第13話 ルアン様、帰りましょう!
「金貨十枚、ねえ」
マリクの太い指に掲げられた首飾りを見つめながら、ルアンは静かに言う。ルアン自身も多少はふっかけられるだろうとは思っていたものの、金貨十枚という法外な値付けに一瞬眉をひそめた。
と、その時、ガタンと椅子が動く音がしたかと思うと、ルアンの隣に座っていたサラがバンッと両手を丸テーブルについて立ち上がった。
「ルアン様、帰りましょう! こんな男に用はありません! いくら母の形見とはいえ金貨十枚なんてっ、人の足元をみるのもいい加減にしてください!」
おとなしいサラがこれほど怒る理由もルアンにはよくわかる。なにしろ金貨十枚はふっかけ過ぎだ。隣をチラリと見ると、サラの目は今度は怒りの余りの涙目になっている。
「サラ、座って」
「でもルアン様! こんな馬鹿な話が」
「まあ、帰るのはいつでも帰れるから。座って、サラ」
ルアンは努めて優しくサラに告げ、悔し涙をこらえて椅子に座り直したサラの髪を撫でた。
「おうおう、やっぱり優しい恋人だねえ。で、なんだ、兄ちゃんは怒らねえのか?」
「怒りませんよ、呆れてるだけです」
わざと大きなため息をついてそう言ったルアンは、肩をすくめたあとで残った紅茶をゆっくりと飲み干した。
「それにしても金貨十枚とはね、マリクさんの値付けの根拠はなんですか?」
「根拠? 俺の値付けの根拠は、この首飾りにはそれだけの値打ちがあるって見込んだだけさ。それ以上でも、それ以下でもねえ」
「なるほど。じゃあ金貨十枚の価値があるかどうか、俺も見てみたいんですが……、ちょっと貸してもらえませんか?」
「おう、貸してやってもいいぜ。けど金貨十枚分の価値がある首飾りだからな、そのまま持って走って逃げられたんじゃあ俺様も困る。そうだな、アンタが手に持ってるあいだは、その可愛いお嬢ちゃんをこっちに寄越してもらおうか?」
ことさらイヤらしそうな目をしてみせたマリクが、人質としてサラを寄越せと言ってくる。またしても大きなため息をついたルアンが隣に座るサラを見ると――。
「いいですよ! ルアン様は持って逃げるようなことは致しませんし、その首飾りに金貨十枚の価値があるとも思えませんから!」
と、憤然と席を立ってマリクの隣に座った。マリクはサラの頭の方に顔を近づけ、いかにも好色家を気取ってサラの赤みがかった髪を触る。
「触らないでください!」
「ほお、嬢ちゃん、可哀想に傷物か……」
「うっ……」
マリクが見たのはサラの頬の傷。その傷を見て「傷物」などと言ったのだが。
その言葉を耳にしたルアンの表情が変わる。いままでどんな戯れ言を聞いても穏やかな瞳の色をさせていたルアンが殺気だった目つきに変わり、その全身から怒気を放っていたのだった。それは半分酔ったふりをしていたマリクにも敏感に伝わり、一瞬でサラの近くから顔を離す。
「いや……、悪い。そういう意味で言ったんじゃねえよ、謝る。ほら、首飾りは渡す」
長年商人を続けてきた経験のあるマリクである。この時のルアンが本気で怒り、そして真剣勝負にかけてでもサラの名誉を守ろうとしていたことを、敏感に感じ取っていたのであった。
「サラ、気にしなくていい。それからマリクさん、じゃあ見せてもらいます」
無理矢理に怒気を押さえ込んだルアンは、渡された首飾りを素直に手に取った。そしてその重さからどう考えても純金などではなく、混ざり物の鎖と、普通の銀の指輪だと判断をしたのだった。
これが金貨十枚だとしたら――。
考えられるのは二つ。一つはもちろんマリクがサラとルアンの足元を見てふっかけている場合。そしてもう一つはこの首飾り、特に銀の指輪に本当に金貨十枚の価値がある場合。
ルアンは先ほどからマリクに対しては、サラが言うほど低い評価をしていなかった。どこをどう見ても金貨一枚になるかならないかの首飾りを、金貨十枚というには何か訳があるはずだと思っている。言い換えればこの首飾りの本当の価値をお前は知っているのか、とマリクに試されているような気がルアンにはしていたのだった。
「ルアン様……」
傷物と呼ばれたことがショックだったサラも、ルアンの様子が変わったことには気づいている。普段は決して見せない厳しい眼差しで首飾りを観察するルアンに、なにか言葉すら掛けづらい雰囲気を感じていた。
「サラ、この銀の指輪はお母さんのものか?」
「いえ、違うと思います。母の指には少し大きすぎます」
「他に、何か言ってた?」
「まあ、自分には大事なものだと」
「そうか」
フウッと息を吐き出して、ルアンは再び銀の指輪を詳細に観察する。やはりこの指輪、この地金の大きさと内径の太さから女性用として大きいような気もしていた。そしてこの小鳥の絵柄だ。向かい合った小鳥が弦のようなものに脚を掛けてとまっていた。片方の鳥は何も咥えていないけれど、もう一方の鳥は小枝か何かを咥えている。ルアンはこの模様にどこかで出会っていたような気がするのだ。それは一年や二年前ではない、商売をする父親と一緒に旅を続けていた幼い日、どこかの街でこの向かい合った小鳥と出会っていたような記憶が、微かにあるのだった。
「どこかで見たんだが……」
「なんだって?」
「いえ、マリクさん。この首飾り、金貨十枚からは負けられませんか?」
「負けられんね、俺は金貨十枚でも安いと思うが?」
マリクとルアンの視線が激しくぶつかる。マリクは若いルアンを試すように、そしてルアンは怪しい男マリクの真意を読み取るように。
ゆっくりと十を数える間、マリクとルアンはお互いの目を見るだけで何も喋らなかった。その間サラはというと、何も言わずに二人が黙っている様子を息を詰めながら見つめていたのだった。
永く永く続いた沈黙で、二人とも石になってしまったのかとサラが思った瞬間、ルアンが口を開いた。
「わかりましたマリクさん。金貨十枚で買いましょう」