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4 シンガーソングドクター

 土曜日の朝、地区公民館へ行くまえに二階にあるカフェ、あしびばに寄るといつものようにマコトが出迎えてくれた。この日はヒメコは昼からのシフトらしかった。店内にはいると、おれはいつもと少し雰囲気が違っていることに気がついた。店内のスピーカーからはのストリングスカルテットではなく、クラシックギターで演奏しているバッハの「主よ人の望みの喜びよ」が流れていた。いわゆる教会カンタータと呼ばれる礼拝音楽だ。


「今日はBGMが違うんだな。なんだか、いつも聞いているストリングスとはちょっと違うけど、これはこれでいいな」

「ええ、アキオさんが今日講演会に行かれるということでしたので、いつもと変えてみたんですよ」

「講演会とギターが関係あるのか?」


 おれがそうたずねると、マコトは「はい」と短く答えて、「きっと楽しい講演会だと思いますよ」と微笑んだ。そんなものなのかなと、いまいち要領を得ないままにおれはいつもの席で、いつも通りにモーニングセットを注文した。BGMはいつの間にかタレガの「アルハンブラの思い出」に変わり、店内にどこか哀愁あるギターのアルペジオが響いていた。


 ここから地区公民館までは二キロ弱。普段ならスクーターにのるところだが、今日は散歩がてらに歩いてむかうことにした。雨こそ降ってはいないものの、低く垂れこめた重厚な鉛色の空のおかげで、爽やかな気分とはいかなかった。それでも、おれはこの風に乗って微かに匂う潮の香りを感じながら、街を歩くのは結構好きだったりする。少しずつ変わっていく植物たちを目で追いかけ、太陽の温度を肌で感じ、あちこちにさえずる鳥の声に耳を傾けると、この島で暮らしているんだということを実感する。それは、かつて生まれた片田舎に住んでいた時にも、ましてや東京にいたときにも感じたことがない感覚だった。きっとそれを感じさせてくれるのは、この島に住む人たちから得た様々な知識がおれの視野を広げてくれているからなんだと、おれは勝手にそう解釈していた。


 おれは県道をさらに港のほうへ入り、護岸沿いをぶらぶらと歩いた。この日は接岸している船もなく、港には穏やかな時間が流れていた。護岸のガードレールに止まっていた小ぶりな白鷺がおれの姿を見て驚いたのか、白い翼を広げて飛び立っていった。

 やがて、店を出て歩くこと二十分。おれは港のそばにある地区公民館にたどり着いた。

 コウジ曰く、機材はすでに搬入されていて、それを使える状態にすればいいということだった。おれもストリートでライブをしていたくらいだから、多少音響の知識くらいは備えている。よっぽど変な機材か、逆に最新鋭のデジタル機器でなければ多分大丈夫だろう。

 会場となる研修室に入ると、部屋の片隅には とりあえず倉庫から出してきました、という感じに無造作にスピーカーやミキサー、それにマイク類の入ったカゴが置かれていた。

 その機材の山の前にかがみ込んで、必要なものが揃っているかを確認している時に、突然研修室の扉が開かれ、そこにほっそりとした四十代半ばといった男性がギターケースを携えて立っていた。


「おや?」


 その男性は不思議そうにそう声をあげると、つかつかとおれの元へと歩み寄ってくる。おれも、いまいち状況を飲み込めずに、かがんだ状態のまま彼を見上げていた。

 面長で、おでこが広いので薄毛に見えるが、よく見てみればちゃんと髪は残っている。そんな失礼な目でその男を見ていると、彼は「いつもの子が休みだって聞いていたんだけれど、もしかして君が代わりに来てくれた人かい?」と声を掛けてきた。真顔ではあるのだが、どこか柔らかな表情をしていて、きっと普段からよく笑っている人なんだろうと、なんとなくそう思った。


「はい、知り合いに頼まれて。今日、先生の講演会があるから、機材の設営をするようにって」そういって立ち上がり、自己紹介をする。「おれは、大澤アキオといいます。この近くでなんでも屋をやってるんです」


 立ち上がると、男と同じ目線になった。おれと身長がほとんど変わらないみたいだ。細身だから背が高く見える。男は目元に笑いじわを刻んでいった。


「へえ、なんでも屋さん? 僕は安田やすだのぼる。今日はよろしく頼むよ」


 そういって右手を差し出す。その名前をきいておれはコウジの言葉を思い出していた。ヤツが「シンガーソングドクター」と呼んでいた人物、すなわち今日の講演をする予定の先生だ。

 それにしても、こうやってスマートに握手を求められる人間って、普段からハイソサエティな生活をしているものだという偏見があったんだけど、彼はどちらかというといたって普通の中年おじさん。ダークグレーのスラックスと、ピンストライプのボタンダウンシャツの上に黒のニットベストという、まあ何の面白みもない格好だし、そのどれもがいわゆる量産品に見えたからだ。

 おれは差し出されたその右手を掴みながら、ふと彼に思っていた疑問を口にした。


「あの、変なことをきくようですけど、安田さんって医者、なんですよね? なんでギター持っているんですか?」

「ああ、これかい? 僕の場合、講演という名のギター演奏会なんだよね。ギターが好きで、元々はアコースティックギターを弾いていたんだけれど、最近はクラシックギターもかじるようになって、せっかくだからどこかで演奏する機会がないかと思ってね。講演会で披露するようになったら、思いの外ウケちゃって、なんだかこれが講演会の名物みたいになったんだよ。自分でいうのもなんだけど、案外好評なんだよ」

「へえ、そうなんですか? おれもちょっとギターをやっていたんで、楽しみです」


 おれがそういうと、先生はまるでおもちゃを与えられた少年のように、ぱっと顔を輝かせながら、握っていた右手に力を込めた。結構が握力強い。


「君もギター弾くの? 何やっているの?」


 おれはちょっと困惑気味に表情を緩める。


「東京にいたときはオリジナルをやってました。それまでは、押尾コータローに憧れていて、彼の演奏を必死にコピーしてました」


 そういうと、先生は目を丸くしながら、さらに一歩踏み込んで距離を詰めてきて、握手する反対の手で、おれの肩にぽんと手を掛けた。


「押尾コータローなんて超絶プレイヤーじゃないか! 今日は僕じゃなくて大澤くんに演奏してもらおうかな? なんでも屋さんなんだろう? 拘束一時間あたり、いくらくらいで依頼できるの?」

「いや、さすがに先生の講演会の邪魔はできないですよ! 楽器も持ってきていないし。それに、おれ、なんでも屋ですけど、お金での依頼はあまり受けてないんですよ」

「ええ、そうなの? うーん、それじゃあ前座でもいいし、君の仕事の宣伝してもらっても構わないから!」


 なおも先生は食い下がる。おれは、困り顔を隠すことなく頭を掻いた。すると先生は、口元にどこか意地悪い笑みを浮かべて、おれの耳元でささやくようにいった。


「受けてくれたら、今度、ナースとの飲み会に招待するからさ」


 おれの脳裏にまたもやコウジの言葉が蘇ってくる。「看護師さんとの合コンはいつやるんだ?」やつのはしゃぎまわる姿もおまけのようについてきた。

 そのよこしまなところが、おれのダメなところなんだよな。

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