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後編

 ところが、コハクがツキシロと顔を合わせたのは、その晩が最後になってしまった。

 魔術で封印されている塔内に入り込んでさすがに感付かれたのか、それとも誰かに蔵書館内で二人でいるところを見られたのか。いずれにせよ、こっそり二人が会っていたことが魔術庁の知るところとなり、断固たる措置が取られた。塔の封印の術は強固に上書きされ、蔵書館につながる扉の鍵も付け替えられ、青年が出てくる手助けをした司書長の老人は厳重注意を受ける。そしてコハクには、十日間の自宅謹慎が言い渡された。

 ようやく判明したツキシロの抱える問題の解決策を探ることもできず、何よりツキシロ本人と会うこともできず、コハクはもどかしさを持て余して自室で時を過ごしていた。そして謹慎の明ける十日目の夜、母の私室を訪ねた。

 魔術庁職員がコハクの処分を検討する際、彼女の母の存在を慮って意向を確認しようとしたところ、魔術庁長官は平素と変わらない冷徹な声で「愚か者」と呟いた後、一切配慮無用と言い捨てたそうだ。その後の謹慎期間中も一度もコハクと顔を合わせていない。私室を訪れた娘を見ても、彼女は表情を変えなかった。だが拒否するわけでもなく、コハクを椅子に座らせ侍女に茶を用意させると、自分もコハクの向かいに腰を下ろす。

 コハクとしても母に甘さは期待していない。だが、どうしても訊きたいことがあった。

「それで何の用だ」

 母の硬い声に対抗するため、お腹にぐっと力を込めて口を開いた。

「まずは今回の件で、母様にもご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。それで、その原因である蔵書館上の塔にいらっしゃる方についてお聞きしたいのです」

 魔術庁長官である女傑は、部屋着の裾が乱れるのも構わず大きく足を組み、茶器を片手に面倒そうに応える。

「凡そのことは御本人から伺ったのだろう?」

「はい。ですが本当に解決策はないのでしょうか?」

「ない」

 即座にきっぱりと言い切られた。

「庁の上位職員たちも私自身も可能な限り調べた。だが、そもそもどんな理由であの印が着くのかすらわからなかった」

 そうして母が語ったところによれば、過去にも百年に一度ほどの割合で幾人か同じような印を持つ者がいたらしい。世界神の印だ。当初は吉兆と思われ、その者を王に据えたこともあった。しかし外遊先や戦場で早逝し国が乱れることが続いた。そこで次は凶兆とみなされ早々に始末される。ところがそれでも国に災いが起こった。扱いに困って閉じ込めたところ、とりあえず災いは起こらなかった。それ以来、かの印を持つ者はその寿命が尽きるまで幽閉されることになったという。

「それでは、いったい世界神イーダの烙印とは、何なのです?」

「だから、わからんと言っただろう。何しろ例が古く少なくて、記録自体がほとんどない。神官どももイーダの御声を直接聴けるわけではない。ひとまず今わかっている最善策があの塔の中だ。ツキシロ様もそれは理解されて、自ら進んで塔に入られた」

 あの青年なら、国のためとなれば自分一人のことなど何とも思わずに囚われ人となるだろう。短い付き合いだが、コハクにもそれはすぐに思い到った。

 だが、諦めてしまっているわけではないはずだ。

 考える時間だけはあった謹慎中、コハクはツキシロに出会ってからのことを細かく思い返していた。そこで気付いたのだが、ツキシロが蔵書館を訪れていたのは、単に手慰みの書物を入手するためではないということだ。彼が手にしていたのは、世界神イーダについて記述された古い書物が多かった。彼なりに事態を改善する策を探していたに違いない。

 しかし今回の騒動で、彼にとって唯一の情報源にすら接触できなくなってしまった。その原因である自分が、せめてできる限りのことをしたい、と思うのだ。

 そんな想いを目の前にいる母は当然察していたのだろう。

「浅慮な行動は起こすなよ。迷惑を被るのはお前一人ではない。かの方にも影響は及ぶのだ。次に何かあれば、あの塔にいていただくわけにもいかなくなる。そうなればイーダの怒りをかい、かの方にもこの国にも災いが起こる。世界神を敵にするなど愚の骨頂だ」

「それは、承知しています」

 そう応えたものの、自室に戻るときもコハクの中の決意は変わらなかった。




 次にコハクが行動を起こしたのは平日の昼間、司書長の老人が休憩中で彼女一人きりになるいつもの時間だった。

 件の古扉は付け替えられたばかりの真新しい鍵と、強固になった封印魔術でしっかりと閉じられている。だがコハクはその扉を問題なく開ける方法の目処を付けていた。司書長が以前ツキシロの脱出を助けたのも、規模は違えど理屈は同じはずだ。

 一つ息を吸って集中すると、コハクはまず蔵書館全体を囲むように、魔術の気を遮断する膜を作って貼り巡らす。これで内部で何をしても簡単には外側に知られない。その後は物理的な鍵も魔術の封印も、解除の術で労せずに外すことができた。

 古扉は見た目に反してほとんど軋まずに向こう側に開いた。内側は真っ暗で入り口付近がぼんやり見えるだけだ。目を凝らして見ると、正面は石造りの壁、右手に上に向かう階段が細く伸びている。この先がツキシロの部屋につながっているに違いない。

 だが、今はそちらには進まない。階上に向かって心の中で“待っててくださいね”と呟いてから、コハクは左側に視線を向けた。左手にも細い階段が続いていて、下方に向かっている。予想どおり地下へ行く階段を見付けて、自然と笑みが浮かんだ。足元を照らす小さな光の玉を魔術で呼び出して、躊躇うことなくその階段に踏み出した。

 狭い階段は一階分を下ったところで終わる。下りた先も石造りの細長い廊下で、石に足音が反響するのを聞きながら、どれほど歩いただろう。感覚的には意外と短かった。再び上方に向かう階段が現れる。階段を上がった先には蔵書館と同じような古扉があった。

 その扉には鍵はかかっていなかった。音を立てないように細心の注意を払って薄く扉を開ける。扉の向こうの明かりは小さく薄暗かったが、暗闇に慣れた目にはそれでも眩しい。扉の外側に人の気配がないことに安心して、細い隙間からコハクは滑り出た。

 地下に隠された細い通路を通って彼女が行き着いた先は、真っ白な大理石がふんだんに使われた祠だった。高い天井を支える細長い列柱が等間隔に並んでいる。柱や壁には、七つの球と放射状の環の彫刻。そこは、世界神イーダのための祠だった。もっと立派な大神殿が王都の広場にあるので、専任の神官もいないこの場所には滅多に人が訪れない。だが王宮奥庭のさらに一番奥にあるこの祠は、この国で最も古い由緒ある場所だ。

 なぜそんなところにたどり着いたのか。それはコハクなりの考えがあってのことだった。

 書物を調べるのに限界を感じて、ツキシロを救う手立てが見つからずに消沈していた彼女は、半ば自棄になって思い付いてしまったのだ。“調べてもわからないならば、印を付けた本人に聞いてみよう”と。

 無謀で馬鹿げた手段だとはわかっている。だが自分は青年に約束したのだ。いつかあの塔の外へ彼を連れ出すことを。たとえ世界神を相手にすることになっても、約束は守る。

 とはいっても、コハクは神官ではないから日常的に神と接する場はない。よしんば接していたとしても、普通は神の声など耳にできないしできたとしても理解できないだろう。神は人間とは異なる律に則った存在だから。それでもコハクはわずかな可能性に縋るしかないと思った。幸い魔術学校留学中に、違う律に生きる存在と意志を疎通させる術は学んだ。その方法が応用できるかもしれない。

 そこで次に彼女が考えたのは、なぜイーダの烙印を背負った者が幽閉されたのが蔵書館の塔だったのか、という点だ。何か理由があってのことに違いないと思って、王宮の古い設計図を探してみた。そして見付けたのが、先程コハクが通ってきた塔とイーダの神殿を繋ぐ地下通路である。何のために秘密通路を設けたのかはわからないが、あの塔が幽閉場所にされたのには納得がいった。最初に幽閉を決めた魔術師は、神殿と繋がる場所に烙印を持つ者を置くことで、神の意を迎えようとしたのだろう。そして塔と繋がる人気の無い古い神殿なら、コハクがこっそり神と対話する場としてもうってつけだ。

 司書長が休憩から戻ってくれば、自分がいないことはすぐに気付かれるだろう。目的はともかく、向かった先がわかればまた騒ぎになるかもしれない。だからのんびりしている時間はない。コハクは早足で正面の祭壇に近付いた。

 同じ文様が施された大理石の祭壇は、他と同じく余分な装飾はない。世界神の姿は一つに定まることはないと言われているので、祈るための絵や像もない。花と供物が置かれた壇の前に跪いて、コハクは深く静かに息を吸った。ゆっくりと目を閉じて、意識を祭壇の向こうに集中させる。正確な手法がわからないので、呪文はかえって邪魔だ。心の中を空っぽにして、ひたすら意識を一方向に研ぎ澄ましていく。

 感覚の糸が張り詰め過ぎて、肉体にも痛みをもたらしはじめたところで、コハクの心の琴線に何かが触れた。見失わないように急ぎかつ慎重にそれを辿る。やがて遠くの方に小さく、だがはっきりと白く輝く世界神イーダの文様が見えてきた。

 それは実際にこの世にその象形で具現しているものではない。あくまでもコハクの意識がそう捉えているだけだ。だが、認識さえできれば、その対象と意志を疎通させる可能性もずっと高まる。希望を見出だしてコハクはいっそう集中を高めた。

 最初は遠く小さく見えていたイーダの文様は、意識を集中するにつれてぐんぐん大きく近付いてくる。それに伴って感覚が受ける圧力も高まってきた。やがて意識の目の前に堅牢に閉ざされた巨大な扉の像が立ち塞がった。扉の表面にはイーダの文様。この扉を開けることが、彼の神と繋がるために必要なようだ。

 真っ白い扉の合わせ目から溢れ出てくるイーダの気配の強さは、猛烈な突風となってコハクの意識を襲う。世界神自身は自らの元を訪れる者を歓迎も拒絶もしていないのだろうが、その存在から放たれる圧倒的な気の力は迂闊に近付く者全てを薙ぎ倒すほどだ。

 扉の隙間からの風圧で呼吸もままならない。顔の前に挙げた両腕で瞳だけは庇い、それ以外は風に嬲られるままに、それでも必死に扉の合わせ目に意識を集中する。

 もうどれほどの時間が経ったのか。集中しすぎて頭の中が軋みそうだ。気のせいか周囲が薄暗く感じられる。そろそろ自分の力を維持するのも限界に近付いている。意識がほんのわずかの間だけふっと浮いた気がした。

 ふと、留学時代に同級生たちが交わしていたたわいもない会話を思い出す。

ーーー旦那さまにする人は、絶対に私を守ってくれる人じゃなきゃイヤだわ。

ーーーそうよね~。どんなことがあっても自分だけは守ってほしいわ~。

 皆、特定の相手を思い描いていたわけではない。少女らしい夢いっぱいの会話だ。コハクも彼女達と同じように、いつか訪れるかもしれない甘い機会の想像に心を弾ませていた。

『たとえ全てを敵にしても、君を守る』

 そんな台詞、一生に一度くらい、言われてみたいと思う。

 当然だ。自分だって花の乙女だ。

 素敵な王子様に大切に守ってもらう夢を見ることくらいあるのだ。

 けれどーーー

 ここで諦めるわけにはいかない。

 彼女は大きく息を吸い直して、力一杯叫んだ。

「……だって、世界を敵に回したって、私が貴方を守るって決めたんだから!!」

 残る気力の全てを扉の文様に向けて注ぎ込む。扉の合わせ目はそのコハクの力を吸い込み、軋むような震えを見せたものの、まだその隙間を広げることはなかった。

 自分の力では、やはり世界神に対峙しようとするのは無謀だったのだろうか。意識を張り詰め過ぎた疲労に集中の糸が途切れそうになったそのとき。

 ふわり、と何か大きくて温かいものに背後から包まれた気がした。耳元からは柔らかい声音が流れ込んでくる。

『そのお気持ちは大変嬉しいのですが、貴女お一人だけが無茶をされては私の立場がありません。私も、たとえ何があっても貴女を守りたいと思っているのですよ』

 ツキシロの声だということはすぐにわかった。閉じ込められているはずの彼がなぜその場にいるのかは不明だが、祭壇の前で瞑黙しているコハクの身体のすぐ傍に寄り添っているに違いない。

 通常だったら、魔術に集中しているときに声を掛けられたり、ましてや身体に触れられるなど絶対に避けたいことだ。ところがツキシロの声と温もりは少しも集中の妨げにならなかった。それどころか、限界だと悲鳴を上げていた意識に掛かる負荷が急に軽くなった。扉から感じる気の圧力をツキシロが半分受け持ってくれたかのようだ。

 再び扉に挑む気力が湧いて、コハクは改めて意識を集中しだした。

 今のコハクにはツキシロに返事をするほどの余裕はない。だが、彼の支えを頼りにして力を取り戻したことは十分伝わっているに違いない。わかっています、というように、自分を包む腕に力がこもった。

 変化があったのはすぐだった。

 隙間から光がうっすら漏れてきた、と思ったときには、音もなく静かに、だが勢い良く扉は向こう側に開いていた。とたんに強大な気が猛烈な速さでコハクの身を嬲って駆け抜けていく。一度それに耐えてやり過ごしたら、後に待っていたのは穏やかな空間だった。

 いつの間にか堅牢だった扉の像は消失している。コハクの意識を占めているのは強烈な白い光。上も下も、それどころか自分が今何かに足を付けて立っているのかそれとも宙に浮いているのかもわからない。溢れる白光は強く、細めた目蓋の隙間から周囲を窺う。光の続く全ての範囲に世界神イーダの気を強く感じた。

《ーーー我に必死で呼び掛けていたのは、そなたか》

 何の前触れもなく頭の中に言葉が響いた。男女や老若の判断ができないそれは、耳を通して伝わってきた音ではない。直接コハクの意識に働き掛けてくる力を、コハクの頭の中が声に変換して捉えているようだ。

 圧倒的な世界神の気に知らず声が震える。それでも腹部に力を込めて声を振り絞った。

「世界神であられますか!?手順を弁えない無礼を失礼いたします。それでも、どうしても直接お伺いしたいことがあるのです!」

《手順など我にはどうでもよいこと。こうして我の言葉を聞けているそなたの問いになら答えようぞ》

「ありがとうございます。お聞きしたいのは、”世界神イーダの烙印”についてです。あれは何のための印なのですか?なぜ貴方様はあの印を人の身にお与えになられたのですか?」

 そして、なぜツキシロはあんな境遇に身を堕とされなければならなかったのか。その質問は声には出さなかったものの、世界神には伝わっていただろう。

《ふむ、そなたが烙印と呼ぶのは、我が稀に人に記す印のことか。あれは、我が気に入った者に与えた印だ》

「気に入った……?それでは、なぜあの烙印を持つ者には過酷な運命をお与えになられるのですか!?」

 神のお気に入りの証だというのなら、彼らにはもっと幸せな人生があってもよいはずだ。

《それは我には預かり知らぬ。印を持つ者の周囲が勝手に行動しておるだけだ》

「どういうことでしょうか?」

《印を持つ者をこの国から出せば我の力が及ばなくなる。国を出て我から離そうとすることは許せぬ。ましてや国内で勝手に命を断つなど、我を怒らせて当然だ》

「それでは、印の持ち主が塔に閉じ込められていることはお怒りにならないのですか?」

《我は気に入った者が長く傍におれば良い。国内で息災にしておれば構わぬ》

 コハクには世界神の言い分はずいぶんと身勝手に聞こえた。だが相手は人とは異なる理の存在だ。神の感覚が自分とは違うのは仕方のないことなのだろう。

 そして神の話を聞いて、コハクはあることに気付いた。

「……ということは、このシロガネ国の中にいれば、別に塔の中に幽閉しておかなくてもよいってことですよね」

 いつの間にか、口調が砕けたものになっていた。もっとも世界神はそれを特に気に掛けることはないようだ。

《そうだな。我の力の及ぶ範囲におれば、印を持つ者には加護を授けられる》

 その言葉を聞けて、コハクはこの神の元まで来た甲斐があったと思った。たとえ国内のみという制約があろうと、塔の内側と比べればツキシロの行動の自由度は格段に広がる。

「ありがとうございます!それをお伺いできて安心しました。ところで、不躾なお願いなのですが、今のお話を他の人たちに納得してもらえるように、何か証を頂くことはできないでしょうか?きっと私一人の話では誰も信じてくれないと思うので」

《そんなことはなかろうが……まあ、良かろう。現つに戻ったら、かの者の持つ印を確認してみろ。それでわかるはずだ》

 心持ち世界神の口調も柔らかくなったように感じたのは気のせいだろうか。

《さて、これで話は済んだな。いつまでも我の気に触れ続けてはそなたが消耗する。そろそろ戻るが良い》

 そう言われたときには、周囲の白光は薄らいでいた。同時に身体が急速に落下していく感覚に襲われる。世界神に別れの礼をする暇がなかった、と思ったときには、コハクの意識は暗闇に飲まれていた。




 目を開けると、心配そうに覗き込むツキシロの赤茶の瞳があった。

「コハク……!良かった、気が付きましたか」

 どうやら自分はツキシロに抱き抱えられるようにして床に横たわっているらしい。そういえば初めて会ったときも同じような状況だったな、などと思い浮べて相手を見返したところで、直前まで自分がしていたことを思い出した。

「ツキシロ様!印!イーダの烙印に変わりはありませんか!?」

 慌てて上体を起こし、ツキシロの上着の襟元に手を掛ける。そのまま前身頃を開こうとするコハクの手をツキシロは苦笑しながら制止した。

「やはり貴女は大胆な方ですね。でも、さすがに昼間からこういうことをするわけにも……はい、貴女が確認したいのはこれでしょう?」

 ツキシロに言われて自分の不躾さに気付き思わず顔が赤くなったものの、彼が心得ているかのように袖を捲って出した腕や寛げた胸元には、視線を逸らせずに注視する。

 腕を覆っていた赤黒い文様は綺麗に消えていた。首から胸元にかけても、元の白く滑らかな素肌に戻っている。彼の身体に世界神の烙印があることを示すのは、左胸の上に小さく刻まれたひと続きの赤い文様だけ。世界神が約束してくれた通りの結果だ。

「よかった~!」

 安堵のあまり全身の力が抜けて、ツキシロの胸に崩れるように伏してしまう。

「コハク?大丈夫ですか?」

「私は平気です。それよりツキシロ様、良いお知らせがあります!イーダの烙印が小さくなったことには理由があるのです。この印は、けっして凶兆ではなかったんですよ!」

 話しているうちに興奮してきたコハクを、ツキシロは優しい笑顔で遮った。

「ええ、わかっています。私たちも貴女の意識を通じて世界神との会話を聞いていました」

「え?私たち……?」

 その段階で初めて、コハクはツキシロの背後に複数の人物が控えていたことに気が付いた。魔術庁長官である母、司書長の老人、その他魔術庁の高位魔術師が数人、遠巻きに事態を見つめていたようだ。そしてコハクは自分たちが置かれていた立場を思い出す。

「そういえば!どうしてツキシロ様がここにいらっしゃるんですか?」

「貴女がいなくなったのに気付いたトクサが、ただ事ではなさそうな事態を心配して、禁を犯して私に教えてくれたのです。私も更なる咎めを受けるつもりで貴女を追いました。貴女ならどんな無茶をするか分からないから」

 そして事態は当然、魔術庁の魔術師たちにも知られ、彼らもこの場所に集めることになった。コハクの向かった先が世界神の古い祠だとわかって、魔術師たちはいっそう不安になっただろう。今度は何を引き起こすつもりなのだろう、と。

「まったく、なんてことをするんですか、貴女は!世界神と直接対峙しようだなんて、貴女の身に何かあったらどうするんです!」

「すみません、確かに自分でも無謀かなとは思ったんですけど。でもまったく勝算がなかったわけじゃなくて、異種の存在と意識をつなぐ術は使ったことあったし、それに最悪失敗してもせいぜい私自身に跳ね返ってくるだけだろうから……」

 コハクの弁解は、次第に小さくなっていった。困ったようなそれでいて怒っているツキシロの表情と、呆れた様子の司書長、理解できないものを見る魔術師たちの顔、そして愚か者は相手にできないと言わんばかりの冷たい母の視線に、ついには言葉尻が消えてしまう。それでも最後にこれだけは、と付け加えた。

「……何があっても、ツキシロ様を塔の外に出してあげたかったんです」

 その告白に、ツキシロは引き結んでいた唇を緩めて、仕方ない人ですね、と苦笑した。

「私を大切に思ってくれる貴女のお気持ちはとても嬉しいです。けれど貴女の身に何かあったら元も子もない。貴女が私を心配してくれるのと同様に、私も貴女のことを守りたいと思っているのですよ。だから、私のためにも自分のことを大切にしてください」

「……はい」

「そして遅くなりましたが、今回の件はありがとうございました。確かに方法は無謀でしたが、私の身を解放してくれたことには、どれほど感謝しても足りません」

 そう言って微笑んだツキシロの顔は本当に晴れ晴れとしていて、コハクはその表情を見られただけでも、頑張った甲斐があったと思った。コハクも自然と笑顔がこぼれる。

「ところで、まずは貴女の身体を休めないと」

 大丈夫です、と答えようとして、コハクはずっとツキシロに寄り掛かったままだったことに気付いた。しかも慌てて身を起こそうとしても、想像以上に体力を消耗していたのか、腰から下に力が入らなくてうまくいかない。

「私が連れていってあげます」

「ツ、ツキシロ様っ!!」

 遠慮する暇もなく、コハクはツキシロに横抱きにかかえあげられていた。

「お、降ろしてください!私、重いです!自分で歩きますからっ!」

「大丈夫、とても軽いですよ」

「で、でもっ!」

「外の世界に出るのは久し振りなのです。その記念すべき一歩目は、貴女と一緒がいい」

「ツキシロ様……」

 そんなことを言われてしまっては、無碍に断るわけにもいかない。仕方なくコハクは頬を赤らめながらも、大人しくツキシロの腕に身を預けた。

 そして、周囲に人がいることを完全に失念しているらしい二人のその様子に、魔術師たちは気まずい気分になり、魔術庁長官は相手にしてられんと溜め息を吐き、司書長の老人は微笑ましげに眺めているのだった。




 穏やかな日差しの降り注ぐ午後の時間。来訪者の少ない蔵書館では、我関せずで調べものをしている司書長の老人と古書の整理で梯子を上り下りするコハク、そしてそれを手伝うツキシロの姿が定着しつつあった。

 コハクが世界神と対峙した日から既に一月あまり。あの日以降、表立っては大きな変化はなかった。コハクを処罰するべきだという意見もあったらしいが、一方で長年不明だった世界神の烙印を解明し、ツキシロを解放した点は評価されるべきだと擁護する意見もあった。結局、功罪を差し引きして処罰も報奨もなく、彼女は相変わらず魔術庁の新人職員として蔵書館で働いている。

「ツキシロ様、いいんですか?お忙しい皇太子のご身分で毎日こんなところで油売ってて」

「忙しいからこそ、これくらいの息抜きはさせてもらっていいでしょう」

 国外に出なければ自由に行動してもイーダの怒りに触れないとわかって、国王一家も国の重臣たちもツキシロを皇太子として復活させることを満場一致で決定した。そもそも事情が事情だっただけに皇太子変更はあまり表沙汰にされていなかったので、弟から兄に皇太子の椅子を戻すことにたいした問題もなかった。

「アイシロ様はこれ幸いと羽を伸ばしていますしね。いくらツキシロ様が皇太子に戻ったからって、国外に出られない制約があるのだから、補佐していただく自覚がないと」

「アイシロには私がいなかった間に重責を担っていてもらったので、少しくらいのんびりしてもらって構いませんよ……ところで、そろそろ休憩にしませんか?」

 以前と異なる点が一つあった。蔵書館の外に新しく置かれた椅子と小机に、温かいお茶と作り立ての焼菓子を添えて二人で休憩時間を過ごせるようになったことだ。

 柔らかい陽光の下で見ると、ツキシロの銀白の髪は透き通るような輝きを放つ。ツキシロが塔の外に出て初めてその光を見たコハクは、その美しさに見惚れた。時間のたった今でもついうっとりと眺めてしまう。

「……先程の話ですが、確かにアイシロにも手伝ってはもらおうと思うのですが、彼には将来的には王弟としての責務が待っています。だから、もっと私に近い立場の人に私の足りない目や脚の代わりになってほしい……それをコハク、貴女にお願いしたいのですが」

「私がですか?ツキシロ様のお役に立てるなら嬉しいですけど、私の身分ではそんな大役は不釣り合いですよ」

「大丈夫。魔術庁の一般職員では難しいかもしれませんが、皇太子妃とすれば権限も増えますから」

「まぁ皇太子妃殿下だったらやりやすい……って、えっ!?皇太子”妃”って!?」

 言われたことの意味をすぐには飲み込めなくて戸惑っているコハクを、ツキシロはいつもの穏やかな、それでいてとても嬉しそうな楽しそうな笑顔で見つめていた。

「なっていただけますか?私の妃に」

 さらりと愛しげな声で言われて、ツキシロはどうやら本気だと理解する。とたんに顔どころか全身が真っ赤になった気がした。

「わ、私なんかが、そんな、とても……!」

「いいえ、どうしても貴女でなくてはだめなのです。何しろ、世界を敵に回しても私を守ろうとしてくれたのは、貴女だけなのですから」

「……っ!!」

 そこまで言われては、もうコハクには頷く道しか残っていなかった。




 後の史書で、シロガネ国をその歴史上最も繁栄させた賢王として記録されるツキシロ王。

 世界神イーダに愛でられた印をその身に刻んでいたと言われる彼には、もう一つの目と呼ばれる王妃がいた。巧みに魔術を操れた彼女もまた、世界神と対話できる程に神のお気に入りだったと記録は伝える。

 それが現実のこととなるのは、今よりもう少し先のことであった。




<了>


後日譚があります

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