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第36話 監視の気配

「えええっ! これがカニ……ですか……」


 木枠の箱に入ってガサゴソと音を立てている奇怪な生き物たちを見て、サラが少々怯えた声をあげた。その手はルアンの腕を掴み、半分隠れるようにしてカニの動く様子を見ている。


「そう、あれがカニ。焼いて食べても煮て食べても美味いよ。それからあっちの尻尾が丸まってるのがエビ」


「あれが……エビ」


 見ると、こちらも同じように木枠の箱に入れられ、見た目奇っ怪な体から生えている脚やヒゲをピクピクと動かしている。


 サラは本当にこんな得体の知れないものが美味しいのか、といった表情でルアンを見上げた。


「嬢ちゃん。これはな、獲れたてだからまだ活きがいいだろう? これをなあそのまま火であぶっても美味いし、そこにある釜で茹でても美味いんだ。どうだい、ちょっと味見してみるかい?」


 魚屋の店主は魚を捌く手をとめて、笑いながらサラに話しかける。味見と言われても何をどうすればいいのか迷っているサラを尻目に、ルアンは魚屋の店主に「じゃあちょっと食べさせてよ」と、うごめいているカニを指さした。


「おう、じゃあこれ食ってみな」


 店主は木箱の中のカニからすでに脚が数本取れている一匹を取り出すと、無造作に残った脚二本を包丁でコンコンと切り落とした。その光景に思わずサラは「うえぇ……」と小さな声を漏らす。


 そんなことはお構いなしに続いて店主はその脚に切れ目を入れて釜に入れ、グツグツと沸騰した湯にくぐらせた。焼いても、煮ても美味いとルアンが言っていたけれど本当だろうか、などと多少の疑いのまなざしで釜の中を見つめるサラ。


 時間にしたら一分も経った頃合い、店主は「ほらよ、美味かったら買ってくれ。ウチの商品は奥で食べられるようになってるから」と、店の奥の食堂を顎で示しながらカニの脚を釜の中から取りだした。


 ふたりの目の前に差し出されたのは、真っ赤に染まったカニの脚。釜に入れられる前はくすんだような色だったのに、お湯にくぐらされると自分の髪のように赤くなったカニの脚を、サラはますます不気味に感じる。


「サラ、熱いから気をつけろよ。アチチッ」


 熱いから気をつけろといって、ルアンは差し出された二本のカニの脚を慎重につまむ。それをしばらく宙でブラブラと振り、多少冷めた様子を見計らってサラに渡した。初めて触ったカニの脚は硬くて、いったいこれをどうやって食べるのかとサラは悩む。


「えっと、ルアン様……」


「ああ、これな。これはこうやって!」


 ルアンは両方の指でカニの脚を掴み、「えいっ」とばかりにその長い脚をへし折る。バキッとという音とともに折れる脚と、その身から立ち上がる湯気。サラはまたも「うぅ……」と小さな声を漏らして、さっきまで動いていた脚の変わり果てた姿に目を細める。


「この身をな、こうやって、中から取りだして……」


 器用にカニの身を取り出すルアンと、自分の手に持っているカニの脚を交互に見つめ、サラは見よう見まねでカニの脚をへし折りにかかる。カニの脚はサラが思ったよりも硬く、そのか細い指に力をこめてもなかなか折れてはくれない。そうするうちにルアンはカニの身を食べ、「美味い美味い!」と、魚屋の店主と話を始める。


「オヤジさん、これ塩味だけで美味いね!」


「あたり前だろ、ウチの店にあるもんで不味いもんなんかあるかよ」


 サラはそんな会話を耳で聞きながら、今度は思い切って手に力を入れカニの脚をへし折った。バキッという小気味いい音とともにサラの持ったカニの脚は折れ、中からカニの身が飛び出す。魚とも違い、肉の匂いとも違う香りがカニの身から漂ってきて、サラの鼻梁をくすぐっている。


「サラ、パクッと食べてみな」


 隣ではルアンがサラに食べるように勧める。


「嬢ちゃん、絶対に美味いから。ほら、ほら」


 魚屋の店主も手をヒラヒラとさせながらサラに勧める。


「……ううぅ、はい」


 チラリと横目で活きているカニの姿を確認して、サラは思い切ってカニを口へと運んでいく。


 どうみても殻の硬い昆虫にしかみえず、こんな姿形の生き物が水中に棲んでいるとは海はなんと恐ろしい場所か、と、そんなことを一瞬サラは思った。そして、もしもこのカニが美味しくなかったら、今日の夕食は無理をいって魚だけにしてもらおう、などと続けて考えながら、サラは思い切ってカニの白い身を口に入れたのだった。


 △


「サラ……、カニ、そんなに気に入ったのか?」


 数刻後、ルアンの前にはサラの食べたカニ殻が積み上がっていた。そのカニ殻の向こうでは、両手で次のカニの脚を折ろうとしているサラが満足そうに口をモグモグとさせている。


「はい! すごく美味しいです、カニ! こんなに美味しいものを食べたのは生まれて初めてです!」


「そうか、よかったな……」


 苦笑いをしながらルアンは蒸した魚をつついている。なにしろあまりのサラの食べっぷりに、自分の分のカニをサラに渡したのだ。


 確かに海まで遠いアデリーで育ったサラにはカニ料理は珍しいだろうとは思ったし、気に入ってくれるかどうかの不安もルアンにはあった。しかしどうだろう、このサラの食べっぷりは出会ってから一番かもしれない。ルアンはカニの身を頬につけながらニコニコと脚を折るサラを見ながら、思わず吹き出してしまった。


「どうしたんです?」


 クリッとした鳶色の目を瞬かせながら、サラが不思議そうに問いかける。


「いや、サラが気に入ってくれてよかったと思ってさ。それから、ここにカニの身がついてる」


 頬を指さされたサラがその部分を触ると、白いカニの身がポロリと取れる。「もう、はやく言ってくださいよ!」と、子どものようにほっぺたを膨らますサラの首元には例の首飾りがかかっている。


――明日セレスティアについたら、サラの本当のことがわかるだろうか。


 そんなことをふと思いながら、ルアンはコップに残った葡萄酒を飲み干したのだった。


 △


 魚屋と食堂を兼ねた店を出て、夜のとばりが降りはじめた街をサラと歩く。すっかりとカニが気に入ったサラは「セレスティアでもカニが獲れますか?」と、出がけに魚屋の店主に尋ねていた。セレスティアも海が近くもちろん海産物は獲れる、それを聞いたサラは嬉しそうにルアンの腕をとり、「また食べましょうね、ルアン様!」と目を輝かせていた。


 ふたりが宿まで帰る途中のこと、ルアンは一人の男に気がつく。背が低く、普通にみれば通りを眺めているだけの男に思えるだろうけれど、チラリとルアンとサラを窺った様子に、ルアンは違和感を覚えたのだった。


 どこかで見たようなおぼろげな記憶を呼び起こしながら、ルアンが男の横を通り過ぎようとしたとき、二人の視線が一瞬合った。男は何気ない風を装いながらその場を反対方向に立ち去り、ルアンは違和感を強くしながら男が立ち去った方を歩きながら振り返る。


「どうしたんですか? ルアン様」


 視線を隣のサラの方へと戻すと、サラは小首を傾げてルアンを見上げていた。


「いや……、あの男、どこかで見たような気がしたんだが」


 そういってもう一度後ろを振り返ったルアンの目には、既にあの背の低い男の姿は見えなくなっていた。

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