6 前座
一度体が覚えた動作というのは、ちょっとやそっとじゃ忘れたりしないもので、指のトレーニングさえしっかりとしていれば、ギターを弾く手もそれなりに思い通りに動いてくれるものだ。
かつて、アスナと一緒に歌った東京での路上ライブの夜に思いを馳せながら、自然とおれの指はアスナが歌っていたシマ唄のワンフレーズを奏でていた。
〽行きゅんにゃ加那
吾きゃくとぅ忘れてぃ 行きゅんにゃ加那
出発ちや 出発ちゃが行き苦しゃ
スラ 行き苦しゃ
あなたは行ってしまうのでしょうか? あなたの元を出発したものの、どうにも心が苦しいのです。
という男女の別れを歌った寂しげなメロディ。それをFマイナーのコードをベースにしたアルペジオの伴奏に合わせてワンフレーズを口ずさむ。
と、そのとき、研修室の扉が勢いよく開き、今度は一組の男女が入ってきた。彼らは、おれをみて「あれ?」と声をあげると、一度この部屋の扉を出て、また入ってきておれにむかってたずねる。
「ここって、安田先生の講演会場ですよね?」
「あ、はい。そうですね」
「ああ、良かった。間違ったのかと思った。それじゃあ、君が手伝いをしてくれる大澤アキオ君?」
男のほうは、おれと歳もほとんど変わらないくらいの若い事務員のようだった。ただ、背が高く恰幅もいいので、おれよりもずっと健康的に見えるし、声もよく響いていた。
もうひとりの女性の事務員は逆に、地味で暗いオーラをまとっていて、顔を伏せてほとんどおれと目を合わせることもなかった。ただ、彼女の首に巻いていた手染め風のストールは春に咲くヤマブキのような明るいがしっかりと深みのある黄色をしていて、彼女のもつ暗い雰囲気とは対照的に妙に鮮やかに映った。彼女は手にしていた資料の入った箱を、入り口近くのテーブルに置くと、「とりあえず、私はいつも通りに準備します」といって、中から資料の束を取り出し、机の上に広げた。どうやら今日配布するものらしい。
「はいはい、よろしくね。大澤君、先生から聞いていると思うけれど、午後一時から講演会があるので、その準備を手伝ってもらえるかい? いまある机は撤去して、椅子だけにしてもらいたいんだ。百脚もあれば十分だと思う」そういってから彼は思い出したように「ぼくは前山誠弥。今日はよろしく」といって、ニカっと歯を見せて笑った。
おれも「よろしくお願いします」と返事をしたものの、なにやらおかしなことになってきたなぁ、と無意識のうちに頭を掻いた。とにかく、今はやるべきことをやるしかない。あとのことはこのあと考えるだけだ。
セイヤの指示で会場の準備を整え終える頃には、気の早い来場者たちが受付にやってきていて、ぽつぽつと席が埋まっていた。
受付でその様子を見ながら、おれがセイヤにむかって「先生、戻ってこれるんですかね」とたずねると、彼は特に心配する様子もなくさらりといった。
「まあ、なんとかなるんじゃないかな? ほら、ここって島時間だし、三十分程度遅れるくらいじゃあ、みんななんとも思わないから」
「そうなんですか?」
セイヤはうなずくと続ける。
「それに、先生からは戻ってくるのが遅れたら大澤くんが繋いでくれるときいているので。だから、さっき練習していたんですよね? まあ、三十分も繋げば十分ですから」
彼の楽観的な声におれは大きく嘆息する。そもそも、今先生がどういう状況かもわからないこちらとしては、気が気でない。
その後、来場者が会場の半分くらい埋まったところで、午後一時をまわってしまったが、先生は帰ってこなかった。だからといって会場内もとくに騒然となることもなく、ただ漫然と時間が過ぎていくだけだった。
午後一時を十分ほど回ったところで、ようやくセイジは司会のマイクを通して、「現在、安田先生は急患対応で処置にあたっておりまして、多少遅れておりますので、いましばらくお待ちください」と来場者にむかって呼びかけた。
これでいいのか? とおれは不安になった。東京にいたころなんかは、打ち合わせに五分遅刻したら、事務所からこっぴどく怒られていたし、なによりおれがあの日、アスナとの約束の時間に遅刻したことで、おれとアスナの関係はついえてしまったわけで、その時間に対するギャップにおれはどうも心が落ち着かなかった。
受付のところでおれがそわそわとしていると、背後から「アキオ!」と聞き慣れた元気な声が聞こえた。
振り返るとそこにいたのは、ヒメハブこと、土生姫子と、この仕事をよこした張本人のコウジだった。
「ヒメコ、今日はバイトじゃないのか?」
「マコトさんがなんか公民館で面白い余興が見れるから行ってこいって」
「なんだよ、余興って」
そういうと、ヒメコはくいっと小首を傾げて、違うの? といってみせる。
「そうじゃなくて、病院の先生の医療講演会だ」
「それで、そのドクターはどうなったんだ?」
にやけ面のコウジがおれにそういう。さては、お前、おれをハメたんじゃないだろうな?
「オンコールだそうだ。今朝、ここの準備中に出ていってそれっきりだ」
「ふうん。ま、せいぜい気張れよ。最前列で見てるぜ?」
そういうと、コウジはヒメコを連れて客席の最前列、しかもステージ真ん前を陣取った。見てるぜ、ってことは、奴はおれが演奏するのを知っているのか? やっぱりハメられている気がする。
それにしても、なんで連れてきたのがマコトじゃなくてヒメコなんだよ。マコトが来てくれるならおれの余興も気合が入るのに、ヒメコじゃいまいち気分が乗らないだろうが。
おれが奥歯を噛んでコウジの後ろ姿を睨みつけていると、セイヤが電話を片手におれの方へ近づいてきた。
「先生から大澤さんにお電話です」
そういって、PHSを差し出して、おれに電話にでるように促す。おれは、電話口からきこえる先生の妙に呑気な声に、さっきの呼び出しもおそらくは重大な問題にはならなかったのだろうと安堵しつつも、先生の放つ一言に手にしていた前時代的なストレートタイプのPHSをぶん投げそうになった。
「すまないけど、やっぱり前座としてちょっと間を繋いでおいてね。よろしく」
なんだろう、この先生とコウジにまんまとハメられた感じは。