第10話 早く背中に乗れ!
「ル、ルアン様っ! あ、あっちの橋、橋の上っ! ルアン様!」
「え?」
珍しくサラの焦ったような叫び声を聞いたルアンは、サラが指さす方を振り返る。振り返った向こうの先にあるのは、アデリーの河に架かる四番目の橋だった。
続けて「橋の上っ! 男!」と叫ぶサラの声を背後に聞きながら、言われるままに離れた橋の上を見てみると――。
見えた。
ルアンの目にもサラが見つけたのと同じ、巻き帽子にあごひげの男の姿が映っていた。しかもいくつかの質屋の店主が言っていたように人力荷車を引いている。間違いないアイツだ、とルアンも直感で思った。
「サラ、行くぞ!」
「えっ……。は、はい!」
二人は急いで駆け出した、とはいえサラは全力疾走が出来るほどに膝の調子が戻ってはいない。橋から橋への距離は街の区画で二つ分、男の足で全力で駆けても一分以上は掛かるだろう。全力で走るルアンと足を庇いながら追うサラの距離がどんどん離れていく。男と女の違い以上に、文字通りに足かせを履いたようなサラの右足。離れていくルアンを見つめながら、もうルアンに任せて自分は後から追いつこうと、そうサラが思った時。
「サラッ!」
橋と橋をつなぐ通りの中間地点で、後ろを振り返ったルアンがサラを待った。
「ルアン様、先に行って追いかけてください!」
「なに言ってる、早く背中に乗れ、サラ」
ルアンはサラが追いつくのを待ち構えたようにしゃがみ込み、その背中に早く負ぶされとサラを促した。
「でも……」
「大丈夫だよ! サラの身体の軽さはもう知ってる。俺がサラを背負って走ったほうが、今のサラが走るよりも速い。さあ早く!」
巻き帽子の怪しい人影は、人力荷車とともに既に橋を渡った先に消えそうになっている。一瞬だけ悩んだサラではあったけれど「ごめんなさい、ルアン様」と言いながら、そのたくましい背中へと飛び乗った。
サラを背負ったルアンが立ち上がり、そのまま全力疾走を再開する。背中で揺れるサラの視線の先には怪しい男と人力荷車。小柄な女の子とはいうものの人を背負って走る速度とは思えないほどの速さで、ルアンは巻き帽子の男を追った。
西日の射すアデリーの橋を異国人が走って渡る。やや褐色の青年が背負っているのは色白で小柄な少女。橋を通る人々は、その奇妙な取り合わせに思わず興味を引かれたように振り返っていた。
「サラ、膝は痛くないか!?」
ルアンは自分が後ろ手で抱えているサラの右足を気遣いながら、後ろを振り返って問う。
「ええ、全然! ルアン様、もうすぐです!」
サラの鳶色の目にもどんどん巻き帽子が大きくなっていた。引いている人力荷車に載っているのは母の首飾りだろうか? もう二度と自分の元には戻らないと思っていた首飾りが目の前にある、そう思うとサラの心には母との思い出がこみ上げてくる。
サラとは違って背の高い母親だった。若い頃は踊り子をしていたというほど身体の線も綺麗で、華奢な自分と本当に血が繋がっているのかとサラが思うような女性だった。深い青色をした瞳と、ブロンズの髪、「若い頃はモテたのよ」と笑いながら言う母の言葉を、サラは羨ましく聞いたものだ。自分の身体つきや、瞳や髪の色が母と全然違うことを不満げに口にするサラに対して、母親はいつも「あなたはお父さんの血が濃くでているの」と何故か嬉しそうに言ってものだった。その父親はサラが生まれる前に死んだと聞かされていたけれど、本当は踊り子時代の激しい一夜の恋だったのかもしれないと、時々サラは思っていた。だから愛した相手と同じ瞳や髪の色を持つ自分を、必死に女ひとりで育ててくれたのではないかと――。
その一夜限りの恋という意味では、サラも同じような体験をした。しかし自分はいまその相手に大事に背負われ、母親の遺品を一緒に追っている。そんな不思議な縁を思うと、サラは自分を背負ってくれているルアンのことを、心から愛おしいと思うのだった。
そんなことをサラが思い返している間にも、怪しい巻き帽子の男までの距離はもうルアンの足で十歩ほどに迫っていた。
「そこの巻き帽子の男、ちょっと待ってくれ!」
ルアンの必死の叫びが石畳の通りに響く。ガラガラと回る車輪の音がようやく二人の耳にも届いてくる。
もう少し、もう少しで母の首飾りと出会えると思ったサラは、背負われたままでルアンの服をギュッと握った。
後ろからの叫び声が聞こえたのだろう、巻き帽子の男がルアンたち二人の方を振り向いた。その顔にはもっさりとしたあごひげが生えており、痩身で背の高い容姿とともに、間違いなく質屋のオヤジが言っていた相手だと二人とも確信する。
「待ってくれ、待ってくれ。頼む、話を聞いてくれ!」
「ああ?」
男は引いていた荷車を止め、「何者?」という目で自分を追ってきたルアンとサラを見つめる。その視線の先の二人、サラはともかくルアンは全力で、しかも人を背負って走ってきたのだ、息が切れないはずがない。ルアンはサラを背負ったまま人力荷車の側で止まり、ハアハアと荒い呼吸を整えながら、ズルリとサラの身体を地面に下ろした。
「なんだ、お前ら? 気持ち悪いやつだな」
胡散臭そうな顔をしてサラとルアンを交互に見返す男は、明らかに北方訛りの言葉でそう言った。
言われてみれば、見知らぬ男が女を背負って息を切らして追いかけてきたのだ、気持ち悪いという印象を持つのは当然。そう気づくと、サラはなんだかこちらの方がよほど怪しい存在に思えて赤面をしてしまった。
「あの……、決して怪しいものではありません……」
蚊の鳴くような声でサラが言う。数分前までは「怪しい男を見つけてやる」と決心を新たにしていたのに、なぜ自分が「怪しいものではない」と釈明しなければいけないのか。サラはそんな不条理さを呪う。
「はあ? 怪しいヤツに限って、『怪しいものではありません』って言うんだよ。お前ら、そんなことも知らねえのか?」
嘲るようなことを言われても、サラは何も言い返せなかった。何しろ相手はルアンよりも更に身長が高く、あごひげまで生やしていて、明らかにルアンのように優しい印象ではなかった。隣にルアンがいるからいきなり乱暴な真似はされないとは思うものの、おとなしいサラは怖くなってルアンの服の裾を再びギュッと握ってしまった。