孤道紀行~推理小説『孤道』の旅と歴史~
内田康夫氏の未完遺作・推理小説『孤道』の旅と歴史
〜小説の地理的・歴史的背景を考える〜
軽井沢康夫
推理小説『孤道』に登場する歴史的遺構は三つある。
熊野古道の箸折峠(和歌山県田辺市中辺路町近露)にある石像『牛馬童子像』と
大阪府高槻市奈佐原と茨木市安威にまたがって在る藤原鎌足の墓と考えられている『阿武山古墳』、高槻市郡家新町にある継体天皇陵とされる『今城塚古墳』である。
平成20年(2008年)6月18日の午後5時ころ、『牛馬童子像』の首から上が切り取られ持ち去られているのが通行人によって発見された。その2年後の平成22年8月16日に持ち去られていた首が箸折峠から11Km離れた田辺市鮎川のバス停のベンチに置かれているのが発見された(犯人は不明、8月16日はお盆が終わり、京都で大文字の五山送り火が催される日である)。この事件をヒントにして内田氏は2回目の牛馬童子首切り事件を小説の端緒として導入している。
牛馬童子石像の横には行者石像が並んで立っている。行者像の台座には明治24年8月1日・尾中勝治と彫られているが牛馬童子石像も同年に設置されたかどうかは不明である。
何故か不明だが、牛馬童子は第65代・花山天皇(968〜1008年、在位3年)の子供の時の姿とされている。また、陰陽師・安倍晴明によると花山天皇の前世は修験行者であったと謂う。
『阿武山古墳』は昭和9年(1934年)4月22日に京都大学地震研究所の地震計を設置する観測トンネルを掘削中に玄室が発見された。地震研究所の所長である志田順理学部教授は京都大学考古学教室の浜田耕作教授たちと顔面が金糸の布で覆われ、ガラス玉を銀の糸で繋いだ玉枕が敷かれていたと思われる人骨を棺の中に発見する。このことから発見当時から藤原鎌足の墓ではないかと新聞紙上を賑わしており、野次馬などを整理するために警察官や陸軍憲兵隊が出動警備する騒ぎとなっていたようである。
内田氏の小説に登場する森高教授が志田教授であり、山村教授が浜田教授である。
当初、古墳発掘の主導は志田教授が行っていたが、志田教授が病に倒れて文部省の主導で大阪府が動き、宮内省の意向もあって浜田教授たちによって短期間(8月9日、10日の二日間で調査終了し、11日に玄室は埋め戻された)の調査を行っただけで古墳は埋め戻された。
その2年後の昭和11年3月に浜田教授の弟子である京都大学の梅原末治教授たちがまとめた大阪府刊行の『摂津阿武山古墳調査報告書』が作成・提出された。その報告書には、証拠不十分で古墳は藤原鎌足の墓とは断定されていない。その後、昭和57年(1982年)に地震研究所の物置倉庫の奥から志田教授が撮ったと思われる阿武山古墳ミイラのX線写真原版が発見され、その修復が5年後に完了し、X線写真を再検査した結果、骨折状況は藤原鎌足が落馬して致命傷を負った事実と似ており、考古学者の間では阿武山古墳は藤原鎌足の墓であると考えられるようになって現在に至っている。
因みに、志田教授は京都大学での地球物理学教室の創設者であり、惑星などを研究する天文学も地球物理学の対象であり、古代に於いて陰陽師の暦博士が観測した星(惑星や彗星など)の記録からその年代を推測する相談を考古学者から受けていたと推測できる。それゆえ、志田教授は考古学にも詳しく、古墳調査にも多大な興味を示されていたそうである。志田教授は『摂津阿武山古墳調査報告書』印刷中の昭和11年(1936年)7月19日に病死された。志田教授の墓は烏丸今出川東入るの相国寺の塔頭である大光明寺の奥にある。小説においても、森高教授は昭和11年7月19日に死亡したことにしています。
ここで疑問点がある。何故に浜田教授本人ではなく、その弟子の梅原教授が調査報告書を書いたのか?そして、何故に古墳の主は藤原鎌足と断定しなかったのか?内田康夫氏もここに疑問点を感じたようで、小説の山村考古学教授が特高警察に睨まれている状況を書いている。
なお、浜田耕作教授は『摂津阿武山古墳調査報告書』が提出された1年後の昭和12年(1937年)に京都大学総長に就任し、更に1年後の昭和13年7月25日に逝去している。阿武山古墳発見から4年後である。
小説では、太平洋戦争開戦の昭和16年時点以降において山村教授は生存しています。また、阿武山古墳調査報告書も山村教授がまとめたものとしています。悪しからず。
『今城塚古墳』は第26代・継体天皇陵として学会で定説とされるまでは、その約1Km西の茨木市にある『太田茶臼山古墳』と考えられていた。その形状や出土した埴輪の規模・特徴の大きさから大王・継体の墓と断定されたようである。宮内庁は『太田茶臼山古墳』が継体陵としている。小説の中では牛馬童子像の切り取られた首がこの今城塚古墳公園に再現されている埴輪祭祀場で発見されるのである。埴輪祭祀場(幅10m×長さ65m)にはいろいろな形をした大きな埴輪が136点以上並べられ、葬送・鎮魂などの葬送儀礼を再現している。
この3地点をどのように結び付けていくかが、私にとっての『孤道』完結編を創作するキーポイントであった。
まず、『牛馬童子像』のある和歌山県田辺市であるが、歴史的には熊野水軍の本拠地である。熊野大権現神社の熊野別当が熊野水軍を統括していた土地柄である。江戸時代末期、英国軍艦が海上から薩摩藩城下や長州藩下関に砲撃したことから、海に隣接する田辺城を海岸近くから奥地に移動させる計画が持ち上がっている。しかし、間もなく明治維新になりこの計画は中止された。田辺城は錦水城、湊村城とも呼ばれていたようである。水軍の町なので造船などで材木を利用する技術はあったが城の城郭を作る石積みの技術は乏しかった模様である。
『阿武山古墳』がある摂津地域は古代より豪族穂積鈴木家が大和朝廷の命により管理領地としていた地域である。鈴木家は熊野速玉大社の禰宜神職であった穂積国興の子・基行が鈴木姓を名乗り、藤白神社の神職を務めたのが始まりである。第40代・天武天皇の時代(673~686年)に摂津国の管理(摂津職)を穂積氏に任せたのが始まりで、清和源氏系の管理などの時代を経て、江戸時代は藩領や公家領などが摂津国に存在した。明治時代になって鈴木家(穂積家)が再び摂津地域の一部(公家領)の土地を与えられた模様である。
また、摂津国島上郡島下郡の地域は天皇陵が多くあるが、古代から天皇(大和朝廷)の軍事部門・宮門警護を統率する大伴一族家の指揮下で薩摩隼人が武力警護の実務を担っていた。朝鮮半島の白村江で新羅との戦いで敗れた中大兄王子(後の第38代・天智天皇(668~671年))の側近となったのが藤原鎌足である。藤原鎌足の出自は不明であるが、天皇に近づける人物としては宮門警護の薩摩隼人もその一人に入る。古墳時代、天皇陵の近くには陪塚が造られ、天皇の副葬品や殉死者を葬ったと謂われている。
『今城塚古墳』公園埴輪祭祀場には夜間の盗難防止のための赤外線センサーや監視カメラが設置されている。また、今城塚古代歴史館の展示室にも監視カメラが設けられている。これを小説完結編では利用して、物語を展開させることにした。
2018年11月23日(金) 軽井沢康夫 記