第一話 パーフェクトワールド
はじまりました。
ハレルヤ…ハレルヤ…
俺は、夢を見ているとわかっている。そうだ。
白い、痛い程の、白い。ここはどこだろう。
ハレルヤ…ハレルヤ…
こんな映画を見たことがある。
宇宙を走る汽車に乗って旅をするんだ。
途中の駅に停まった時に聞こえてきたあの曲は…これではなかった。
新世界…
そうだ。新世界交響曲。確か…ラルゴには詞がついていた。
“今日のわざを なしとげて
こころ かろく やすらえば“
なしとげて…充実してんな。くそ。
そろそろ夢が醒める気配。ああ…やれやれ。
「ああ…やれやれ」
自分の声が聞こえて、喉の渇きに気が付いて、寝すぎて痛む腰をさする。
白い光がまぶたの合わせ目から漏れ入ってくるのだろうか。
瞑った目の前が真っ白に発光している。
光る景色は意外と冷たくて、光ならいいってもんでもないと思う。
そこまで思って、まぶたの皮膚を透過して光が射し込んでいるのだとふと気がつき、まぶたの合わせ目から入るわけないよなと笑った。
笑みの形をした口の端が下がっていくのをそのままに、目を開ける。
しょうがない。朝だからな。腰も痛えし。
目を開けたら天井がある。右に目をやると壁。左に目をやると机と出入り口のドア。
いつもの通り。パーフェクト。
時計を見ると4時半で、12時間寝てたな寝れるもんだなと感心した。
「なしとげたよな、これ」
かすれた声で呟いて、朝陽でいっぱいの部屋を見た。
昔から長男は東で育てろって言うからって、真東だからな、まぶしいぜ。
部屋を見渡して、呆れるほどの光線キラキラ空間にため息をついた。
父親は隣の部屋でまだ寝ているだろう。
起こすのは避けないとな。
制服を着る。一応着る。行きたくないというほどでは無いのだから。
あとひと月もすれば衣替えだ。今日は暖かいのを越して暑くなりそうだ。
長袖の白いシャツとズボンだけでいいだろう。
階下へ降りて、顔を洗う。
「髭、剃るか」17歳になり、毎日剃ることになった髭。子供の頃は父さんの髭剃りを見るのが楽しかった。自分が毎日剃るようになると、なんて面倒なんだと思う。
カミソリで剃るのがすっきりして好きだ。だから尚更面倒なのかもしれない。
髭を剃り終えて、すすいで、タオルで拭いて、鏡を見た。
たいしてカッコいいわけではない。
自分と同じくらいの年のアイドルたちは実際、大したもんだと思う。
自分を魅せることを知っていて、カッコよくするために工夫できる、すげーーーと思う。
「俺は、ムリだ」
顔を拭き上げ、頭の方もタオルでゴシゴシっとやって、鏡を見て、「俺、どうしたい?」と聞いてみる。
さあな。
知らねえよ。わからねえ。
玄関扉をそっと閉めて鍵をかける。
今出てきたばかりの俺の家は山に囲まれている。
山の中にあった平らな所に無理やり建てた。それが正解。
歩いて10分くらいで散歩のゴールの滝に着く。
今は4時50分。
5時には滝に着いて、いい空気を吸って、5時半には家に着いているだろう。
パーフェクト。いつもの通りさ。
夜明けの後は鳥たちは落ち着いているが、日の出の瞬間のあいつらのざわつき加減は凄いもんだと思う。
ハイになってるっていうか、衝動的になってるっていうか。
「太陽に向かって進まずにはいられないのかな」
山道に入り、少し登り坂になる。足のギアを入れた。
鳥、あいつら、ちょっと怖えよな。
セリフを当てたらどうなるかとやってみる。
“わーいわーいわーいわーいわーいわーいわーいわーいわーい…”
わーい、しか浮かばかったが、ぴったりだと思った。
登り坂が続き、陽射しも強くなって、暑くなってきた。
山道に沿って繁る竹藪の奥は、まだひんやりしていそうだ。
竹藪の奥の地面には蛇でもいるのだろうか。視線を感じた気がした。
「蛇の視線なわけ、ないよな」
そんなものを感じる訳がない。蛇がいるかもわからない。蛇が人を見るのかも知らない。
「まあ、そんな気がするってだけだよな」
水音が聞こえてきた。滝壺に水が落ちる音。
ドドドドドドドドドド!
ダダダダダダダダダダ!
ババババババババババ!
という音が同時に聞こえて滝の音になっている、と自分は思う。
ドドドは、滝壺に水が落ちる瞬間の音で、
ダダダは、水が落ちるときの途中の岩に、水がぶつかる音で、
バババは、水が落ち始めたときの川の終わりのあたりから聞こえる音で、
それがいっぺんに聞こえて和音のようになって、それがとても心地よかった。
水とか火とかっていうのは、どうしていつまでも見ていられるのだろうか。
飽きないというか、魅了される。
見続けていると、自分がどこに在るのか曖昧になっていくのが楽しい。
「高2にしては地味だよな…」
息があがってきて、かったるい感じになって来たころに、滝に着く。
ちょうどいいのだ。
滝が見える。
ド、ダ、バ、で滝の音を作り、自分を歓迎してくれている気持ちになった。
「そんなわけねえけど」
都合の良い思考に少し照れ臭くなって、笑いながら滝へ近付いた。
その時。
滝の奥からド、ダ、バ、以外の音が聞こえた。
音、というより
「声だ」
声は、オオオオオオオ…と低く響いて腹に届いた。
驚きながらも足は滝へ、音の方へ向かった。
なぜだかわからない。
声が近くなって更に驚いたのが、これだけの滝の音に負けない大きさの声だったということ。掻き消されることなく、低音の響きが滝の奥から届く。
まっすぐに届く朝陽の光線のように、声は腹に届き、弾けて、背中から抜け出るような気がした。
一体、何だ。
そう思ったとき、声が止んだ。
俺は息を呑んだ。息は止めていたかもしれない。
滝の向こう側、カーテンみたいな滝の流れの向こう側から、人が近づいてくる。
俺は動けなかった。
驚いたからかもしれない。でも、それだけでもなさそうだった。
白いワンピース。
女?
白いワンピースを着た人影が近付き、滝の向こうからこちら側へ腕を伸ばす。
爪が、真っ赤に塗られていた。形よくカットされた爪に、真っ赤なマニュキュア。
白い腕を伸ばし、黒い長い、髪。
目を閉じた白い顔が現れて、のけぞる首。
白いワンピースの赤い爪の女。
全身をすっかり、滝の向こう側からこちら側へ移動したのは、やはり女に見えた。
目が開いて、光の射さない碁石のような黒い瞳が見えて、爪と同じ赤い唇が開いた。
「あら。見られちゃった」
細かく震えるような声だった。
「おはようございます」
俺は何を言ってるのだか。でも間違いではないよな。
女は赤い唇を、あはっと開けて、「おはよう」と返してくる。
ここで何をしていたか、誰なのか、聞きたくなる。
ふつー、逃げるだろ?こんなの。
怪しい女、滝から出てきたんだぞ?
だけど、聞きたい。
「あなたは、誰なんだ」
俺は何を言ってるのだか。でも間違いではないよな。
「ハレルヤ」と、女は言った。
え?と驚いた。夢でハレルヤを聞いたばかりだぞ?
「ハレルヤ…」と復唱して、彼女を見た。
あなたは?と相手は聞き返す。そりゃそうだ。
「俺は、タルイと言います。タルイ、レイタロウ」
ハレルヤという彼女は、ふふふと笑った。こんな不敵な微笑みを、アニメ以外で見られるもんなんだなとびっくりした。
「マリエよ?ハレルヤ マリエ。内緒にしてね?」
え?と思った。何を?と。
「ここ、滝行禁止でしょう?内緒ナイショ!」
俺は息を細く長く吐いた。やっぱり息を止めていたみたいだ。
内緒、の言葉に、俺は頷く。
いや、驚き過ぎて声が出ないから、コクコクと頷くしかなかった。
「あはは!ありがと!レイタロウさん」
パーフェクトに昨日と同じだったはずの日の朝、赤と黒と白のハレルヤは舞い降りた。
いつもと違う朝が来て、この後、俺は世界と対話をする旅を始める。
銀河鉄道の夜はとても好きなお話です。
銀河鉄道の夜の話の中で、新世界交響曲が流れる駅もあるし、ハレルヤが流れる駅もあります。