第27話 異国へ
テルム王国とマルティエ王国を隔てるレブラルタ峠を越えると、そこはサラが生まれて初めて訪れた異国だった。峠の頂から来た道を振り返ってみれば今朝出発したテルム王国の街、トキナーが麓に小さく見える。そして前方の山を下った場所に見えるのがマルティエ王国側の街、峠の名称にもなっているレブラルタの城壁だった。なぜトキナー峠ではなくレブラルタ峠なのかといえばこれも統一国家だった頃の名残で、名称とはいえテルム王国側にしてみると多少面白くないところだろう。
レブラルタの街は街道の分岐点になっていて、そのまま南へ進むと海に出る一番早い街道。西に折れればあの老夫婦の地元のコズム、更にはプレステル大公国、そして例のセレスティア公国のあるガリエステ半島へと繋がっている。大街道の分岐点であるレブラルタに対して、街道の宿場街でしかなかったトキナーは、統一国家時代に峠の名称にするには相応しくなかったのかもしれない。
そんな峠の頂には何軒かの茶屋がある。トキナーから登ること二時間、荷馬車で峠道を操ったルアンも、それを引いた馬も、茶屋で一呼吸入れないと疲れてしまっていた。
「ああ、疲れた。別に俺が荷馬車を引いてる訳じゃないけど、峠道は気をつかうよ」
馬に水と餌を与えたルアンが、苦笑いをしながらサラのもとへとやって来る。先に茶店に入っていたサラは、焼き上がったばかりのアップルパイの半分と、レモンと蜂蜜の混ざった飲み物をルアンの前に差し出した。
「本当ですねルアン様。途中の谷底の見える場所、あそこは見てるだけでも怖かったですよ! 薄暗くなってからなんて絶対に通りたくないです」
「あそこは向こうから馬車が来たらヒヤヒヤだよ。おっ、これレモンの炭酸水だな、これを飲むとマルティエに来たって感じがするんだよなあ」
大陸の南では天然の炭酸水が豊富に採れ、海に近い場所では柑橘類も栽培されている。その二つを組み合わせた飲み物は南の地方の名産でもあり、お茶の時間にはよく出る飲み物だった。
「アデリーでは炭酸水は貴重ですから、私は飲んだのがこれで二回目です。この味、なんだか疲れが飛んでいくようですね」
ガラス製のグラスに浮かぶレモンの切れ端を木のスプーンでかき混ぜながら、サラが嬉しそうに言った。ルアンはルアンでレモンの炭酸水を飲み干し、残ったレモンの切れ端を眺めながらポツリと呟く。
「レモンか……、あいつ元気にしてるのかな……」
「え? あいつ?」
「ああ、いや、いまから行く得意先の人のこと。レブラルタに着いたらそこに行くから、ちょっと思い出してさ。一年半ぶり、かな」
別にルアンが隠すようなことを言っている訳ではないと思いつつも、サラはその言い方に少しばかりの不満を覚えた。なぜだかルアンが少し視線を外したのも引っかかる。しかし結局サラは、『その人って、どんな方ですか?』とルアンに聞くこともできず、パイを一口で食べたルアンの「美味い美味い、このアップルパイもう一つ頼もう」という言葉でその場は流れてしまったのだった。
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レブラルタ峠を下りることまた二時間、二人の乗った荷馬車はレブラルタの街までたどり着いた。街を取り囲む城壁はトキナーよりも少し大きく、城門の前では旅人や商人が役人の入城審査を受けている。その列に並んだ二人の荷馬車はゆっくりと止まった。背後にそびえる山々の向こうはサラの生まれた国、そしてこちら側はまったく縁もゆかりもないマルティエ王国。草原を照らす太陽の光も肌に感じる気温と湿度も、そして風の匂いも、ますます南の国に来たという実感をサラに抱かせた。
アデリーで買った羊毛の服のままだと確かに暑かっただろうと、昨日トキナーで買ってもらった白い麻の服の裾をつまみながらサラが思う。御者台のルアンは太陽の日差しを遮るように、即席の日除けを御者台に張り出していた。
「ルアン様、この街に入ったらすぐにお仕事を?」
サラが白い裾から手を離し、御者台のルアンに声を掛けた。この旅の途中、ルアンは無為に荷馬車を走らせている訳ではなく、ちゃんと商売もこなしていた。時々仕事の手伝いをするサラから見ると、商売をしている時のルアンは普段と印象が少し違い、六歳という自分との歳の差をかなり感じる場面でもあった。
「ああ、ここは俺が世話になったお客さんがいるからね。さっき言ってた――」
「レモンの人ですか?」
「……うん、そう。でもレモンの人はもういないんじゃないかな」
なんとなく困ったような顔をするルアンに対して、またサラは少しだけ不満を覚えた。胸騒ぎというか、自分の胸の中になにかしらモヤモヤとしたものが広がっていく感覚がする。時々サラをからかうように話をはぐらかすことのあるルアンではあるけれど、今回サラが受けた印象は少し違った。『レモンの人』とサラが言ったときに見せた表情の変化が、ルアンにしては一呼吸遅れた反応だったのだ。
「あの……、ルアン様?」
「ん?」
「その……、いえ、なんでもありません」
サラは途中で質問をやめた。本当は『レモンの人って、女の人ですか?』と聞きたかったのだけれど、そんなことを聞けるサラではなかった。それにもし女の人だったらどうだというのだろう。その人はルアンのお得意様だと言っていた、それをもっと踏み込んで確かめたところでサラ自身に何の影響があるのか。と、そんなことを考えるサラの頬は無意識に膨らんでいた。
「サラ、荷物の布をめくってあげて」
考え事をしていたサラの耳にルアンの言葉が不意に届く。
「え?」
「いや、ほら役人の人に荷物を見せないと」
サラが荷馬車の後ろの方を見ると、二人の役人が荷台を覗き込んでいるところだった。どうやら『レモンの人』のことをモヤモヤと考えている間に、審査の順番が来たらしい。
「は、はいっ、ルアン様。すいません、いま荷物を! ああっ!!」
焦ったサラは自分の服の裾を踏みつけてしまい、つんのめりそうになりながら荷物に掛かっている布を思わずつかんでしまった。その白い布は馬の干し草を覆っているだけのものだったので、つんのめったサラの勢いを止めることなどできる訳もなく、サラは大きく口を開けたまま干し草の中に倒れ込んだのだった。




