第二話 Hallelujah!!
お元気ですか?
滝の音に、鳥の声。
風が吹いて、朝の陽光が俺の真後ろから射した。
俺は背中に汗をかいていて、川水が滝になって落ちる時に舞い上がる風を受けて、冷えていたようだった。
あったかいや。陽光は早くも強烈で、5月で夏日になりそうな力強い熱を背中に感じた。
目の前には、ハレルヤ。
滝行だって?いったいこの女、何なんだ。
真っ赤な唇が、にっこりの形でステイ。
真っ赤な、短くカットされた爪。両手は白いワンピースの胸前でがっちりと組まれて、俺に黒い眼を向ける。
さっきまで碁石のようにひっそりしていた瞳は、太陽の光を吸って金粉を浮かしたみたいに光っていた。まるで、溶けた石。マグマ溜まりを覗き込んでいるような気持ちだ。
「お願いね。誰にも言わないでよ?」
ハレルヤはこう言うけど、俺は知ってるぞ。
こういう事をこういう顔で言う奴は、お願いなんてそもそもしていない。
「言ったら、どうなるんですか。」俺は怪しい女に屈しない!
「言うの?」ハレルヤは胸前からゆっくりと、組んだ両手を下ろしていった。
懇願をやめたのだろうか。次はどうするのだろう。
「言ったらの話です」俺、震えてきたよ。情けねえ。
ハレルヤはにっこりをやめて、俺を見る。真っ黒な目をした鹿と出会ってしまった気がしてきた。
「そうしたら、他を探さないと」ハレルヤは、まっすぐな睫毛をぱさりと伏せた。
「…そおですか」俺、ほっとしてる。ほっとしちゃってる。情けねえなあ。
「言いませんよ」太陽の光がチリチリ、首の後ろに刺さる。暑い…
「ほんと?」彼女の睫毛は伏せられたまま。
「言うったって、管理している人も知りませんし。落石なんかの自己責任っていうだけで、管理側としては安全に観光して欲しいのと、注意喚起はしたぞという表れでもあるし、別に、その…」恥ずかしくなってきた。本格的に恥ずかしいぞ。これ。
「ハレルヤさんは無事なんだから」
ハレルヤの睫毛の伏せたのを起こしたい。
「それで いいんじゃないですか」
ハレルヤの睫毛が、ゆっくりとあがった。
「ありがとう。レイタロウさん」
俺はもう一度、この人の美しい瞳の中の、黒を見たかったんだ。
ありがとうと言ってこちらを見る人の顔が、朝陽と俺の影とで白黒している。
鳥が鳴いて、滝が落ちる。
そろそろ…家に戻ろう…
もう既にいつも通りではなくなった朝だ。取り返したい。……何を?
「レイタロウさんは、いつもここに来るの?」
さっきまでとは何となく雰囲気が変わったハレルヤが、俺に聞いてきた。
滝で濡れた白いワンピースの裾を絞りつつ、俺を見る。見据える感じか?
水が土を叩く。鳥が、鳴くのを止めた。
「俺は、ほとんど毎日、ここに来ています」
「それは、なぜなの?」
彼女はなぜ、こんなに俺を見るのか。
「えっと、好きなんですよ。朝の空気とか。朝日が昇るときに一斉に太陽に向かって鳥が飛びますよね。ああいうのとか」
「ふむ」
ハレルヤはコクンと頷いて、続きは?と目で問いかける。
黒い瞳の金の粉。
「あ、太陽が昇る前に、ブーンってなんだか地面から聞こえるでしょ。地面て言うか、もっと深い所かな」
ハレルヤのワンピース、乾くんだろうか。
髪だって、あんなに、水がポタポタ、垂れてるじゃないか。
俺は言い終わると、彼女を見ていた。それは、花を見るように無遠慮だったかもしれない。
「レイタロウさんは、ささやかなものを、拾える方なのね」
彼女はそう言って明るく笑う。
「ささやか?」
「そう。あなたはほとんどの人が、きれいだなあ、と受けとるに留まる所で立ち止まり、情報を拾えるのね。きっとね」
「情報…」俺は聞いたことがない言い回しを、口の中で復唱した。
「すべては情報だもの。この世は」
白いワンピースに陽が射した。繊維にキラリと光るものでも入っているのだろうか。
彼女は全体的に白っぽく光る。
着ている服の繊維は、ただの白い光を分光して、虹色に変えた。
俺はその様子をぼんやり、見る。
「万物は観測者の作業範囲と限界を以て受け取られるわ」
つまり、と彼女は結ぶ。
「それぞれに備わった唯一無二の固有の感覚!これによって世界を受けとる」
ハレルヤの本性が出てきたのじゃないのか。
取って喰われそうだ。
じっと、見て来る、黒い瞳。
怖ぇ…
「現象と相対し、囚われることなく」
ハレルヤがこちらへ近づいて来る。
「私達は現象に意味を見出ださず」
じりじり…寄ってくる!
く、来るなよ。
俺は後ろに退く。
「現象を愛でることもない」
ハレルヤが俺の目の前に来て、額の真ん中あたりを見据えた。
「現象の不自然を解き、然るべき流れへと還す」
お前、何なんだ。何者なんだ。
俺は圧倒される。何に圧倒されている? ―気配? 気?―
ねえ、と目の前の奴が言う。
「ならない?」
さっきまでの迫力が薄れて、俺はほっとした。
何か言ってたな。“ならない?”だっけ。
ならない?ならない?とは?
今の彼女は、光っていて微笑んでいて、普通だ。
髪の毛はびしょびしょだけど。あ、ワンピースもか。
「わたしはハレルヤマリエ」
さっき、聞いたなと思って、「はあ…」と相づちを打った。
「ランドヒーラーなの」
ハレルヤは、目をぱちぱち、瞬きをして、にっこり。
「一緒にやろうよ。ランドヒーラー!」
もう、とっくにいつも通りの朝ではない。
でも、挽回できると思っていたんだ。
―無理かもしれないー
ゾクゾクしながら、俺は思った。
わたしは元気です。
後少しすると、桜の季節が始まりますね。
今に足を付けて軸にしつつ、少し先の楽しみに片足を伸ばします。
なんなら片手でもOKです。