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第2話 傷跡

 △


「お飲み物は何になさいますか……」


 少女はうつむき加減でルアンに尋ねた、その小さな声が粗末な部屋に響く。酒の種類は葡萄酒、蜂蜜酒、そしてリンゴの酒もあるという。ルアンは普通に葡萄酒を頼み、テーブル脇のベッドに座った。


 二階の奥だといって通された部屋は狭く、ルアンが五歩も歩けば入り口の扉から外の見える窓まで着いてしまうほどだった。その窓の外からは祭りの夜の喧噪が聞こえてきて、窓を開けるとカーテン越しでも少し騒々しい。


 部屋の中にあるのは古いベッドと小さなテーブル、そして質素なソファだけ。隅に置いてある水瓶には水が張ってあり、沐浴と身体を拭くためにだろうか、白い手ぬぐいが大きなタライに数枚干してあった。


 店先で金貨を払ったあと、少女は自分の名をエルテシアと名乗った。その源氏名はこの大陸の言葉では赤い月という意味で、それだけでもこの少女が虐げられているのがルアンにもわかる。「赤い」という部分は少女の髪の色から来ているとしても、赤い月なんて気味が悪い。


「どうぞ」


 部屋の中を眺めているうちに、少女が葡萄酒を準備してテーブルへと運ぶ。右足が少し不自由なのか、ここへ案内して来る時と同じように、少女は右足をほんの少し庇っているように歩いている。二人のいる部屋の中は店先よりも幾分暗めのランプが灯されていて、少女の赤みがかった髪が先ほどより少しだけ黒く見えた。


「ありがとう」


 ルアンはグラスに注がれた葡萄酒を手に持って、その香りを嗅いだ。それは至って安物の葡萄酒の香りで、苦笑いを浮かべながら一口飲む。


 それにしてもこの少女は喋らない。ルアンが聞いたのはエルテシアという名前と、飲み物を何にするかという話と、あとは「どうぞ」と葡萄酒を勧めた言葉のみ。今もその少女はベッドに腰掛けるでもなく、かといって粗末なソファーに座るでもなく、黙ってテーブル脇に立っているだけだった。


「ここ、座ったら?」


 自分の隣をポンポンと叩き、ベッドに腰掛けるようにルアンが示すと、コクリと頷いた少女がようやく腰を下ろす。緊張しているのかと思ったルアンがその顔を覗き込んだけれど、少女の様子は緊張しているふうでもなく、ただ言われたことに従っている感じであった。


――まるで人形だな


 店先からここに至るまで、笑うでもなく、嫌な顔をするでもなく、ましてやお喋りをすることもない少女を見てルアンは思う。ルアンから見える左側の白い横顔は目立った傷もなく、整った鼻梁も、綺麗にまとまった顎のかたちも、それは十分に美少女と呼べるものだった。


 ただ愛嬌というか、可愛らしさというか、妓女にとって必要なものが完全に欠けている。それは自分の殻に閉じこもって、今から起こることに対して耐えようとしているようにも思えた。


 まだ慣れていないのだろうか、それとも無理矢理にこの仕事をしているのか、それにしてもまさか生娘という訳でもあるまいし、などとルアンは考えながら葡萄酒を口に含む。その間も少女の視線は前を向いたままで、自分から何かの行動を起こす様子も見られなかった。


 多少の気まずさを感じたルアンは、あおるようにして安物の葡萄酒を飲み干した。すると、チラリとそれを見た少女が葡萄酒の入ったガラスの酒瓶を無言で手に取り、空いたルアンのグラスに注ぎ出す。


「エルテシア、君は飲まないのか?」


 それはルアンにとっては何気なく投げかけた言葉だった。ところが少女は何に驚いたのか、「えっ?」と呟いて不思議そうな目でルアンを見たのだ。まさかそんな言葉が客から出るとは思わなかったような素振りで。


「いや、だから、君は酒を飲まないのか?」


「いえ……、わたしは……」


「なぜ? 別に店の決まりで飲んじゃいけない訳でもないだろ、こういう店なんだし」


「ええ、そういう訳ではないのですが……」


 か細い声で言葉を濁らせた少女は、続けて「私はジェリエラの信者ですので」と更に小さな声で言った。


「ジェリエラ? ああそっか、店の男が言ってたジェリスってやつか」


 ルアンもその人々のことを形のうえでは知っていた。この国で迫害を受けていて、信じる神様と、そして見た目がこの国の民衆とは少し異なる人たちだという。なぜ差別を受けるようになったのかまでは異国人のルアンは知らないし、見た目が少し違うといってもどこが違うのかすらもわからない。とはいえ妓館の他の女の言葉を思い出すと、この少女も相当に酷い扱いを受けているのは明白だった。


「ジェリスだったらどうして酒を飲めないの? 葡萄酒くらい飲むでしょ?」


「ええ、お酒は飲みますが、ただ、私と一緒だとお客様が……」


 自分と同じ席で酒や食事をともにするのはルアンが嫌ではないのか、という意味のことを伏し目がちに少女は言った。それはジェリスの女と同じ席で飲み食いをともにすると、酒や食事が不味くて汚れてしまうだろうという意味のことだった。


「そんなこと、他の客には言われるの?」


「……はい」


 素直にうなずいた少女の返答に、ルアンは思わず鼻で笑ってしまう。


「ハハハ、おかしなことを言うなあ、その客たちも。クククッ、だってさあ……」


 おかしくてたまらないといった様子のルアンの方へ首だけ傾げながら、少女は葡萄酒の入ったガラス瓶をテーブルに戻す。


「だってさ、一緒に飲み食いをして汚れるなら、一晩一緒のベッドで過ごしたらどれだけ汚れるかって……、ああ、なるほどそうか」


 ルアンは思い出した、店先でさっき他の女たちが言った言葉を。「そんな小汚い女を抱いたら心も汚れる」と、女たちは汚く罵ったのだった。


 つまりは飲食をともにするだけで汚れると思われているような女を一晩買う客なんて、ルアンのように信じる宗教がまったく関係ない異国人か、相当な不信心ものか、もしくはどうしても性欲を晴らしたいけれど金のないヤツか、とにかく普通の客ではないのだろう。


 さっきの呼び込みの男の話を信じるならば、この子についた客はルアンで半月振りという。この少女がいつからこの仕事をしているかは知らないけれど、今までの客はすべてこのエルテシアのことを、「汚れる」と口では言いながら複雑な心境で抱いたのだろうとルアンは想像をした。


――ひょっとしたら、あの右頬の傷も。


 そんなことを思い立ったルアンはベッドから腰を上げる。突然立ち上がった客を不思議そうに目で追った少女の前を通り過ぎ、ルアンは部屋の入り口近くにある食器棚からグラスをもう一つその手に取った。


 もちろんその動作は少女用のグラスを準備するためでもあったのだけれど、ついでに少女の右頬を確認するつもりでもあった。


 葡萄酒用のグラスを持ったルアンが少女の右側に座ると、右耳の下から頬へと流れる傷を気にしたのか、少女は短い赤みがかった髪の毛で傷を隠すような仕草をとった。ランプに照らされた傷はそれほど古いものでもなく、かといって昨日今日という訳でもなく、おそらくここ半月以内でついた傷跡であろうことがルアンには分かった。


「ねえ君、もしかしてその頬の傷はこの店で?」


 空のグラスを少女に手渡しながらルアンが尋ねる。少女は一瞬間をおいてコクリと頷き、微妙に震える手でグラスを受け取った。そのグラスに葡萄酒を注ぎ、ルアンが言葉を続ける。


「今日は安心して飲みな。分かってるだろうけど俺は異国人だからさ、君がどんな神様を信じてようが気にしないし、汚れるなんて思ってないから。ほら飲みな、緊張もほぐれるだろ」


 葡萄酒を勧められた少女は、手の中で揺れる紫色の液体と、自分の方を向いて微笑むルアンを二度三度と見返してから、ゆっくりと葡萄酒を口に含んだ。小さなグラスの半分ほどを飲み終え「ふうっ」と息を吐き出す少女から、ようやく少し人間らしい感情の動きがルアンにも伝わる。


「じゃあさあ、俺も男だから、その、そういう目的でここに来たんだけど……。そうだな、そろそろ始めようか。心配しなくても俺、悪い趣味はなくて普通だから、至って普通、ハハハ」


 頭を掻きながらルアンは少女にそう告げ、自分のシャツを脱ぎだした。この国の一般的な人に比べて、多少褐色がかったルアンの肌がランプの灯火に映る。細身ではあるものの筋肉質なルアンの上半身をチラリと見た少女は、半分残った葡萄酒のグラスを飲み干してテーブルに戻し、上下が繋がっているドレスと呼ぶには粗末すぎる衣服の紐を、そっと解いていった。


「あ……」


 スルリ、とドレスの上半身の部分がはだけた少女の姿を見て、ルアンは思わず声を漏らす。


 少女につけられた右頬の傷が客につけられたものだとわかった時から予感はあったものの、裸になった少女の上半身に残された幾つかの痣や、何かで叩かれたような跡がルアンの黒い瞳には映っていたのだった。


「すいません、見苦しい身体で。本当に、すいません」


 少女はルアンの前にその華奢な白い裸体を晒して、そう小さく呟いた。

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