前編
『たとえ全てを敵にしても、君を守る』
そんな台詞、一生に一度くらい、言われてみたいと思う。
当然だ。自分だって花の乙女だ。
素敵な王子様に大切に守ってもらう夢を見ることくらいあるのだ。
けれどーーー
固く閉ざされた扉の向こうから放たれる圧倒的な気の強さは、身体を傷付けそうな強風となって彼女を襲う。
風圧で呼吸もままならない。顔の前に挙げた両腕で瞳だけは庇い、それ以外は風に嬲られるままに、それでも必死に扉の合わせ目に意識を集中する。
もうどれほどの時間が経ったのか。集中しすぎて頭の中が軋みそうだ。気のせいか周囲が薄暗く感じられる。そろそろ自分の力を維持するのも限界に近付いている。
だが、ここで諦めるわけにはいかない。
彼女は大きく息を吸い直して、力一杯叫んだ。
「……だって、世界を敵に回したって、私が貴方を守るって決めたんだから!!」
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
王宮で国王一家に面会するのは五年ぶりだった。
「長きに渡る魔術留学、ご苦労だったな、コハク。今後はその魔力を我が世界神イーダとこのシロガネ国のために役立ててくれ」
「ありがとうございます、陛下」
国王の労いの言葉に、コハクは貴族の最上級の礼法でお辞儀を返す。
「聞くところによると、魔術校始まって以来の優秀な成績で卒業したとか。母の跡を継げる立派な魔術師になれそうだな。魔術庁長官もよい娘を持ったものだ」
「陛下、これはまだ十六になったばかりの、魔術庁の新人職員の身です。過分なお言葉は甘えを招く元です」
隣に立つ魔術庁長官にしてコハクの母でもある女性の、見た目に違わぬ硬い声に「相変わらず長官は厳しいのう」と国王は苦笑した。代わって王妃が嬉々として口を開く。
「まぁ、まぁ!コハクはその髪色と瞳の色は母譲りだけれど、それ以外はお父様に似たのね!小さくてなんて可愛らしいのかしら!まるでお人形のよう!」
なんと答えるべきか分からなくて、コハクはとりあえず笑顔で王妃にも礼を返した。
王妃の言うとおり、彼女の小柄で華奢な体型や、瞳の大きな幼く見える顔立ちは父似だ。女傑という言葉が似合う大柄で鋭く整った美貌の母とはあまり似ていない。だが透き通りそうに明るい金茶の髪と同色の瞳は、そっくり母の色を受け継いでいた。そして、魔術師としての強大な魔力も。
「やっぱり女の子はいいわねぇ!妾もこんな娘がほしいわ!いっそうちの子にならない!?」
興奮して喋り続ける王妃を止めてくれたのは、国王夫妻の横に立っていた皇太子だった。三人とも国王一族の証である美しい銀白の髪をしている。
「母上、そんなことをおっしゃると、コハクが困ってしまいますよ」
「あら、だって、コハクがあまりにも可愛らしいから。貴方もそう思うでしょ、アイシロ?」
無邪気な母子の会話だったが、コハクはそこにひっかかりを覚えた。
「え?あれ、皇太子様はツキシロ様ですよね。アイシロ様は弟君じゃ……?」
浮かび上がった疑問をそのまま口に出した瞬間、謁見室の空気が一気に凍りついた。国王と皇太子は難しい顔で視線を逸らし、それまで朗らかに微笑んでいた王妃は悲しげな顔になって俯いてしまった。
自分が何か不味いことを言ってしまった、というのは即座に感じた。ただ、何が不適切だったのかはわからない。それでも、この国を離れていた五年の間に皇太子が代わったという噂すら耳にしたことがなかったのは確かだ。
静止した謁見室の空気を動かしたのは、魔術庁長官の普段と変わらない硬質な声だった。
「陛下。これの帰国のご挨拶も終わりましたし、そろそろお暇させていただいてもよろしいでしょうか。庁では長官の確認がなければ何もできない無能者たちが待ち受けているせいで、私の仕事が山ほど残っているのです」
王族の前にしてはずいぶんな物言いだったが、国王は明らかにほっとした表情になった。
「おぉ、そうだな。忙しいそなたを長々と引き止めて悪かった。仕事に戻るがよい」
それをきっかけに王妃も弱々しい微笑みを取り戻して、お疲れさまと言葉を添える。
コハクはもう一度丁寧に例をすると、既に扉に向かって歩きだしていた母の後を慌てて追った。謁見室を出て周囲に人気がなくなったのを確かめてから、コハクは半歩先を大股で歩く母に話し掛けた。
「先程は申し訳ありませんでした、母様。しかし、何が悪かったのでしょう……」
「コハク。余計なことは気にするな」
「けれど、理由を知らなければまた同じ失礼をしてしまうかもしれません」
「おいおい分かっていく。とりあえず王宮では殿下の話題は避けることだ」
母の言う“殿下”が誰を指すのかはっきりしなかったが、それ以上質問を受け付ける様子がなかったため、コハクは口をつぐんだ。いずれにせよ自分が国を離れていた間に国王一家に何らかの変化があったことだけは確からしい。
疑問は残ったままだが、彼女はそれをいったん意識の奥に押し込んでおくことにした。
魔術庁の新人職員としてコハクが配属された先は、国中の魔術書を集めて管理している蔵書館だった。王宮奥庭に建てられた古い塔の中にある蔵書館は、今まで年老いた司書が長年一人きりで蔵書を管理してきていたらしい。
「今までにも何人か司書が配属されたけど、全員その爺さんとソリが合わなくて追い出されたって噂だよ。そんなところで大丈夫?」
魔術庁の同期の誰かが心配そうにそう教えてくれて、コハクとしてもいくらか不安にならなかったわけではない。だが彼女にとっては不安以上に期待の方が大きかった。
何しろこの国で一番たくさんの魔術書が集まっている場所である。それらに毎日接していられると考えただけでコハクの心は浮き立ってくる。コハクは魔術書が大好きだった。もちろん新たな知識を得ることも楽しいが、良い魔術書は溢れてくる気を持っている。その気の力に触れているだけで、書を読むよりもよほど多くのことを感じられるからだ。
なので初出勤のその日、彼女が蔵書館に向かう足取りは軽かった。コハクの背丈の倍くらいある古めかしくて重厚な扉を力一杯押し開けて、そっと蔵書館の中に入る。司書の老人は先に来ているだろうということだったが、姿は見えない。初めて足を踏み入れた館内に視線を巡らせて、コハクは思わず感歎の声を上げてしまった。
「う、わぁ……」
弧を描く壁際に沿って据え付けられた天井までの本棚にぎっしりと収められた書物の数々。整然と並んだ魔術書から漂ってくる気は調和によって力を増し、とても心地よい。
書物の力に気を取られて、しばらく呆然としていたらしい。いつの間にかすぐ側まで人が来ていたことに気付かなかった。
「そんなところにつっ立っておったら邪魔じゃ」
背後から掛けられた声に慌てて振り向くと、そこにはコハクとたいして目の高さが変わらない小柄な老人が立っていた。大型古書を片腕で抱え、長く伸ばした髪も髭も真っ白な姿は子供向けの物語に出てきそうな雰囲気だ。
「すみません!あの、蔵書館司書長のトクサ様ですよね。初めまして。今日からこちらに配属になったコハクと申します」
「書をわからぬ若いのを何人寄越したところで、迷惑なだけなんじゃがのう……」
ぺこりと頭を下げた彼女をその老人は軽く一瞥しただけで、興味無さそうに本棚の手前に据えられた大きな書見台に向かう。だがそんな司書長の態度にめげずに更に話しかけた。
「ここはとても素敵な場所ですね!こんなにたくさんの力ある書物が、きちんと整って並べられてて……あれ、でも、あっちは……?」
改めて館内に満ちた気の波動を堪能していたコハクは、しかし途中で違和感に気付く。
「手前の魔術書はきちんと並べられているのに、奥の方のものはばらばらなんですね」
独り言のようなコハクの呟きに、司書長が反応を見せた。
「ほぅ……奥は、古魔術の本ばかりじゃ。お前さん、古典魔術語が読めるのか?」
「え!?いや、一応学校で古典は習いましたけど、とても満足に読めるほどではないです」
「だったら、なぜ奥の本の並びが整っていないと思う?あの辺りは、一応この国の上位魔術師どもが長年古典の研究をした成果で並べているものじゃ」
「そうなんですか?でも、奥の方は気が全然流れていないんですもの。手前の方はこんなに調和してるのに奥があれじゃ気持ち悪いわ」
「ふむ……さすが長官殿の娘御じゃの。では、お前さんにはあの奥の古書の整理を任せようかの」
「え、あの?」
司書長はそれだけ言うと、後はもう興味が失せたといわんばかりに無言で書見台の方に向き直ってしまった。
「えーっと、では、今日からよろしくお願いします」
理由はよくわからなかったが、仕事を割り当てられたということは同僚として認められたということなのだろう。そう理解して、コハクは改めて老人に向かって頭を下げた。
「前任者たちはソリが合う合わないじゃなくて、おじい様の人遣いの荒さに嫌気が差したんだわ、絶対」
大型で重い古書を抱えて梯子を登りながらコハクは愚痴を零さずにはいられなかった。コハクが蔵書館に勤め始めて一週間。日中ほとんど一人で作業しているせいか、確実に独り言が増えていた。
周囲が心配していた司書長との軋轢は特になく、それどころか勝手に“おじい様”と呼んでしまうくらいには親しみを覚えてもいたのだが、それと人遣いの荒さとは別問題である。確かに重い書物を抱えて何度も行き来するのは年老いた身体では大変だろうが、コハクが来たのをこれ幸いと、いいように遣われている気がしてならない。
もっとも、古書の整理はなかなかに面白い仕事だった。古語で記された本の内容は彼女には簡単には読めないので、整理はもっぱら書物から感じる気を整えることに頼っている。元々の配置も、背表紙の題字だけ見れば不揃いではないので、研究者もまるっきり的外れに収納したわけではないのだろう。だが、気の流を考慮したらこうは並べないはずだ。
普通の魔術師にとって、ごく僅かな書物の気を探りながらその調和を整えることは、古語を紐とくよりよほど精神的な重労働だということに、コハクは気付いていなかった。
「このあたりは大分いい感じになってきたわね。あと気になるのは・・・・・」
梯子の上に腰掛けたまま、ぐるりと見回す。
「あそこの扉」
彼女が視線を向けたのは、蔵書館の一番奥まったあたりに本棚に埋もれるようにひっそりと存在する古びた小さな扉である。
「あれは、絶対にここの塔の上につながってると思うのよね」
働き始めて一週間、コハクが疑問に思っていたことが一つあった。それはこの蔵書館がある塔の構造だ。王宮の奥深くにあるこの塔はそれほど高い建物ではない。だが外から見る高さと館内の高い天井の高さには差があり、蔵書館の上にまだ空間があると考えられた。
最初は使われていない倉庫か何かだと思った。ちらりと司書長に聞いてみたときも、無愛想な声でそんなようなモノだ、と言われた。しかしそれにしては納得がいかない部分がある。扉自体は古くて埃っぽいものの、掛けられている鍵は比較的新しい。取っ手や框には埃が溜まっておらず、誰かが定期的に利用していそうなのだ。
「鍵を解除の術でこっそり外しちゃっても、いいかなぁ」
「そんなことをしたら、すぐに魔術庁の人たちが飛んで来ますよ」
「え!?……きゃあっ!」
「危ない!」
誰も聞いている者はいないと思って発した独り言に突然応える声が聞こえて、コハクはかなり驚いた。梯子の下を覗こうとしてバランスを崩し、身体は宙に浮く。
そして床にぶつかる衝撃を緩和する術を使うよりも早く、彼女は何かに受け止められた。
大きな温かい腕だと感じて、固く瞑っていた眼を開けると、飛び込んできたのは心配そうに覗き込んでくる二つの瞳だった。それは奥の血の色が透けて見えそうなくらい薄い赤茶色をしていた。
その不思議な色合いに、コハクは状況も忘れてぽかん、と見入ってしまっていた。
「大丈夫ですか?どこか打ったりしましたか?」
優しく身を案じる声を掛けられて、自分が見知らぬ青年の腕の中に寝ていることに気付き、慌てて飛び起きる。
「だ、大丈夫です!あ、あの、ありがとうございました」
「いえ、私が急に声を掛けたから驚かせてしまったのですね。申し訳ありませんでした」
そう丁寧に頭を下げた相手を、コハクは改めて見返した。
年齢はコハクよりいくつか上だろう。肩にさらりとかかる髪は白色と見紛うほどに淡い銀白。端正な彫りの顔立ちは優しく落ち着いた雰囲気の青年だった。その面差しにどこか見覚えがある、と思ったところで、彼の髪と瞳の色はこのシロガネ国の王族を示す色だということに気付く。そしてコハクが知っている中で、このくらいの年齢の王族といえば。
「皇太子様!?」
「いいえ、私は皇太子ではありません」
「あ、えっと、今の皇太子様ということではなくて、もしかして貴方はツキ……」
「おい、何があったのじゃ?」
そのとき本棚の向こうから物音を聞き付けた司書長の声が聞こえてきて、コハクは口にしかけた名前を飲み込んだ。
「ここで私と会ったことは、内緒にしておいていただけると助かります」
青年は長い人差し指をコハクの唇にそっと立てて、いたずらっぽく笑い掛ける。ひんやりした指だったにもかかわらず、その触れられた場所だけが急激に熱を持った気がしてコハクは言葉を返すことができなかった。
呆然と見つめているうちに、青年はさっと身を翻し施錠されているはずの古扉に軽く手を掛けると、鍵を外した様子もないのにするりと扉を開けて身を内に隠す。司書長が床に座りこんだままのコハクのところにやって来たときには、既にそこに他の誰かがいた気配はなくなっていた。
それでも唇の上に残された指の熱だけは確かに青年の実在を主張していて、コハクはいつまでも彼が消えた古扉から瞳を逸らすことができなかった。
初めての出会いは昼間の夢かとさえ思えたのに、その後コハクはかなりの頻度でその青年と顔を合わせていた。二日か三日に一度、ほんの一刻程の時間だが、司書長が昼の休憩に蔵書館を出るときを狙ったかのように、その青年は姿を現す。
青年はいつも鍵が掛かっているはずの扉を静かに開けて出てくる。そして外側にいたコハクを見付けると、柔らかな微笑みを浮かべるのだった。その笑顔を正面から受け止めるのは気恥ずかしくて、コハクはいつも彼の挨拶にぶっきらぼうな返事しか返せない。
蔵書館の中で青年が何をしているのか、コハクにはよく分かっていなかった。
古書の中から何かを探しているときもあるが、じっとコハクの作業を見ているだけのときもある。彼女が重い本を抱えているときはさっと手を貸してくれたり、ときには軽口を交わすことさえあったが、依然として青年の正体はおろか名前すら知らないままだった。それでも僅かな時間の中で、コハクはその青年と共に過ごす時がとても心地よく安らげる時間だということに気付いていた。そして、青年に”コハク”と名を呼ばれるのがくすぐったくも嬉しいことにも。
そうやって密かに青年と会うことを繰り返して一月も経つ頃には、コハクは青年の正体を察してきていた。
彼は恐らく、最初にコハクが考えた通り、このシロガネ国の”元”皇太子、第一王子ツキシロに違いない。彼の顔にどこか既視感を覚えたのも、謁見室で会った王妃によく似ていたからだ。そして特徴的な銀白の髪と赤茶の瞳も王族特有のものだ。それほど難しい推理ではなかった。
分からないのは、なぜそんな重要人物が王宮奥の古い塔の上に幽閉されているのか、だ。
コハクが魔術留学でこの国を離れていた五年の間に何かがあったのだろうが、事情は国民には明らかにされていないようで、魔術庁の同僚に聞いても詳しいことを知っている者はいなかった。はっきりしているのは”一年ほど前に唐突に第二王子が皇太子になる発表があり、それ以降第一王子ツキシロの姿を見かけなくなった”ということだけだ。
司書長の老人は詳しい事情を知っているのかもしれない。何しろツキシロが閉じ込められているのは彼が長年勤める蔵書館の真上なのだから。しかし司書長に尋ねても何も答えは得られなかった。そして確実に経緯を把握しているはずの人物、この国の魔術師全てを束ねる魔術庁の長である母にも探りを入れたものの、”お前には関係ない”と取り合ってくれなかった。
詳しい事情が分からないということに、コハクは苛立ちと焦りを覚えていた。
どんな事情がこの状況を作り出しているのかわからないから、いつどんな変化が起こって、今の際どい隙間の上に成り立っている時間が持てなくなるのかもわからない。それを避けるために自分では何も準備ができないことが、ひどくもどかしかった。
そして、その焦燥が限界に達する前に、コハクは行動を起こすことに決めたのだった。
三日月が照らす王宮の奥庭。蔵書館の塔の手前に、コハクは一人で立っていた。家人が寝静まった屋敷を抜け出し、王宮の通用口をこっそりくぐり抜けてくることなど、魔術学校の寮からよく秘密の外出をしていたコハクにとって困難は感じない。
この数日、早朝出勤や残業をして、彼女は塔上部に到る道筋にアタリを付けていた。朝夕の一日二回、蔵書館入り口とは反対側で、使用人が小さな籠を滑車で上げ下げしているのに気が付いた。食事や着替えや湯などを上げ、不要なものを下ろしているようだ。
細い月明かりの中、その場所に立って塔を見上げるとうっすらと灯りが見える。高さは普通の建物の三階あたりか。蔵書館の天井が二階分ほどの高さだから、ちょうどその上だ。
コハクは深く息を吸って呼吸を整えると、風の気を探り始める。すぐに手応えを感じて、気を自分の足元に集め始めた。魔術を使う際に通常は呪文を伴うが、本質的には意識を集中して万物の気を操れればよい。この程度の魔術にコハクは呪文を必要としなかった。
集めた風の気を下方に押し流すことで、身体を一気に上空に持ち上げる。
地上にいるときは魔術書の気に隠れて気付かなかったが、上空に来て気が付いた。塔を包むように施されている、“内にあるものを閉じ込める”ための強力な魔術の存在に。塔の上に幽閉するだけでは安心できず、こんな術を掛けてまで外に出したくないだなんて、あの青年はいったいどんな秘密を抱えた存在なのだろう。
塔を囲む術は、外から来るものを拒む仕様にはなっていなかったようで、コハクは難なく件の窓枠に近付くことができた。目指す窓の外枠に両足を乗せたところで、身体を支えていた風の気を解放する。
硝子の窓から中を覗くと、部屋の奥に置かれた長椅子に腰掛けて書物を読んでいる青年の姿が見えた。その彼に向かって、そっと窓を叩く。数回叩いたところで、青年が窓の外に気が付いた。コハクの姿を目にしたとたん、青年は赤茶の瞳を大きく見開き、慌てて立ち上がって窓に近寄って来る。鍵を外すのももどかしげに窓を開けると、大きな手でコハクの腕を捉えた。
「なんてことをされるんです!ここの高さをわかっていますか!?」
「魔術を使ったから大丈夫です」
「そういう問題ではありません。しかもこんな夜遅くに……最初に会ったときも思いましたが、貴女はかなり思い切った考えをされる人ですね、コハク」
「あまり深く考えない質なのは自覚しています。それよりも、中にお邪魔してもよろしいですか、ツキシロ様」
青年にしっかり掴まれた腕が熱くて、鼓動が高まるのと頬が赤くなるのを誤魔化すために、些か唐突に青年の正体を突き付ける。
「あぁ、いつまでもそんなところでは、寒いし危険です。どうぞこちらにお越しください」
しかし青年はコハクが拍子抜けしてしまうほどあっさりと腕を放し、彼女を部屋の中に招き入れた。
コハクは身軽に窓枠から室内に飛び降りるとぐるりと周囲を見回す。想像していたよりは広い部屋だった。飾り気はないがゆったりとした寝台、書き物机と長椅子と食事用の机、奥の衝立ては水廻りだろう。色味も明るく、ここだけ見れば閉じ込められている悲壮さは感じられない。しかし、奥の扉の先、階段の下には鍵が掛けられ、また他の窓も開閉できないようになっているこの場所で、この青年は一人きりで暮らしているのだ。どんな事情があるにせよ、自ら進んでのこととは思えない。
「座っていてください。温かいものはありませんが、飲み物と菓子くらいは出せますので」
とても一国の王子らしからぬ調子で青年は衝立ての陰に入り、すぐに果実入りシロップの水割りと焼菓子を乗せた盆を片手に戻ってきた。長椅子の前の小机にそれを置くのを呆然と見ていたコハクは、促されるままに長椅子に腰掛ける。その向かいに食事用机から椅子を持ってきて青年が座るのを見て、あることに気付いた。
この部屋には椅子が一揃いずつしかないのだ。住人以外の者が部屋に来ることは想定されていない。そのことに怒りが沸いてきて、硬い表情のままコハクは話を切り出した。
「否定されないんですね、ツキシロ様とお呼びしたこと」
「まぁ、いい加減察しているだろうと思っていました。隠すつもりはなかったのですが」
「最初に聞いたときには違うとおっしゃったのに」
「あれは“皇太子”というのを否定したんですよ。今の私は王族の身分も持たないただの男ですから」
「なぜ皇太子の地位を降りられたのかお伺いしてもいいですか?」
いつもと変わらない穏やかな微笑みを浮かべるツキシロは、まるで他人事を話題にしているようで、そのことにコハクの苛立ちはいっそう増していた。
「公にはしにくい事情があるのです、と言っても、貴女は納得してくださらなそうですね」
出された飲み物と菓子には手を出さず、膝の上に両手を揃えてじっと自分を見つめる少女の姿に、青年は苦笑する。そして椅子から立ち上がると、ゆっくりとした足取りでコハクに近付いてきた。
「聞いたらきっと後悔しますよ」
「それは話したくない時の常套句ですよ。私は自分で聞くと決めた結果なら受け入れます」
「そうですか……こんな夜中に男の部屋にやってくる貴女が悪いのですからね」
急に不穏になったツキシロの声に訝しげな視線を向けようとしたときには、青年はコハクのすぐ隣に腰を下ろしていた。背凭れに片腕を付きコハクに覆いかぶさるように身体を寄せてくる。反対側の手は上着の首元の留め具を外し、さらに釦も外し始めていた。
紳士的だったツキシロの態度の急変に、コハクは息を飲む。しかし彼が何をしようとしているのか図りかねて、ただ息を潜めて待っているしかできなかった。
上着を脱いだツキシロが続いて中のシャツの襟元も緩めたところで耐えられなくなって、赤くなった頬を隠すように俯く。
「大胆なことをなさる方が、もう降参ですか?」
嘲るような口調で言われて、コハクは青年をきつい眼差しで睨みつけた。
「そうやって私を怒らせて帰らせるつもりなら、そうはいきません!からかわないでください!」
「からかっているつもりはなかったんですが……そうですか」
ツキシロの声が悲しげになったことが気になったが、それを心配するよりも先にコハクの目に飛び込んできたモノがあった。
「……ツキシロ様!それ……っっ!!」
はだけかけたシャツの胸元、捲り上げられた袖口、そこから覗く色の白い肌の上に浮かび上がる、複雑な文様。
刺青よりは薄く、しかし痣というには濃く赤くはっきりとしたそれは、よく見るとコハクにとってもとても馴染み深い見慣れたものだ。虹の光と同じ七色を意味する七つの球。そしてその七つ全てを合わせた白い光を表す放射状の環。規則的に繰り返されているそれは、シロガネ国の民なら王宮でも街中の神殿でもよく目にする。この国の主祀神、世界神イーダを示す文様だ。
世界神イーダーーーこの世の総てのモノを包含する神。善きモノも悪きモノも等しくその裡に取り込み、平らげる、静穏と波乱を併せ持つ存在。
この国の民は、イーダによって命を授けられて生を受け、死に際しては再びイーダに命を還す。生あるうちも完全にイーダと切り離されているわけではなく、見えない糸に寄ってかの神と繋がっている。そう語られている。
だがそれが神書や神官の語る話だけではなく、こんな風にその繋がりを証明するかのごとく誰かの身の上に刻み付けられているのを目の当たりにするのは、初めてのことだった。
目にしたものの衝撃が大きくて、それ以上言葉を継ぐことができずに呆然とツキシロを見つめるコハクに、ツキシロは淡々と説明を始めた。
「これは、世界神イーダの烙印、というのだそうです」
「イーダの烙印……?」
魔術を修めた者として、世界神にまつわる事象も一通り知っているコハクだが、その単語は初めて耳にした。
「一年ほど前、私は三日ほど原因不明の高熱を出しました。それが治まった朝、身体にこの痣が浮かび上がっていました。胸や腕だけでなく、背中にも一面あります。そちらもお見せしましょうか?」
自嘲気味な笑顔に、コハクは慌てて首を振った。紅色の模様が怖かったのではない。これ以上荒んだツキシロの顔を見たくなかったのだ。
「イーダの御印はそれだけでは吉凶の区別がつかない。神官や魔術師たちが集められ、この痣が何を意味するのか検討されました。そして下された結論が、イーダの烙印、です。」
「凶兆だったのですか?」
「……同じような烙印を身に受けた者は、これまでにも幾人かいたそうです。何かがイーダのお怒りに触れたのでしょう。逃げ出そうとした者は死に、国にも災いがもたらされた。それを防ぐために、私はこの塔にいるのです」
「そんな……!!ツキシロ様が何をされたんですか!?」
「さあ、私には世界神のお考えになることはわかりません。この国の民として恥ずかしくないようにはお支えしてきたとは思います。ただ、何かがかの神の荒ぶる面のお気に召さなかったのでしょう」
「理由もわからないのに、そんな、ひどい……っ!ご身分も自由も奪われて閉じ込められるなんて……っ!!」
「このような烙印を持つ身で皇太子を勤めるわけにはいきませんからね。急のことで父上には迷惑をかけましたが、アイシロもいますし、大丈夫でしょう」
隣に座る青年の諦観したかのように静かな態度に、コハクは苛立ちを感じずにはいられなかった。なぜ、理由もなく突然自らを襲った惨事をこんなに冷静に受け入れていられるのだろう。王宮外れの古塔にたった一人で幽閉されている間に、神の理不尽な仕打ちも受け止めてしまえるのだろうか。
「それに、慣れればここの暮らしもそんなに悪いものではないですよ。静かだし、書物には不自由しないし、思いがけない出会いもあった」
そう言われて、コハクは以前から疑問に思っていたことを確かめることにした。
「ツキシロ様、どうして鍵がかかっているのに、蔵書館には自由に出入りされているんですか?というか、あそこまで出てこられるなら、塔の中にいなくてもいいじゃないですか」
「さすがにこの塔の外に出てしまっては、魔術師たちに気付かれてしまいますからね。蔵書館内だけなら、魔術書の気に紛れて勘付かれにくいだろうと、トクサがこっそり扉の解呪方法を教えてくれたのです」
内緒ですよ、と悪戯っぽく微笑む顔はいつものツキシロに戻っていた。内心はどうであれ、それは彼が自らの現状を受け入れている証であるかのようで、当事者にはなりえないコハクはそれ以上踏み込むことができない。それで、彼女もいつもの快活さを取り戻した振りで応えた。
「やっぱりおじい様はツキシロ様のことをご存知だったのね。秘密にするなんてずるいわ」
「トクサには、よく話し相手になってもらっていました。貴女が配属された話も聞いて、お会いできるのを楽しみにしていたのです」
「おじい様、私のこと変な風に言ってませんでした!?」
「元気で有望なお嬢さんと聞いていましたよ」
「騒がしい、の間違いじゃないですか?」
無言の笑顔を返されて、あながち間違っていないと確信する。
「こんなに可愛らしい方と、短い時間とはいえ会話を交わせて、嬉しかった。本当はいけないことだとわかっていながら、ついつい頻繁にこの部屋を抜け出して貴女に会いに行ってしまった。貴女に出会えて私は久し振りに、日々の暮らしに輝きを感じられたのです」
ツキシロは身体をコハクの方に向け、真剣な眼差しでそう告げる。けれどすぐにその顔は哀しげに曇った。袖口を戻しながら、静かな声で告げる。
「そんな輝きをもたらしてくれた貴女には、私のこんな無様な姿を見せたくなかった。怒らせてでも、帰ってほしかった」
自分の意地がツキシロを傷付けていたことに気付いて、コハクは自らの短慮を恥ずかしく思った。だが、一つはっきりと言わねばならない。
「いいえ!ツキシロ様は醜くなんかありません。たとえ御身にどのような印があろうと、気品と優しさのある、素敵な方です!私は今のツキシロ様で十分です!」
ツキシロを下から覗き込むように顔を近付け、勢い込んでそう言い切る。
「……貴女は、やっぱり大胆ですね」
そうして零された笑顔は、いつもの穏やかなものではなく、心の底から輝きが溢れてくるように眩しくて、正面からそれを直視してしまったコハクは、大きく脈が跳ねるのが自分でもわかった。頬どころか顔中が熱くなってきて、慌ててツキシロから視線を逸らす。
「どうせ、考えが浅いです」
「そういう意味ではないんですがね」
くすりと笑って、ツキシロは長椅子から立ち上がった。そしてコハクに手を差し延べる。
「さて、もう本当に遅い時間になってしまう。そろそろ戻って休んでください」
「でも……」
まだ聞きたいことはたくさんあったし、何よりこんなところにツキシロを一人で残していくのが忍びなくて、コハクはなかなか腰を上げられなかった。
「お話はまた昼間に蔵書館でできます。それとも、今度は本気で襲ってほしいですか?」
「っ!いいえっ!え、遠慮しますっ!」
弾かれたように立ち上がったコハクに、ツキシロは笑いながら「残念」と本気とも冗談ともつかない口調で呟く。
部屋を出るために再び窓枠に足を掛けるコハクに、ツキシロは当然のごとく手を貸す。手助けなどなくても平気なほどこういうことに慣れている自分に気恥ずかしくなりながらも、大人しくその手を受け入れた。
窓の外側に立って、もう一度室内の青年の顔を見つめる。
「ツキシロ様。私、いつかきっと、貴方がここから出られる方法を見付けてみせますね」
「貴女がですか?そんな無理をなさらなくても」
「大丈夫。これでも私、そこそこ将来有望な魔術師なんですよ」
「それは伺っていますが」
「任せてください。いつかここから出て、温かいお茶と焼きたてのお菓子と一緒に、たくさんお喋りしましょう」
「……では、楽しみにしています」
ツキシロはコハクの描いた未来が訪れることを信じてはいなかったかもしれない。だが、コハクは本気だった。
「それでは、今夜は失礼します。また蔵書館でお会いしましょうね」
「ええ、また。お気を付けて」
挨拶を終えると、コハクはここに来たときと同じように風の気を探って集める。そしてその気に身を任せて、ふわりと宙に浮き出た。静かに地面に降り立って塔を仰ぎ見ると、今出てきたばかりの窓から心配そうに見下ろしているツキシロがいた。その彼に軽く手を振って、ぺこりと頭を下げると、コハクは王宮の外に向かって歩きだす。恐らく自分の姿が見えなくなるまで、青年はこちらを見ているのだろうと感じながら。