった。けど、お前はアレだな、人の秘密を打ち明けちまう何かを持ってるんだな。こりゃ、あの訳ありの嬢ちゃんが安心して身を寄せちまうわけだ」
「うるせえ」
照れ隠しのようにわざとらしく粗雑な言葉を使ったルアンではあったけれど、マリクの復讐についての興味は抑えられない。
「で、マリク。あんたのそのお姉さんの復讐と、サラとは何の関係があるんだ。十八年前なんてサラが生まれたかどうかの頃だろ、関係あるのか?」
「ああ、関係あるね。嬢ちゃんとも大ありだ。っていってもあの嬢ちゃんの父親とだがな」
「サラの父親? ソフィリアス殿下?」
「シッ、来るぜ。もうすぐだ」
唇に指をたてたマリクが、つぎに前方を指さす。確かにそこにはランプの灯火を揺らす一団が近づいてきていた。ここに来るまでの時間にすれば、あと二~三分といったところだろうか。
「ソフィリアス殿下と、あんたの姉さんが、なんで?」
息を殺した声でルアンがささやく。
「ソフィリアス殿下が死んですぐ、女官で出稼ぎに来ていた姉が死んだ。ソフィリアス殿下を死なした責任をとって自害したとよ、ウソに決まってる」
「自害? ソフィリアス殿下ってたしか食中毒かなにかで死んだって……」
ルアンは少し前にリディルから聞いた記憶を呼び戻す。
「ああ、貝毒ってことになってる。だがな、診断をした医者が失踪、毒味役も貝毒で死に、侍従、料理人、それから給仕をしただけの姉が責任をとって揃いもそろって服毒して自害だと? バカバカしい」
「服毒……?」
「ああ、毒だ。だから俺はソフィリアス殿下も毒味役も含めてみんな誰かに毒殺されたと思ってる」
射るようなマリクの視線の先には、公太子夫妻を先頭に歩いてくる集団。ここに至ってルアンがマリクの復讐の全貌を把握する。
「まさか、いまの公太子が、それを」
「ああ……」
前方を向いたままマリクが頷く。
「あの公太子が、腹違いの自分の兄弟や、宮廷で働いている人たちを?」
「そうだ」
「毒殺……」
この瞬間にルアンの表情が明らかに変わったことを、生け垣で気配を消していたマリクは気づかなかったのであった。




