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第35話 サラが初めて見た海

 サラが発熱をして休んだ遅れを取り戻すべく、ルアンは荷馬車をいつもより速く走らせていた。南国の陽光はますます強くなり、あきらかにテルム領内とは違った風の匂いがサラの鼻腔を通っていく。定期的に雨の降る大地には草花が生い茂り、北方によくある岩山などは見えなかった。


 途中の街で休んでから二日、荷馬車はガリエステ半島に着実に近づいていて、サラの体調もほとんど健康に戻っている。「今日の夕方には海の近くまで行けるよ」、とルアンに聞いていたサラの心は何日かぶりに高揚していた。今夜は海辺の街で泊まり、明日の夕刻にはセレスティア公国に着く。思いかえせばルアンと出会ってからもう半月、まさかそのときの自分に『半月後には海が見られるよ』と言っても決して信じたりはしないだろうと、サラは自分でも少し可笑しくなってしまう。


「ルアン様! 海に着いたらエビ、カニ? でしたっけ、食べられるんですよね?」


 小気味よく揺れる荷馬車の荷台から、御者台のルアンにサラが声を掛けた。内陸育ちのサラは生まれてこの方エビやらカニを食べたことがない。それどころか自分の生まれたアデリーの街から遠くへ行ったこともなかったので、湖を見たのでさえこの旅が初めてだった。「海はこんなものじゃなから」と、対岸の見える湖の側でルアンに頭を撫でられたサラは、さざ波が打ち寄せる目の前の湖より大きな『海』を見る機会を楽しみにしていた。


「そうだな、じゃあ今日は獲れたての海のものを夕食に食べようか。サラがカニとかエビを見てどう思うか楽しみだけど!」


 ルアンが笑って振り向く顔を、サラは小首を傾げて見ている。


「エビとかカニって、そんなに見た目がおかしいのですか?」


「まあ……うーん、もしかしたら見たことあるんじゃないかなあ。ああ、でもアデリーの河にはいそうもなかったなあ。そうか、もしかしたら湖を探してたらカニくらいいたかも……」


 ブツブツと、でも楽しそうに独り言を呟くルアンの顔をサラはやっぱり不思議そうに眺めている。


「魚の仲間なんですよね?」


「どうかな、魚の仲間……じゃないような気がするなあ。専門家じゃないから知らないけど」


「魚の仲間じゃないのに水の中に棲んでるんですか!?」


 目を丸くして大きな声を出すサラを見て、ルアンは思わず吹き出すとともに、サラの今までの境遇に思いを馳せた。


 サラが十八年間を暮らしたアデリーの街を流れる河は、決して清流と呼べるようなものではなく、河運や生活排水を流すような河だった。普通の市民が子連れで水遊びや川遊びをするとすれば、アデリーの街からすこし外れた郊外の小川に行くことだろう。しかしサラはそういう家庭の子どもではなかった。恐らく母親と二人きりの生活で、呑気に川遊びなどには連れて行ってもらえなかったはずだ。そう考えると子どもの頃から半分大人の世界に足を踏み入れていたサラが、よくもここまで素直に育ったものだと感心してしまう。


 そんなことを思いながら、ルアンは肩をすくめてサラに返事をする。


「海には魚の仲間じゃない生き物だってたくさんいるさ。カニやエビの他には、たとえばタコとかイカとか、こっちの大陸の人は食べないけど」


「……タコ? イカ?」


 またしても聞き慣れない生き物の名前に出くわして、サラの目が丸くなる。


 いまサラの頭の中では、どんな生き物の形が想像されているのだろう。そんなことを思うとルアンは可笑しくなってとうとうケラケラと笑い出してしまった。


「もう、ルアン様は意地悪ですっ! この前だって聞き慣れない言葉を言って誤魔化そうとしたりして!」


「いや、ごめんごめん。サラがあんまり可愛い顔をしてこっちを見るもんだからさ、素直でいいなあと思ってね」


「いつもそんなお世辞を言って!」


「お世辞じゃないよ、サラは美人だとか、可愛いとか、スピルスさんだってセリアだって、それからリディルさんも言ってたじゃないか?」


「もうっっ!!」


 白い顔を赤くして照れるサラのことを本当に可愛いと思いながらも、今晩夕食で出てくるエビやカニを見てサラがどんな反応をするかを、ルアンは楽しみにしながら荷馬車の速度を上げたのだった。


 △


「これが……、海ですか……」


 果てしなく眼下に広がる大海を見下ろしながら、サラがポツリと呟いた。


 正確に言えば小さな峠を下るところから海は見えていた。それを見てサラは「あれが海ですか! ルアン様」と指を差し、キラキラと光る目でルアンに聞いていたのだった。しかし小高い崖の上から見下ろす海はサラの想像よりも大きかったようで、帆船が何隻が沖を走る海を目の前にしてサラははしゃぐこともなく静かに大海原を見つめていた。


「そう、これが海。俺は子どもの頃からずっと海のそばで暮らしてきたから、この潮風の匂いで安心するんだ」


 ルアンにしても久しぶりの海の匂いだ。内陸の乾いた大地よりも、やはり潮風の方が安心するルアンは、大きく息を吸い込んで深呼吸をする。


「全然……、全然違いますね! 風の匂いも、聞こえてくる音も……。それから、それから広くて、青くて! アデリーや大陸の内側とは全然違いますね!」


 子どものように両手を胸の前で握りしめ、鳶色の目を見開いてルアンの方を見上げる赤毛の少女。ピョンピョンと跳び上がらんばかりにしながら海の感想を紡ぎ出すサラの様子を見て、ルアンは本当にここまで連れてきて良かったと、ひとまず満足をする。


「良かったよ、サラが海を見て嬉しがってくれてさあ」


 少し照れくさいルアンは、潮風になびく黒髪を手で触りながらありきたりなことを言った。そんなルアンの心中を知ってかしらずか、サラはルアンの左手をギュッと握って沖の方を指さす。


「ねえルアン様、この海の向こうには別の国があるんですよね。それから、もっともっと先にはルアン様の国もあるんですよね!?」


 無邪気な笑顔を見せてそんな問いを投げかけるサラにますます照れくさくなったルアンは、「うん、そうだな」と曖昧な返事をかえす。


「凄いなあ、私、本当に海まで来たんだ……。この大陸の端まで来られたんだ……。それもこれも、全部ルアン様のお陰です、本当にありがとうございました」


 ペコリと頭を下げたサラの赤みがかった髪を、海風がふわりと浮かす。慌てたように髪の毛を直す仕草をするサラを見ると、ルアンは思わずサラを抱きしめて口づけをしたくなった。これが一週間前のルアンならためらうことなくサラをギュッと抱きしめただろう。ところがサラが生理になったり体調を崩してから今日で五日か六日ほど、ルアンはサラの身体を庇って手を出してはいない。不思議なもので一度間が空くと、なかなか次に行動を起こすのに勇気がいるらしい。


 結局ルアンはサラを抱きしめることなく、口づけをすることもなくその手を握り、「さあ、街に行くぞ」と、サラの手を引いて荷馬車に戻ったのだった。

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