第16話 バルク村
宿屋の主人はヤーグラの町から一時間の距離と言っていたけれど、実際には一時間はかからなかった。西の空に夕焼けが残る明るさの中、ルアンとサラの二人を乗せた荷馬車がバルクの村へと入る。村、というだけあって先ほどの町よりもさらに小さく、石と漆喰を組み合わせたような家が三十軒ほどまとまっている集落であった。
もう夕食の準備をしているのであろう、村の家々からは煙があがっている。微かに漂ってくる食事の匂いに二人のお腹も鳴る。村で一軒と聞いていた宿屋を探してルアンは荷馬車を巡らせた。
「一軒だけの宿屋って、たぶんここだな」
「ええ、そうだと思います……けど」
そう会話をする二人の目の前にあるのは、本当に営業をしているのか疑わしい二階建ての建物だった。古ぼけた石造りの壁面には蔦だろうか、何かの植物が一階と二階の境目付近まで生えている。残念ながら荷馬車を止める屋根付きの場所もなく、馬は軒下に繋ぐしか無さそうだった。
「こんばんは、すいません」
ギィっと音がする木の扉を開けてルアンが室内を覗き込む。一見すると中には誰もいないように見え、宿屋の主人が言っていた「いつもガラガラ」という言葉がルアンの頭によみがえった。
「こんばんは、誰かいませんか?」
ルアンが扉から一歩を踏み出す後ろでは、サラが怯えたようにルアンの服の裾を掴んでいる。
「ルアン様。誰も、いないみたいですね」
「ああ、なんか不気味だな」
サラとルアンが建物の中を覗き込んでいた時だった。「おい!」と、後ろの方から男の声が聞こえた。
一瞬ルアンも驚きはしたが、もっと驚いたのはサラ。「ひいいいっ」と悲鳴をあげたかと思うと、力いっぱいルアンの背中に抱きつく。二人が振り返るとそこに居たのは大男、ギロリとした目を光らせてこちらの方をにらんでいる。
「おい、お前らなんだ? なんの用だ」
宿屋に泊まりに来ているのに、なんの用だもないものと思うルアンではあったけれど、今は泊まる宿もなく泊めてもらう立場の客。一応丁寧に挨拶をすることにする。
「ここのご主人様ですか?」
「そうだ」
まさしく、なんだお前らは、という目つきでルアンたちを見つめる宿の主人。見るからに異国人であるルアンと、小柄な少女を訝しんでる様子がルアンにも伝わる。
「泊まりたいんですけど、今日、部屋は空いてますか?」
「ここが満室のように見えるか?」
「……いえ」
まったく、と言葉を続けそうになったルアンもさすがに口をつぐんだ。
「おい、その後ろの女、ジェリスか?」
蛇が絡むような目とでもいうのだろうか、宿屋の主人はルアンの後ろに隠れているサラをねっとりとした目で追う。
「ええまあ。でも、なんとか泊めてもらえませんか?」
「ふんっ、いくら出す?」
泊めてやるけれど金次第、という態度の主人にルアンは少々考え込む。
「銀貨二枚なら……」
「五枚だ、嫌なら帰れ」
銀貨二枚というルアンの言葉を最後まで聞かずに主人は言い放った。それなら最初から銀貨五枚と言えばいいのに、とルアンは思うものの、さすがにこれも口にはしない。
「わかりました、それで結構です。えっと、銀貨五枚なら食事も……」
「素泊まりだ、近くに飯屋がある。そこで食え、それが嫌なら帰れ」
宿の主人は客を客とも思わないような態度で顎をしゃくり、決まり文句のように「嫌なら帰れ」と言った。
△
「ルアン様! ひどいですよ、銀貨五枚の宿が素泊まりで、しかもこんな部屋なんて!」
「まあ、そうだな。この前の物置部屋はそれでも銀貨二枚だったからな。でもしょうがない、野宿よりよほどマシだと思えば」
ルアンとサラが通された部屋は一階の北側で、建物の中でも一番陽当たりが悪そうな部屋だった。二人が泊まるというのに粗末なベッドが一つしか無く、そして椅子も一つだけ、さらに言えばドアのカギは壊れていて便所の隣という最悪の部屋でもあった。これにはサラが憤慨したのも当たり前といえば当たり前で、ルアンも苦笑いをするしかない。
「ルアン様、これでも野宿よりだいぶマシなのですか? 荷馬車には幌もありますよ」
クリッとした目を見開いて、意外そうにサラが言う。
「ああ、野宿は危ない、サラがいたら余計に危険だよ。なにしろ襲ってくる相手は人間だけじゃないぞ、野生の獣には注意しないといけないし、あとはそうだな……魔物……とか」
「ま……魔物」
白い顔を青白くさせたサラが身体をこわばらせた。半分は冗談だとはわかっていても、野宿などしたことのないサラには真偽がわからない。
「ハハ、魔物は冗談だよ、俺も会ったことはない」
「もう! ルアン様」
からかわれたと分かったサラは、頬を膨らませて文句を言う。
「ごめんごめんサラ、でも建物の中と荷馬車で寝るのとは全然違うよ。これの出番だってさすがに宿屋の中であるとは思えないし」
と、ルアンは腰に差していた剣を叩いた。
ふたりが一緒に旅を始めてから四日というもの、サラは毎朝ルアンが剣を振って稽古しているのを見ている。ルアンの持っている剣は片刃で湾曲しており、細身の輪郭がルアンによく似合っていた。
見蕩れてしまうような剣の練習を終えたルアンに、「ルアン様は、お強いのですか?」とサラが思わず聞いたことがあった。その時のルアンは「べつに殺し合いをする訳じゃなくて、自分を守るためだから、弱くない程度に強いと思うよ」などと軽く笑ったものだった。
ルアンは剣に自信がない訳ではない。弱くない程度に強い、などということはなく、幾度か死線を越えたことがあるほど十分に剣の腕は立つ。しかし剣の師匠でもあった父親の教えは『我々は剣士じゃない、勝てないと思ったら躊躇なく逃げろ』というものであったので、剣の腕については過信にならないようにしていたのだった。
アデリーのような大きな城壁都市ならば治安も良く、剣を腰にぶら下げている方がヤクザ者などに絡まれてかえって危険な場合も多い。しかし小さな町や村を移動するときには、念のためルアンは腰に武器をつけているのだった。
「さて、じゃあサラ、何か食べに行こうか。隣が飯屋だって言ってたし、そこで食えっていうんだから何か食べさせてくれるだろう」
「毒でも入ってなければいいですけどね。ルアン様」
「ハハ、まさか」
そんなことを話しながら汚い部屋を出た二人であったけれど、その飯屋では『毒』まではいかないものの、『毒』と変わらないような連中が待っていたのだった。